嵐の夜のミオ
Mondyon Nohant 紋屋ノアン
温泉も出なければ名物料理も無く
我が
別荘の三十メートル先に高さ十五メートルの
海側の窓を開けるとキャビンは波音に共鳴してわずかに揺れる。ソファーベッドに寝転がって目を閉じれば、まるで小船に乗って
僕は心が疲れると、いつもここに来ていた。
六年前の六月、僕はこの別荘を訪れた。
近くのバス停に降り立ったのは、午後三時過ぎだった。大粒の雨が僕を迎えた。
僕は別荘団地の管理棟に顔を出し、連絡せずに来たことを管理人の西野さんに詫びた。
キャビンに入ると、ロフトから布団を下ろしソファーベッドの上に敷いた。海風が強く、波の音はいつもより大きく響いていた。
薬を飲むために食器棚からコップをとりだし水道の蛇口をひねった。蛇口から出る水が窓の曇りガラスに映る防風林の緑に染まってとても綺麗に見えた。
テラスで物音がした。僕は水をとめ、掃き出し窓まで歩いてカーテンを開けた。後ろ足で立った仔犬が前足で窓ガラスを引っ掻いている。雨の中を走って来たのか
「飼い主を捜してやらなきゃ」
このまま放っておくわけにもいかない。僕の予定は狂ってしまった。
僕は仔犬を室内に入れ、タオルで仔犬の
「ヨークシャテリアのお嬢さんだね。生後四か月くらいかな。この
西野さんが地元の警察に電話してくれた。
「ソーサク願いは出ていないそうだ。
仔犬は僕の腕の中でスヤスヤと眠っていた。僕の方が好きみたいだと言われ、預かってくれとは言いづらい。僕は今直ぐ
警察に届を出した後、僕はペットショップに寄りハーネスとリードを買った。迷い犬を預かった経緯を話すと、店員は試供品のドッグフードとトイレシートを二日分くれた。
「ワンちゃん泥だらけですね。可哀そう」
店員がシャンプーしてくれると言う。お願いすることにした。
仔犬がシャンプーされている間、僕は店を出て自分の着替えと食料を買った。
サービスだからと受け取りを拒む店員に僕はシャンプーの代金を無理矢理渡した。
「いい人に拾われてよかったね」
僕が腕にかかえた仔犬の顔を覗き込んで、ペットショップの店員は言った。
いい人? 何故か嬉しかった。
時刻は午後六時を過ぎていた。僕は帰りが遅くなったことを西野さんに詫びた。
「
いい人? また言われた。やはり嬉しかった。
仔犬はドッグフードを無心に食べた。前日の夜から何も食べていなかった僕も、町で買ったサンドイッチを無心に食べた。
「お前のせいで予定が狂っちゃったよ」
仔犬は椅子に座った僕の膝に飛びのり、さらにテーブルに飛びのると、伸ばした
「どんな予定だったのか聴いてくれるかい?」
僕は今日実行し
「お前は可愛いから、『
僕はある。
「私の人生にあなたは要らない」
一週間前、純子は僕にそう言った。
「ほんとうは優しい
仔犬は「へぇー」といった顔で僕を見た。
付き合い始めてから純子が就職するまでの二年間、僕らは
純子が
翌年の司法試験も駄目だった。企業法務の華やかな世界で活躍する純子と
当時の司法試験は三回の不合格で受験資格を失う。僕はその年、三回目の受験をしたが、試験の出来は散々で、不合格は目に見えていた。
「純子さんは悪くないよ」
仔犬の目はそう言っている。
…そうだね。僕が悪いんだ。純子に嫉妬して勝手にねじけた僕が悪い。いくら優しい純子でも
「でも、あなたもわるくないよ」
仔犬は澄んだ黒い目で、そう言った。
「だって、あなたはいい人だもの」
いい人? 僕は仔犬の目を
雨はやまない。風が強い。きっと嵐になる。
「疲れたね。もう眠ろう」
僕はバスタオルを畳んで床に敷き、テーブルから仔犬を降ろしてその上に置いた。
仔犬は
「
そう訊くと、仔犬は僕の胸に鼻先を押し付けた。シャンプーの匂いがした。
屋根や窓を打つ雨の音が波の音を
…雨も波も勝手にやってくれ。僕もこの子も疲れているんだ。君たちがどんなに騒ごうが僕らは明日の朝まで絶対に起きない。
仔犬はもう寝息を立てている。その寝息を聴きながら、僕も「予定」をすっかり忘れ、
頬に冷たさを感じて僕は目を覚ました。仔犬が僕の頬を鼻の頭で突っついていた。
こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだった。
カーテンの隙間から晴れ間が見えた。雨音と波音の
仔犬はソファーから飛び降りると部屋の隅に走って行き、試供品のドッグフードが入ったレジ袋をくわえて僕を見た。
僕らは一緒に朝ごはんを食べた。
地面が濡れていたので、僕は散歩に連れ出すのをやめ、仔犬を室内で遊ばせた。
僕が
ベロを出し荒い息をしている仔犬を膝にのせ僕はソファーに座った。開けた窓の外で防風林が
少年の叫ぶような声がきこえた。僕は玄関のドアを開け、管理棟に目を
「早く、早く」と中学生くらいの少年は叫んでいた。一緒に釣りに来ていた友達が海岸の岩の隙間に落ちたのだという。
「ロープはありませんか」
僕は電話中の西野さんに訊いた。西野さんは顎で管理人室の一角を
岩と岩の隙間にもう一人の少年は
僕は近くの岩にロープを巻いて固定し、一端を少年が
「適切な処置でしたね。お手柄です」と救命士は言い、少年の命に別状はないと続けた。
大学時代、僕は山岳部員だった。救護講習も何回か受講している。
「世の中には二種類の人間しかいない」
西野さんが
「生きていて欲しい奴と、死んで欲しくない奴。あんたは自分がどっちの人間だと思う」
生きていて欲しい奴と…?
「同じじゃん」
西野さんと僕は一緒に笑った。
何も持たず暗い顔をしてここを訪れた僕の「予定」に西野さんは薄々感づいていたんじゃないか。僕はそう思った。
管理人室の電話が鳴った。
「そうか。それはよかった」
仔犬の飼い主がみつかった。引き取りに来るという。僕は急いでログキャビンに戻った。
ドアを開けると仔犬は勢いよく尻尾を振り僕に飛びついた。
車の助手席から若い女性が降り、仔犬を腕に抱く僕に軽く頭を下げた。僕は仔犬を下ろしリードを外した。彼女がしゃがんで両手を差し出すと、仔犬は駆けていき彼女の膝にとびのった。彼女は仔犬に頬擦りをした。
「名前は?」
「恵美です」
彼女は僕を見上げ、不思議そうな顔をした。
「そうか。よかったなエミちゃん、飼い主さんが見つかって」
「恵美は私の名前です。この子の名前はミオ」
恵美は笑った。笑顔がとても可愛かった。
「わたしの飼い主に惚れちゃだめよ」
仔犬のミオがそんなふうに僕を
ミオは放し飼いにされていた自宅の庭から逃げ出し、近くに停まっていた軽ワゴンの荷台に飛びのったらしい。たぶん別荘団地の近くで運転手が荷下ろしている隙に荷台から降りたのだろう。
「うちの新作なんです。是非飲んで下さい」
恵美の父親がボトルの入った
僕も彼に名刺を渡し、父の法律事務所で事務員をしていると自己紹介した。
「法律事務所?
恵美の父親に、僕は「はい」と答えた。僕の父は国際弁護士だ。国際法務は
連れて行かれる時、振り向いて僕を見続けるミオに、僕は「バイバイ、ミオ。また会えたらいいね」と、小さな声で別れを告げた。
「いい人だね」
「ああ、優しそうな青年だ」
車に乗ろうとしている親子の声が聴こえた。
いい人と言われた。優しそうだとも言われた。涙が出るほど嬉しかった。
その日午後五時のバスで、僕は「海風の郷」を後にした。帰りぎわ管理棟のゴミ置き場に僕はゴミの入ったレジ袋を置いた。袋には目立たないように紙で包んだ大量の睡眠薬の錠剤が入っていた。
仔犬のミオが添い寝をしてくれた日から六年が過ぎた。ミオの縁で父は恵美の父親が経営するワイナリーの顧問弁護士を引受けた。
司法試験に落ちた僕は
「
我が家の別荘だけは再開発から逃れ、六年前の質素な
僕は今、今年六歳のミオと我が家の別荘にいる。妻の恵美が実家に帰省する時はいつも、僕はミオと二人?でここに泊まるのだ。
雨が降ってきた。きっと嵐になるだろう。
僕が床にバスタオルを敷くとミオはトコトコとやってきて、その上で丸くなった。
風が強くなり雨音と波音のせめぎ合いが始まる。ミオがそわそわし始める。ミオは最初の雷鳴を待っている。窓が光る。ミオは起き上がり、僕が寝転がったソファーベッドに顔を向ける。雷鳴が
「今日もいい日だったね。ミオ」
僕がそう言うと、ミオは僕の胸に鼻先を押し付けた。
雨音と波音の抗争が続く中、ミオの寝息に守られながら僕は世界一幸せな眠りに就いた。 (了)
嵐の夜のミオ Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake
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