波間、平穏の代償

 ニルロイはリオニスから近い順に魔族の名前と所在を挙げたのだろう。最も近いアトロート、セス・ミジャーナという姓の魔族が隠れ住む町まではまた半星期かかった。街道沿いの広場で最後の夜を明かし、翌朝早くに町へ着く。真冬を過ぎ、野宿もずいぶん楽になった。

 アトロートはその異称を霧の町という。南東の果てにあり戦禍が間遠だったためにどこか古風な、せいな浮き彫りの随所に見える町並みは、その大半が異称のとおりの深い海霧に覆われている。淡くかさをかぶった魔術の灯の並びでかろうじて道の形は分かった。服や髪をらしてくる霧は、かすかに潮の匂いがする。

 セス・ミジャーナの住居は町外れの海沿いにあった。海沿いの通りに辿り着く頃には、日が昇って海霧が薄れ、遠くからでも目的の家がそれと分かった。

「――旅の方、すみませんが捕まえてください!」

 突然、焦ったような男性の声がする。わずかに橙色を帯びた白い獣が、背の高い男性から逃げるようにしてこちらへ駆けてきていた。待ち構え脇をすり抜けようとしたところを押さえつけて見ると、大人がどうにか抱えられるほどの大きさのその獣は、アロールが知るどの獣とも少し違うようだ。

「ありがとうございます、助かりました」

 息を切らせ追いついてきた男性は重そうに獣を抱え上げる。年の頃は四十に届かないほどか、紫に近い灰色の髪はところどころ不自然に長く、くたびれた服もあって冴えない印象を受ける。だが、何か思い出そうとするようにアロールの顔を見てくる暗色の眼は、重い疲れと共に深い知性の名残をたたえていた。

 やがて何かを思い出したらしい男性はぎこちない笑みを浮かべる。

「君がアロールさんですね? ニルロイから聞いていますよ」

 アロールは驚く。休みなく歩いた彼より早く訪問が伝わっていたこともそうだが、目の前の男性には角が無い。ニルロイから聞いたというからには彼がセス・ミジャーナなのだろうが……。

「急ぎの旅で疲れたでしょう、散らかっていてすみませんが……」

 間違いなく目的の家を指してアロールを招く彼は、そこでようやく相手の戸惑いに気づいたらしい。角のあるはずの辺りに手をやって深々と溜息をついた。

「……ああ、なるほど。すみません、聞きたいことがあると思いますが、ここは人目がありますので後でお願いします」

 そう言われれば仕方がない。男性の住居に向かい、両手の塞がった彼の代わりに扉を開ける。古風なしつらえの室内では、大小様々な白い獣が気ままに過ごしていた。あるものは寝そべり、あるものは本棚に登ろうと爪を立てている。いったいこの獣たちは何なのだろう。

「ひとを傷つけないようにだけはしています」

 呆気にとられながら扉を閉めると、男性はそう言って、獣たちを避けながら部屋の奥へ歩いていく。抱えた獣を床に下ろそうとするが、獣はそれが気に入らないらしい。男性を引っ掻いて部屋の奥へ逃げていった。

「すみません、やはり触るのは止めておいた方が良さそうです」

 男性は苦笑して、ともかくも卓の方へアロールを招く。

「どうぞ」

 椅子を勧めてくる。アロールが座ると、男性は反対側の椅子に腰を下ろして居住まいを正した。

「まずは私も名乗りましょう。私がオルカバレット・セス・ミジャーナです。人族からの通称はオレット、たまにオルトでした」

 そう言うと彼は、右の側頭、魔族なら角のある辺りの不自然に長い髪を掻き上げる。紫灰の髪の下から暗灰が覗いた。つい半星期ほど前に見たばかりのその色は、紛れもなく魔族の角の色だ。しかしオレットのそれはもはや角とはいえない。それは――無残にも根元から叩き折られた、角の跡だった。

「痛く、なかったのですか?」

 アロールは思わず尋ねる。オレットは頷く。

「気絶しそうなほどの痛みでした。魔族の角はある種の獣の角のように、折って血が出るということはありませんが……全身が圧し潰されて、何か大事なものが私から流れ出て失われてしまうような感覚がありました。今でも思い出すだけで寒気がします」

 決して誇張ではなさそうだ。角を折る痛みを語りながら、彼の顔色は見る間に悪くなっていく。しまいには椅子の上でふらつきもした。驚いたアロールが神王に祈ろうとするが、しかしオレットは手で制止する。

「失礼。……いえ、実際に多くのものを失ったのでしょう。体が弱くなりました。今は魔術もほとんど使えません」

 それから彼は部屋を見渡した。かつては小綺麗に整えられていたのだろう部屋は、白い獣たちに荒らされて見る影もない。

 獣の一匹がオレットの足元にまとわりつく。最初にアロールが捕まえた個体より小さく細身の体だ。オレットはその紫がかった白い毛並みを撫でる。他より大人しいらしい獣につられ、わずかに目を細めながらも、彼は複雑な表情をしていた。

「この子たちは私が魔術で創ったものです。信じがたいことですが……この子たちも昔は、人族語と魔族語とを自在に操り、家のことをこなすこともできました。中でもこの子などは子供に魔術を教えることすらできたのです。それが今は野の獣も同然です」

 アロールは黙りこむ。彼は魔術を知らない。それでもオレットの技量が並外れていただろうことは想像がついた。つい、掃除や洗濯にいそしむ獣たちを思い描いて、現状との隔たりに打ちのめされてしまう。折ったのか折られたのか、角を失っただけでそれほどとは。

 するとオレットはぎこちなく微笑んでみせる。

「私のことはどうでも構いません。そんなことより、貴方の用事を教えてください」

 その硬い微笑を見てしばらく悩み、アロールはともかくも旅の目的を伝える。彼が今のオレットにできることは何もない。人族と魔族が争った理由を知りたい、と聞かされ、オレットは怪訝な顔をする。

「……彼は何を考えていたんだ?」

 理解できないというふうに言って、すぐにアロールに向き直る。

「いや……いえ、貴方が悪いわけではないのです。ただそういう話なら、私よりニルロイの方が適任だったのではないですか?」

 アロールは首を横に振った。

「ニルロイさんの話は……何と言って良いか分かりませんが、算術の問題が分からないとき、答えだけを教わったようでした。確かに、仕方のないことだったのかもしれません。しかし私は、なぜ仕方がないとしか言えないのか、それをこそ知りたいのです」

 何度も止まって言葉を選びながら、あの時の違和感を言い表す。ニルロイの語りは穏やかすぎた。今もともすれば白い獣の毛並みに故郷の雪を見るアロールには、彼のいる場所は遠すぎる。

 黙って聞いていたオレットは、しばらくしてゆっくりと頷いた。

「なるほど……それなら私も、何か話してみましょう」

 言って席を立ち、本棚からひときわ古い本を出して戻ってくる。膝の上で開き、その上に乗ろうとする獣を追い払う。

「これは私のご先祖が研究したことですが、私たち魔族の魔力はずっと衰えつづけているそうです」

 専門的な話のようだ。アロールは一言も聞き漏らすまいと集中する。

「ご先祖はその理由を長すぎた平穏に求めました。貴方も旅をしているなら、魔術の灯を見たことはあるでしょう? あれは造るより使う方がずっと簡単なものです。そしてこのことはほぼすべての魔術に共通しています。ですから必要な数さえ揃えてしまえば……何らかの理由で壊れない限り、高度な技は必要なくなります」

 アロールはラントが容易く魔術の灯を点けた様を思い出す。

「必要ないから、魔力の鍛錬をおこたる者が増えたと?」

「それも理由の一つです。ですが、それだけではありません。我々魔術師は精神の力によって外界に影響を及ぼします。これは我々にしかできないことではありません。誰もが微弱な力ながら、常に世界の在り方を定めています。では、この地のひとびとすべての意思がある方へ傾けば、どうなると思いますか?」

 問いを投げかけられて固まる。話はだんだんと抽象的になってきていた。ひとつひとつを思い返し考えて、アロールは自信なさげに答える。

「……世界の在り方も、そちらへ傾きます」

 オレットは頷き、本を閉じた。

「それがもう一つの、そして真の理由です。平穏があまりにも長く続くうち、無数のひとびとの精神に不要とされた魔術は、世界から少しずつ失われていきました。かつては魔族が人族を支えることで両者は共存してきましたが……魔族の力は、魔術の力。それが失われれば、人族まで支えることはできません」

「しかし、ならば今は魔力が増しているのではありませんか?」

「確かに魔族は魔術を欲しているでしょう。しかし人族はかつて以上に魔術を恐れ、その消滅を願っています。そして、人族は共存時代の末でさえ魔族の十倍ほどの数でした。まして今など……」

「……なるほど」

 それはかなりアロールを納得させる話だった。

「魔族が衰え、人族が力を増した……という話は、他の方からも聞いたことがあります。しかも……思えば聖王信仰の言い伝えでも、人族の独立は、子供が親から自立することにたとえられている」

 ラントの冷ややかな語りを思い出す。幼い頃、外に出られない吹雪の日に母親から聞かされた、生前の神王の英雄譚も。アロールは考えこむ。魔族を一方的に悪と断じる聖王信仰にも、真実の一片は残されているのかもしれない。

 本を棚に戻したオレットは、そんな彼を見て微笑んだ。膝の上に飛び乗った獣を構ってやる。それまでよりいくらか自然な微笑だった。

「どうやら、ニルロイは答えを急ぎすぎましたね。彼も彼なりに貴方の助けになろうとしていたと思いますが」

 アロールは、椅子の上で姿勢を正して頭を下げる。

「分かっています。……今日は、ありがとうございました」

「この後はどうするのですか? 宿は?」

「宿は来る前に取りました。明日は……ニルロイさんが紹介してくれた方があとふたりいるので、その方々を訪ねに発つつもりです」

「ふたり、ですか。誰だろう」

 オレットが独り言のように呟いた。名前を教えようと思うアロールだが、魔族の姓の発音に自信がない。代わりにニルロイが書いてくれた紙を渡す。一通り目を通したオレットは小さく吹き出した。

「……知り合いなのですか?」

「最後のひとりは、そうです。彼の父と古い知り合いだった縁で、幼い頃、仕事で忙しい両親に代わってときどき面倒を見ていました」

 語りながら、オレットは紙をアロールに返し、彼を家の外まで送って行こうとしたらしい。立ち上がったところを白い獣たちに群がられ、引き剥がしながら苦笑する。

「正確には、この子たちが私に焼くついでに彼の世話も焼きました」

 アロールは笑って良いか分からなかった。家事をして、子供に魔術を教えもしたという獣たち。野の獣同然に成り果てた現状を思うと、どうにもりきれない。

 しかしオレットはどこか楽しそうに語る。

「聡明で優しい子でした。長く旅をしていたので、きっと多くのことを知っているでしょう。必ず良い答えを出せると思います」

「連絡を取れていないのですか?」

「その手段も貴重ですから。それに、私がこの様だと知られれば、彼に要らぬ心配をかけてしまいます。情けない親代わりでしたから、せめて彼の重荷にはなりたくない」

 声音は明るかった。アロールは思わずオレットの顔を覗きこむ。

「貴方はどこか昔の彼に似ていますね」

 表情を読みとるより先に、彼は扉の方を向いて手をかけた。

「あまり気を遣っても疲れるだけで、良いことなど何もありませんよ」

 昼も近い海辺の町は、いつの間にか、霧がすっかり晴れていた。

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