第36話
「な、なに言って……」
「楽譜見せて」
会長は翔太に右手を突き出した。驚いたことに会長は左手に楽器ケースを携えていた。
「会長、それ……」
「中学ん時の同級生がいたから、借りてきた」
「てゆーか、できるんすか?!」
「……こいつ、中学でブラバンだったからな」
大きなため息の後、ぼそっと呟いたのは田口さんだった。翔太たちは愕然としながら会長と田口さんを交互に見た。
「こいつ、中学でトロンボーンやってたから」
田口さんが不機嫌な顔のまま、もう一度言った。
呆然とする翔太の代わりに常山が楽譜を差し出した。
「でもお前部員じゃない……」
大島がさっきまで張りつめていた糸がいきなりぶっちぎられたせいで、混乱しながら喘いだ。
すると会長はしれっとした、いつもの調子できっぱりと言い放った。
「誰にそんなこと分かるっていうんすか」
「……な……。だって、お前、それ……」
それはそうかもしれないけども。でも校長も来てるし、他の先生たちも見てるし。審査員には分らないだろうし、証明することもできないだろうけれども。でも、だからって。けれども。
大島の脳内は「けど」と「でも」に埋め尽くされ、他の日本語が崩壊したように、金魚のように口をぱくぱくさせ息を吸い込むだけだった。
「リハ、行くぞ」
田口さんは一言それだけ言うとくるりと踵を返し、すたすたと歩き出した。それに続いて歩きだしたのは生徒会長だった。
翔太は平井の意味深な笑いや態度がぱっと頭に浮かんだ。そして脳内で静電気火花が起こるようにぱちぱちと彼らと交わした会話や、田口さんの様子や、あれやこれやがいっぺんにフラッシュバックし、滞っていた電子回路がぱちっと繋がるのを感じた。
ブラバン復活を阻止するような言動で翔太を煽り、田口さんを引っ張りだしたこと。全部会長の作戦だったのだ。田口さんを学校に戻すための。「中退する生徒」について言及していたことも辻褄があう。
何があったのか知らないけども、彼らはかつて一度は同じブラバンの「仲間」だったのだ。
「お前の譜面はバンド編成だな」
歩きながら楽譜を見ていた会長が田口さんの背中に向って言った。
「いいんだよ。その方がかっこいいんだから」
田口さんがぶっきらぼうに答えた。
翔太たちは顔を見合わせ、それから、慌てて駆け出した。
リハーサル室と書かれたプレートのあるドアの向こうは重厚な造りで防音が施され、床も壁も飴色をした美しい木製で翔太たちにしてみれば「場違い」なところだった。そもそもこのコンクールに出ること自体が場違いなのだけれども。言うなれば「違和感」。袋菓子の中の乾燥剤のように邪魔っけなものだ。
それぞれ楽器を準備し、チューニングすると、田口さんが「軽く合わせとくか」と言って、会長を促した。
翔太は会長が初見で楽譜を素早く読み、正確に音を出し、リズムを刻むことに衝撃を受けていた。それは、経験者の音だった。真面目に練習して身に付けた音。体で覚えたことというのは、そう簡単に忘れるものではない。
一度通して楽譜を確認し、曲の頭と、難しいところを一度だけさらうと、それだけで持ち時間はいっぱいだった。
持田はショックから立ち直れないような青い顔で、まだ信じられないといった面持ちで会長を上目づかいに見ていた。
「あの、会長」
「なに」
翔太はリハーサル室を出て、ステージ袖へと移動する通路を進みながら会長の背中に話しかけた。
「中学ってどこ出身なんすか」
「T中」
会長が答えたのは、コンクール優勝常連の名門校だった。翔太が度肝を抜かれていると、会長はちらっと後ろを振り向きにやりと笑った。
「じゃあ、田口さんも……」
「田口、アンサンブルで優勝したことあるって聞いてない?」
「聞いてませんよ!」
思わず大きな声を出すと、通路にいたスタッフから「静かに!」と注意された。翔太は慌てて口を押さえた。そして今度は会長の背中にもう一歩詰め寄る格好でひそひそと囁いた。
「会長と田口さんって、本当は仲良いんですか」
「……」
その質問には会長は答えなかった。翔太は今度はさらに歩みを進めて、その先にいる田口さんの背中にくっついた。
「田口さん」
「ふん」
「……会長って、なんでこの学校入ったんすか。めっちゃ頭いいんでしょ」
「インフル」
「はい?」
階段をあがり、ステージの袖まで来ると緞帳の陰から満員の客席が垣間見えた。
ステージには他校の大所帯のブラバンの生徒が所狭しと椅子と譜面台を並べ一心に演奏を繰り広げているところだった。
ステージ袖に待機する格好になった翔太たちに会場スタッフが、
「この後だけど、椅子はそのままになるから。一番前の列に座って」
と指示した。
こんな四〇もの椅子が並ぶステージで、たったの五人でやるなんて。翔太はそう思うといたたまれない気持ちになり、
「僕ら五人なんですけど、椅子はどけてもらえないんですか」
「君ら五人だけど、その後はまだ三〇人とか四〇人だから。椅子片付けて、またセットする時間ないよ」
「……ですよね……」
スタッフがまるで馬鹿にするように、呆れたように鼻先で笑ったような気がした。
そのやりとりを黙って聞いていた田口さんが翔太を振り向いた。
「会長、受験の日にインフルエンザで試験受けられなくて、しょうがないから二次募集でここに入ったんだよ」
「え、マジすか」
「インフルじゃなかったら、今頃超進学校に行ってたはずなんだけどな」
田口さんは笑っていた。笑いながら、翔太の気持ちを鼓舞しようとしてくれているのが分かった。
ちらっと会長に視線を送ると、会長はにやにや笑う田口さんを無視するようにことさらに取り澄ました顔で、譜面に並ぶ音符を目で追っていた。
とうとう前の学校の演奏が終わった。ぞろぞろと引き上げて行く生徒たちとすれ違いながら、翔太はその中に「え、五人しかいない」と笑いの滲む声をはっきりと聞いた。田口さんも持田も、もちろん会長も黙ってそれを聞いていた。
が、黙っていない奴が一人いた。
「五人でなにが悪い」
去っていく他校の生徒にぴしゃっと言い放ったのは驚いたことに常山だった。細い体で重い楽器を抱えて、常山は彼らを睨み据えていた。
「よせよ」
会長が常山を制した。
翔太と持田は、常山のそんな攻撃的な声を聞いたのが信じられなくて唖然としていた。
プログラムが読み上げられ、会場中に響き渡る。と同時に、どよめきと、笑いが巻き起こった。そういう反応をされるだろうと初めから分かっていた。
「はい、出て」
スタッフに促されると、田口さんが翔太たちを振り向いた。
「あのさ、座んなくていいわ」
「え?」
「椅子。座ってやる必要ないから」
「いいんですか」
「座ってやれなんてルール聞いてない」
それだけ言うと、田口さんはステージへ向かってずんずん歩きだした。
会長もそれに続き、翔太たち一年は慌ててその後を追って出た。
五人の姿がステージ袖から現れると、どよめいていた会場は驚き、戸惑い、普通なら拍手するところをそれさえも忘れてしんと静まりかえってしまった。
やっぱり場違いなんだな。まあ無理もないか。全員じゃないにしても自分たちの学校の生徒が日頃の行いが悪いのも事実なんだし。馬鹿なのも本当のことだし。……だから傷つかないってことではないのだけれども。
翔太たちは田口さんの指示通り、ステージに並んだパイプ椅子には座らず、スネアやハイハットをセッティングして中央に横並びに緩やかな弧を描いて立った。
フットライトが眩しく、熱気を頬に感じた。見ると客席はやはり無言で翔太たちを見守っている。
「翔太」
「……え」
ステージ上だというのに、田口さんが息だけの声で翔太を呼んだ。顔は前を見据えたままで。
「がつんといくぜ」
田口さんはそう言うと、客席に向って礼をした。慌てて翔太たちも頭を下げた。そこでようやくぱらぱらと拍手が起こった。
ステージの上、田口さんがひとりひとりと視線を合わせる。翔太たちはそれに頷いて返す。マウスピースを口にあて、田口さんが低い声でカウントするのを聞き、最初の音……!
あとはもう夢中で、何が何やらさっぱり分からなくなっていた。客席の反応はやっぱり驚きと笑いに満ちていたが、翔太たちは自分の出す音を互いに確かめあい「情熱の薔薇」を演奏した。
皆、懸命だった。心が一つになるのを翔太ははっきりと感じていた。それは「自分たちだってやればできるんだ」という心だった。「馬鹿にすんな」という憤りであり、「やってやる」という負けん気。そして「楽しい」という気持ち。
演奏そのものは決して高いレベルだとは言えなかったし、まったく間違えなかったかというとそうではなかった。でも、フルコーラスをやりきることができたし「音楽」になっていた。
翔太は感動のあまりまた涙がじんわりこみあげそうになっていたが、持田と常山、それに田口さんは同じことを考えていた。それは翔太が熱血野郎で、翔太にこそ「情熱の薔薇」があるから皆がそれについてきたのだ。本人はまるで分っていないけれど。
演奏を終えてもまだ胸がどきどきしていた。田口さんが翔太たちを見る。そして、礼。
するとまだ信じられないものを見たという顔をしていた客席からどっと押し寄せるような拍手が沸き起こった。翔太は会長がほっと安堵のため息を漏らすのを聞き逃さなかった。
頭を上げて眩しい気持ちで客席を見渡す。すると、最前列の右手通路に斉藤と男前ギタリストが立っているのが目に入った。
翔太は思わず「あ」と呟いた。斉藤は必死の顔で、周囲の人がちょっと引いてしまうぐらいの熱意をこめて拍手を送っていた。翔太は斉藤に向って深く頷いて見せた。
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