渡河、いずれ行く道

 高く澄んだ快晴の空だ。山越えの乾いた風が吹き下ろしてくる。北にそびえるその山は遠目に黒く、ふもとに築かれた城とリオニスの街もまた黒い。それが明るい空と対照を成していっそ美しかった。

 山に溶けこみそうな城の輪郭に目を凝らす。カレミラ村を発って半星期、アロールが初めて目にしたそれは、かつての魔族の王の居城だった。魔術による遺物が多く眠っていると噂されており、主を失って六十八年が経った今も取り壊す算段すらつかない。盗掘者さえ恐れをなして寄りつくことも稀だという。

 風化してつたう石橋を渡り、堀を越え検問を受けて街へ入る。中へ入ればいっそう黒いだろうと思われたがそうではなかった。暗色の木枠の窓にはしかし花や飾り布が添えられ、通りを行き交う人々の姿は鮮やかで多彩で、どこからか賑やかな音楽まで聞こえてくる。

「あっ」

 体に軽い衝撃を受けて気がついた。誰かとぶつかってしまったらしい。慌てて、相手を見るよりも先に頭を下げる。

「すみません、余所見をしていました」

「いえ、こちらこそ。少し考え事をしていました」

 降ってきた声は妙に落ち着いていて、どこか影を感じさせる。声からして男性だ。背もかなり高い。顔を上げると濃い紺色が目についた。男性の羽織っていた、足首までを覆う長衣の色だった。

「その長衣は……」

 アロールは言いかけて止めた。紺の長衣は身内に不幸があった者が羽織るものと決まっている。名も知らない誰かの死を彼は哀しんだ。融け残った雪の上、紺の端切れが幾筋かたなびく様を思い出す。誰であれ、近しい者を失うことは辛い。

「もしよろしければ、その方のために祈らせていただけませんか」

 口にしてから、出過ぎたことだったかもしれない、と思う。長衣の頭巾を目深に被った男性は、しかしその陰で静かに微笑んだ。

「神官の方なのですね」

「神殿で修行をしたわけではありませんが……」

 カペロの態度を思い出したアロールはつい首を横に振る。

「構いませんよ」

 男性は、今度は小さく声すら出して笑う。

「私は土地柄、信仰の薄い家庭で育ちましたが、彼は信仰を身近なものとして育ったそうです。貴方に祈っていただければ、彼も懐かしいかもしれません。少し歩きますが良いですか?」

 アロールは頷いた。

 男性に連れられ、通ってきたばかりの門を出て、街外れの共同墓地に着く。樹や花に囲まれた静かな場所だ。吹く風もゆるやかで、しっとりと緑の匂いを残していく。アロールは深く息をついた。辺境の村で生まれ育った彼は、思いのほか街の喧騒に疲れていたらしい。

「ここです。先に私が済ませますので、その後でお願いします」

 そう言うと男性は小さな石碑に向き直り、周りの草を取り払って花を手向ける。青空の色をした花と、白くて小さな花だ。ふと石碑に目をやる。古びてはいないが、真新しいというほどでもない。刻まれているはずの文字は花に埋もれて読めなかった。

 男性に促されたアロールは両手の指先を軽く絡め、一瞬、視線を上に投げた。暗い木々の隙間に澄み切った空が見える。その彼方にいるという神王に、彼の神に祈る。

 心を鎮めて、石碑の下に眠る誰かのあんねいを願いながら、しかし彼はどことなく落ち着かなかった。誰のためかも知らず祈っていることはまだ良い。そうなることは承知の上だ。彼を動揺させたのは視線だった。男性がじっと、祈るアロールの様子を見てきている。

 祈りを終えると、視線が途切れた気がした。振り返ってみると男性は何事もなかったかのように微笑んでいる。

「静かで良いところですね」

「ええ、私もそう思っています。彼も同じだと良いのですが」

 何かある、とアロールは思った。男性の歳は三十をいくつか過ぎたほどに見える。高齢の親がいたというには若すぎ、祖父母の墓参にしては他に親類が訪れた形跡もなく、何か事情があったとするにはその態度があまりにも穏やかすぎた。

 アロールはどうしても気になって尋ねる。

「その……この方とは、どういったご関係なのですか?」

 男性が顔を背けた。紺の頭巾に遮られて表情が窺えなくなる。

「……養い子です」

 ぽつりと、こぼすように答えた。アロールは愕然とする。ここに眠っているのが養い子だというなら、男性の年齢からして、その子は若くして、あるいは幼くして死んだことにならないか。

 アロールは返す言葉を探す。沈黙を破るのは、男性の方だった。

「貴方はどうして旅をしているのですか?」

 紺の布の陰、枯草色の髪の間に、青い眼が覗く。関係のない質問だが拒絶でも皮肉でもない。強いていえば警戒。返答はそちら次第だと、わずかに冷えた声音が告げている。

「……神託を受けたのです」

 真昼だというのに寒い気がして、アロールは身震いをした。樹に囲まれて日が差さないからかもしれない。そう考えながらも、意識は過去に引き戻されていく。雪上に点々と並ぶ紺の布片、それから長く彷徨った末、どこからか聴こえた声なき声に。

「人族と魔族の争いが原因で、何もかもを失って……絶望の中で、神王様の御声を聞きました。真実を知れ、救いはその先にある、と」

 ともすれば過去へ入りこもうとする意識をどうにか抑えて正直に答えた。男性は黙って何事か考え、そして問いを重ねる。

「貴方は魔族を憎んでいるのですか」

 問いとも確認ともつかない調子。どちらの答えが期待されているのか、男性自身はどうなのか、まるで窺えない。あるいは、そのように思えることそのものがアロールの迷いの現れなのかもしれなかった。

「憎んでいました。ですが今は……分かりません」

「分からない、とは?」

「いっそ憎むことができたらと思うこともあります。もし憎しみに我を忘れることができれば、少しは楽になれるのだろうか、と……」

 アロールは男性から目を逸らして俯く。緩やかな風はそれでも冷たく湿り、葉擦れの音と鳥の声ばかりが辺りを満たしている。

「――彼は、私とは異なる種族でした」

 唐突に、静かな声が降ってきた。弾かれたように顔を上げる。男性は妙に落ち着いた表情をしている。しかし三十過ぎにしか見えない彼より先に死んだ養い子が異なる種族だというのなら、それは。

「まさか、他の人族に……殺されてしまったのですか……?」

 ところが、彼はアロールの言葉を否定する。

「殺されてはいません」

 そして軽く両手を組んだかと思うと、頭巾に手をかけ脱ぎ去った。

「彼は――ユーグは、天寿を全うしました」

 枯草色の髪の間から、暗灰色の角が二本長く伸びている。どうあっても頭巾で隠せる大きさではなく、突然現れたようにしか見えないが、そのねじれた形は紛れもなく魔族のそれだ。

 アロールはあまりの驚きに声も出なかった。今も生き残っているだろうとも、争いを望まない者がいるとも分かっていた。しかし実際に生きて目の当たりにする日が来ようとは思っていなかった。

「ニルブラーロイ・ノール・イシュロン。それが私の名前です」

「ノール……?」

「発音しにくいでしょうから、ニルロイで構いません。かつて人族は魔族の名を略して呼んでいたものです。姓は発音が難しく、名をそのまま呼ぶことは侮辱に当たりますから」

「いえ、そうではなく……」

 アロールは首を捻った。驚きが違和感にすり替わる。初めて聞く名のはずなのに、どこか聞き覚えがあるような……。

 しかし結局、気のせいだと思い直してアロールも名乗る。聞けばニルロイは百八十歳ほどなのだという。とてもそうは見えないが、それなら人族の養い子が天寿を全うするのも頷けた。

「ユーグと出会ったのは、彼が九つの時でした。魔族の王が人族の国に宣戦し、戦いの末に討たれた、その次の年のことです」

 ニルロイは養い子との思い出を語る。

「ユーグは魔族の兵士に父を殺され、彼を連れ遠く知らない村へ逃げたところで母も倒れたそうです。魔術官だった私は、戦前に姉夫婦を謀殺され、戦後は職も故郷も失って、人族と魔族とを問わずあらゆる知己と散り散りになりました」

 つまり、彼らもまた争いのためにすべてを失ったということか。話に引きこまれ胸が熱くなるような気がした。アロールはニルロイの顔を見上げる。彼の推測を肯定するように哀しげな微笑が返ってきた。黒い石碑に、白と空色の花が揺れる。

「些細なことから面倒を見るようになって、やがて私たちは互いに支えあって生きるようになりました。当時、人族と魔族とが共に生きようとすれば、必然的にどちらの同胞も敵に回します。今思えば、彼らもまた自らを守るため必死だったのでしょう」

 熱の戻りかけた胸中が、しかし急に冷えていく。壮絶な内容でありながら、ニルロイの語りはあまりに穏やかすぎた。百八十年も生きればそうなるのかもしれない。だがそれは人族のアロールには生涯無理だ。必死に抑えずにはいられないほどではないが、今も彼の内には、様々な感情が渦巻いている。

「昔、ユーグが言っていました。人族も魔族も、誰もがするべきことをしただけだろう。しかしどこかで何かが食い違い、歪んでいったのだろう、と。私もそう思っています。誰もが必死で、必死だったが故に決定的な破局となったのがあの戦争なのでしょう」

 ここに至りアロールは確信する。ニルロイの言葉は彼の求める答えではなく、彼を救いはしない。一度はすべてを失った、出発点こそ同じだが、ニルロイの至った境地は遠すぎる。

「必死に……歩み寄ることは、できなかったのでしょうか」

「歩み寄ろうと思えば、歩み寄れたのかもしれません。歩み寄ろうにも距離が遠すぎたのかもしれません」

「分からないのですか」

 そんなことは無いだろう、と思う。六十八年前でもニルロイは生きていたはずだ。ところが彼ははっきりと頷いた。

「当時の私は魔族としては若輩者で、戦争の理由はおろか、何が起きたかすら知ることのできない立場でした。今もそうです。逃げ隠れるばかりで生きてきましたから」

 アロールは落胆を隠せない。確かに、敵対的でない魔族と会って話すのは初めてだった。だがそれだけだ。魔族だから、長く生きてきたからといって誰も知らないことを知っているわけではないのだと、そんな当たり前のことを思い知らされた。

 その様子を黙って見ていたニルロイが、ふいに呟く。

「――しかし、逃げ隠れてきたからこそ分かることもあります」

 旅の理由を聞いてきた時と同じ、わずかながらに冷たい声音。見れば青い眼が最後にもう一度アロールを見定めようとしていた。

「貴方は、秘密を守ることができますか?」

「守ります」

「魔族語は分かりますか?」

「簡単な文の読みとりと、多少の会話なら……」

 ニルロイは頷く。

「アトロートのセス・ミジャーナ、パスチェスのヒム・ルアラウィ――そして、ネヴェミスの森のフェト・ウォーガン。彼らなら貴方の問いに答えることができるかもしれません」

 聞き慣れない響きの名が三つも出てきた。慌てて荷物から紙と硬筆を探していると、ニルロイに紙を渡される。走り書きだがかろうじて、彼の挙げた名と詳しい所在の書いてあることが読みとれた。

 紙を懐に入れる。思いがけない手がかりを得たような気がした。

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