サヨナラ、小さな罪
大事な子供が、ある日突然行方不明になって、ケン君の両親はどんな気持ちだっただろう。
地面に座り込んだまま、そっとお腹に手を当てて考えてみる。
もしも産まれてきた子を、突然失ったら。もしもそれが、誰かの悪意によるものだったら。私はその人のことを、許すことができるだろうか?
分からない。分からないけど、このまま知らんぷりを続けていてはいけないって、ちゃんと理解している。
長らく座り込んでいたけど、よろよろと立ち上がりながら、スカートについた汚れを払う。
鏡を見ていないから分からないけど、きっと化粧は涙ではがれ落ちていて、酷い顔をしてるに違いない。こんな姿で帰ったら、家で待っている彼は、なんて思うだろう。
……彼に話そう。
私が昔、どんな子だったか。どんな罪を犯して、結果どうなったかを全部。
もしかしたら、軽蔑されるかもしれない。捨てられてしまうかもしれない。だけどそうなったとしても、文句なんて言えない。それだけのことを、してしまったのだから。
だけど大事なことを黙ったまま、結婚して幸せになろうという気にはなれなかった。
力無い足取りでとぼとぼと歩いて、アパートの部屋へとたどり着く。
この中で、彼が待っている。話を聞いたら、いったいどんな顔をされるだろう?
不安でいっぱいになりながら、ドアノブに鍵を差し込んで、ゆっくりと戸を開いて……瞬間、いつもとは違う空気が、部屋の中から漂ってきた。
何これ? 何だか分からないけど、何かが違う気がする。
急いで靴を脱いで中に入ると、だんだんと違和感の正体が分かってくる。これは、匂い? 鼻をつくのは、冷たい鉄のような匂いだ。
さっきケン君が現れた時に感じた、得体の知れない恐怖が再び蘇る。
リビングまでやって来て、息を飲んだ。
荒らされている。戸棚の窓や引き出しは無造作に開けられ、中身が散乱していて。床に敷いてあったカーペットは捲れあがっている。
いったい何が起きたの? それとも、起こっているの?
そうだ、彼は? 彼は無事なの?
壊れそうなくらい心臓がバクバク言っているけど、気にしている余裕もない。
彼を探して、向かったキッチン。そこに転がっていたソレを見た瞬間、呆然と立ち尽くした。
「あ、ああっ……」
そこにあったのは、変わり果てた彼の姿。
仰向けになって倒れている彼の目は、まるで恐ろしいものを見たように見開かれていた。だけどもっと衝撃を受けたのは、お腹の部分。
服は乱暴に引き裂かれていて、お腹がむき出しになっている。
いや、むき出しになっているなんてもんじゃない。彼のお腹には大きな穴が空いていて、そこからおびただしい量の血が、流れ出ていた。
彼自身も着ている服も、血で真っ赤に染まっていて、とても直視できるものではなかった。
だけど、これだけは分かる。こんな状態で、生きていられるはずがない。彼の命は、もう尽きてしまっているって。
「あっ、ううっ。えっぐ……」
涙と一緒に嗚咽が込み上げてきて、息ができない。
嘘だ。どうして彼がこんな事になっているの? どうして、どうして……どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――
「……ねえお姉ちゃん」
——ッ⁉
不意に後ろから聞こえた、聞き覚えのある幼い男の子の声。
振り返った私は、それを見て息を飲んだ。そこにいたのは、つい今しがた別れたケン君だったから……。
「ケ、ケン君。なんで……」
なんでここにいるの? 私はもうボールを持っていないって、わかってくれたんじゃなかったの?
驚きながらも、なぜかやけに冷静に、今の状況が頭の中に入ってくる。
再び現れたケン君、荒らされた部屋、彼に起こった悲劇……ケン君が、彼をこんな目に遭わせたの?
だけどなんで、どうして私じゃなくて彼を? それにもう、許してくれたんじゃなかったの?
混乱して口をパクパクさせていると、ケン君はゆっくりと口を開いた。
「お姉ちゃん言ったよね、ボールは持っていないって。持っていないのなら家にあるのかなって思って、探しに来たんだ。だけどこの人が邪魔してきて、うるさいから黙ってもらったの」
それで、彼を手にかけたって言うの? 待ってよ、持ってないっていうのは、そう言う意味で言ったんじゃないよ。
ケン君は、『今は持っていない』って受け取ったみたいだけど、あのボールは完全に失われているの。もうどれだけ探したって、出てこないんだよ。
だけどケンくんはじっと私を見つめながら、そっと歩み寄ってきた。
「家の中に無い。この人も持っていなかった。それじゃあやっぱり、本当はお姉ちゃんが持っているのかな?」
「ち、違う。私、持ってなんか……」
後ずさりしながら、震える声で必死に説得する。だけどケン君は、冷たい目で言い放った。
「信用できないよ。だってお姉ちゃん、嘘つきだもの。本当に持っていないかどうか、ちゃんと確かめないと」
「―—ッ⁉」
ケン君が一気に距離を縮めて来たと思った瞬間、腹部に鋭い痛みを感じた。
お腹がまるで、焼けるように痛い。だけどこんなに痛いのに、声を上げる事すらできなくて、私は自分の腹部を見て愕然とした。
……そこには、ケン君の小さな手が、深々と突き刺さっていた。
「あ、ああ……」
全身の力が抜けて、そのまま体はゆっくりと後ろに傾いていき、ドサッと仰向けになって倒れた。
痛い、痛い、痛い! 誰か、誰か助けて!
だけどそんな私の叫びは声にすらならなくて。そしてケン君は私をまたぎながら、足の上に馬乗りになってくる。
「ここにあるのかなー?」
まるで虫取りでもしているような、楽し気な声。そして血で染まったケン君の手は、再び私のお腹に突き刺さった。
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――ッ!!
お腹の中に突っ込まれた手が、容赦なく中を弄る。やがて「これかな」と声がした後に、中から引き抜かれたのは血に染まった……私の腸。
だけどケン君はつまらなさそうに「違うや」と言って、引き抜いたばかりの腸を捨てる。そして再び私の中に、今度は両手を入れてくる。
「無い、無い、無い、無い」
膵臓が、肝臓が、乱暴に折られた肋骨が……次々に引き抜かれては、無造作に投げ捨てられる。
彼がどうして、あんな無惨な死に方をしていたか、今ならわかってしまう。きっと私と同じように、中にボールを隠していないか探されたんだ。
ケン君の手や顔は返り血で染まっていくけど、そんなの気にする様子もなく、一心不乱に探し続けて。一方私は、だんだんと意識が朦朧としてきていた。
あの日、どうしてボールを盗んだりしんだろう? あの時小さな出来心さえ起こさなければ、ケン君や彼が死ぬことも、今こうやって、苦しむ事も無かったのに。
私の中身が次々と外に引きずり出される。辺りを血に染めながら、ありもしないボールを探し続けていく。
そしてケン君の手がソレを掴んだ瞬間、閉じかけていた目を見開いた。
仰向けになって倒れていて、尚且つ意識を失いかけていた私には、ソレが何なのか確認しようがないはずなのに……。
ケン君が掴んだのは、もうすぐ産まれようとしていた、新しい命。そんな命の欠片が奪われようとしているのが、なぜかはっきりと分かった。
それだけは止めて! 私の大切な宝物なの! ボールを盗んだ事は謝るから、それだけは盗らないで!
だけどそんな願いも虚しく、今まで引っこ抜かれていったモノたちと同様に、乱暴に奪われる。
瞬間、自分の中にあった命の鼓動が、消えた気がした。
「かえ……し……て……」
もう力がほとんど入らない口をどうにか動かして、蚊の鳴くような声で訴える。
するとケン君は探すのを止めて、上から覗き込むように私の顔を見てきた。
「これがお姉ちゃんの大事な物なんだね。ボールが見つからなかったのは残念だけど、仕方がないや。お姉ちゃんがした事は無しにしてあげるけど、代わりにお姉ちゃんの宝物、貰っていくね」
ケン君は笑ったような声でそう言い放つと、そのまま立ち上がって、玄関に向かって去って行く。私の大切な宝物を、その手に掴んだまま。
「ふふ、可愛いなあ。今日から僕が、君のお兄ちゃんだよー」
まるで小動物でも可愛がるように、手の中にある塊を撫でながら、無邪気に笑っている。
止めて。返して。昔のことは謝るから。あれはちょっとした出来心だったの。なのにこんな……。
返して返して返して返してかえしてかえしてかえしてかえしてカえしてカえしてカえしてカえしてカエしてカエしてカエしてカエしてカエシてカエシてカエシてカエシてカエシテカエシテカエシテカエシテカエセカエセカエセカエセカエセカエセ――――!
ボールを盗んだ、それは子供の小さなイタズラ。ほんの小さな罪で終るはずだった。
だけどそれはケン君の命を奪って、そして巡り巡って私と、私の大切な人達の命も奪っていく。
「カエ……シテ…………」
声はもう、届いてもくれない。
ケン君は私を許してくれたけど、引き換えに失ったものは、あまりにも大きかった。
完
サヨナラ、小さな罪 無月弟(無月蒼) @mutukitukuyomi
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