第37話

ステージを下りて、楽器をケースに収め、ロビーに出ると会長は「じゃあな」と二階席へ続く階段へさっさと向って行った。




「田口さん、なんか言わなくていいんすか」


「……」




 翔太が会長にも聞こえるようわざと大きな声で田口さんに呼びかけた。が、田口さんは「別に」とつんとそっぽを向いてしまい、何も言おうとはしなかった。




 仕方ないので翔太が会長の背中に「ありがとうございました!」と叫んだ。




 やっぱりなんかあるんだなあ。翔太はそう思った。言葉にできるような簡単なことじゃないんだろうな、とも。でも、いい。彼らもまた言葉ではなく音楽で心を通わせることを知っているのだから。




「なんだよ、なに見てんだよ」




 翔太の視線に気づいた田口さんがふんと鼻を鳴らした。この人も決して素直な人ではないのだ。けどちゃんと分かっている。人の気持ちとか、どう生きるべきか、とか。




「あ、あれ、斉藤君」




 常山がロビーの隅に立っている斉藤を見つけ、指差した。




 斉藤は何とも言えない顔で翔太たちを遠巻きに見ており、さっきの会場での感激した面持ちの拍手とは一変して今にも泣きそうな顔をしていた。




「あー! デブー!」




 最初に大きな声で、それも明るく呼び掛けて駆け寄って行ったのは田口さんだった。




「心配したんだよ!」


「あ、あの……」




 斉藤は巨体を縮こまらせ、ぎゅっと唇を噛んで俯いた。




「イチローと会えた? どこで拾ってもらえた?」


「あの、俺……。すみませんでした!」




 斉藤ががばっと勢いよく頭を下げた。声が涙で湿っていた。




「俺、間に合わなくって……。迷惑かけて……」




 洟をすする音が言葉のひとつひとつの間に挟まる。思えば斉藤も真面目に練習し、ランニングも腹筋も汗まみれになって頑張っていたのに、こんなアクシデントで間に合わなかったなんて一番つらいのは斉藤だろう。翔太は思ったままを口に出そうとした。




 すると田口さんが突然斉藤の巨体にぎゅうっと抱きついた。そしてまるで子供をあやすように背中をぽんぽんと叩いてやりながら、いつになく優しい声で囁いた。




「こういうことがあるからさ、早め早めに出ないとな?」


「……」


「なんだよ、泣くなよデブ。まだ来年もあるんだから」


「……」


「来年はもっと上手くなってるし」


「……」


「なあ、デブ、俺らの演奏聴いてくれたか?」


「……」


「会長よりお前の方が、上手いよ」




 泣くなよと言われたのに、斉藤は田口さんに抱きしめられる格好で声をあげておいおい泣きだしてしまった。




 こういった場合、遅刻や「間に合わない」なんて事態は責められることなのかもしれない。少なくとも、他校では。社会では。けれど一番悔しくて悲しいのは斉藤本人ではないか。




 恐らくこの先斉藤はどんな場合でも「最悪の事態」を想定して動く人間になるだろう。




 翔太たちも斉藤を取り囲み、口々に「泣くなよー」とか「文化祭でもやれるんだしさあ」と慰めながら、しまいには巨大な体で子供みたいに泣く斉藤がおかしくって笑いながら、小突いたり、背中を叩いたりしていつまでも一つの輪になっていた。





 気がつくとまた季節が一巡し、翔太は卒業式の席へ連なっていた。




 翔太は一学期に停学になったおかげで追試に次ぐ追試となったが、どうにか留年は免れて無事進級できることになり、ほっとしていた。




 卒業式に在校生が出ることはないのだけれど、翔太をはじめ持田、斉藤、常山、それに田口さんが片隅に座っているのは理由があった。




 そう、それは、翔太たちが「ブラバン」だから。翔太はここまでの道のりを「奇跡」だと思っていた。




 が、他の誰もそうは思っていなかった。ブラバンの復活は当然の結果だと思っていた。




 翔太は、本当なら田口さんも卒業だったはずなのになと思うとちらっと田口さんの顔色を窺ったが、別に気にしている様子はなく黙って楽器を手にじっと前を向いていた。




 卒業証書が各クラスの代表に渡され、在校生代表の送辞が読み上げられ、式次第は淡々と進んでいった。




 あれほど慣れ親しんだ「絶望」という感情はもう遠い思い出のようになっていた。そのことが翔太は不思議なような気がしていた。




「卒業生代表、答辞」




 式の進行をしているのは大島で、プログラム片手に体育館のステージ前に立っている。この一年で大島もずいぶん変わった。あのやる気のないだらだらした様子はもう微塵も感じられなかった。




「あ、会長」




 呟いたのは持田だった。見ると卒業生の席から立ち上がり、まっすぐにステージへ進んでいくところだった。




 翔太たちは俄かに厳粛な気持ちになり、ステージへ登壇する会長を静かに見守った。




 会長は中央に据えられたマイクの前に立つと、一礼し、ポケットから一枚の紙を取り出した。




「答辞」




 会長のいつもの落ち着いた声が凛として響き渡った。




「長かったような、短かったような三年間が、今、終わろうとしています。こうしてここにいると、初めてこの学校の門をくぐった日の事もはっきりと思い出すことができます。




 入学式の日、これからのことを考え期待と不安の入り混じった複雑な気持ちになりました。先輩たちの活動に憧れて入部した部活動では、思ったより練習が厳しく、何度も根をあげそうになりました。また、初めて学ぶ専門の勉強はとても難しくて頭がくらくらしたりもしました。けれども、友達ができるにしたがって学校生活が楽しくなり、いけない事とは知りながらも授業中に雑談を交わしたり、週刊誌をまわし読みしたりする余裕もでてきました。




 高校生活の一番の思い出となったのは修学旅行です。宿舎でカラオケ大会をしたり、夜遅くまで騒いだりしたこと。スキーのできる者とできない者とが助け合い、共に上達したことがとても印象に残っています。




 こうした高校生活を通して友情を育み、落ち込んだ時は慰めてくれたし、辛いことがある時は助けてくれたりして、そうしてここまでたどり着きました。いい思い出ばかりではなかったけれど、この高校に来て良かった。




 難しい専門科目に頭を悩ませ、レポートに追われ、逃げ出したくなることもあったし、勉強に興味を失い辞めてしまおうかと思うこともあったけれど、今日まで頑張りぬいて本当に良かった。




 この学校を悪く言う人もいますが、本当は明るくて素直で前向きな人ばかりです。大切なのは人にどう思われるかという事ではなく、自分の心をしっかり持つという事です。それをこの学校で過ごすうちに教えられました。




 先生方に迷惑をかけることもありました。意見が食い違ったり、お互いを理解し合えないが為に言い争うこともありました。憎むこともあったけど、そんな気持ちもこれから十年、二十年した時にきっと懐かしく、温かい気持ちで思い出せることでしょう。




 僕達は三年間の高校生活を終えて、これから社会に出て行きます。また辛い事や苦しい事にも出会うでしょう。けれど、今までさまざまな困難を乗り越えてここまできたのだからこの先何が起きても、きっとくじけることなんてないと思います。




 長い人生のうち、三年なんて本当に短い時間だけれど、僕達にとっては何十年分にも匹敵する内容を持っていました。それでも、僕達が後輩の皆さんに残せるものは何もないように思えます。もし、皆さんにアドバイス出来ることがあるとすれば、それは学校生活を楽しくするのも、つまらなくするのもいつでも自分の気持ち次第だということです。今は誰にも認められなくても、一生懸命頑張っていればきっと誰かが気付いてくれるはずです。粘り強く努力を続け、残った高校生活を大切に過ごしてください。




 三年間お世話になった先生方、苦楽を共にした友達、十八年間育ててくれたお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。




 今のこの素直な気持ちをずっと持ち続けていきます。溢れるばかりの感謝の気持ちをこめて、これでお別れの挨拶とさせて頂きます」




 会長は手にしていた紙をまたポケットにしまい直し、深々と礼をした。




 大切なのは人にどう思われるかでなく、自分の心をしっかり持つこと。楽しくするのも自分次第、か。




 翔太はまたちらっと田口さんの横顔を見やった。田口さんは卒業生の席へ戻る会長をじっと見つめていた。




 まだ外の空気は凍るように冷たかったが、空が美しく澄んでいてすべてを清浄にしていくようだった。




 大島が翔太たちに合図を送っていた。




 翔太たちブラバン一同は立ち上がると、大島の言葉を緊張しながら待った。




「卒業生、退場」




 田口さんが小さくカウントをとった。一瞬、生徒も保護者もどよめいたが、ブラバンは「情熱の薔薇」を思いきり勢いよく吹き始め、卒業生を送り出していった。




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情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう(分冊版) 三村小稲 @maki-novel

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