幸運の女神

棗颯介

幸運の女神

 今日は吉日だ。


 冬の朝の満員電車に揺られながら、今日一日の幸運を密かに確信する。そう自分に思わせてくれるものが目の前にあった。否、スマホを弄っていた。


 幸運の女神。彼女のことを勝手にそう呼んでいた。


 この電車に乗るようになって数か月になるが、彼女とは折に触れて同じ車両に乗り合わせることが多い。毎日同じ時間に乗っているわけではないらしく、自分もまた毎日決まった時間に乗っているわけではないためお目にかかれるのはせいぜい週に1,2回といったところだろうか。


 何度か同じ車両に乗り合わせて彼女の存在を認知するうち、どうにも彼女のことが気になるようになった。別に絵画の肖像画のような美しさを持っているわけでもなければ女優のような愛らしさがあるわけでもない。俗な表現をすればクラスに1人はいるようなタイプ、というものだろうか。ただ、どうにも彼女が視界に入る度にそちらを意識してしまう自分がいた。名前も知らない、年齢も知らない、声も聞いたことのない女性に。


 朝の電車で彼女と乗り合わせることがしばらく続くうち、あることに気付いた。彼女を見かける日に限って、決まって良いことが起こる。いや、絶対に良いことが起こるというわけではないが、少なくとも悪いことは起こらない。その日一日を、平穏かつ心穏やかに過ごすことができた。


 自分が彼女を幸運の女神と呼ぶようになったのもその頃からだ。肩に届くまで程よく伸ばした黒い艶やかな髪も、冬の寒さのせいか僅かに紅潮している白い肌も、手に持っている小さな世界に釘付けになっている瞳も、すべてが神秘的に見える。


 世の中には良い運気を持つ人種とそうでない人種がいるというが、彼女は前者なのだろうか。


 そんなことを考えていると、車窓に流れる景色が女神との別れが近づいていることを告げていた。彼女はいつも自分が降りる駅の一つ手前で降りている。距離的にそう離れてはいないため彼女と同じ駅で降りて歩いて行くこともできなくはないが、そこまですると我ながらさすがに気持ちが悪い。


 彼女と同じ空間にいられるのはほんの数分だ。まぁ、いつも幸運を授けてくれているのだから文句など言えるはずもない。


 電車のアナウンスが彼女の降車駅の名をしきりに連呼する。やがて電車は緩やかに速度を落としていき、それを合図とするかのように、目の前の彼女はスマホを鞄にしまいこんだ。そして僅かな揺れと共に電車が停止し、車両のドアが開く。少しくたびれたスーツを着た会社員が、部活のバッグを背負ったうら若き学生が、ベビーカーに赤ん坊を乗せた母親が次々と降りて行き、それに続くように彼女も席を立った。


 ―――どうか今日が、あなたにとっても良い一日でありますように。


 心の中でそう言葉をかけながら女神の背中を少しだけ視線で追う。


 いつもなら、そこで終わるはずだった。


 ふと彼女が立った後のシートに視線を向けると、黒く四角い形をした何かが取り残されている。それが彼女のパスケースだと気付いたのと、それを手に取り、電車から降りようとする彼女の背中を追ったのはほぼ同時だった。


 だが、気付くのが些か遅かったらしい。こちらが彼女の後を追うよりも、この駅の乗客が車両に乗りこむ方が僅かに速かった。


 押し寄せてくる人の波をなんとかかき分けると、そこは駅のホームであり、先刻乗っていた電車は既に出発してしまっていた。


 彼女の背中は、まだそこにあった。


「あ、あの!!」


 彼女が振り返る。


「これ」


 初めて声をかけたせいか、上手く言葉が浮かんでこない。ただ手に握った女神の落とし物を差し出すことしか出来なかった。


 彼女は自分の顔と手元を交互に見やると、今まで一度も見たことのなかった笑顔を浮かべ―――


「ありがとうございます」


 渡されたパスケースを受け取ると、彼女は改札へ向かう人波に紛れてしまい、あっという間にその背中は消えてしまった。


 ただの一言。初めて彼女の声を聞いた。想像していたよりも、ずっと低い声だった。


 だが、どうしてだろう。不思議と満ち足りた気持ちにさせてくれる声だった。そんなことを思うのは、良いことをした後は気持ちがいいというやつなのか、それとも今日が週末だからか。


 だけど、きっと今日は良いことがあるに違いない。今まで彼女と乗り合わせたどの時よりも、そう信じることができた。


 今日も一日頑張ろう。


 駅のホームに、次の電車が来るのを知らせるアナウンスが鳴り響いた。

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幸運の女神 棗颯介 @rainaon

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