第16話

『それと、わたしたちでできることはないか? 遠隔でポッドの機能を操作できる』

「それならドアを開けてくれ。最後にこの星の空気を吸いたい」

 扉の密閉を開放する音がして、背中側の扉が開いたのがわかる。それと同時に、溶解液が噴霧されて、わたしを包む緩衝材が融かされていく。冷たい空気だけでなく、水が静かに、ポッドの中へ流れ込んでくる。

「うう、冷たいな」

『浸水しているのか?』

「腰の高さまで水に漬かっている。――色は黒くて粘性がある。氷底湖に堆積した有機物だろう。わたしのつくった微生物が融け出していく。ここが彼らの新しい培養槽となる」

『純粋培養は難しそうだな』

「しかし原始的な生物だから、ほかの生き物の自己複製子を取り込んだり、細胞間でお互いに交換し合うことができる。直系の子孫が競争に負けても、その複製子を継いだ生き物が、この星の生態系の、主導権を握るだろう」

『主導権を握って、それから?』

「この凍結時代の中で蓄積された炭酸を用いて、彼らは今まで以上に盛んに増殖するだろう。そこからはわたしたちの母星の生物よりも、急速に複雑化をしていくと思う。なにしろこの恒星系の太陽の放射するエネルギーは段違いに高いから。しかし生き物の外見はわたしたちの故郷とあまり変わらないだろう。物理法則は宇宙のどこでも同じだから、自然淘汰の結果、なんらかの最適解に収斂していく。それから――」


 わたしの思考はぼんやりと白濁し始めたが、なんとか未来のことを考えようとした。多細胞化と組織間の分業が進むだろう。弱肉強食の理屈は様々な例外を孕みながらも、生態系は複雑になるだろう。何度も破局が訪れるが、生命は生き残り、生態系はやがて復活するだろう。そして繁栄と衰退を繰り返す中で、生き物は陸地にも進出するだろう。この星は母星よりも質量が大きいから、母星のように、外骨格生物は大型化できないだろう。体内に体を支える芯を持つ生物なら大型化ができるから、やがて生態系の上位を占めるだろう。その中から触腕を発達させ、神経幹を高度化させるものがいるだろう。その生き物は、鱗や体毛がなく、腺から出す水分で体温調整をする。非力だが、持久力は特出しており、獲物を長時間追跡して仕留める。その過程で空間把握能力や長期予測能力を発展させ、社会の連帯のため、原初の大母を創造し、やがて農耕と畜産を発明して、そして……。

『〈先見の明の者〉、まだ生きているか?』

「せっかくいい気分でいたのに、なんだ?」

『きみが急に黙り込んだから、いよいよ始原の大母のところに召されたのかと思ったんだ。われわれはもうこの星の大気圏を脱出できた』

「そうか、なによりだ」

『一体きみはなにを考えていた?』

 わたしはわが兄弟に、自分が先ほどまで見ていた白昼夢を滔々と語った。彼は相槌を打ちながら聞いていたが、ふと、こんなことを質問した。

『その知性体たちが崇拝する〈原初の大母〉とはひょっとして、きみのことだろうか?』

「彼らがわたしの手で改良されたことを覚えていると言いたいのか? それはありえない。彼らは彼らなりに、自分たちの姿に似せた始原の大母を創り出すだろう」

『しかし考古学や古生物学が進歩すれば、きみの生き物の子孫たちも、きみの存在に気付くのでは?』


「この惑星は力強く生きている。天体としての寿命の尽きた、わたしたちの母星とは違うんだ。マントル対流というものの作用で、地殻は数億年周期で更新される。その作用で安定した地域でも過去の痕跡は残りにくい。そのうえこの地域は火山地帯だ。日々溶岩や火山灰が積もり、突然の隆起や、風雨の浸食でその姿を変えていく。なおさら過去が失われやすい場所だ。われわれがほんの一瞬、この星の表面に貼り付いていた事実が地質時間の中で記録されることは、万が一にもありえない」

『しかし、しかしだ。もしも彼らが科学文明を発達させた知性体になったのなら、きみが過去に施した、自己複製子の改変に気付くんじゃないのか?』

「それも地質時間と、わたしがいた時間との果てしない差を考えるとありえない。彼らはこの時代に起きた惑星の雪融けと、それに伴う生物量の飛躍的増加について、惑星史の大いなる謎として向き合うことになるが、ほかの知的生命体の存在――とくに、わたしのような進退窮まった、独りぼっちの科学者の存在にまで思いをめぐらせることはないだろう。もっと合理的な解法か、あるいは親しみやすい物語を思いつくはずだ」

『きみはそれで満足なのか? 自分の名前も、生きていた証も、歴史から消えてしまうんだぞ? 恐ろしくないのか?』

「大母からもらった名の持つ力は恐ろしいな〈高みを行く者〉よ」

『どういう意味だ?』


「皮肉で言ったわけじゃない。しかし昔から疑問に思いつつきみには訊けなかったのだが、自分の死後にまで名前を残すことが、どれほどまで生きる動機になるのだろう。兵卒たちを見たまえ。彼ら一人ひとりに名はないが生きている。それに目の前の勝利をつかむために、命を惜しまない。わたしだって紆余曲折があり、名声だって望んだが、最後には君たちを生かし、この星の生き物に、ささやかだが確実な、進化の一撃を与えた。これ以上なにを望めばいいのだ。わたしにはわからない」

『地位も名声も、きみの信じる地質時間の前では無意味だというのか? そんな風に刹那的に生きるなど、わたしにはできそうもない』

「……」

『わたしはきみの達した境地がわからない。ある意味、きみがうらやましいぞ〈先見の明の者〉』

「きみはまだわからなくていい。きみはこれからも、カストの別なく、民を率い、文明を再興し、歴史に名を残せ。だけどこれだけは約束してほしい。死を忘れるな。風化を忘れるな。富も名声も、地質時間とともに消える。流れの中の氷のように。きみもわたしの血族だから、必ず理解するときがくる」

『わかった、約束しよう。ほかにわたしにできることは?』

「あとひとつだけ――これは守ってもらえるかどうか、それこそ不確かなものだが」

『話を聞くだけならできる』


「では言おう。もしもきみや、きみの血族が、わたしたちを文明が再興しても、この恒星系への入植は思いとどまってほしい。とくにこの第三惑星には、決して着陸を試みてはならない」

『それこそわたしは保証しかねる。まさに地質年代の話だからな。しかし善処しよう。……きみの強壮剤はもう尽きるころだ。気分はどうだ?』

「もはやなにも感触がない。もう首元まで冷たい水が来ているから。

 本当に冷たい。この星は本当に温暖になりつつあるのかわからなくなるくらいだ。ああ、それなのにどうして眠いんだ? おおい〈高みを行く者〉よ。この寒さはなんとかならないのか?」

 わが兄弟からの返事は聞こえなかった。もっとはっきりいうと、かなり前から、わたしはもう、明暗と、無線から聞こえるわが兄弟からの声しか聞こえなくなっていた。

いや、わが兄弟の声と思っていたものも、単なるわたし自身の内省だったのかもしれない。もはやそれを確かめる術はないが、それでもわたしは確かな〈納得〉を得ていた。

 四肢と身体の感覚。

外から入力される感覚。

それらも消失した。

わたしの内省にも幕が降りつつある。

……。

 ついにきた。

 わたしも始原の大母の元に、帰る時間だ。


おわり

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雪融けの日 塩崎 ツトム @kaspar_63

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