花とマーマレード

深見萩緒

花とマーマレード


 イニシエーションの日は近い。私たちは脱皮しなければならない。子供から大人へ。少女から女性へ。獣から人間へ。



「おはよう、ゆっこ」

「おはよう、のんこ」

 いつものやり取り。のんこは朝起きるのが苦手で、私が起こしに行ってあげなければ遅刻してしまう。私は他の子たちよりずっと早起きをして、きちんと身支度を整えて、のんこの部屋を訪れる。そうすると、のんこはベッドの中から「おはよう、ゆっこ」とボサボサ頭を覗かせるのだ。

 冷蔵庫からベーコンと生卵を出して、熱したフライパンの上にまずはベーコンを敷く。じゅわじゅわ。ベーコンの片面に焦げ目がついたらひっくり返して、生卵を割って落とす。白身が少しベーコンにかかるくらいの塩梅が良い。じゅわじゅわ、じゅうう。

 ようやく布団から抜け出したのんこが、ままれえどお。と間延びした声を出した。トーストにつけるジャムは、今朝はマーマレードが良い。ということらしい。私はフライパンに水を加えて目玉焼きを蒸しつつ、トーストをパン焼き機にかけた。そして冷蔵庫をチェック。マーマレードはあと三食分くらい残っている。また売店に行って貰ってこなければいけない。


「いただきまあす」

 塩胡椒をしたベーコンエッグに、マーマレードをたっぷり塗ったトースト。それからオレンジジュースと牛乳。のんこは朝からよく食べる。私は朝はパンとコーヒーだけで済ますタイプなので、のんこの食べっぷりには毎日のことながら感嘆してしまう。

「今日、帰りにマーマレード貰ってきなよ。あと、食パンも」

「うん。ありがとー、ゆっこ」

 のんこはのんびりと答えた。どうせのんこのことだから、授業が終わって帰るころにはすっかり忘れてしまっているだろう。帰りしなに私が「どこに寄って帰るんだっけ?」と言ったら、のんこは「何だっけ?」と返すに違いない。だから結局、私も一緒に売店に行くことになるのだ。

 どうせ、私も新しい小説を貰おうと思っていたからちょうどいい。売店は好きだ。欲しいものはだいたい何でも貰える。先週貰った推理小説はすぐに読んでしまったし、今度はロシア文学にでも挑戦してみようかな。


 私たちは「花」になるべく教育を受けている。なぜなのかは知らない。知らされない。それはイニシエーション後に知るべきことだからだ。


 女性は神秘だ。生命を宿し、その体内で育み、この世に産み落とすことが出来る存在。可憐で、華麗で、存在するだけで癒やしを与えられる存在。私たちは、いずれ「花」になる。今はまだ、つぼみだ。

 ここ「温室」には何でも揃っている。衣食住は勿論、教育も娯楽も芸術も。ただ、温室でぬくぬくと育っていられるのもイニシエーションを受けるまでだ。イニシエーションを受けたあとは、私たちのつぼみは花ひらき、責任ある大人の女性として、今度は温室を管理する側にまわるのだ。

 イニシエーションの日は近い。



 授業が終わってから、案の定さっさと帰ろうとするのんこの首根っこを捕まえた。細い絹のような髪が、私の手の甲に触れては流れ落ちていく。「なに?」と首を傾げたのんこに「売店!」と言うと、のんこはへらへらと笑った。そうだった、そうだった。忘れてたよ。へらへら。


 のんこは、いつからこんな性格になったんだっけ?

 思い出そうとしても記憶は曖昧で、正確には分からなかった。ただ、出会った当初はこんなのらりくらりとした子ではなかったと思う。

 のんこと私は姉妹シュヴェスターだ。血が繋がっている姉妹というわけではなく、温室で生活するにあたり、互いに助け合う存在として姉妹シュヴェスターが割り当てられるのだ。

 物心ついたころには、のんこと私はいつも一緒にいた。姉妹シュヴェスターとはそういうものだ。そのころは、のんこも私に似た性格だったはずだ。つまり、機敏で正確で真面目で優等。それを指摘すると、のんこは「そうだっけ?」と笑う。はぐらかしているようにも思えるし、本当に分かっていないようにも思える。

 のんこにはそういうところがあった。ちょっとした秘密主義。普段は本なんて読まないくせに、実はこっそり布団の中で本を読んでいることを私は知っている。何の本を読んでいるのか気になったが、読まないときはそれをどこへか隠してしまうし、わざわざ探し出してまで秘密を暴く気にはならない。いつか話してくれたらな、とは思うけど。


 のんこを売店へ引きずっていくと、いつものおばちゃんが笑顔で迎えてくれる。

「ゆっこちゃん、のんこちゃん。今日は何が欲しい?」

 私は小説を三冊と、たまにはお茶も良いかなと思ってアールグレイの缶をひとつ。それから果物を模した可愛い髪留めがあったので、それを貰った。赤いガーネットのビーズが沢山光るバックルは、私の真っ黒な髪によくはえるだろう。

 自分の物を腕に抱え、のんこはどうしているかと横目で見れば、彼女はまだ手ぶらだった。のんこ、何してんの。責めるように言うと、彼女はちょっと小首を傾げて「やっぱ、いらないや」と言った。

「何が?」

「マーマレード。あと食パンも」

「朝ごはん、どうするの? 来週までの分くらいはあるけど、すぐなくなっちゃうよ?」

「うーん……」

 のんこは少し黙ったあと、「私もコーヒー派になろうかな」と言った。甘いカフェオレしか飲めないくせに、やけに背伸びをする発言はのんこらしくない。

「どうしたの?」

 尋ねても、のんこは曖昧に笑うだけだった。

「何でもないよ。でもマーマレードはいらない。どうせ食べないし、無駄にするのも良くないし」

 だってゆっこは、マーマレード好きじゃないでしょ?

 うん、と私は頷いた。私は食パンじゃなくてロールパン派だし、それにもバターしか塗らない。「でしょ?」とのんこは確認するように言った。

 イニシエーションの日は近い。



 正直に言って、それがどういうことなのか、私は全く分かっていなかった。大人になるということ。女性になるということ。人間になるということ。だって学校の先生も、売店のおばちゃんも、みんな大人で女性で人間だけど、私たちと何が違うのかよく分からなかったから。ただ歳を取るだけじゃ駄目なのか。イニシエーションとは、一体なんのためにあるのだろう。どんなことをするのだろう。私はちゃんと大人に、女性に、人間になれるんだろうか。


 きっとのんこも不安だったんだろう。イニシエーションの前日、私たちはどちらからともなく顔を突き合わせ、談話室でお茶をしたあと、二人して私の部屋に戻った。今夜はここで、二人で寝よう。そういう話になったのだ。

 長いこと隣の部屋に暮らしていて、どちらかの部屋に集まって一緒に寝るのは初めての経験だった。むしろ、長いこと隣の部屋にいたから、お泊りなんて必要性を感じなかったのかも知れない。

 けれど今夜は、誰かの体温を感じていたかった。

「じゃあ、電気消すよ」

 のんこが頷いたのを確認して、私は天井に手をかざした。その動きをセンサーが察知して、部屋は真っ暗になる。しかしすぐに、天井に星が浮かび上がり、暗い部屋に淡い光が満ちる。数年前に売店で貰った、このプラネタリウム機能を、私はすこぶる気に入っていた。

「すごいね、これ。眠れなくなりそう」

「そうかな? リラックスして、よく眠れるよ」

「あっ、流れ星」

 のんこは無邪気にも目を閉じて、口の中で何やら願い事を唱えた。無事にイニシエーションが終わりますように、とでも願ったんだろうか。作り物の流れ星なのに。


 それから私たちは、昔のことを長々と話した。プールで遊んだのが楽しかったねとか、一緒にケーキを作ったよねとか、他愛もないことを語り続けた。朝になれば私たちはイニシエーションを受け、大人になる。子供でいられるのは今夜までだ。それが何だか惜しいような寂しいような気持ちがしていた。

 おおかたの思い出を語り尽くしたあとは、二人とも無言になった。天井を区切るように流れる天の川は、本当にミルクをたたえているかのようにゆらゆらさざめいている。

「あのさあ」

 口を開いたのはのんこだった。

「大人の女性は、男性と恋をして子供を作るんでしょ」

「うん、そうだね」

 授業で繰り返し教えられることだ。女性は男性と愛し合って、子供を作る。

「ゆっこも、そうしたい?」

「男の人と愛し合って、子供を作りたいかってこと?」

 のんこは何を言っているんだろう。私は寝転がったまま、少しだけ首を傾けた。

「したいっていうか、それが普通でしょ?」

 きらり。頭上を星が流れていった。それはひときわ大きく軌跡を描き、しかしその光の弧は、のんこの頭に遮られて途切れてしまう。

 私に覆いかぶさるのんこの顔は、星空の薄明かりの中、変に白く浮き上がって見えた。一等星がふたつ、明るく光っている。煌めく光は流れ星となり、私に降り注いだ。その熱さで、一等星がのんこの涙であることにようやく気が付く。

 のんこ、どうして泣いているの。

 尋ねようとした私の唇を、のんこの唇がそっと塞いだ。柔らかくて、ほんの少しマーマレードの香りがする。触れて、ついばんで、舌先がちょっとだけ交差して、そして離れていった。

「私たちはまだ子供で……少女だから」

 天井を埋め尽くすような数の流れ星が、のんこの背後を流れ落ちていく。

「でも、これで最後だね」

 のんこは、もう泣いてはいなかった。



 真っ白い服を着せられて、真っ白な部屋に通された。真っ白な机の上に真っ白なお皿が乗っていて、真っ白なカトラリーが並んでいる。

 お皿の上の真紅だけが、白の中に美しく存在を主張していた。

 私は先生に言われた通り、淑女らしい所作で椅子に座り、淑女らしい所作でカトラリーを取り、淑女らしく上品に真紅を口に含んだ。先に飲まされた食前酒のせいか、味はよく分からない。変な食感だな、と思いつつ咀嚼し、嚥下する。ほんのり甘い香りがした。



 なんか、呆気なかったな。

 イニシエーションを終えて最初の感想はそれだった。もっと、テストを受けたりだとか面接があったりだとか、そういうものだと思っていた。あれだけなら、誰にだってこなせるじゃないか。

 拍子抜けした気持ちをすぐにでものんこに話したくて、私は足早に部屋に戻った。いつものゆったりした服に着替えて、売店で貰った髪飾りをつけて、のんこの部屋のドアを叩く。

「のんこ? まだ帰ってないの?」

 ドアに鍵はかかっていなかった。私は遠慮なく中に入り、コーヒーでも飲みながらのんこの帰りを待つことにした。のんこはコーヒーを飲まないが、よく訪ねてくる私が困らないようにと、コーヒー豆はたっぷり用意してくれている。

 テーブルの上には、空っぽになったマーマレードの瓶が、洗いもせずに放置してあった。今朝、のんこは食パンの最後の一枚を差し出しながら、「残さないように全部使い切って、たっぷり塗っちゃってよ」と私に頼んだ。昨晩あったことには触れず、私たちはいつもの朝を迎えていた。マーマレードは空にするくせに、コーヒーは予備の豆までしっかり貰ってあるんだから。

 しょうがないな、という微笑みがこぼれた。のんこ、本当にコーヒー派になるつもりなのかな?



 そして、いくら待てども、のんこは帰って来なかった。夕方になって、夜になった。私は何かを悟り始めていた。



 私たちはつぼみで、少女だった。


 売店に並ぶ数々の商品はどれも一級品ばかりだけど、きっとその裏に、一級品になりきれなかった粗悪品がたくさんあったんじゃないだろうか。粗悪品はどこにいくのだろう。多分だけど、例えば植物なら――「花」なら、成長の悪いものは早くに刈り取られるんじゃないだろうか。そして、そして……きっと、ほかの「花」の根に与えて養分にするのが、一等効率が良いんじゃないだろうか。


 そうだ、私たちはつぼみで、少女だった。


 のんこはいつも、何の本を読んでいたのだろう。私にひた隠しにしながら、同じ本を繰り返し何度も何度も、一体何を読んでいたのだろう。もしかしたら、そこには刈り取られる「花」のことが記してあったんじゃないだろうか?

 ……のんこの性格が変わったなと思い始めたのは、あの本を読み始めてからじゃなかっただろうか。なんだかトロくさく、忘れっぽく、ぼんやりした少女になったのは、あの頃からじゃなかったか?

 私たちは姉妹シュヴェスターだ。同じ鉢植えに植えられた、ふたつの萌芽。そう、刈り取るとしたら、成長の悪いつぼみの方。



 私たちはつぼみで、少女だった。そして私は「花」となった。今まさに。


 暗くなった部屋でじっと考え込む私の股から、太ももを伝って、赤いすじがとろりと伸びていく。床に赤い水玉が散る。

 不思議と、悲しくはなかった。ただ、もう少女には戻れないのだと思うと、どうしようもなく寂しかった。赤い水玉も数を増やし、下腹がしくしくと重苦しく痛む。これが大人になる痛みなんだろうか。寂しくてたまらない。


「のんこ……」


 少女の名を呼んだ。真紅を呑み込んだときの、あの甘い香り。あれはマーマレードの匂いだったような、そんな気がした。




<了>

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