浮世、思い知る隔絶

 明るみはじめた森を抜けると、小さな村に出た。こずえに隠れた屋根の赤褐色、土壁の淡黄、揃いの色合いが見た目に暖かい。しかし早朝の澄み切った風はひどく冷たかった。木漏れ日の村の異称をもつこのカレミラ村だが、温かな木漏れ日が石畳の道を彩るのは、もっと日が高くなってからになりそうだ。

 ラントと別れ、一泊してレディノアを後にしたアロールは、街道を南へ辿って森を抜けた。野宿をすること十日、風は木々で遮られ火を焚くにも困らなかったものの、さすがにそろそろ手足が強張っていた。

「神王様、あと少しです――」

 両手を組んで祈る。空の彼方から、ほのかに温かい何かが流れてきて身に満ちる。ささやかな奇跡で寒さを和らげ、とにかく早く宿を探そうと決めた、その時だった。

 すぐ後ろで誰かが咳きこんだ。思わず振り返ると、村の者と思しき老人が苦しげに背を丸めている。アロールは足を止めた。老人はこちらに気づいていない。あまり他人と関わるべきではない、という妙な確信と、祈ったばかりの神に見られているような感覚とがせめぎあい、駆け寄ろうにも立ち去ろうにも足が重い。

「――神王様、この方の呼吸を楽にしてください」

 しかし結局アロールは彼のために祈った。自身を温めたそれと同じ天からの熱が今度は彼の内を通り抜け、彼自身の熱もいくらか奪っていく。こういうものなのか、と彼は少し後悔した。初めて他者のために奇跡を祈った彼は、他者への癒しが彼自身をむしろ害するものだということをこの時に知った。

 だがその分、他者へ与えられる癒しは大きいのかもしれない。老人の白い息は、ほんの幾度かのうちには落ち着いていた。

「ありがとうございます、神官様」

 柔和な顔つきに違わない声が、神官様、とアロールを呼ぶ。それは狭義には、神王と呼ばれる神の声を聞き、祈りを届け、奇跡を授かることができる者の総称だ。神殿で祈りの日々を送る者が多いが、町や村で暮らす者も、アロールのような旅人もいる。

「旅をしておられるのですか? 見たところずいぶん冷えているご様子。いかがでしょう、大したもてなしもできませんが」

 身なりから旅人だと判断したのだろう、老人は言って、立ち並ぶ家の一軒を指す。今度こそ関わりあいになるまいと思っていたアロールだが、体の冷えがもう限界に近かった。

 老人に連れられて彼の家へ向かう。扉が開けられると流れ出す暖気が揺らめいて見えるようで、中へ入ると体の強張りが急激にほぐれて痺れるようだ。暖炉で薪が爆ぜる音を聞きながら、アロールは勧められるまま椅子に腰を下ろす。

わしはカペロ・シンドラルと申します」

 老人はそう名乗ると、手ずから淹れた茶を回してきた。アロールも名を明かす。自身でも分かるほどの声の暗さに、カペロが眉をひそめた。

「お疲れですか? それとも何か、悩み事でも」

 アロールは反射的に首を横に振った。しかし疲れているのも、悩みがあるのも事実だ。体は解れても思考はまだ鈍い。悩みを語るのはむしろ容易そうだ。一度は語ったことだからかもしれない。

「変なことを言うと、思われるかもしれませんが……」

 人族と魔族とが争った理由を知りたい。そう聞いて、カペロは突然、深々と頭を下げる。

「これはこれは、神殿の方でしたか。いやはや、そうと気づかず失礼いたしました。なにぶん田舎の村人ですゆえ」

 嘲りでも、理解できないというふうでもない。

かしこまるのは止めてください。私は神殿で修行したことなどありません。神王様のお声を聞いたのはつい昨年、以来ずっと旅の身です」

 見たこともない態度に混乱したアロールは慌てて否定する。カペロがおそるおそる顔を上げた。ほっとしたように溜息をついて茶を啜る。

「そう聞いて安心しましたよ」

「礼儀のことでしたら、私もうといので」

 だがカペロが気にしたのは礼儀ではないらしい。

「儂の亡き祖父は魔術官でして、書物の民ベルディア、今で言う魔族の方とも交流があったのです。……失礼、魔術官という語はご存知ですかな」

「かつて魔族の王が治めていた国に置かれていた官職の一つ、ですよね。魔術師のみが就ける職で、人族と魔族とを問わず、民のためにその力を使うことが定められていた」

「左様です。お若いのによくご存知で」

「少し古書を紐解けば分かることですよ」

「ご謙遜を。今時分そうなさる方は滅多におりません」

 カペロは笑う。彼の言うことは事実だ。かつては魔族だけが使い、共存時代の末には人族にも使い手が多かったという魔術だが、今や人族は誰もその語すら口にしたがらない。そのためか、カペロはすぐに笑みを絶やし、慣れた様子で周囲に視線を走らせる。

「ともあれ祖父は生涯、書物の民ベルディアが――魔族が争いを望んだのではない、と申しておりました。このことは決して外では言うな、とも」

 ごく柔らかな声音が、祖父の言葉を繰り返す時だけは厳しさを帯びた。よほど真剣な語調だったのだろう。暖かい部屋で、しかしアロールの背筋に冷たいものが走る。魔族は争いを望まなかった。そう認めることは難しい。それなら、どうして――。

 身のうちに渦巻く激情に、アロールは必死にあらがった。相手に悟られれば話を打ち切られる。それだけは。カペロが再び話し出す気配を感じた彼は内心胸を撫で下ろし、同時にどっと疲れを感じた。

「巷間の噂では、魔族はすべてが戦乱で命を落としたのではなく、生き残った者は人里離れた地に隠れ住んでいるのだと聞きます。ある者は時に姿を隠して人族の町や村を訪れ、またある者は雪辱の機を窺っているのだ、と言う者もおりますね」

「……はい」

 重い相槌を打つのが精一杯だった。それに、さしたる驚きもない。

 するとカペロの話はようやく、初め急に畏った理由に至る。

「ですから、熱心な神官様の中には、かつて魔族と繋がっていた者を訪ね、彼らの行方を探ろうとする者もおるのです。正直なところを申しますと、儂はあなたの旅の訳を伺った時、ついにこの時が来たかと疑ってしまいました」

 今度は自然な深さで頭を下げた。その様子を見て我に返り、ややあってアロールはカペロの話を理解する。激情は影を潜め、同情心が湧いてきた。彼ですら神殿とは距離を置いている。神王は五八八年前に魔族の王と戦い人族の国を勝ちとった英雄が元だとされ、だから魔族や魔術を嫌う。少なくとも、神殿ではそう教えている。

「いえ。難しいお立場でいらっしゃること、お察しします」

 本心からそう言えた。平静を取り戻してみると、カペロがじっと見てきていると気づく。見透かされただろうか。おそるおそる視線を合わせると、しかしカペロはふっと微笑んだ。

「本当に、そのお年とは思えぬほど偏見の無い方だ。見たところロギエラ王国のご出身のようですが……」

 確かに、偏見ではない。アロールは遠く西方の故郷を、家に畑に降り積もった雪を――炎にあぶられ融ける前の雪を思う。

「私は、ロギエラはロギエラでも、辺境にあった村の出身です。都との関わりは、畑が雪に閉ざされる冬に、若い者が出稼ぎに出る程度でしかありません。ですから共存時代の気風がいまだ残っています。私に偏見が薄いとすれば、そのためでしょう」

 半ば真実で、半ば虚構だった。

「……あなたになら、お話ししてもよろしいでしょう」

 カペロは重々しく頷くとまた茶を口に含んだ。気づかれなかった、とアロールは思う。初めて手をつけた茶は黒々とした色で、複雑な芳香をもちほのかに渋い。

「儂の祖父はずいぶん前に世を去りました。二十と……ええ、二十七年前のことです。ところがその前年、魔術官だった頃の同僚だったという魔族の方が、身を隠して訪ねて来られました」

 落ち着いて聞いても、やはり信じがたい話だ。人族に復讐しようとしない魔族がいて、しかも危険を冒してまで会おうとするほど、人族に心を寄せるなどとは。

 しかしカペロはごく自然に、当然のことのように語る。

「どうにも聞き慣れない響きのお名前でしたので、記憶が確かではありませんが……ノーリシュ、いやノール……? とにかく、そのように聞こえる名前の方でした。お姿の方はよく覚えておりますよ。枯草色の髪の、背の高い方で。もちろん、よく言われるとおりの捻れた角もありました」

 魔族には捻れた角がある。今の時代の人族ですら誰もが知っていることだ。聞き慣れない響きの名前は、独特な発音の姓だろう。

「けれども、祖父がよく話して聞かせてくれたからでしょう、儂は角の方にはあまり驚きませんで、その見た目のお年に驚いたものです。祖父の同僚だったと聞いていたので、儂は勝手に、祖父と同じ年頃だろうと思っておったのですが……ええ、四十は若く見えましたよ。それでいて実のお年は祖父より九十も上だという」

「魔族は三百年も生きるといいますから。しかも、長いのは生涯の最も良い時だと聞きます」

 アロールが書物で得た知識を語ると、カペロは笑って頷いた。

「子は育つ、老いたるは衰える、されど若き者は変わらず……共存時代にはそのような言い回しがあったそうですよ。この感じばかりは、共に暮らしてみなければ分からぬことでしょう」

 長らく話し相手のいない話題だからだろう、嬉しそうに話して、ふと気づいて口をつぐむ。

「話が逸れてしまいました。申し訳ない、年寄りの悪い癖です」

 そうは言いながらも、やはり彼は幸せそうだ。

「しかして、祖父とお客とは旧交を温めておりました。儂も聞くとはなしに聞いておったのですが、実に四十年ぶりの再会とのこと、初めのうちは大変に幸せそうに話していましたよ」

「……初めのうちだけ、ですか?」

 意外な言葉だった。だが聞き違いではないらしい。

「ええ。程なくして、お互いどうにも浮かない顔になりました。聞いておりますと話が噛み合わないようなのです。お客がまるで昨日のことのように話すことを祖父は思い出せず、祖父が話すことはお客に馴染みがない。一事が万事その調子でして……」

 カペロはそこで、気を落ち着けるように深く息をつく。

「お客が帰られてから祖父が申したことには、その方は時の流れに取り残されたかのようだったそうです。……魔術官という職が無くなってからも、祖父はリーヴィス――今はレディノアと呼ばれる町の官職を頂いておりました。けれどもお客はそうではありません。ひたすらに身を隠し、おそらくは変化の無い日々を耐え忍んでいたのでしょう」

「それは……あまりにも」

 アロールは途中で黙ってしまう。――あまりにも、酷ではないか。

「ええ、儂も同じように思いましたよ。再会したばかりに、決して埋められない隔たりを思い知らされたなどと……」

 話を終えたカペロは彼の分の茶器を片づける。アロールは急いで残りの茶を飲み干した。すっかり温くなった茶は香りも薄れ、渋味ばかりが際立っていたが、それがかえって気分に合っていた。

 空になった器を下げながら、カペロはまた、穏やかに語る。

「祖父は誰にでも親切で、いつも微笑みを絶やさない人でした。そんな祖父が、あの時ばかりははっきりと哀しそうにしていた。儂はその顔をよく覚えております」

 そうしてふいにアロールを振り返った。

「あなたは初め、なぜ人族と魔族は争ったのか、と仰った。官吏でもない儂には、事情は分かりかねますが……あの時の祖父を思えば、互いに望まぬ争いだったろうと思うのです」

 アロールはその言葉を、今度は、すんなりと受け入れた。

 視界の隅で音を立て燃えていた暖炉の薪が、火の粉を吹いて崩れる。

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