プリンは私を裏切らない

コトノハーモニー

プリンは私を裏切らない



 これと言って得意なものなんてない。

 容姿は平凡、仕事だって言われたことはこなせるが、抜きん出た実力もなければ、有能な社員だと言われるには程遠い。

 目の前の仕事を必死にこなして気がつけば、足立沙保里はアラサーというカテゴリに足を踏み入れていた。

「では、この内容で課長に報告するということでいいですか」

 先輩社員の磯島の声にハッと我に返った。

 いけない。ぼんやりとしていた。

 夕方から始まった打ち合わせは、すでに二時間が経過していた。想定外のシステムエラーからトラブルが発生、データの補正や顧客への影響についてチームのメンバーを集めて検討していたのだ。

「うん、それはいいんだけど」

 チームのリーダーである長岡が顎に手をやって考え込む。

 結論が出たことで解散の空気になっていたが、メンバーが思わず黙り込んだ。これはよくない傾向だ。

「さっきの話で終わりましたよ」

 磯島が先回りするようにそう告げると、長岡が「でもね、今回の件はさ、そもそも他のチームで類似の事例はなかったのかな」と思いつきを口にした。

 類似の事例まで手を回していないのは確かだ。

 チームで処理する案件として、他のチームの事例にまで目を通せていない。それは全員がわかっていたことなので、その場にいた誰もが目を伏せる。

「決めたことは報告するけど、それと別で類似事例を洗い出して確認してほしいな」

 ほしい、と言いつつ、それは明確な指示でもある。

 誰がやるのかと腹の探り合いとなったが、長岡の視線がピタリと沙保里の前で止まった。

「じゃあ、足立さん。頼んでもいい?」

「あ、はい」

 やむなくそう答える。

 確かに沙保里の仕事はチームのサポートが多い。磯島や他のメンバー程仕切る立場にないと言う方が正しい。

(とはいえ……)

 トイレの化粧台の前で、深々と溜息をついた。

 勿論、今日はこのまま帰れない。類似事例を確認するのであれば、おそらく今日中に関係部署に依頼を出さなければ間に合わない。課長への報告を考えると時間に猶予はない。

「はぁ、また残業か」

 わかっていたことを口にして、また気分が沈んだ。

 コンビニでコーヒーでも買ってこよう。そう決めてエレベーターに向かうと、定時を迎えて家路を急ぐ人々と乗り合わせる事になった。何だか仕事に忙殺される自分が滑稽に思えてくる。

 誰かに褒められる訳でもなく、誰かに認められることもない。当たり前だとされることを必死の思いで毎日こなしている。それだって、社会人なんだから当たり前だという言葉で片付けられる。

 オフィスのビルに隣接したコンビニで、自席で簡単につまめるサンドイッチを手に取り、コーヒーを注文する。いつもと同じようにカップをセットして、立ち上る香りに目を細める。缶コーヒーも悪くないが、やはり疲れた神経にはこの香りが堪らない。仕事で荒んだ気持ちを和らげてくれるのだ。

「足立じゃん。今日残業?」

 背後から声を掛けられて振り向くと、同期の辻綾子がひらひらと手を振っていた。その恰好からしてもう帰るようだ。

 沙保里は大げさに溜息をついて肩を落とした。

「そう、今日は終電ですよ」

「なんでー? また長岡さんの気まぐれ? あの人も好きだねえ、仕事が。たまには早く帰ればいいのに」

 別の業務を担当しているが、辻も同じフロアだ。

 長岡と打ち合わせしている姿を見られているのだろう。長岡はリーダーとして悪くないが、如何せん、仕事が好きだ。

(……いや、残業が好きというか)

 納得のいくまでやろう、というスタンスのため、必然的にチームは残業が積み重なっていくことが多い。沙保里がチームに加わったのは一年前だが、その頃からこんな調子だ。絶対に嫌だ、と思っていたチームに配属された時の絶望は昨日のことのようにありありと思い出せる。

「……力がつくと思えば」

「力なんてつかないでしょ、すでに顔が死んでるよ」

 ずけずけと真実を言い放たれて、がっくりと項垂れる。

 今の時代、残業をすればするほど評価されるという昭和の価値観ではない。やるからには成果も求められる。要は、残業をしたところで「よく頑張ってる」と評価する人間もいれば、「そんなに時間をかける程の仕事か」と評価を下げる人間もいる。

「キリのいいところで帰るよ。見たいテレビがあるから、どうにかその時間には間に合いたい」

「それがいいよ。はい、夜食に追加して」

 袋をがさごそとした辻が沙保里のビニール袋に突っ込んだ。今日発売日らしく「昔ながらの焼きプリン」とずらりと棚を占拠していた。さっき沙保里も見たばかりである。子どもの頃はプリンが好きで、よく食べていたものだ。

 でも……、と困惑して自分の袋を覗き込む。大体プリンなんて食べていたら「何を悠長なことをしている」と眉を顰められそうだ。

 ただでさえ異性という点で、沙保里は男性陣から一歩距離を取られている。自席でお菓子を食べたり、可愛いグッズを持ち込んだり、女子らしいことはなるべく敬遠してしまう。

 残業中のデザートなんてまさにそれだ。

「プリンくらい五分で食べちゃえば何も言われないって」

 沙保里の不安を見透かしたように辻が断言した。

「……そうかな。うん、ありがと」

「足立も私もお局みたいなもんなんだから、気にしないで好きにやろうよ。誰に遠慮しても意味ないよ。この会社、いい人いないし」

「まあ、それは言えてる」

 歯に衣着せぬ物言いは辻のいいところだ。

 時には敵も作るだろうが、裏表を感じさせないという意味では気兼ねなく本音を言い合えるタイプだった。

「冬におでんを食べられるくらいになりたいな」

「あれはね、例外だよ。あそこまで図太くは私もなりたくない」

 就業時間に自席でおでんを食べ始めて話題になった新人女子を思い出して、二人でけらけらと笑い合った。



 自席に戻ると、机の上に置いたままになった資料をまずは端に寄せる。

 すでに打合せの内容が頭の片隅からぽろぽろと零れ落ちていく気がするが、今はとにかく休憩だ。

「はあ……」

 口にしたコーヒーの味を噛みしめながら、パソコンの陰に隠れるようにしてプリンを開ける。コンビニのスイーツが当たり前になった今、逆に子どもの頃に好きでよく食べたプリンすら随分と久しぶりに感じる。

(うう、この甘さがたまらん……)

 この味だよね。スプーンですくいあげて、一口含んで目を瞠る。

 卵のほんのりした風味とカラメルソースの香ばしい甘味に、うっとりとしながら舌鼓を打つ。子どもの頃の感激した気持ちが蘇ってくる。

「あ、プリン食べてる」

 斜め向かいの席である磯島が目ざとく気づいた。

 生真面目な磯島からすれば、注意してやろう、という気持ちになってもおかしくない。思わず、すいません、と小さな声で謝って沙保里はそそくさと顔を伏せる。

(早く食べきっちゃおう)

 いくら図太く振舞おうとしても、同僚に冷たい態度を取られたり、からかわれたら気にする性質だ。

 なかなか辻のように思ったことを口にすることも難しい。

 大きくすくった一口を口にしようとすると、意外な言葉が耳に飛び込んできた。

「オレも食おうかな、プリン」

 甘いものなんて口にしなさそうな渋面の磯島が頬杖をついている。まじまじと見つめてしまった。それに応じるように、他のメンバーも同調する。

「疲れた時は甘いもの食べたくなりますよね」

「矢本さん、健康診断に響きますよ」

「何か意外だな。足立さんも甘いもの食べるんだね。いつもコーヒーとか、お菓子食べてるイメージなかった」

 あ、はい、と沙保里は頷く。

「ああ見えて、長岡さんはパフェとか食べるタイプだから」

「打合せ終わって、よし!って喫茶店で注文した時ズッコケたよね」

 長岡と長い付き合いの磯島と矢本が笑って話す。

「へえ、初めて聞きました」

 一年間一緒にいたのに、そんな話をしたことがない。

 仕事の話以外もしていたはずだが、大体男性陣の話はスポーツや家庭の話が多く、聞き手に回るだけだった。

 誰も自分の話に興味なんてないだろう、と線引きをしていたのは沙保里自身だが、それは自分もまた興味を持とうとしていなかったとも言える。

 そんな当たり前のことに改めて気づいた。

「もし甘いもの食べたかったら、オレの引き出しにお菓子入ってるから。残業してる時でも好きな時に取って」

 矢本がガラガラと引き出しを開ける。中にはスナック菓子や個包装のチョコレートがぎっしりと入っていた。

 沙保里の席からは背後になるので気づかなかった。

「あ、長岡さん一服から戻ってきた」

 コンビニの袋を持っているあたり、沙保里とは入れ違いでコンビニに寄ってきたのだろう。磯島が声をかける。

「長岡さん、何買ったんすか」

「え、プリンだけど」

 その答えにチームがどっと沸いた。みんなに笑われて長岡は不思議そうにしている。

「オレもプリン買ってこようっと」

「僕もお願いします」

 他のメンバーも手を挙げて、ええー、と磯島が眉を顰めた。だが、こんな和気藹々とした空気も悪くない。

 大きくすくったプリンをぺろりと平らげる。

「さて、やりますか」

 今日はあと一時間で帰ることにしよう、と沙保里は決めた。

 どうしても見たいテレビがあって、と素直にそう言って。それでみんなに怒られても呆れられても、きっと口にしたことを後悔しない。

(……たまにはいいよね)


 この世の中、たかがプリン一つでこんなに変わるものなのだ。



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