嵐の夜のミオ

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 温泉も出なければ名物料理も無く風光ふうこうはお世辞にも明媚めいびとは言えない。交通の便も悪い。幹線道路からは遠く、一番近い鉄道の駅までバスで一時間かかる。観光資源皆無のそんな僻地に「海風うみかぜさと」と名前だけはお洒落な別荘団地は在った。

 我がの別荘はその別荘団地の外れに立つのべゆか面積わずか八坪の貧相なログキャビンで、弁護士の父が顧問先の不動産会社から義理で買わされた売れ残り物件だった。ただ僕は、このログキャビンがとても気に入っていた。

 別荘の三十メートル先に高さ十五メートルの海食崖かいしょくがいがある。僕が好きだったのは、その海岸の岩場を打つ激しい波の音だった。

 海側の窓を開けるとキャビンは波音に共鳴してわずかに揺れる。ソファーベッドに寝転がって目を閉じれば、まるで小船に乗っておお海原うなばらを漂流している気分だ。このまま遭難してもいいと思うくらい気持ちいい。

 僕は心が疲れると、いつもここに来ていた。


 六年前の六月、僕はこの別荘を訪れた。

 近くのバス停に降り立ったのは、午後三時過ぎだった。大粒の雨が僕を迎えた。

 僕は別荘団地の管理棟に顔を出し、連絡せずに来たことを管理人の西野さんに詫びた。

 キャビンに入ると、ロフトから布団を下ろしソファーベッドの上に敷いた。海風が強く、波の音はいつもより大きく響いていた。

 薬を飲むために食器棚からコップをとりだし水道の蛇口をひねった。蛇口から出る水が窓の曇りガラスに映る防風林の緑に染まってとても綺麗に見えた。

 テラスで物音がした。僕は水をとめ、掃き出し窓まで歩いてカーテンを開けた。後ろ足で立った仔犬が前足で窓ガラスを引っ掻いている。雨の中を走って来たのか身体からだは泥まみれだった。外に人影はない。首輪もハーネスも着けていない。迷い犬だろう。

「飼い主を捜してやらなきゃ」

 このまま放っておくわけにもいかない。僕の予定は狂ってしまった。

 僕は仔犬を室内に入れ、タオルで仔犬の身体からだを拭いた。一見いっけん黒犬だが耳と口吻マズルと脚はげ茶交じりの薄茶色で、胸は綿毛のように白い。片手で楽に持てるくらいの大きさだ。

「ヨークシャテリアのお嬢さんだね。生後四か月くらいかな。このさとの住民じゃないな。空き家の内見ないけんに来た客でもなさそうだ」と、西野さんは笑った。

 西野さんが地元の警察に電話してくれた。

「ソーサク願いは出ていないそうだ。拾得物しゅうとくぶつとどけを出してくれだとさ。明日にでも俺が行ってくるよ。この子は俺が預かろうか? この子、あんたの方が好きみたいだけど」

 仔犬は僕の腕の中でスヤスヤと眠っていた。僕の方が好きみたいだと言われ、預かってくれとは言いづらい。僕は今直ぐとどけを出しに行きたいと言った。僕にも予定がある。早く飼い主を見つけたかったのだ。一番近い派出所まで車で四十分かかる。西野さんが貸してくれた軽四輪に仔犬を載せ僕は町に向かった。

 警察に届を出した後、僕はペットショップに寄りハーネスとリードを買った。迷い犬を預かった経緯を話すと、店員は試供品のドッグフードとトイレシートを二日分くれた。

「ワンちゃん泥だらけですね。可哀そう」

 店員がシャンプーしてくれると言う。お願いすることにした。

 仔犬がシャンプーされている間、僕は店を出て自分の着替えと食料を買った。

 サービスだからと受け取りを拒む店員に僕はシャンプーの代金を無理矢理渡した。

「いい人に拾われてよかったね」

 僕が腕にかかえた仔犬の顔を覗き込んで、ペットショップの店員は言った。  

 いい人? 何故か嬉しかった。 

 時刻は午後六時を過ぎていた。僕は帰りが遅くなったことを西野さんに詫びた。

かまわんよ。犬にかまっている暇なんか無いだろうに、あんたは本当にいい人だな」

 いい人? また言われた。やはり嬉しかった。

 仔犬はドッグフードを無心に食べた。前日の夜から何も食べていなかった僕も、町で買ったサンドイッチを無心に食べた。

「お前のせいで予定が狂っちゃったよ」

 仔犬は椅子に座った僕の膝に飛びのり、さらにテーブルに飛びのると、伸ばした前脚まえあしに頭をのせ少し上目遣いで僕を見た。僕もテーブルに頬杖ほおづえをついて仔犬に顔を近づけた。

「どんな予定だったのか聴いてくれるかい?」

 僕は今日実行しそこねた「予定」を仔犬に話した。仔犬は黙って僕の目の奥をのぞいていた。

「お前は可愛いから、『らない』なんて言われたことはないよな」

 僕はある。

「私の人生にあなたは要らない」

 一週間前、純子は僕にそう言った。

「ほんとうは優しいだったんだよ」

 仔犬は「へぇー」といった顔で僕を見た。

 付き合い始めてから純子が就職するまでの二年間、僕らは相思相愛そうしそうあいの仲だったと思う。

 純子が司法修習しほうしゅうしゅうを終え企業法務専門の大手法律事務所ローファームに就職した年に僕はやっと法科大学院を修了し司法試験にのぞんだ。不合格だった。美しく優秀だった純子は勤め始めて一年もしないうちに若手ビジネスロイヤーとしてたちま頭角とうかくあらわした。業界誌にったスーツ姿の純子を見て僕の心はみじめに沈んだ。

 翌年の司法試験も駄目だった。企業法務の華やかな世界で活躍する純子とえない司法浪人の僕との仲は次第に疎遠になっていった。

 当時の司法試験は三回の不合格で受験資格を失う。僕はその年、三回目の受験をしたが、試験の出来は散々で、不合格は目に見えていた。

「純子さんは悪くないよ」

 仔犬の目はそう言っている。

…そうだね。僕が悪いんだ。純子に嫉妬して勝手にねじけた僕が悪い。いくら優しい純子でも愛想あいそかすのが当たり前だよ。

「でも、あなたもわるくないよ」

 仔犬は澄んだ黒い目で、そう言った。

「だって、あなたはいい人だもの」

 いい人? 僕は仔犬の目を見詰みつめ、小さく涙した。

 雨はやまない。風が強い。きっと嵐になる。

「疲れたね。もう眠ろう」 

 僕はバスタオルを畳んで床に敷き、テーブルから仔犬を降ろしてその上に置いた。

 仔犬は身体からだをまるめしばらくじっとしていたが、遠くで雷が鳴ると顔を上げソファーで横になっている僕を見た。窓が一瞬光り、雷鳴らいめいとどろく。部屋がわずかに揺れた。仔犬はソファーに飛びのり、僕の布団の中にもぐり込んだ。

い寝してくれるのか」

 そう訊くと、仔犬は僕の胸に鼻先を押し付けた。シャンプーの匂いがした。

 屋根や窓を打つ雨の音が波の音をし消そうとする。波も負けてはいない。海風うみかぜの力を借りて岸壁がんぺきを殴りつけ、地面を響かせてキャビンを揺るがす。

…雨も波も勝手にやってくれ。僕もこの子も疲れているんだ。君たちがどんなに騒ごうが僕らは明日の朝まで絶対に起きない。

 仔犬はもう寝息を立てている。その寝息を聴きながら、僕も「予定」をすっかり忘れ、仕合しあわせな眠りについた。


 頬に冷たさを感じて僕は目を覚ました。仔犬が僕の頬を鼻の頭で突っついていた。

 こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだった。

 カーテンの隙間から晴れ間が見えた。雨音と波音の合戦かっせんは波音が勝利したらしい。波の響きが勝ち誇るように部屋を揺らしていた。

 仔犬はソファーから飛び降りると部屋の隅に走って行き、試供品のドッグフードが入ったレジ袋をくわえて僕を見た。

 僕らは一緒に朝ごはんを食べた。

 地面が濡れていたので、僕は散歩に連れ出すのをやめ、仔犬を室内で遊ばせた。

 僕がうなり声をあげてにらむと、仔犬は前足をそろえて身構える。僕は仔犬の顔の前で手をたたく。身をひるがえして逃げる仔犬を僕は追いかける。ソファーや椅子に飛びのったりカーテンの後ろに隠れたり、尻尾を激しく振りながら仔犬は部屋中を駆けまわる。隅に追い詰められた仔犬は反撃に出る。今度は僕が逃げる番だ。そんな追いかけっこを僕らは一時間も続けた。

 ベロを出し荒い息をしている仔犬を膝にのせ僕はソファーに座った。開けた窓の外で防風林がそよいでいる。僕は葉音と波音の聴きわけを楽しみながら、時の流れに身をまかせた。膝の上で仔犬は寝息を立てていた。

 少年の叫ぶような声がきこえた。僕は玄関のドアを開け、管理棟に目をった。西野さんが手招てまねきして僕を呼んだ。僕は「いい子にして待ってるんだよ」と仔犬に言い、外に出た。

「早く、早く」と中学生くらいの少年は叫んでいた。一緒に釣りに来ていた友達が海岸の岩の隙間に落ちたのだという。

「ロープはありませんか」

 僕は電話中の西野さんに訊いた。西野さんは顎で管理人室の一角をした。束ねたロープがある。僕はそれを肩にかけ海岸に向かう少年を追った。

 岩と岩の隙間にもう一人の少年ははまり込んでいた。打ち寄せる波の飛沫しぶきが岩にしがみつく彼の顔を洗っている。腕から出血している。早く引き上げて止血しけつしないと危ない。

 僕は近くの岩にロープを巻いて固定し、一端を少年が滑落かつらくした岩の隙間に垂らした。そしてロープをつたい降りると脱いだ上着をサバイバスリングにして少年の脇を通しロープと結んだ。僕は先に岩を登り、丁度そこに駆け付けた西野さんと共に少年を引上げた。僕は少年の腕に西野さんが持ってきた手拭てぬぐいを巻いて止血し少年を負ぶって管理人室に運んだ。五分後、救急隊が到着した。

「適切な処置でしたね。お手柄です」と救命士は言い、少年の命に別状はないと続けた。

 大学時代、僕は山岳部員だった。救護講習も何回か受講している。

「世の中には二種類の人間しかいない」

 西野さんが唐突とうとつに話し出した。

「生きていて欲しい奴と、死んで欲しくない奴。あんたは自分がどっちの人間だと思う」

 生きていて欲しい奴と…?

「同じじゃん」

 西野さんと僕は一緒に笑った。

 何も持たず暗い顔をしてここを訪れた僕の「予定」に西野さんは薄々感づいていたんじゃないか。僕はそう思った。

 管理人室の電話が鳴った。

「そうか。それはよかった」

 仔犬の飼い主がみつかった。引き取りに来るという。僕は急いでログキャビンに戻った。

 ドアを開けると仔犬は勢いよく尻尾を振り僕に飛びついた。


 車の助手席から若い女性が降り、仔犬を腕に抱く僕に軽く頭を下げた。僕は仔犬を下ろしリードを外した。彼女がしゃがんで両手を差し出すと、仔犬は駆けていき彼女の膝にとびのった。彼女は仔犬に頬擦りをした。

「名前は?」

「恵美です」

 彼女は僕を見上げ、不思議そうな顔をした。

「そうか。よかったなエミちゃん、飼い主さんが見つかって」

「恵美は私の名前です。この子の名前はミオ」

 恵美は笑った。笑顔がとても可愛かった。

「わたしの飼い主に惚れちゃだめよ」

 仔犬のミオがそんなふうに僕をにらんだ。

 ミオは放し飼いにされていた自宅の庭から逃げ出し、近くに停まっていた軽ワゴンの荷台に飛びのったらしい。たぶん別荘団地の近くで運転手が荷下ろしている隙に荷台から降りたのだろう。

 とどけを出したのが隣市の警察署だったので発見が遅れた、と恵美は言った。

「うちの新作なんです。是非飲んで下さい」

 恵美の父親がボトルの入った手提てさげ袋を僕に渡した。ワイナリーを経営していると言う。

 僕も彼に名刺を渡し、父の法律事務所で事務員をしていると自己紹介した。

「法律事務所? 国際法務こくさいほうむもやってますか?」

 恵美の父親に、僕は「はい」と答えた。僕の父は国際弁護士だ。国際法務は十八番おはこである。 

 連れて行かれる時、振り向いて僕を見続けるミオに、僕は「バイバイ、ミオ。また会えたらいいね」と、小さな声で別れを告げた。

「いい人だね」

「ああ、優しそうな青年だ」

 車に乗ろうとしている親子の声が聴こえた。

 いい人と言われた。優しそうだとも言われた。涙が出るほど嬉しかった。

 その日午後五時のバスで、僕は「海風の郷」を後にした。帰りぎわ管理棟のゴミ置き場に僕はゴミの入ったレジ袋を置いた。袋には目立たないように紙で包んだ大量の睡眠薬の錠剤が入っていた。


 仔犬のミオが添い寝をしてくれた日から六年が過ぎた。ミオの縁で父は恵美の父親が経営するワイナリーの顧問弁護士を引受けた。

 司法試験に落ちた僕は法曹ほうそうの仕事を諦め、友人とネットビジネスの会社を立ち上げた。恵美の父親が企図きとしていた新作ワインの海外展開は大成功を収めたが、それをプロモートしたのは僕だ。僕が世界中に売りまくったワインのおかげで、この地域は国際的な観光地になった。現在、町には一流シェフを抱えたワインレストランが幾つも店を構えている。

海風うみかぜさと」は、僕の会社とコラボした有名なリゾート運営会社が再開発し「海風とワインの郷」と名を変えた。さとの広さは六年前の三倍以上ある。点在する離れ家の夜景が人気のリゾートで、少なくとも一年前に予約しないと宿泊はできない。西野さんは現在、「海風とワインの郷」の施設管理責任者だ。  

 我が家の別荘だけは再開発から逃れ、六年前のたたずまいを現在も維持している。

 僕は今、今年六歳のミオと我が家の別荘にいる。妻の恵美が実家に帰省する時はいつも、僕はミオと二人?でここに泊まるのだ。

 雨が降ってきた。きっと嵐になるだろう。

 僕が床にバスタオルを敷くとミオはトコトコとやってきて、その上で丸くなった。

 風が強くなり雨音と波音のせめぎ合いが始まる。ミオがそわそわし始める。ミオは最初の雷鳴を待っている。窓が光る。ミオは起き上がり、僕が寝転がったソファーベッドに顔を向ける。雷鳴がとどろく。ミオはソファーベッドに飛びのり、僕の布団にもぐり込む。

「今日もいい日だったね。ミオ」

 僕がそう言うと、ミオは僕の胸に鼻先を押し付けた。

 雨音と波音の抗争が続く中、ミオの寝息に守られながら僕は世界一幸せな眠りに就いた。                                (了)

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