引潮、繰り返す別離

 さんばしが波に洗われている。船と同種の、やや新しい木材で造られた桟橋は、足を踏み下ろせば鈍い音を響かせた。長く海上にいたためか、陸の方が揺れているような錯覚を抱く。

 人と荷の流れを避けるように船から離れた。潮の匂いが強い。見れば年配の女性たちが細々と魚をさばいているところだった。おそらく干魚か何かだろう、古めかしい様式の屋台にそれらしき物が並んでいる。商人や旅人で混みあう一方、魚を獲り売って生計を立てる、その賑やかさはどうにも居心地が悪かった。

 土地柄か、宿はすぐに見つかった。部屋を押さえるだけ押さえて外へ出る。明日からどこへ向かえば良いのだろう。帰る故郷はもう無いが、せめて故国へ戻るべきか。そんなことを考えながら歩いていると、気づけば静かな方ばかりを目指していた。

 商店が減り住居が増え、それもまばらになり途切れて、アロールはいつの間にかパスチェスの裏手ともいえる門の前に辿り着く。街道とは違う方向だからか誰もいない。町を出る。頰に水滴を感じて宙を仰いだ。草を払っただけの道の先、雨を受けるように伸びる岬の形に、ふと、あることを思い出す。

 袖で覆いながら、ニルロイに渡された書き付けを確かめる。訪ねろと言われた魔族のふたりめ、ヒム・ルアラウィという姓の魔族の住居について、間違いなく「町外れの岬の裏」とあった。

 アロールは濡れないように書き付けをしまいながら悩んだ。人族と魔族が争った理由を知りたい、とは、今の彼は思っていない。彼は所詮、彼の復讐を、彼の復讐と深く結びついた彼女の復讐を正当化したいだけなのだ。真実など不要で、逃避の方便で、知ってしまえば余計に苦しいだけかもしれない。

 ――それでも、彼の足は岬の方へと向いていた。

 勢いを増した雨が地面を暗く濡らしていく。足の向くままに駆けつつアロールは思う。ただの雨宿りだ。宿へ引き返すには遠いから。小屋の軒先を借り体をぬぐっていると、ふいに扉の軋む音がした。

「……アロールさん、ですか?」

 雨音の中に細い声が響き、冷たい雨の匂いに温かな香気が混じりあう。開かれた扉の向こう、心配そうな声の主は、暁の空のような濃い金色の髪を長く伸ばした魔族の女性だった。

「昼食を済ませていないなら、食べて行きませんか」

 髪と同じ暁空の眼が、隠しきれない寂しさを湛えていた。アロールは戸惑いながらも招待に応じる。

 小屋の中は思ったよりも広く感じた。魔術によるものだろうか、薪も無しに火が焚かれ、掛けられた鍋には何かの汁物が煮えている。女性は三つある椅子の一つをアロールに勧め、もう一つに腰を下ろした。椀によそい差し出された汁物は、湯気が立つほど熱く、干魚と柔らかく煮えた根菜の味がよく出た優しい風味をしている。互いに黙って食事をする間、アロールは体が冷え切っていたことを自覚した。

 食事を済ませてから、ようやく女性は口を切る。

「私はナリッサ、ナーディリッサ・ヒム・ルアラウィです。貴方が来ることはニルロイさんから聞いています。無事にいらして何よりです。ときに……ご用件は何でしょう?」

 椀と匙を片付けようとしていたアロールは手を止める。当初の目的は失われた。さりとて、ごまかす方法も思いつかない。悩んだ末にありのままを答える。

「聞きたいことがありました。しかし、ここに来るまでの間に事情が変わって、聞かなくても良いように思ったのです」

「……そうですか」

 ナリッサは静かに頷いた。責める調子も詮索する様子も無い。

「いずれにせよ、ゆっくりして行ってください。あまりお構いもできませんが……」

 その言葉に甘えて、また椅子に腰かけた。小屋の温かく乾いた空気が雨に濡れた体に心地よい。ときおり髪を手で梳きつつ、見るとはなしにナリッサの様子を窺っていると、彼女は鍋を掛け替えていた。先程よりやや小ぶりな鍋の中には、濃い緑色のどろりとした液体が入っている。

「魔術薬ですか」

 何も言わないのも気まずく感じて、アロールは尋ねた。

「はい。今作っているのは解毒薬です。この辺りの海には近頃、とげに毒をもつ魚が出るそうなので」

「作った薬は、人族の町へ売りに行くのですか?」

 戦乱を生き延びた魔族は時に姿を隠して人族の町や村を訪れる。その目的は主に交易で、特に魔術薬は典型的な品だった。これは強い薬を必要とするような生業の者を中心にもはや公然の秘密で、アロールの故国ロギエラでは魔術薬を指して魔族の薬と呼ぶほどだ。

 しかしナリッサは首を横に振る。

「いいえ。夕方頃、町の方が取りに来ます。その代わり暮らしに必要な物を置いて行ってくださいます」

「町の……?」

 アロールは耳を疑った。彼女はパスチェスの人族に所在を知られているらしい。魔術薬を提供している以上、種族を隠すことも難しいだろう。それでいてヨルムのように権力を揮っているわけでもなさそうだ。

「長くなりますよ」

 薬草の束を手にナリッサは言う。アロールは頷く。わずかに皮肉な調子だが、突き放すのではなく、距離を取るかのようだ。

「私は百八十年前、カーリと――人族の少女と旅をした末に、まだ辺境の漁村だったパスチェスに逗留していました。当時から西の国々は魔族を強く警戒していたので、私は、神官だったカーリの信用と、薬の提供、そして当時の長のご好意でどうにか村に留まれていました。彼が流されてきたのは、そうした中でのことでした」

 彼女ははっきりと、流されてきた、という信じがたい語を発した。

「彼は遥か東にある人族の国の王子でした。故あって海に落ち、この近くまで流されてきたそうです」

 濃緑の液体がきはじめる。甘いような苦いような妙な臭いが、掻き混ぜられるといっそう強くなった。

「カーリが彼を拾って、彼はそのまま余所者同士、私たちが面倒を見ることになりました。初めは厄介者だと思っていました。しかし彼は瞬く間に村民たちと打ち解けていきました。今思えば何かに駆り立てられていたようでした。ともあれ、彼は村の人々と私たちとの関係を取りもち、カーリや私さえ彼に心を開きつつありました」

 とん、と混ぜ棒が鍋底を叩く。

「しかしその矢先、カーリが魔物に殺されてしまいました」

 静かな語りが、この時ばかりは熱を帯びた。

「魔物は彼が討ちました。そして彼と私はカーリを失った者同士、他に相手もなく共に暮らしていきました」

 再び淡々と、ナリッサは驚くようなことを言う。アロールはひそかに息を呑む。それに気づいたのかどうか、鍋を火から下ろしたナリッサは、小さく溜息をついて続ける。

「王族の彼と魔族の私には理解できない感覚でしたが、人族にとって同居は婚姻とほぼ同義なのでしょう? 私たちは正式に婚姻したわけではありませんが、事実上は夫婦として扱われていたと思います。そのためでしょう、戦いで負った傷が癒え、また村民たちとよく交流するようになった彼はやがて、とうとう人族の村に魔族である私を受け入れさせてしまったのです」

 そうして、薬が冷めるのを待つ間、アロールの向かいに座った。

「その関係は今に至るまで子々孫々に受け継がれています。戦争を経て、人族が魔族を狩るようになっても、彼らが私を追い出そうとすることは決してありませんでした」

 おおむね美談といえる話だ。しかし濃金の眼は暗かった。アロールは返す言葉を探す。何も言うべきではないかもしれない。それでも、それは彼の性分が許さない。

「その方のことがなくとも、ナリッサさんご自身が、パスチェスの方にとって大切な存在なのではないですか」

「せめて負担を恩恵が上回るよう努めています」

 ナリッサは澄ました顔で頷く。アロールは言葉を重ねる。

「村の方との関係を取りもったことも、その方がナリッサさんの幸せを願っていたためだと思います」

「彼は手の届くすべての民の幸せを願ってしまう人でした」

「見送るばかりの生の辛さは、想像するに余りあるものですが……」

 するとナリッサは、アロールの言葉を遮った。

「……慰めようとせずとも良いのですよ」

 そう言って微笑む。極めて複雑な表情だ。皮肉、謝意、気遣い、悲哀。淡い感情が塗り重ねられている。

「彼の命数が先に尽きることは覚悟の上でした。魔族が人族と共に過ごす以上、それは当然のことです。彼が人族としての生をまっとうしたのなら、哀惜あいせきの念はいずれ乗り越えられます」

 しかし、アロールは最も強い感情をひとつ見落としていた。

「これは哀惜ではなく、後悔です」

 その感情の名は、ナリッサ自身が告げた。

「彼は四十を前にして病に倒れました。感染うつることもなく、ひそかに体を蝕み、突如にして命を奪う病です。治療には極めて強い魔力を帯びた土地にのみ生える薬草が必要です。ですから、たとえ知っても何もできなかったのかもしれません」

 聞き手がそうと知ったからか、話し手があえて口にしたからか、その後の語りは後悔の色を強く帯びて聞こえた。事情を説くうちにもそれは膨れ上がり、ナリッサは苦しそうに息をつく。

「しかし――知ることもできなかった後悔は、重いものです」

 押し潰されかけてあえぐような言葉は、アロールの心を強く揺らした。知ることもできなかった後悔。ナリッサが語ったそれを、彼は見落としていなかったか。

「彼は、弱い者には必ず手を差し伸べる一方、自らの弱みは見せようとしない性分でした。そういう生き方しか知らずに育ち、最期までそのままだったのでしょう。その病が治らないと悟っていたのか、せめて最期まで心配をかけまいとしたようです。軽い、けれど特徴的な症状に、私が気づいた時には手遅れでした……」

 ナリッサの語りをよそに、感情を揺らしたアロールは思わず咳きこむ。ひゅ、とか細い笛の音が混じった。ナリッサが一瞬、色を失う。しかしアロールが目の前で咳をしたことをびた時、彼女はあの澄ました顔に戻り、さも当然のように申し出る。

「長旅でお疲れでしょう。しばらくここに留まって行かれませんか?」

「いえ。やはり、明日には発とうと思います」

 しかしアロールは頷かず、窓の外を見やった。雨雲は通りすぎ、遠く青い海が春めいた陽光に映えている。火の焚かれた小屋も今となっては少し暑すぎるように思えた。理由を問いたげなナリッサへ、感謝の念を込めて彼は語る。

「私は、真実が救いにならないことを恐れていました。しかしナリッサさんのお話で気づいたのです。私はただ知りたいだけだと。知らない後悔より、知る後悔を選びたいのだと」

 復讐に狂った十年間を受け入れたいのは確かだった。だがただ単純に知りたいのもまた、紛れもない彼の本心だ。真実が彼を否定するとしても――おそらくそうだろうという感覚さえあるのに、それでも彼はどうしても真実を諦められなかった。確信に満ちた語りに、ナリッサは気圧されたようにうつむき、やがて真っ直ぐにアロールを見据える。

「次はどちらへ向かうのですか?」

 ニルロイの書き付けを渡すと、一見して驚き、表情を曇らせた。

「彼は、とても気難しい方だそうですが……」

 今度はアロールが驚く番だった。彼が最後に訪ねる魔族を、オレットは聡明で優しいと評していた。そう伝えると、ナリッサは肯定も否定もせず、急いで紙と硬筆を出してくる。

「微力ながら、私からも手紙を書きます。必ず彼に渡してください」

 暁の金色をした眼がなぜか、強い決意を湛えていた。

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メヴィスの黄昏 白沢悠 @yushrsw

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