溺没、過ぎた追求

 砂埃が口に入った気がする。吐き出したいのをこらえて首元の布を引き上げた。足早に行く通りには日乾煉瓦の粗末な建物が並ぶ。少しでも砂を防ごうと目を細めて建物を見上げ、その中の一つに入った。

 霧の町アトロートを後にしたアロールは、次の目的地である港町パスチェスに向かっている。その道中、パスチェスへ行く船に乗るために訪れたのがここ、濁流の都ナイラムセだった。アトロートから西に十日の距離でありながら驚くほど荒れていて、道など舗装されている方が稀という有様だ。

 扉を開けてすぐに閉め、人目を気にしながら咳き入る。ひゅう、と笛のような音がした。どうにか呼吸を落ち着けて店内を見渡す。すると信じられない光景が目に入った。

 ――魔族がひとり、堂々と角を晒したまま酒を呑んでいる。

 しかし店にいる者は誰も気にしていないようだ。アロールはまず部屋を取ることにする。一階が酒場で二階が宿という形式のこの店は、確か看板に「泥の中の白魚亭」と書いてあったように思う。

「すみません、部屋はありますか?」

「何日泊まる?」

「パスチェス行きの船が次に出るのはいつですか?」

「明後日の昼だ。食事はここか外で済ませてくれ」

 提示された金額を払うと鍵を投げ渡された。粗野な店だが、もう宿を探し歩かなくて良いと思えば耐えられる。アロールは気を取り直して夕食を注文した。さらにいくらか金を払って、まるで期待できない料理を待つ間、やはりどうしても魔族の客が気になってしまう。

「あの……すみません」

 その客は魔族でありながら、老婆と呼べるほどの歳に見えた。人族でいうなら六十過ぎか。実際はおそらく二百八十を超えていると思われる。燃えさしの灰のような赤みを帯びた白い髪を後ろで雑に括り、アロールに向いた苛烈な眼も炎のように赤い。

「どうかしましたか? 私がそんなに、気になりますか?」

 しかし意外なことに言葉遣いは丁寧だった。おかしなことを言う、といった態度に、アロールはたじろぎながらも心配になって尋ねる。

「その……それは、隠さなくても良いのですか?」

「――詮索好きは感心しないよ」

「すみません」

 アロールは縮み上がった。最初とまったく同じ、れていながらよく通る声が彼を威圧した。あまりの豹変に驚いて、しかしアロールは離れない。考えてみれば普通に店にいる時点で只者ではないのだ。ふん、と老婆が鼻を鳴らす。

「謝るわりに離れないんだね。まあいいさ。あんたになんか心配されなくたって、この街であたしに手を出そうとする奴はいないよ」

 そこまで言うと酒をあおった。店主が次を持ってくる。老婆は当たり前のように酒を受け取って口をつける。

「あんたが生まれるよりずっと前、この街じゃ人族も魔族もなく、物を言うのは力だけだった。腕っぷしだけじゃなく、金や悪知恵も含めてね。で、その頃の空気はまだ残ってる」

 注文した夕食を受け取って、アロールは老婆が座る長卓の二つ隣に腰を下ろした。それなりに繁盛している店で彼女の周りだけが空いている。赤い眼がアロールをいちべつして、興味なげに逸らされた。

「あたしは今でこそ婆だけどね、昔はずいぶん名の知れた冒険者だったのさ。烈火のヨルム、なんて、仰々しいったらない。貴族様やお役人の雇われもずいぶんしたよ。体はなまってもその時の繋がりはまだ生きてる。今の偉いさんは赤子の頃から知ってるし、互いに引き合わせてもやれる。他国のこともあるからずっとは続かないだろうが、まあくたばるまでは逃げ切ってみせるさ」

 その語りには内容以上の勢いがあった。酒が入っていることを割り引いても、魔族の身で人族の街に留まっていることを考えれば、かなり事実に近いのだろう。古い油で何ともつかない魚を揚げたものをつついていたアロールは食事の手を止めて、ヨルムと口走った老婆の様子を窺う。彼女はすぐ視線に気づくとにやりと笑った。

「他所で言いふらさないんなら昔話でもしてやろうか?」

 アロールは驚く。何も言えないでいると、ヨルムはまた酒を空にした。絡んで来るような調子だが、発音は鋭く目もわっていない。

「わざわざ魔族に話しかけて、婆の自慢話に付き合ったんだ。おおかた何か気になることがあったんだろう?」

 当たっている。王族や貴族とも渡りあったと自称するだけのことはある、のかもしれない。アロールはヨルムの申し出を受けることに決める。事情通の魔族から話を聞けるとは望外の幸運だ。

「では、人族と魔族がなぜ争ったのか、ご存知ですか?」

 ヨルムは何がおかしいのか、アロールを小馬鹿にするように笑う。

「ふん……まあいいけど、喉が渇いたね」

「すみません、この方に飲み物をお願いします」

 アロールはすぐに店主を呼んだ。向こうもこちらの様子を窺っていたのか、いくらも経たないうちに来て呆れたように言う。

「あんたも物好きだな。酒でいいか?」

「お水かお茶はありませんか?」

「無いわけじゃないが、水は止めとけ。茶も高いぞ」

「構いません。お茶を二つお願いします」

 しばらくして出てきたのは、白濁した液体だった。申し訳程度に薄茶を帯びている。かすかな湯気は茶葉ではなく香辛料の匂いがした。

「あんた、あたしが婆だからって気を遣ったつもりかい?」

 ヨルムは嫌味を言いながら茶をすする。

「まあ、高いものを頼んだところは認めてもいいがね」

 それから少し思い直したらしく、こう付け足した。アロールも飲んでみる。茶葉を何かの乳で煮出して香辛料と糖蜜を加えたものらしい。茶とは名ばかりだが飲めることには飲める。

 いつの間にか飲み終えたヨルムは上機嫌に語り出す。

「あたしが生まれる少し前まで、この辺はこんなに荒れてなかった。緑豊かって言葉がぴったり来るほどだったらしい。それがいつの間にやらご覧のとおりさ。どうにも戦争があったみたいだが、記録は何も残ってない。近場の国にも、魔術官の史料にもだ。おまけにその時ご立派な地位のあった奴らも揃って自分はその場にはいなかったと言うばかり。王族も高官も、誰に聞いて誰を脅してもね」

 そこまで来て唐突に黙った。いつまで待っても何も言わず、また酒を飲みはじめている。アロールはしびれを切らして尋ねる。

「それで……この地が荒れた原因はいったい何だったのですか?」

「知らないよ」

 答えは呆気ないものだった。溜息をついて、ヨルムは続ける。

「誰も知らないってことは、そうさせる力のある奴が隠してるってことさ。今は亡き魔族の王か、その側近ってところだろう。ああ、気に食わないのは確かだが、だからってどうしようもないさ」

 鋭い赤い眼がアロールを見据えた。

「あんたが知りたい前の戦争も同じだよ。誰も原因を知らないっていうなら、王が隠したんだ。なんなら人族に宣戦して討たれたっていうのも仕組まれたことなんじゃないかね」

 話が飛躍しすぎている。そこまで王を嫌っているのか、それとも外見から分からないだけで実はとうに泥酔しているのか?

「納得してないね?」

 疑いだけは敏感に察知してくる。隠しても無駄だろう、と思う。

「ええ、まあ。貴方ほどの力があるなら、六十八年前の戦争についても詳しく調べられたのではありませんか?」

「若いねえ。そこまで言うなら、もう一つ昔話をしてやるよ」

 ヨルムは意地悪く笑うと、アロールの返事も待たずにまた話し始めた。やはり酔っているのだろうか。店を見渡すと、客は誰一人としてこちらを見てもいない。店主とだけは目が合った。だから言わんこっちゃない、とでも言いたげな顔をしている。

 そんなことには構わず、ヨルムは好き勝手に話しつづける。

「あたしの昔の知り合いに隣の国の魔術官がいてね。これがまあとびきり変わった奴だった。魔術は凄いのに魔術にしか興味がないもんだからずっと下級で、しかも人族も魔族もないお人好しと来た。それがいつの間にか殺されたらしい。放火でね」

 ――放火。その言葉が妙に耳についた。同時に言葉を切ったヨルムは、ざとくアロールの視線に気づいてにやりと笑う。燃えさしのような白い髪が、挑戦的な表情が、どうにも気に障って仕方なかった。もう、聞き流せそうにない。

「人族の恨みを買って家を焼かれたことになってたよ。種族なんて興味ないって顔した奴がだよ? こいつは変だと思って調べたら、同じ魔術官共に殺されてて、放火は証拠隠滅だった」

 聞きながらも意識の大半は過去に飛んでいた。曇天に黒く立ち昇る煙、鼻腔を焦がす嫌な臭いに耳を裂く悲鳴。何もかも呑みこむ朱い炎に、灰と融け残った雪の汚れた白――。

「あいつは塔の建設をしてたんだ。それもただの塔じゃない、水道なんかの設備に魔力を流すための制御塔さ。それが大規模なもんばかり雑草みたいな勢いで造られるから怪しんだんだろう。あいつは無能じゃない。だからすぐに戦争だって勘づいた。だがあいつはお人好しだったからね。知らないふりするほど賢くはなかったのさ」

 ヨルムはそこで酒をあおり、わざとらしく大声で嘆く。

「馬鹿な奴だよ、伴侶まで巻きこんで勝手に死んでさ、可哀想に子供ひとり残してったそうな。だからあたしは余計な詮索は嫌なんだ。そんな馬鹿にはなりたくないからね」

 そして、我に返ったアロールの鼻先に、空の酒杯を突きつけた。

「あんたも、共存とやらのために死ぬのかい?」

 安酒の臭いに顔をしかめる。長らく感じていなかった内なる激情を意識する。胸の奥底で渦巻きひとつ間違えれば彼を捕らえようとするそれらの中に、二つの種族の共存を望むなどという殊勝な感情があるはずもない。叩きつけるように言い捨てる。

「私が知ろうとするのは、共存のためではありません。私が生きている間に人族と魔族が和解することなど絶対に無いでしょう。それでも私は――知るためなら、死んでも構わない」

 ヨルムは手を下げないまま、黙ってアロールの表情を窺っていた。感情の読めない赤い眼をにらみ返す。店内の騒がしさが耳につく。しばらくしてその目が閉じられた。興が失せたように他所を向き、酒臭い溜息と共に酒杯を下げる。

「なら自分のためってことだね。まあ、その方が好きだが――」

 ふいに、赤い眼がまた鋭く光った。

「――魔族殺しはそんなにきつかったのかい?」

 どんな嫌味や説教が飛んでくるのかと身構えていたアロールに、その指摘が直撃する。抵抗のない鋭利な刃物とは違う、抵抗ごと叩き潰す鈍器のような言葉だった。目眩がする。見るとヨルムは最初から変わらず人を食った笑みを浮かべている。

「何を驚いているんだい。あんた、ひと殺しの目をしてるよ。さっきのあれだけじゃない、店に入ってきた時からずっとそうさ。ちょっとした心や体の隙に目が行きすぎなんだ。よっぽど長く殺す気で生きなきゃそうはならないね」

 丁寧な解説が入念にアロールを打ち据える。失敗した、と思う。危険と分かっていた相手に深入りして、まんまと内心を暴かれた。これでもヨルムにしたら遊び半分だろう。少し魔族と会って話したくらいで、分かった気になっていた彼の方が悪かった。

 料理と茶を残して席を立つ。迷惑賃のつもりで小銭を置いた。

「知りたい答えを知ろうとするんじゃ意味は無いよ。正当化できなきゃ死ぬっていうなら神殿でも頼るといい」

 話しつづけるヨルムを放置して、二階への階段を上る。

「そう、今日はもう寝ちまいな。寝てもきついなら旅なんて止めるんだね。知ってもろくなことは無いんだからさ」

 追ってきた言葉が、いつまでも彼の内に響いていた。

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