時間の球体

七紙野くに

時間の球体 - それは幸せな夢

 昨日、僕は心療内科を訪問した。過去に一度、精神的に深刻な状態になったことがあって、そこを受診し、縁がある。その問題はもう解決したのだけれど、それ以来、何か心に疑問を持つことがあれば、そこを訪ねるようにしている。主治医はとても優しく僕の話を聞いてくれる。そして極めて冷静沈着な態度で疑問に答える。彼の話はためになる。いや、とても面白い。面白いから病院に行くというのは不謹慎かも知れないが、心の安定を保つために役立っているのだから許されるだろう。そこでの会話、その一部をお見せしようと思う。人に見せるための文章にすることにより、自らの理解が進む、というのもある。だが本当の所は何故か黙っていられないのだ。それほど面白かったのだ、昨日は。よって暫くの間、お付き合いいただきたい。では始めよう。文章の形式はただ会話を書き起こすものとする。


「やぁ、おはよう」

「おはようございます、お久しぶりです」

「その後、調子はどう?」

「はい、特に問題となるようなことはありません」

「ふん、それじゃ、今日はどうしたのかな?」

「朝、起きた時に不思議な感覚に陥ったんです。とても幸福な気持ちで、穏やかな気分でした。何かにふんわりと包まれたようでいて、その包むもの達の中には動物や雲、虹、行ったことがない街の風景なんかがあって、その感触と空気で心が満たされるような気がして。多分、悪いことじゃないんでしょう。だけど経験したことがなかったので引っ掛かっています」

「もしかして時間の球体を見たのかな?」

「時間の球体?」

「そう、時間の球体。君は夢の形について考えたことがあるかい? 夢に囲まれて夢の中にいる場面を除いて」

「夢の形ですか? 良く分かりませんが、人によって違うんじゃないでしょうか」

「曖昧なことを言っているんじゃない。夢の外枠、フレームの形とでも表現しようか。夢が入る額縁のようなものだ」

「それなら、やはり個人個人で異なるんじゃ」

「いや、実は殆どの人が見る夢は四角なんだ。テレビやパソコンの画面のような四角形の夢を見る。稀にスマートフォンのような縦長の夢を見る人もいるが、多くの場合、安定して横方向に伸びた長方形の夢を見る」

「そう言われてみればそのような気もします」

「だが一年に数回、とても満たされた気分で目覚める時がある。それは丸い夢を見た時だ」

「丸い夢?」

「ただの円形じゃないよ。立体的な球体。それもほぼ、完全な球体だ。見た人は柔らかく膨らんだ球体だと認識している場合が多い。そしてそれは時間で満たされている。時間の球体だ。君は今朝、時間の球体と共に目覚めたんじゃないかな」

「だからいつになく満たされて安定した気分でいると?」

「その通り。そう考えると全て説明が付く。今日の君の話はかなり明確だからね」

「でもその球体を満たしている時間って、具体的にはいつ、どのような時間を指すんですか?」

「流石、理系の着眼点だね。実はそのことについては良く分かっていない。日常、普段の生活で幸せと感じた時間を閉じ込めている、幸せの記憶だと言う人もいれば、無意識の中の理想の時間だと考察する人もいる。そもそも、それを深く考える必要はない、というのが多数派だ」

「気にすることはない、ですか? でも僕は気になりますね、球体の正体」

「じゃあ、次に時間の球体に巡り会う機会を待って、確かな意識の下でそれを把握できると思うかい?」

「無理ですね。いつ、出現するか分からない夢を待って、それを脳が覚醒した状態で記憶し、起床後までその記憶を保持できるとは思いません」

「そうだろう。だから皆、それに抗おうとは思わないんだ。それに幸せな、満たされた状態をもたらすものを克明に解析、解明して、一年に数度しか来ない朝を失っては元も子もない。下手をすると人生のバランスそのものを失いかねない」

「それほど重要な、意味ある経験だと?」

「少なくとも私はそう考えている。そしてそれは必然がもたらしている。心の安定が欠けそうになった時、精神的に脆くなりかけた場合、それを補い立て直すために出現し、働くんだ」

「それなら僕は今、とてもデリケートな状態に置かれているんじゃないですか? 精神的に不安定だから時間の球体が現れたんでしょう?」

「正確には時間の球体を見る直前までそうだった可能性が高い。しかし今は違う。球体が既に君の心を修復した」

「安定を取り戻したということですか?」

「そうだね」

「ではその球体というのはある種の自己修復作用によってもたらされるものでは?」

「そう考えるのが自然だが、未だ、誰も本当の所を理解してはいないんだ」

「結局、詳細は不明で掴み所がない話じゃないですか」

「珍しいことじゃないよ。この世界はそんな現象で溢れている。通常、誰も気に留めないし、無理に全てを知ろうとする必要もない。平常が戻ればそれで良いんだ」

「では時間の球体を見たのは良いことだったと?」

「最初の方で説明したけど一般的に人は年に数回、時間の球体と遭遇する。その度に君がここに来ていたら、こんなに久しぶりに会うということはない」

「そうですね、そうなりますね」

「それなのに君は今日、初めて夢のことを疑問に感じ、ここの扉を叩いた。多くない球体を見る機会を得て、それを強く印象に抱けたのは幸運なことだよ」

「修復作用である球体を見たことが幸運だと?」

「時間の球体に遭ったということは精神的に強いダメージを負っていたのかも知れない。だけどそれは修復された。それに心の状態とは全く関係なく、ただ幸せを運んでくる事もある。どちらにしてもラッキーだろう」

「ラッキー、即ち幸運ですか」

「幸運だから忘れて良いよ」

「え? 幸運なのに忘れていい?」

「いや、幸運だから忘れて良いんだ」

「幸運だから忘れていい。そうですか」

「納得したかな?」

「なんとなく」

「君は正直だね、そして素直だ。何だか完全には納得がいかないといった表情をしているし、まぁ全体的にそうなんだろう、という顔もしている。いつからそうなったのかな?」

「今朝、目覚めた時からですかね」

「どうやら大丈夫なようだね」

「そうみたいです、ありがとうございました」

「私も面白かったよ。また何かあったら、そこに座ってね」

「はい」


 どうだっただろうか。こうして文章にしてみると実に取り留めのない話だ。僕自身、今も理解し切れていないし医者、彼が述べた通り完全には納得していない。しかし言葉では表現できないほどの幸福を感じたのも嘘ではない。今、これを読んでいる君がそんな朝を迎えたら、この短いストーリーを思い出すだろうか。時間の球体という概念を。覚えていようがいまいが目の前に広がったであろう球体は実在する。


 また何処かを、誰かの許を必要として僕が動いたら、話さずにはいられない体験を得たら、そして、その上、書き残したいという衝動に駆られたら、ここでお逢いしよう。では。





(注意) このストーリーは完全なるフィクションであり、実際の心療内科とは全く関係がなく、心理学等の根拠に基づくものでもありません。

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