ハサン 2

ハサンは死体が握りしめていた小石を拾い上げ、掲げた。月明かりを受けた小石が、紫に輝いた。

「おっとおっと、そりゃ何ですかい!?」

先程まで興味なさげにしていたユスフが、目の色を変えて食いついてきた。

「宝石、か?」

「見紛うことなく宝石ですよ、そいつぁ!どの程度の値がつくかなんてのは俺には分かりませんが、なんせ宝石なんだ、きっと下っ端構成員の安月給よりはするに違いない!いやぁ、ついてますぜ『俺達』!」

「……」

「しかしアンタ、流石ですよ!こんなよくある水死体、普通誰も興味を持ちませんからね…いや悪い意味じゃなくて、鼻が利くってことですからね!でもちょっと考えてみて下さいよ。もし車でここを通ったとしたら、流石の先輩もこの死体に興味を持つことはなかったんじゃないですかね?万が一興味を持ったとしても、わざわざ車から降りてまでは確認しなかったに違いない!するってぇと、今日のこのラッキーには、俺も一役買ったといって差し支えないですよね!?」

ユスフが捲し立てた。

ここまで歩いたことによる疲労、ハサンへの嫌悪感、その他諸々のことは宝石を見つけられたことによる興奮に上書きされていた。また彼の関心はこの時、宝石から得られる金銭の内どれだけをハサンから分けてもらえるか、それにしかなかった。

故に、ハサンに自分の声が届いていないことも、彼の様子が少しおかしいことも、ユスフには気づけなかった。



「……」

ハサンの心は入江のように凪いでいた。

そのことには何より彼自身が非常に驚いていた。これ程の幸運を前にして、なぜ自分はここまで冷静なのか。

また他にも気になっている点はある。なぜ急に酔いが醒めたのか。なぜこの暗闇の中で死体に気づけたのか。なぜ死体は宝石を握っていたのか。

しかし、それら全てがどうでもよかった。今はただ、この宝石の煌めきに見とれていたい。

意識に靄がかかり始めるのを感じていた。それは酔いとはまた違った風であり、そして心地よかった。



「━━聞いてます、ハサン?」

どれだけ話しかけても反応のないハサンに、ついにユスフが違和感を覚えた。

初めは自分を煩わしく思い、無視し続けているのだと考えていた。ならば無視できなくするべしと、ハサンの周りをぐるぐると歩き続け、身振り手振りを加えて話しかけていたが、それでもハサンは反応を示さないのだ。

ユスフは話を切り、ハサンの横顔を確認した。ハサンは視線を宝石に注ぎ続けている。宝石のあまりの美しさに心奪われ、茫然自失に陥ったのだろうか。

ハサンの掲げる宝石を改めて観察してみる。内に湛えた高貴な光は、それが明らかに玩具ではないことを証明していた。

ふと一瞬、悪魔のような発想がユスフの脳裏をよぎった。

今この男を殺せば、この宝石は俺だけのものになる、という発想。

しかし仲間殺しは御法度の一つである。もしバレたならば自分の粛清は免れ得ない。

たかだか小遣い稼ぎのために命を懸ける気にはならなかったユスフは、それを発想のみに留めることとして、思考へと向かわせていた意識を外界へと戻す。

何かと目が合った。



「……ん?何だか、ぼうっとしちまってたな…ヴッ、急に吐き気が…」

ハサンに酔いが戻ってきた。立っていられなくなり、砂浜に崩れ落ちた。宝石が手から零れる。

「ユスフ、肩を貸し━━あ?」

ユスフがハサンの正面に回り込み、ハサンの首を両手で包むように掴んできた。突然のことにハサンは驚き、ユスフにされるがままになっている。

「…?なにして…ガッ」

ユスフは首を掴んだまま、膝立ちのハサンを浜辺に押し倒した。そして仰向けのハサンの胸に右足を乗せて砂浜に押さえつけると、右足を支えにし、ハサンの首を上方向へと全力で引っ張り始めた。

「いてててて!痛い!痛い!なにすんだ!」

ハサンは慌てて抵抗を始めた。

ユスフの腕を掴み、引きはがそうと試みる。ビクともしない。体型で優っている自分がユスフの筋力に勝てないことが、ハサンは信じられなかった。

引きはがすことを諦め、腕・足・胴体など、手当たり次第にユスフを殴りつける。しかしユスフの身体は鋼のようで、とても効いている感触ではなかった。ユスフの表情を窺ってみるが、もちろん動じた様子はない。

この男はユスフではない。ハサンはそう直観した。

「この、、、っ!」

必死に抵抗するが、拘束は解けない。

ミチッ、ミチッ。ハサンの耳が異音を拾った。

ハサンには初め、それが何の音であるのか理解できなかった。口に入れたソーセージをかみ切るような音だと思った。

ミチッ、ミチッ。再度音がした。

ハサンは血の気が引くのを感じた。それが首のちぎれていく音だと理解したからだ。

ここまで唐突な死の訪れがあるだろうか。ハサンは現況を受け入れられなかった。

「み、ミチミチって…!?あ、あ…ウオエッッロロロロ」

胸のむかつきが激しくなり、思わず嘔吐した。道中にすっかり吐き切り、空になったハサンの胃袋から胃液が噴き出る。仰向けの体勢故に、勢いを無くした胃液の一部が喉に戻ろうとし、ハサンはさらに嘔吐く。

顔中が汗と涙と粘液でぐしゃぐしゃで、気持ちが悪かった。

首の肉が裂け、中から桃色の筋が覗く。プシプシと噴き出た血が、ユスフの指の隙間に溜まり、小さな池が作られた。

股の辺りがじんわりと湿り始める。尿道括約筋が緩んだことによる失禁である。

「やめっ、ヴウッ、ウォォォ…息が…ごめ、ごめんなざい…」

ハサンがかすれる声で謝った。

何に対する謝罪なのかは不明だった。ただ、恐怖と痛みに支配され、彼の脳がまともに思考していないことは明らかなので、すなわちそれは錯乱による世迷言か、もしくは本能からの発言なのかもしれなかった。

人生の最後に、せめて謝ろうと決めたのか。

「ヴァアッ、ああああ…があああっっああ、ヴォ、おおおおおっっおっおおおおおおお……ああ…ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…おおおおおぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉっっっっっあ━━」

ブチチチイと音がした。ハサンはこと切れた。

ユスフの指の間から、ハサンの中身らが恐る恐る外界を眺めていた。ちぎれた筋、切れかかった血管、頚椎。生まれてこの方ずっと引きこもっていた彼らには、初めて見る外の景色はきっと新鮮に映っているに違いない。

ユスフはハサンの亡骸を無造作に放り捨てた。そして手についた血や爪の間に挟まった肉片を、時間をかけ、海水で丁寧に洗い流した。

傍に落ちていた宝石を拾い上げ、それについた砂粒も海水で落とし、自身の服で水気を取る。月光に照らし、その仕上がりに納得すると、ポケットにしまい込む。

探さなきゃ、とユスフは思った。

そうしてユスフはハジャカーイの町へと返っていく。



海岸には二つの死体と波の音だけが残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殺人マシンと呪いの宝石 @makesshou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ