願いをさえずる鳥のうた〈後半〉

 裏の通りに着くとすぐサイレンが聞こえ始め、白い救急車の車体が見えてきた。


 大きな体格の救急隊の男性が三人救急車から出て来た。


「裏の戸は鍵がかかっていないぞ」

という声と共に救急隊は家の中に入って行った。私もどの部屋かを教えるために一緒に入った。そして五分後にはあっという間に担架に乗せられたシルバーグレイの髪の老婦人と一緒に私は救急車の中に乗り込んだ。


 救急車に乗る前、近所の見た事のある中年の男の人から、「風花ちゃんが呼んでくれたの? 桜井さんは大丈夫そうかい?」と声をかけられた。

 私は「私が救急車呼びました。大丈夫かは分からないんです」と答えるのが精一杯だった。


 太陽はすでに西空を降下して、街はほんのり山吹色がかってきていた。

 

 救急車は市立病院に、裏の専用入口から入って行った。老婦人が救急外来に運ばれていった後、私はただ待合室で他の患者の家族と一緒に待っているしかなかった。

 

 病院の職員にいくつかの質問を受け、一つ一つ答えていた。今まであまり他人と喋っていなくて、自分がすごく変わっているのではないかと気にしていた割に、すんなり言葉は出て、そして思うほど誰も自分を特別視していない。それもそのはずで、そこから見える待合室も中庭も様々な人でいっぱいだ。誰が他の人の事なんて気にするだろう。


 そのうち救急外来スタッフという大きな名札を付けたショートヘアの看護師がやって来て、私を中年夫婦に紹介した。


「こちらが救急車を呼んでくれた浦川風花さん」


 そして私の方に向かって言った。


「こちらが桜井さんの息子さん夫婦よ」


 今度は私達全員に向かって言った。

「熱中症だけど幸い重症でなく、意識も取り戻しました。五月なのにと思うかもしれませんが、意外と多いんですよ。まだ冷房は早いと思っている高齢の方に特に」そして続けて言った。「発見が遅くならなくて良かったって先生が言ってました」


 二人は私にお辞儀すると男性の方が言った。「今回の事、ありがとう。町内会長さんが電話で知らせてくれたんだよ」

 私は救急車に乗る時私に声をかけた中年の男性が町内会長さんだったんだと思い出した。


 二人が救急外来の中に入って行くと、私はポツンと一人残されて、なぜかクスッと笑えてきた。このまま帰ろうか。でもこの大きな病院の中にまでやって来た、波乱万丈の一日が不思議過ぎてすぐに帰るのがもったいないような気さえしていた。その時、再び救急外来から出て来た桜井夫妻が私の方に来た。老婦人の息子は言った。


「今日は本当にありがとう。点滴だけで元気になるそうですが、念のため今夜一晩だけ入院する事になりました。母が貴女あなたに話があるそうなので、良ければ十分後に七〇一号室に来てもらえますか?」


 私はお礼だろうなとは思っていたけど少しドキドキした。


 十分後の七〇一号室には窓からほんのり苺色に染まった夕陽が射し込んでいた。そこは個室で、入り口の札には「桜井美那子」と書かれてあった。


 ――「美那子さん」だったのか――



 ベッドに寝かされた病院の寝巻き姿の美那子さんは私に向かって微笑んだ。想像通りの上品で優雅な老婦人だった。


「こんにちは。こちらに座って下さる?」


「こんにちは」


 私はすすめられたベッドのすぐ横のスツールに座った。


「風花ちゃんというのね。貴女あなたが救急車を呼んで私を助けてくれたんですってね?」


「ハイ」


「本当に今日はありがとう。ところでどうして私が倒れている事が分かったの?」


「小鳥、カナリアですかね? カナリアがすごく鳴きながら飛び回っているから気になって、ベランダから見たんです」


「やっぱりピッピが…」


「ピッピっていうんですね。やっぱりって…。ピッピが鳴いた事、知っていたんですか?」


「私ね、ピッピのカゴにずっとカギをかけていなかったの。だってそうすればもし私に何かあった時、ピッピが他の誰かに知らせてくれるでしょう?」


「じゃあピッピはウチの家に知らせに来たんですかね?」


「そうね。風花ちゃん、貴女あなたに、じゃないかしら」


「え? 私に? なんでですか? それはないと思うんですけど」


「私ね、毎日、風花ちゃんのミシンの音聞いていたのよ。それにラジオの音も」


「わぁ、そんなに音が響いてるなんて全然知りませんでした。ゴメンナサイ。うるさかったですよね?」


「いいえ、ちっとも。私は緑内障という病気で眼がほとんど見えないのよ」


「眼が見えないんですか?」


「ええ。今の家に来た初めの頃はね、私、好きなクラシック音楽や映画音楽をスピーカーで聴いていたのだけど、だんだん貴女の入れているラジオの音やミシンの音に耳を傾けるのが楽しくなってきたの。何を縫ってるのかしらって」


「バイトのカー用品なんで、あまり大した事ないです。同じようなのばっかり大量に縫ってるんですよ」


「そんな事ないと思うわ。いつも音が弾んでるんですもの。ピッピも一大事と思って貴女のいる近くまで行ったのでしょうね」


「どうでしょう? 私が見たのは、ピッピが血相を変えたようにバタバタ羽ばたいてピィーピィー鳴き続けている姿だけです。私に知らせようとしたのかギモンですけど」


「知らせようとしたのよ。ね、知ってる? カナリアって外の世界では生きられないの。環境に敏感で臆病な生き物なのよ。なのに今回は大冒険をした。何かを知らせるためとしか考えられないじゃない」


 外の世界では生きられない…か。ピッピも私も大冒険の半日だったよね。


 美那子さんはさらに続けた。


「ねえ、風花ちゃんに一つお願いがあるの」


「え、何ですか?」


「実は家に昔、眼が見えていた頃買った洋裁の月刊さ誌が三年分あるの。前からミシンを扱える貴女なら活用できるんじゃないかと思っていたのよ。もらってくれるかしら?」


「それは逆に私なんかがもらってもいいものなんですか?」


「ずっと渡したかったんだけど、きっかけがなくて。こんな時にごめんなさいね」


 私はその頃服なんてほとんど縫うことはなかったけど、服のデザインを見るのが好きなので、田舎のおばあちゃんに頼んで通販のカタログを取っておいてもらっていた。おばあちゃんの家に届く通販のカタログはどれも年配の人向けだったけど、それでも色々な服を着た人達の写真を見るのが楽しかった。以前、三ヶ月だけ通った高校でも図書館で洋裁の専門誌を見るのが好きだった。私にとっては70年代や80年代のファッションも全然流行遅れではなく、普通に新鮮で魅力的に見える。

 なので美那子さんの雑誌は、別に気を使っているわけでも、社交辞令でもなく、本当に楽しみでワクワクした。


「ありがとうございます。大切にします」


「良かった。じゃあ退院したら連絡するので来てね。ピッピと待ってるわ」


 外に出るとすでに空はすみれ色に変わっていた。夏の始まりを感じさせるような空の炭酸水みたいな色。私は病院の最寄りのバス停からまるで普通に面会に来た人のようにバスに乗った。

 バスの窓から見える家々の灯り、自転車で部活動から帰る高校生達の姿、バスの中で寄り添う老夫婦。今まで遠かったもの全てが実は自分に近い場所にあった事を初めて知った気がした。


 家に帰ると、両親はまだ帰っていなくて、書き置きのメモはダイニングテーブルの上に残ったまま。

 縁側の私の部屋の蛍光灯の灯りを点けると、つい何時間か前にいたはずの場所なのに、少し違って見えて、何年も留守にしていたような懐かしい感じがした。


 帰宅した両親は、私からの説明の前に家の前で町内会長さんから今日の出来事について聞いていた。それに私の説明を加え、事の全容が分かると、娘の小さな武勇伝に驚いた様子だった。

 ママは「なんだ。やればできるんじゃない」と冷めた感じで、でも町内会で面目躍如といった事を話していた。パパは「元々、風花は賢いんだ」と一人、納得していた。


 後日談としては、退院した美那子さんからの誘いがあり、私が裏の家に行った際案内された応接間はあの日、美那子さんが倒れていた部屋だった事。アンティークで豪華な本棚にテーブルにソファーがあるその応接間の中では、美那子さんは眼がほとんど見えていない事を全く感じさせなかった事。そこで私達とそしてピッピが過ごした時間はほんの僅かな時間だったかもしれないけど忘れられない初夏の午後のひとときだった事。また、この時もらった雑誌類が後々私にインスピレーションを与えてくれ、宝物になった曰く付きの訪問であった事。そしてそれは結花から「何か最近私置いてけぼりにされてない?」と言いがかりをつけられた一件でもあった事等。



 少しだけ驚いたのは次にバイト先に仕事の納品と発注に行った際だった。


「はい、これです」


「はい、じゃ次はこっちで」

 と社長が言った後、ベランダで木の枝があたってケガした私の頬を見てこうつけ加えた。

「顔、ケガしたのか?」


 ――なんだ、顔、見てたんだ――


 私は妙に感心してしまった。




 その事件はそれで終わって、ただその余波がわずかずつ自分の内面に作用していったのだと思う。一年以内に私は、高校を卒業していなくても入れるデザインの専門学校に入り、その後で受けた高卒認定試験にも合格した。


 あの五月の日から7年経ち、今では服飾メーカーと専属契約し、いっぱしのデザイナーとして何とか活躍の場を持てるようになった。

 あれだけ家に引きこもっていた私がハイヒールでカツカツと舗道を闊歩し、新商品のデザインについてミーティングで議論を交わしている。ファッションの仕事に携わる者として、季節感をいつも先取りするようになった。


 唯一、引きこもり時代から共通の習慣は、早朝の外国語講座を聞く事。ただし今はバックグラウンドミュージックとして聞き流すだけではなく、本当に微々たる感じで語学を勉強するようになった。


「シカゴ美術館は何時から開館しますか?」とか。


「その湖でボートに乗るつもりです」とか。


「イチゴのタルトの作り方を習いました」とか。



 時々ハイヒールに疲れ、地下鉄の駅に向かう足どりが重くなる事がある。そんな時にはあと三メートル、あと二メートルと自分を励ましながら、ふっと自分の行動半径が狭かった時代を思い出す。あの頃の自分の一日の行動半径って、ひょっとして今そこに見えてる駅までの距離もなかったのではないか、とか。

 数メートルの距離ですら跳ぶのに勇気がいる、柔らかく壊れやすいちっぽけな生き物みたいだった時代。でも今もちょっと続いている。


 今でも鳥のさえずりが聞こえてきて、檸檬色の小さな羽根が一枚、上から舞い降りてくるような錯覚をおこす事がある。それは願いをさえずる鳥のうた。

 だから敷居の上の羽根をまだ探し続けている。



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願いをさえずる鳥のうた/壊れやすいちっぽけな生き物 秋色 @autumn-hue

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