メヴィスの黄昏

白沢悠

時流、共存の記憶

 風が出てきた。冷えきった風が懐に潜りこみ胸を切りつける。旅人は緩慢な動きで外套を掻き寄せた。その手の感覚も凍えて鈍い。彼の心身を凍えさせるのは、寒さばかりではなかった。

 旅人の影が行く手に長く伸びる。冬の夕暮れ、沈んでいく陽の朱が一帯を染めていた。炎のようだ、と彼は思う。冷たい炎。かつての平穏とその証を焼き尽くして、後には何も残さない。遠くに見える町も、彼も、今なお焼かれている。

 大樹の町レディノアに着く頃、空の炎は尽きていた。薄暗い黄昏時、木々と家々の間を縫って行き交う人々は影しか見えない。その形は一様に丸い頭をしていた。かつてどの町にも見られた角ある「隣人」の姿は、しかし今はどこにも無い。

 遠くから町の灯が点きはじめる。松明の橙とは違う、魔力による白い輝きは、かつての平穏の名残だった。町の奥から順に灯して歩いているのだろう、点々と白い灯を辿る軌跡は、旅人のいる町外れへと向かって来る。

 また風が吹いた。しかし旅人は、胸の痛みを忘れた。道端に明かりを灯して歩く人影は長い髪を束ねている。夕映えにそれと分かる、星明かりのような淡い金色に、旅人は見覚えがあった。

 長い髪の人影は傍らの灯に触れる。魔力を流しこまれて灯る白は、灼けて融けることなく残った故郷の雪を思わせた。雪に照り返す陽光にも似た白い光のもと、淡い金色の髪はいっそう輝いて見える。間違いなく、旅人の記憶とまったく同じ色合いだ。

 ふいに人影は振り返った。色の薄い肌に、優美に整った顔立ち。細い喉がかすかに動くのを見て、旅人は、あの冷静で丁寧な語調を、涼やかに澄んだ女声を予期する。

「――どうかされましたか?」

 抑揚は確かに冷静で丁寧で、しかしその声は男性のものだった。旅人は暗闇に滑り落ちていくような心持ちがした。あるいは、ようやく見つけた灯火が消えていくような。

「いえ……すみません、人違いだったようです」

「そうですか」

 男性はあまり気にしていないようだ。よく見れば、男性は記憶の中の女性と同じ年頃に見える。本人であればそれはありえない。旅人の記憶はもう十年は前のものだからだ。

 次の灯を点けに行こうとしかけた男性は、あまりにもずっと見られていたせいだろう、途中で思いとどまり旅人を振り返って問う。

「……お名前を訊いても良いでしょうか?」

「アロールです。アロール・メヴィス」

 旅人は慌てて名乗った。男性は少し何か考えて、それから居住まいを正してアロールを見る。考え事を諦めたような表情をしていた。

「私はラント・ルヴァイースといいます。アロールさん、ですか。覚えている限りでは、聞いたことのない名前です」

 ラントと名乗った男性は、彼の方でもアロールに覚えが無いか記憶を探っていたらしい。不躾ぶしつけにじろじろと眺めてしまったというのに、申し訳なくなるくらい親切だ。

「もしかすると、貴方とお会いしたのは私の妹かもしれません。私も妹も母親似で、幼い頃からよく間違われていたのですよ。しかも妹は私と違ってあちらこちらを旅しているので、この町の外で貴方と会っていたということもありえます」

 アロールの心が揺らぐ。しかし女性は十年前に三十歳ほどだった、と思う。当時十七歳だった彼が女性の歳を正しく判断できなかったのだとしても、さすがに妹ではありえないだろう。

 ラントは妹の話を続ける。

「三星期に一度は私を訪ねてきますよ。探し歩いてすれ違うより、しばらくこの町に逗留されてはいかがですか?」

 一星期は三十二日、三星期は九十六日か九十七日だ。直感は待つべきだといい、思考は諦めろと告げていた。結局アロールは思考に従うことにする。今の彼には一日すら惜しい。

「急ぐので……すみません」

「それほどに急ぐだけの理由が、貴方の旅にはあるのですね」

 散々に振り回されて、それでもラントに気を悪くした様子はない。ところが彼はアロールと別れて立ち去ろうともしない。

「もしお嫌でなければ、旅の理由を聞かせていただけませんか?」

 胸を突かれたような感じがした。しばらく忘れていた胸の痛みが思い出され、黄昏の冷たさが思考を凍らせる。ラントは真っ直ぐにアロールを見据えていた。わずかな揺らぎもないその姿勢はやはり、どうしようもなく記憶を刺激する。

「何か、お力になれることがあるかもしれません」

 静かな町外れに、ラントの声が凛と響く。薄暗がりの中、冴え冴えと白い光を受けて、暗い風に翻る淡金が灯火を思わせる。互いに直視してようやく見えた眼の鮮紅に、アロールはようやく心を決めた。

「ご存知かもしれませんが」

 始めたばかりの旅だ。理由を話したことはまだ無い。彼になら話せるとは思う、しかしどこから話せば良いのだろうか。迷った末の語り出しは、ずいぶんと締まらないものになった。

「かつて、この地には魔族と呼ばれる者たちがいました。彼らは私たち人族と一万年余の長きにわたり共に栄えてきましたが……五八八年前に多くの人族が武力を以て立ち人族の国を建て、そして六十八年前、魔族の王が人族の国に宣戦しました。魔族の王は混乱のさなか人族の若者に討たれ、魔族は人族に追われ姿を消しました……」

 話しだせば言葉はついてきた。そう、すべては終わった後だ。角なき人族と角ある魔族、寿命すら違うふたつの種族の共存共栄も今は昔。アロールが生まれ育ったのは、冷たい炎に焼き尽くされわずかな名残しかない黄昏の時代だ。

「ええ、知っていますよ」

 いきなり歴史を語られて、しかしラントは動じていない。アロールは勢いに任せて核心に切りこむ。

「では――彼らと私たちがなぜ争ったのか、貴方はご存知ですか?」

 ラントの表情は変わらない。しかしその鮮紅の双眸がわずかに揺れた。ここに至ってアロールは理解する。目の前の相手は確かに冷静だ。ただそれと同時に、表情を動かさないことにも慣れている。

「貴方は、その理由を知るために旅をしているのですか」

 抑揚は問いではなく確認だった。ラントはアロールの迷いを正確に見てとったらしい。アロールは首肯する。

「なぜそのような……」

 ラントの視線が、今度は言葉を探して宙を駆けた。

「そのような、誰も気に留めないようなことを、知りたいと思われたのですか?」

 誰も気に留めない、と彼は言う。その通りだとアロールは思う。彼からすれば、なぜ誰も関心を持たないのか、そちらの方が不思議だった。しかし現にそうなのだ。彼の耐えがたい渇きのような切望をよそに、知人の誰に尋ねてもまともな答えは返ってこなかった。それどころか考えても仕方ないことに気を取られていると嘲笑われもした。だがラントは違うようだ。彼は純粋に理解できないというふうだ。

 アロールもまた慎重に言葉を選ぶ。

「私はその争いのためにすべてを失いました。だからせめて理由を知りたいのです。いくらかの慰めを得るために」

 それだけのことを話すのに、強い意思を要した。胸中に渦巻く様々な感情は、ひとつ言葉を間違えたが最後、彼を捕らえてしまいそうに思える。喉元まで迫り上がった激情を呑み下したアロールは代わりに苦しげにきこんだ。冷たい風の音に混じり、ひゅう、と頼りない笛のような音がする。

「すみません、これ以上は……」

 呼吸を落ち着けて話を止める。そうでなくとも彼はあまり詳しい事情を話したくなかった。彼が知りたいのは真実だ。同情によるもっともらしい理由は聞きたくない。

「話したくなければ、無理にとは言いません」

 ラントは穏やかに告げる。視線を逸らされて内心は窺えない。彼はアロールが歩いてきた町の外の方、残照も消えつつある木々の間の暗い道を見ている。底冷えのする風が淡金の髪をあおった。すると唐突に、冷淡な声が耳を打つ。

「時代の流れ、としか言いようがないのかもしれません」

 紛れもなくラントの声だ。

「生物はおおむね、同等のものとしか争いません。野の獣があえて羽虫を叩き落とそうとすることは無いでしょう」

 彼は少し前に自ら点けた魔術の灯を見上げていた。人を安心させる穏やかさは影を潜め、はっとするような冷たさが前面に出ている。世界を俯瞰しているとすら見える冷ややかな視線。

「かつての人族と魔族もそうだったのでしょう。各地に残る水道や街灯は、共存時代の初め、魔族が魔術で築いたものだとされています。遥か昔の魔族はそれだけの力を持っていたのです」

 アロールは黙りこむ。多くの人族は、遥か昔には魔族に導かれ、今も彼らの残した物に暮らしを支えられていることから、目を背けて生きている。ところがラントはあっさりとその事実を言ってのけた。それだけでなく、人族は魔族に劣っていた、とすら。

 そして、彼の冷徹な目は魔族にも等しく向かう。

「ですがそうした建造物に六百年以内のものはありません。他方、人族は自ら国を治めるほどになりました。力を増した人族と、衰えた魔族と、両者は一万年を経てようやく『同等』になったのではありませんか」

「……なるほど」

 やっとのことで相槌を打つ。奇妙な迫力のある語りは、鋭利な刃物のように抵抗なくアロールの腑に落ちた。確かに根拠は薄い、だがそう指摘すれば即座にいくらでも根拠を挙げてきそうだ。

 ラントはいつの間にか視線をアロールに戻していた。その眼の鮮紅を認めた瞬間、冷たい色彩が消え失せる。

「ただの極論ですよ。何の役にも立ちません」

 わずかにうつむき、顔を上げる。それだけのことで再びあの穏やかな調子が戻っていた。先程までの冷淡な語りを錯覚とすら思わせるほど温かに、ごく親切な微笑みで、ラントは町の奥を示す。

「そういえば、町の反対側にある果樹園を見ましたか? 今は花も実もありませんが、時期が良ければ白い花や紅い実の美しい、紅玉果マラカの果樹園です。そこはアロ・カデンテ果樹園と呼ばれています」

 果樹園の名は、人族のアロールには独特な発音に聞こえる。

「魔族の姓ですか」

 実際まともに聞いたことは無い。アロールはただ知識として、魔族の姓は独特な発音をするものだと知っているだけだった。

 ラントは微笑を崩すことなくうなずく。

「そうです。人族の学者エニルノの助手として尽力し、人族独立の戦火から逃れてこの地へ来た魔族の姓です。他国の民からずいぶん変えろと言われていますが、その予定はありません」

 あまりにも平然と彼は言う。

「それどころか、この町の名――レディノアは、つい近年まで存命だった魔族の名に由来します。その魔族、レーディノン・デル・メーヴェは、魔族の国の官吏でありながら人族の妻さえめとり、先の戦争の折には彼女を通じて人族側に降伏を申し出ました。戦後は彼を慕う魔族を抑えるため、自ら虜囚同然の身としてこの町へ残り、しかし隠然と町を支えたといいます」

 魔族の盛衰を語った声が、彼の町に残る共存の記憶を語る。アロールはラントを、その眼の鮮紅の輝きを見つめた。

「表立っては言えませんが、私たちは今も彼を尊敬しています。個と個であれば、まだ分かりあうことはできると、私は思います」

 黄昏の時代にあって、消えゆく灯火のように凛とした光だった。

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