沈思、仇敵との共鳴

 寝台に倒れこむようにして眠って目が覚めて、最初に意識したのは心身の重さだった。感覚も思考も遠い。彼を突き動かしていたものが絶たれて、虚脱感ばかりが彼を支配している。結局その日は眠れなくなるまで眠り、喉が乾けば水袋の中身を消費して、どちらでもない時はただ寝台の上に座っていた。

 まだ暗いうちに目が覚める。どうにか思考の端を捕まえて、部屋を借りているのは今朝までであること、昼には西へ行く船が出ることを思い出す。ここを離れたいと感じる程度の気力は戻っていた。旅を再開したいと――人族と魔族が争った理由を知りたいと思うほどの熱意は戻っていなかった。それでも、ただこの街を離れるにしても、船に乗ることは良い手段だろう。他にすることも思いつかない。重い心身に鞭打って、アロールは出立の準備を整えた。

 床板をきしませないように、暗い廊下を通り、階段へ向かう。階下から明かりが漏れてきていた。今も店主は起きているようだ。階段を降りる。鍵を返す。何か言うのも億劫だった。あちらも何も言ってこない。向けられていた視線から何を読みとることもなく宿を後にして、あの燃えさしの髪をした魔族がいなかったと気づく。考えるまでもない。どうせまだ寝ているのだろう。

 砂埃から逃れるように歩きつづけていると、いつの間にか海辺に出ていた。黒々と闇夜に染まった波が星明かりに微光をちらつかせ、しおさいが静かに不穏に彼を誘う。冷たい風がわずかに潮の匂いと、鼻を突くい臭いを運んでくるが、砂埃よりはずっと良い。

 東の空、雲の割れ目から朱い光が差してくる。波飛沫が火の粉の舞うように朱い。それも波の寄せるたびに白くなっていき、同時に海そのものも白く照らし出された。青ではない。明るくなって気づいてみれば、ここの海は砂礫を巻きこんで白濁し、何やら異物さえ浮いている。道理で酸い臭いがするわけだ。アロールは落胆した。やはり、早くこの街を離れたい。

 日が昇るにつれ次々と店が開きはじめる。ふと、手持ちの水も食料も船旅には心許ないと思い出す。店を見て回り、足元を見てくる商人たちにうんざりしながらどうにか必要と思われるだけの物資を買い揃えた頃には、陽射しに温められた海がさらにきつく臭いだした。ますます船が待ち遠しい。

 初め遠く点のように見えたそれは見る間に近づき、その優美な威容を現した。砂塵に煙ってなお白々と冴える三角帆。見たことのない種の堅木で造られた船体は、古いながらも手入れの行き届いていることを感じさせる。さらに近づいた船首の側面、青い塗料で書かれた船名は「ユスティア号」と読めた。かつて海の魔物を倒すため命を落とした聖女の名前だと、商人の誰かが言っていた。

 船は水鳥が羽を畳むように帆を下げた。多くの人と荷が降り、また荷が積まれ人が乗りこむ。アロールはその流れに乗って船上に足を踏み入れた。停泊している船はそれでもわずかに揺れて足元がおぼつかない。

 やがて再び帆を上げた船は滑るように港を離れていく。遠ざかるナイラムセを見納めることはしなかった。体が重い。宿を引き払い、物資を揃えて船に乗る、それだけで気力を使い果たしてしまったかのようだ。同じ部屋の三人が船室に入ってくるのを待ち、寝台の割り当てを決めて座りこむ。彼らは三人とも旅人らしく、情報交換をしようとしきりに話しかけてきたが、生返事をしているうちに諦めたのか、やがて三人だけで話すようになった。

 港町パスチェスまでは三日の船旅だ。そのうち二日を無為に過ごして、三日目の朝にようやくアロールは船室から出る。何をしようと思ったわけでもない。ただ、同室の三人が起き出してくる前に目が覚めて、そのまま部屋にいるのが気まずかった。

 足元が揺れる。船の揺れだけなのか、彼の心身の不調のためでもあるのか、ともかくもどこか現実離れした浮遊感を覚えながら、行くあてもなく甲板に出た。

 潮風がほおを叩く。外は今にも降り出しそうな曇天だった。陽光と共に春までも遠のいたらしく、冷たい風が運んでくる匂いはごく薄い。それでも海は青かった。誘われるようにべりべりへと歩く。ただし陰鬱な青ではあった。そのせいか甲板に他の乗客の姿はなく、船員たちが着岸を前に忙しく動き回るばかりだ。

 彼らの妨げにならないよう、人気の無いところで海を眺めた。深い青の底に何かが沈んでいるような気がする。足を止めれば船の揺れもよく分かる。揺り動かされた記憶の底から、何かが浮上して――。

 ――魔族殺しはそんなにきつかったのかい?

 燃えさしの灰、あの挑戦的な眼差し。浮かんできた断片にまるで足首をつかまれるようにしてアロールの思考は記憶の奔流に引きずりこまれる。忘れもしない十七歳の冬。十一年前のあの日も、ちょうど今のような曇り空だった。

「ついにお前が村の外で働く日が来たんだなあ……」

「もう、父さんたらずっとそればっかり」

 足の怪我をかばいながらしみじみと父が呟いた。呆れて笑った母は身重の腹をさすった。――遠い昔の、しかし鮮明な記憶。

 アロールの故郷、ロギエラ王国北西の辺境にあるシェルン村は、他の地とは異なり年の三分の一ほどは畑が雪に閉ざされる。だから若者たちは足りない稼ぎを補うため、山の洞窟を越え王都へ行って働く。そしてそれは十七歳からと決まっていた。幼い頃から好奇心旺盛だったアロールは何年も前からこの王都行きを楽しみにしていて、だから母は明るく手を振った。

「体には気を付けて、雪が降らないからって薄着しないでね。皆の言うことをちゃんと聞いて、しっかり働いて来るのよ!」

 どんな顔をして何を言ったのかは覚えていない。あの時は何も知らなかったから、きっと笑って別れ、王都行きの列に加わったのだろう。誇らしかったような気がする。期待と希望に胸を膨らませていたような気もする。ずいぶん遠ざかった村をふと振り返った、あの時までは。

「煙が……」

 雪をかぶった木々の向こう、曇天になお黒く立ち昇る煙が見えた。

「――アロール!」

 村の方角だった。いてもたってもいられず、年長者の制止も聞かずに引き返す。その間に煙は幾筋も立ち勢いを増していった。木材だけではない、何かの焼ける嫌な臭いが鼻腔を焦がす。誰かの悲鳴が風を裂いて飛んでくる。そのどれにも構わず村へ辿り着いた。

「なんだ? 何があったんだ!」

 村のあった場所、という方が正確かもしれない。どの家も小屋も朱く炎に呑まれて輪郭を失い、いくつかは燃え尽き崩れていた。アロールはすぐに袖を裂き布で口を覆って、様変わりした景色の中に飛びこむと無闇に駆けだした。

「父さん! 母さん! 皆どこだ?」

 返事はない。誰の姿もない。住んでいた家がどこかも判らない。燃え盛る建物の角を曲がった彼は、突然、体を強く後ろへ引かれる。

「――下がって!」

 次の瞬間、目の前に炎が落ちてきた。荷物を潰すように背中から倒れ起き上がって、建物の一部が崩れてきたのだと気づき青ざめる。それから前方に、細剣を携えた見知らぬ人物の後ろ姿を認めた。

「あんたは誰だ? 村は……皆はどうなった?」

 星明かりの淡い金色をした長い髪。村では見たことのない色だ。

「助けられた方は……おそらく、ごくわずかでしょう」

 涼やかに澄んだ女声、冷静で丁寧な語調。まるで別世界にいるような。

「動ける方には池の近くに集まってもらっています。怪我が酷くて動けない方も、運べる限りは……」

 女性は炎から視線を外して振り返る。村から少し離れた池の方を指す、その姿勢にはわずかな揺らぎもなかった。色の薄い肌に、優美に整った顔立ち。およそこの惨状には相応しくない姿に呆然としたアロールは、女性が歩き去ろうとするので我に返った。思わず呼び止める。もう一度だけ彼女は振り返った。

「私は、まだ息のある方を探します」

 互いに直視した相手の眼は、凛とした光を秘めた鮮紅だった。

 ――それからアロールたちは、かろうじて炎を逃れた村人たちを介抱し、火傷の酷かった十数人をさらに見送った。アロールの両親はそこにはいない。衝撃から立ち直って村の跡を探した。歪に融け残った雪と灰と炭の中から掘り出された、変わり果てた姿の村人たちの中にも、やはり両親らしき姿はない。死者を弔おうにも紺の長衣は焼けてしまった。仕方なく、奇跡的に残った一着を裂いて皆で端切れをまとう。雪の上に点々と紺の布片が並んだ。すべてが終わった後、生き残った者では村を維持できないという結論に至った。

 ある者は親類を守るために、またある者は安住の地を探して旅立った。アロールもまた旅立つ。しかしそれは復讐の旅だった。村の焼ける様を間近で見た彼は、あれがただの失火でないことを確信していた。灰の中から数個、見慣れない道具の残骸も掘り出した。旅の中でそれに炎を起こす魔術が込められていたことを知った。魔族語を学び古書を紐解いてその術具を調べ、剣を手に技を磨き人に仇なす魔術師と戦って、ついに怨敵の前に辿り着いた時には十年が経っていた。つい昨年のことだ。だからよく覚えている。紫紺の髪をした魔族の女を追い詰め、その身に剣を突き立てた時の――あの身が打ち震える歓喜を。

「……思い出したぞ」

 そして、怨敵が血と共に吐き出していった最期の言葉を。

「お前は……シェルン村の……」

「そうだ。俺は、お前に焼かれた村の生き残りだ」

「あの村は、寒かった……」

「そうだとしても、俺にとってはただ一つの故郷だった」

 女は苦しげに言葉を紡いだ。アロールはそれを、どうもうな高揚感に駆り立てられるまま次々と切り捨てていった。女は咳きこみ赤黒く濡れた何かを吐き出して、そして一言、ただ一言を明瞭に発する。

「――暖められたかもしれない」

 その意味を理解する前に、女の目からは急速に光が失われていく。

「工房、私の……故郷の、王都、さえ、奪われなければ……小型魔術炉が……設計図も、研究者も……失われて……」

 力なくかすれた声だった。今際いまわきわの支離滅裂な発言だった。難解で耳慣れない異種族の言語だった。それでもアロールには分かった。いや分かってしまった。それは彼を恨む言葉ではない、彼を呪う言葉でもない、まして死者を蔑む言葉でもない。

 ――それは、故郷を奪われた者の言葉だった。

 船が大きく揺れた。現在のこの場所に引き戻されたアロールは、まだ激しく鳴る胸を押さえる。興奮が潮風に冷めていき、残った苦しさをどうにか和らげようとして呟く。

「そうだ……私は、ただ目をそむけていただけだ」

 吐き出した言葉はすっと彼の胸に戻り溶けていった。

「私も、あの魔族も、ただある日いきなり何もかも奪われて、心を守るため復讐にすがった。それだけだ」

 今なら理解できる。あの魔族はおそらく魔術官だった。魔術炉を安全に小型化する研究をしていたが、道半ばにしてあの戦争が起きた。故郷の街とそこに構えた工房と、研究の成果と手段を一時に奪われて――村を瞬時に焼き払ったあの術具も、きっと小型化だけ実現した魔術炉の成れの果てだ。

「人族と魔族の争いなんて、関係なかった……」

 アロールとその仇は、共に故郷と未来を奪われ、そして復讐に狂った。彼と彼女は同じ。彼は彼女を殺し彼女の復讐を否定したことで、同時に彼自身の復讐を否定した。だから彼が彼の復讐を、失った十年間を肯定するためには、同時に彼女の復讐を肯定しなくてはならない。人族と魔族とは、どちらにも責任の無い形で、ある種の必然として争ったのでなければならない――。

「……知りたい答えを知ろうとするのでは、意味が無い」

 先を行く海鳥が翼を畳む。帆を張る縄が引かれて軋む。目的を失った旅人を乗せて、船は港に着こうとしていた。

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