春は北からやって来る
@maasann11
第1話
春は北からやって来る
石倉栄治
一
キーヨ、キーヨ。頭上で鳥の大きな声がする。見上げると青々と茂った桜の木の葉っぱが揺れて、灰色の鳥が見え隠れしている。この前まで枯れ木のようだった枝一面に花が咲き、その後出てきた葉っぱは日に日に色が濃くなり風に揺れ、鳥と遊びざわざわと音を立てている。降り注ぐ太陽の強い日差しを浴びて、まだ若い葉っぱ同士が喜んではしゃいでいるようだ。僕は近所の神社に散歩に来ていた。木の幹をぽんぽんとたたくとまた歩き出す。五月の連休が終わって三週間ほどたっていた。そろそろ六月の声を聞こうというこの季節が僕は好きだ。植物や動物が強い日差しとさらさらとした空気の中で一番うれしそうに見えるからだ。石でできた長い階段を上りきった。正面に拝殿があるがそこには向かわず、その脇から神社の外に出て隣接している市民公園に入ってゆく。散髪に行くのが面倒で長く伸びてしまった髪が風にゆれる。ゆっくりと木々の間にうねる散歩道を歩いてゆく。時々チョウチョや鳥を見上げて立ち止まる。
「ああいい休日だな」
ぼそりと独り言を言ってみる。菓子メーカーとしては国内二番目の売上げの東証一部上場企業、東京製菓に就職して五年、二七歳になっていた。今は商品開発部、研究開発室で新商品の味や香りの研究をしている。人と話すのは苦手だ。だから一日大きな自分の机に向かって、指示されたターゲットの年齢層向けのしょうゆ味やソース味の香りや味を作り、同じ商品開発部にある商品開発室に提案していく今の仕事は気にいっている。一口にしょうゆ味といっても年齢層によって好みの味は微妙に違っている。たとえば若い人向けには甘辛くして濃い味にする、またはそこに洋風の香辛料を加える。年配向けにはあまり濃い味にしない。また塩味が効いていた方が受ける。香辛料はあまり使わない、などベースになるノウハウはあるものの、微妙な味や香り、食感の違いで売れ行きはぐんと違ってしまう。市場調査などのマーケッティングと過去の商品売上げをベースにしたノウハウ、そして感性がたよりの仕事である。
一時間半ほど弛緩してしまいそうな陽気と晩春の雰囲気を散歩で楽しんだ後、アパートの前に戻ってきた。二階建て、1DKのぼろアパート。さびの浮いた鉄の階段をぼこぼこと音を立てて上り、合板でできた薄いドアを開ける。入ったところが台所。
「ただいま」
そう言って熱帯魚の水槽に近寄るとカラフルな魚たちが寄ってくる。少し大きな黒い魚が太郎左衛門で、みんなのボスだ。一つまみしたえさを、丁寧に全部の魚が食べれるようにばら撒いてやる。太郎左衛門が一番に口をぱくつかせるが、まわにに沈んでいく粒に他のカラフルな小さい魚たちも近寄って食べている。ひれを小さく動かして、喜んでいるようにも見える。生き物は昔から好きだった。ぼくの姿が見えるととても喜んでよってきてくれる。
「かえったよ」
引き戸を開けると六畳の間で文鳥のちーちゃんがケージの中でさえずっている。僕を見つけるとケージを忙しく動き回り、出してくださいとアピールをする。ふたを開けて部屋に放してやるとばたばたと羽ばたき、電灯の周りを大きく一回りしてぼくの肩の上にとまる。肩に乗せたまま風呂のお湯を入れに向かう。一人で暮らすには十分快適な空間だ。風呂の湯がたまるまでの間。ちーちゃんを肩にとまらせたままPCを立ち上げネットにつなぐ。インターネットも好きなことの一つだ。人と話すことは苦手だがネットだと十分考えてから自分の言葉を書ける。第一相手が見えないし、相手もこちらが見えないので、緊張しないですむ。Gパンにみどり色のTシャツを着ていても色が変だといわれることも、あなたは臭いと言われることもない。そして何より趣味が合う人との話は楽しい。まず熱帯魚の愛好家が作ったページを開き、掲示板に書き込む。『今日の太郎左衛門は笑っている。最近仲のいいグッピーの彼女が自分について泳いでくれるのがよほど嬉しいのだろう』
次に文鳥好きのおばさんが作っているのホームページをひらく。ピーちゃんのでかアルバムと言うとコーナーには、かわいい仕草で写っている鳥の写真もいっぱい貼ってあり楽しい。鳥ばか掲示板というBBSにもゲストが多くにぎやかだ。『ちーちゃんに出してくれとせがまれ、出すと今度はおなかがすいたよとせがまれ、せっかくの休日だというのにゆっくりネットサーフィンしてる暇もありません。今も頭にとまり早く、早くと髪の毛をつついて催促されてます(笑)』
その他にもこのページの管理人さんが主催している文鳥の愛好者によるメーリングリストにも参加していて、そこには時々ショートショートくらいの長さの物語を載せたりしている。これをやっていると時間を忘れ、ストレスの解消にもなる。残念ながら平日はなかなか長い時間できないが、休日にはよくパソコンの前に座り、ちーちゃんと話をしながらネットをすることが多い。
月曜日の出勤はいつも憂鬱だ。おまけに昨日とは打って変わり、今日は朝から雨粒が見えるほどのしっかりとした雨が降っていて、電車の中がやたら蒸し暑い。走り梅雨だろうか。満員電車も気のせいかいつもより混んでいる気がする。混んでいる電車だと担いだリュックが後ろの人の邪魔になるので、手で持たなければいけない。たいしたものは入っていない。本やちょっとした飲み物、気が向けば途中で買った昼のための弁当。それから前のポケットには社員証。だけどリュックは両手があくので通勤のときに本を読んだりするのが便利で、学生のときから使っている。特に学生生活の後半に買ったこの若葉色のリュックは、値段が一万五千円と高かったがとても気に入っている。オレンジ色のマチの部分、濃緑色の大きなポケットと配色もなかなかいい。登山用に作られていて、重いものを入れても大丈夫なようにしっかりとした造りになっている。しかも雨が降って濡れても中に水がしみこまない素材でできている。ポケットも結構多く、使いやすいように配置されている。そのお気に入りのリュックも今は下でぬれたかさにこすられ、足でけられている。約一時間の通勤の果てに会社にたどり着くとへとへとになった。社員証を首にかけ部屋に入り、タイムカードを押す。
「おはようございます」
少しうつむき加減で口の中で小さな挨拶をする。ぼくはこの瞬間が苦手でいつも緊張してしまう。返事は返ってこない。ロッカーにかばんを入れ白衣を羽織、自分の席に向かう。
「並木君、ちょっと」
一番奥の席の末永室長が、ぼくの名前を呼び立ち上がって会議室のほうに歩いてゆく。会議室に入ると末長室長は向うの安っぽいパイプ椅子をガラガラと引いて足を組んで座った。それからドアを閉めるように言って僕を向かいに座らせた。
「今度六月の定期人事異動で君も移動になります」
「あの…」
ぼくの言葉をさえぎるように手をあげて言葉を続けた。
「営業部、お客様相談室でぜひ君を欲しいということだったので」
ぼくは一瞬、何を言われたのか分からなかった。営業?お客様?
「あの、商品開発室ではないのですか」
「並木君、技術者といっても会社の中ではチームワークで動いているんだよ。大学の研究者ならいざ知らず、あまり孤立してしまうのはちょっとどうかな。幸い今度の部署はいろいろな人と接することができるようだし、そのあたりのことも勉強してまた戻ってくればいい。私たちは待っているから」
そう言うと室長は立ち上がって部屋を出て行った。この部屋は何回も打ち合わせで使っていたが、一人残された殺風景な会議室が今日はすごく広く感じた。それにエアコンが効きすぎて寒い。六月の移動、お客様相談室。少し置いて衝撃波がどーんとぼくの胸を突き飛ばした。人と話すのが苦手だったので大学の理学部を卒業するとき大学院に行くか就するか迷った。担当教授が東京製菓の研究開発課に入れると言って紹介してくれたので、教授の推薦を受け入社したのだ。ほんとは大学に研究者として残りたかった。それなのに、いまさらどうしろというのだ。お客様相談室というと商品事故などに対し、客からの苦情を処理するところだろう。そんな仕事、僕にできるはずない。これは会社をやめさせるための嫌がらせか。そうだ、いつか聞いたことがある。不景気で人員を整理したいとき、ターゲットの人間を草むしりや僻地の倉庫、苦情処理係などに移動させ苛め抜いて辞めさせるということを。いろいろな会社でそういうことが行われているらしい。でも、なぜ僕なんだ。何も悪いことはしてないじゃないか。商品開発部から要求される味を作り、サンプルとして出し、それがヒット商品になったことも何度かある。それなのになんで僕なんだ。しかし、そんなことを室長に面と向かって言えるほど僕は度胸も勇気もない。僕には人から嫌われる要素が性格の中にあるのだろうか。またあのころの繰り返しじゃないか。いっそ今、辞めてしまおうか。頭が真っ白になってゆき、何も手につかなかった。
昼休み。気がついたらトイレの洗面台の水を出しっぱなしにし、ボーっと手をその水の流れにさらしながら突っ立っていた。鏡に映る僕の顔は紙のように白く、弛緩していてまったく生気がなかった。何やってんだろう、こんなところで。誰かに見られたかなあ。昼休みのがらんとした廊下を歩いた。体に力が入らない。研究室の部屋までの廊下が、ゆがんで細長く見えた。うつむきながらとぼとぼと歩いた。ふわふわと雲の上を歩いているようでまるで夢の中にいるようだ。どうしよう、どうしようと思うばかりで、思考がまったく前に進まない。部屋の前のドアを開けて誰もいない部屋に入った。時計を見ると昼休みは一五分ほど過ぎていた。みんなは食堂にでもお昼を食べに行っているのだろう。僕は一五分もトイレで手を水に浸していたのか。
「何で私なんですか」
ふと気づくさっきまでいた会議室のドアが少し開いていてそこから声が漏れてきている。無意識にそちらに吸い寄せられた。
「上からの命令でね。研究開発室も商品開発室も例外なく、全社的にリストラをせよと言われているんだよ。うちも不景気のあおりで結構やばいんだよ。もうこれ以上、銀行から融資を受けるなら天下りの役員を受け入れなければいかんらしい。三期連続の赤字、二期連続の無配ではな。役員で済めばいいが、そうなるといずれ社長も銀行からということになるだろう。常務会ではかなり危機感を持っているらしい」
「だから、何で私が」
どうやら末永室長と森本課長らしい。
「君の将来を考えたら、こんな傾きかけた会社にしがみついているのは時間の無駄だろう。できるだけ早く見切りをつけて、別の新しいフィールドで目いっぱい君の才能を活かした方がいいと思うよ」
「そんなおためごかしは聞きたくないですね」
「じゃ、はっきり言おう。商品のほうもうちも三人分の経費削減を言い渡された。君に泣いてもらえばあと一人の削減で済むんだよ。それだけ管理職は給料が高いということだ。森本君はこの部屋の中で一つの系統の指揮をとっているが、物を作り出しているわけではないだろ、もともと事務系なんだから」
「だからって」
「経費削減を言い渡されたとき、はっきり言って並木と君はすぐに私の頭に浮かんだんだ。技術者を三人も辞めさせるわけにはいかないからね。並木はそれなりに優秀だが協調性というものがまったくない。チームとしては機能しない人間だ。そろそろ中堅になるので給料もそれなりに上がってきているしな。」
「なんとか残れませんか」
「君も並木もある意味ではすごく優秀でもある。事務系にもかかわらず理系の集団をまとめていた君も、自分の分野には特に執着してものすごく深く掘り下げていっていた並木もな。残りたいなら君も相談室に行くか」
「いまさらあんな姥捨て山に行ける訳ないじゃないですか。外人部隊のなかにプロパーを入れて、ていのいい退職勧奨室じゃないですか、我々生え抜きの東京製菓の人間にとっては。陰であそこの送られるやつのことを呼んでいるか、ご存知ですか」
「さあな」
「ガス室送りって行ってますよ、みんな。あそこに放り込まれたら生きては出てこれない。kれまでもいろいろな部署から何十人も送られているでしょう。誰が生き残っているんです。元の部署に復帰した人間は皆無でしょう」
「君は管理職なんだからごねても無理だ。並木は組合員でいきなり首というわけにいかんからワンクッション置くだけだ。第二の人生の健闘を祈るよ」
「人の首切って、あんただけ出世するつもりですか」
「まあ、それもかかっているんだよ。本来なら今期に昇進だと工場長の長内常務にゴルフのときに言われてたんだが、不景気のあおりでね。会社がスリムになって軌道に乗れば俺にもまたチャンスが回ってくるよ。あっはっは」
「それがおまえの本心だろう」
「おまえか。ふん、本心が出たなあ、森本よ。並木は寝癖がついたままよれよれの服で出社したり、自分の殻に閉じこもっていて付き合いにくい人間だが、技術者としては俺も認めていた。お前は総務から回ってきたときから気に入らなかったな。この前辞めた近藤常務の甥かなんか知らんが、理系でもないのにここは無理だろう。分相応に総務で励んでればよかったんだよ」
がたっと音がして動く気配がしたので慌てて廊下に出て階段を駆け下りた。心臓がどきどきしている。立ち聞きして顔を合わすことほどばつの悪いことはない。僕だけじゃないのか。森本課長も辞めさせられるのか。ああでもどうしよう。僕に人との対応をする仕事なんてできるはずない。まして苦情処理など絶対無理だ。姥捨て山、退職勧奨室、ガス室送り。立ち聞きした会話の中でそんな単語が頭の中で渦巻いている。ふと気がつくと水が目の中に流れ込んでくる。ザーっという音が蘇ると同時に急に周りの景色が目に入ってきた。気がついたら駅へと向かう道を傘も差さずに歩いていた。頭からだらだらと流れ落ちてくる雨が目に入る。めがねに雨粒がびっしりついて景色がゆがんで見える。上着から、雨が滴たり、びっしょりと濡れたズボンは腿に張り付いて気持ちが悪い。靴の中にも水が入り、歩くたびにぐちゃ、ぐちゃと音を立てる。前から来る人がきみ悪そうによけて通る。僕は立ち止まって上を見上げた。雨が降ってくる。大きな粒の雨が降ってくる。それが眼の中に入り、流れては落ちる。流れ落ちる雨が何でこんなに温かいのだろう。
翌日はどうしても起きる気がせず、会社を休んだ。ご飯も食べる気になれず、外にも出なかった。夕方、冷蔵庫から納豆と卵を出してきてご飯にかけて流し込んだ。普段は自分でご飯を作るので、外に買いに出ないでも二、三日分の食料は買い置きがある。頭の芯でざーっとテレビの雑音のような音がしていて何もできなかった。わずかに熱帯魚たちに話し掛けたり、文鳥のちーちゃんがそばに寄ってくるのを相手に遊んだりしているとき、霧が晴れてゆくような気がして、わずかに救われた。
その翌日も会社に電話を入れて休んだ。もう会社に行く気持ちが切れかけていた。昼前になり、思いついて街の中にあるハローワークに行った。中に入ると多くの人であふれていた。列に並んで登録手続きをした。まだ会社をやめているわけではないのでPCでの求人の検索だけに登録した。いっぱい並んでいるPCは満席で、そこでも順番待ち。三〇分ほどしてようやく順番が回ってきた。PCの画面の横には並んでいる人のため、このPCは三〇分経つとチャイムが鳴り動かなくなりますので席をお譲りくださいと書いてある。はじめについてきてPCの準備をしてくれた係りの人が説明してくれた。
「たくさんの会社が表示されると絞り込みにくいので条件はきつめに入力したほうがいいですよ」
「きつめにというと」
「そうですね、今お勤めの会社と同じ条件で入力してみて、それから少しずつ緩めていくとかですね」
「はあ」
言われたとおり給料や休日、通勤エリアなど今の会社と同じ条件で入力してみたが、該当するものはありませんでしたと出てしまった。少しずつ条件をゆるくしていったがヒットするものはなかった。思い切ってほかの条件はそのままで給料だけ条件をはずしたら、五〇〇件も出てきた。ただし技術職は見つからなかった。最初の三ページほどを見てみたが、どれも驚くほど給料が安い。アパートの部屋代や食費などを引いたらいくらも残らないような感じだった。再就職難しさを改めて思い知らされた。早々にハローワークを退散して駅で就職情報誌を手に入れ帰ってきた。これにも自分に合うと思われる仕事はまったくなく途方にくれてしまった。情報誌を開いたまま放心していてはっと気がついたら日が暮れていて部屋の中は暗くなっていた。電気をつけてごろんと仰向けになった。やっぱりどうせ気に入らない仕事をするんだったら、今のところにしがみついていたほうが条件面では断然いいようだ。がまんするしかないのか。でもどこまで我慢できるだろうか。
どうすればいいんだろうね、ちーちゃん。
電灯に文鳥のちーちゃんがとまり、あっちこっちつついて遊んでいる。ほこりをついばんでは下に落としてくる。天井のしみにちーちゃんの影が重なった。
二
思い出したくもない時代のことが溢れ出してくる。小学校のころから目が悪くなりめがねをかけていた。体が大きくならず運動も苦手だった。勉強もあまり好きではなかったが、どういうわけか理科はものすごくいい点が取れた。何もしないでも自然に先生が言っていることが頭に入ってきたし、暇があると図書館でいろいろな図鑑を眺めていた。中学一年生の一学期、期末テストのとき、理科で難しい問題が出て学年で僕だけができた。先生も誰もできることは期待してなく、こんな問題もあると生徒をびっくりさせようと思ったらしい。もちろんそのテストは一人だけ百点だった。
「並木博士。次から君が授業をしてくれ」
先生はテストを返すときそう言った。クラスで博士、博士の大合唱が起き、それがきっかけだった。休憩時間、小学校の時の友達の藤谷君が教壇の横に立った。
「並木博士、授業をお願いします」
大きな声でそういわれ僕はうつむいた。
「先生、もったいぶってないでさあ、さあ」
体の大きな中西君たち二、三人が寄ってきて脇を抱えて教壇に連れて行かれた。
「や、やめてくれ」
僕の抵抗などないに等しい。抱え上げられ足が地面から離れたときの屈辱感は経験したものでないとわからないだろう。自分がいかに力がなく役立たずなのかをクラス全員の前でさらされているような気分だった。クラスが奇妙な笑いに包まれて、それに気をよくしたそいつらはますます調子に乗った。僕を黒板の前に立たせ、チョークを無理やり持たせ、SEXと書かせた。ちょっとしらっとした空気がクラスに流れたが、そこでチャイムが鳴り立ち尽くす僕を残しみんな席についた。国語の先生が入ってきて黒板を一瞥して、君は英語が得意かと言ったのでまたクラスが爆笑の渦に包まれた。涙が出て僕は教室の隅にうずくまったけど、先生はそのまま授業をはじめてしまった。
「ひゅー、ひゅー」
「雅実ちゃんてエッチ」
翌朝、教室の扉をあけるとすでに登校していた生徒がいっせいに奇声をあげた。黒板を見ると雅実はSEXが好きですと黒板いっぱいに書かれている。無視して自分の机に来たら机にも大きくSEXと書かれている。僕は黙って消しゴムでそれを消した。誰も黒板の文字を消してくれない。そのうちホームルームの時間になり担任の林先生が来た。
「これを書いた者、手をあげなさい」
誰も声を出さない。
「並木、君は知っているのか」
僕はうつむいた。
「こんな下らんことするやつは、人間のくずだ。クラスの中にいるなら反省しなさい」
そう言って先生は黒板消しですみから丁寧に消して行った。二〇分のホームルームのが終わるまでずっと無言で、まるで手についた汚いものをぬぐうように何度も何度も消し続けた。最初はざわついていた教室の中が次第に静かになっていった。最後の五分は先生が動かしている黒板消しの音だけが、やけに教室の中に大きく響いていた。ホームルームが終わっるとまた何人か集まってきた。
「お前さ、いい子ぶってないでなんで自分が書きましたって言わないんだよ」
「おかげで、クラスのみんなが疑われて迷惑したんだぞ」
「あやまれよ」
小学校のとき仲のよかった藤谷君まで後ろから遠慮がちにそんなことを言った。
「あーやまれ、あーやまれ」
周りでみんながはやし立てる。四人くらいで無理やり床に座らせられて、手を持って床に付かされ、土下座の格好で頭を押さえつけられた。
「博士、お勉強だけが生きがいですか」
みんな何言ってるんだ。僕は成績なんかよくないじゃないか。みんなと同じじゃないか。おまけに体育は苦手だし。助けてくれよ、許してくれよ。だけど言葉は出てこない。ただ、ただ床に顔を伏せて泣くだけだった。
夏休みは僕にとって天国だ。いやな思いをせずに一日一人でいられる。気が向けば外に出た。小さいころからよく行っていた小高い丘にでかけた。そこでバッタやセミをずっと見ていた。座るのに疲れると草の上に仰向けに寝転がる。空は青く、高く、そして鳶が気持ちよさそうに輪を描きながら飛んでいた。今度生まれてくるときはとんびがいいなあ。あいつら気持ちよさそうだもんな。そんなことを考えていると手にもぞもぞと触れるものがある。起き上がってそこを見ると、茶色のおけらが手と地面の間に入ろうとして、大きく力強い手でかいているところだった。くすぐったくて気持ちいい。手にとってこの不思議な虫をしばらく見ていた。小さくてかわいい目。赤色っぽい大きな手を一生懸命かいて指の間に入り込んでいく。そっと柔らかそうな土の上に置いてやった。悪いやつらにつかまるなよ。そう声をかけるとおけらは草と土の間に消えて行った。少し丘を降りたところに神社がある。そこの境内の裏は砂地になっていて、縁側の下にはあり地獄が何匹も住んでいる。きれいな円錐形の穴の中心にその主が息を潜めている。そしてその横をありが歩いている。僕はわざとありを落とすようなことはしない。じっと見ている。するとあまりに端を歩きすぎたありが、足を踏みはずすようにずるっと滑り落ちた。途中で止まって何とか這い上がろうとしているが、砂が滑り同じところでもがいている。その砂が底に落ちると、気配を察したその巣の主はぱっぱと数粒の砂をありに向けて跳ね上げ、ありを底まで落とす。そしてくわがたのくわのような口ではさみ砂の中に引きずり込んでいった。あんなグロテスクで強そうなあり地獄だが、やがて羽化すると信じられないような姿に変身する。いかにも薄幸の美人という感じのはかなげなカゲロウになり、そしてすぐに死んでしまう。そうした自然の中の変化を見ているといつも時間を忘れるほど楽しかった。ずっとこうしていかった。
しかし、そんな幸せな時間は長くは続かない。飛ぶように夏休みが終わると、また憂鬱な学校が始まってしまった。一ヶ月の休みがあったので、みんな僕のことを忘れていてくれと願った。
「博士、お久しぶり」
廊下でどーんと背中をたたいて追い越された。だめだ、誰も忘れてやくれはしない。教室に入ると数人に取り囲まれた。
「久しぶりに会ったのに嬉しそうじゃないじゃん」
ヘッドロックというプロレスの技。頭を脇に抱えられ、ひねりあげられた。
「痛いよ、太田君」
「おい、おい、太田君だって。お前博士に好かれてんじゃねえの」
「おえー、やめてくれー」
そう言うと頭をぱっと話して汚いものをぬぐうようなしぐさをした。ずれてしまっためがねを直しながら僕は自分の席に座った。
「おい、そこ博士が歩いた後だぜ」
「うへ、気持ちわりー」
いつのまにか僕は汚いばい菌のようになってしまった。僕が触ったり持ったりしたものをみんなが大げさに避けるようになる。だから僕は極力動かないようにした。でも体育の時間はそうはいかない。ボールを投げる。鉄棒につかまる。僕は仕方なくやってるのに、みんなはその後を触りたがらない。
「こら、中西、なにやっとるか。そこの鉄棒でやれ」
「でも」
「なーかにし、なーかにし」
みんなにはやされて体の大きな中西君は周りを睨む。しかし先生にせかされて仕方なく鉄棒を汚そうにつまむ。
「お前、まじめにやらんと体育の点は1だぞ」
先生に怒られてようやくちゃんと握った。
体育の時間が終わると中西君たち六人に体育館の倉庫に連れて行かれた。僕を取り囲む人数がだんだん増えてくる。
「お前、汚いから体育の時間休め」
「でも」
「みんな迷惑してんだよ。やたらボールや鉄棒をべたべた触りやがって」
「ほんと、おえー」
「きもいんだよ」
回りから次々に訳のわからない言葉を投げつけられる。僕は何も考えないようにして、ただただ下を向いていた。
「こいつ、なんとか言えよ」
「わっ、泣いてやがる。きもー」
後ろの人にどーんと背中をけられた。僕は思わずマットの上に両手をついた。
「ばい菌やろうは巻いちまおうぜ」
中西君の声を合図にわっと六人に抑えられマットに巻かれた。巻かれているときは少し暗く、程よい圧迫感もありむしろほっとした。この中にいれば痛くない。巻き終わったのかぐるぐる回っていた動きが止まった。
「うりゃー」
声とともに僕の背中が重くなった。
「おい、おい、ニードロップはまずいんじゃないの」
「やべ、チャイムが鳴ってるよ。次の授業始まるぞ」
太田君の声がして足音が遠ざかり、やがて静かになった。マットの中は暖かく、居心地がよかった。 僕は声をあげて泣いた。誰にも聞こえない。安心して声を上げられた。その声が悲しくてまた涙が出る。とめどなく泣ける。そして何で泣いているのか分からなくなって、気がついたら眠っていた。
どれくらい時間がたっただろう、ガラガラと体育準備室のドアの開く音がした。
「おい、雅実」
押し殺した声で小学校のとき友達だった今江君の声がした。
「何でお前出てこないんだよ。先生たちが並木はどこへ言ったと騒ぎ出しているんだぞ」
「だって、今江君、一人では出られないよ」
そう言うと今江君はマットを解いてくれた。マットから出たときなんだか不安になった。
「一緒に来るな。ちょっと経ってから教室に戻れ。いいな」
今江君はちょっと悲しそうな目でそう言うと走って戻って行った。昼休みが終わって午後からの一時間が過ぎていた。
「おい、並木。おまえ、どこにいたんだ」
担任の林先生と、六時間目の社会の先生が教室で待っていた。みんなの視線が痛いほど突き刺さる。僕はうつむいた。
「おなかが痛いんです」
口の中でつぶやいた。
「トイレに行っていたのか」
「はい…」
「二時間も?」
「にーちじかん、にーちじかん」
教室で拍手に乗ってはやす合唱。
「静かにせんか。並木。体調が悪いのなら保健室に行ってこい」
そう言って保健室に行かされた。授業が始まっていて誰も歩いていない廊下をゆっくりと歩く。静まり返った廊下は妙に気持ちよかった。
いじめられているといっても徐々にエスカレートしてくるので最初はそれほど苦痛ではなかった。急に自分のことでみんなが騒ぎ始め、それまでほとんどいないような存在だった僕は、快感とまでは言わないが、いろいろと言われることがそんなにいやではなかった。エスカレートしていったときもその瞬間瞬間は、悲しいとかいやだとか言うよりはみんなの前でいろいろなことを言ったりされたりすることが恥ずかしいと思うくらいで、正直に言えば何がなんだかわからないうちに今日まできた。でも、今日、授業に出ないで一人でいるとすごく気が楽だということに気がついた。実験室や音楽室がある、校舎の北側の一階に保健室はある。ガラガラと遠慮がちに引き戸を開ける。中はスチールの硬そうなベッド。大きめの事務机。椅子に座っていた白衣の先生が上体だけひねって僕のほうを見た。
「先生、頭が痛いんです」
保健室の天野先生は髪が半分白くなった、ちょっと恰幅のいい女の先生だ。
「君、一年生ね、お名前は」
先生はバッジの色を見てそう言った。
「並木雅実です」
「並木君ね。じゃ、そこに横になって」
先生は僕をベッドに寝かせると、窓のカーテンを引きベッドの回りのカーテンも引き寝かせてくれた。誰もいない空間がこんなに居心地がいいとは思わなかった。僕はすぐに眠りに引き込まれた。
保健室はすごく居心地がよかった。うるさく言われないし、みんなにたたかれたり、無理やり何かをさせられたりしない。もうみんなの中に入っていくのがいやになった。それで毎日、保健室に行くようになった。学校に来て二時間くらい授業を受けると翌日も、その次の日も保健室に行った。
「並木君、あんた教室に行きたくないの」
一週間ほど経った日、天野先生は聞いてきた。
「あの、本当に頭が痛くて」
「ここにいたければいてもいいのよ。でも授業がわからなくなるでしょ。ベッドの中でもいいから授業に合わせて教科書を読んだら?」
「でも、荷物が教室だから」
「あしたから朝、ここにかばんを置いていきなさい」
天野先生はそう言うとまた机に向かって何か書き始めた。先生は訳を聞くでもなく、がんばれと言うわけでもなく、淡々と僕に必要なことだけを言ってくれるだけだ。でもこの人と話していると僕は気分が落ち着く。翌日からここが僕の教室になった。
「分からないことがあれば声をかけてね」
その日から仕切りのカーテンは開けられたままになった。僕はベッドに座り教科書を開いた。
「並木君はどの教科が好きなの」
「僕、理科が好きです。生物を見ていると飽きないんです」
「そう、私も理科は好きだったな」
先生は遠くを見るような目で微笑んだ。
「それで保健の先生に?」
「そうね、先生は看護婦さんだったのよ。ふふふ、患者さんに好かれる若くて美人の看護婦さん。今じゃ、おばあちゃん目前だけどね」
「そんなことないです。今でもとっても優しくて、僕ここ好きです」
「あら、ありがとう。君くらいね、そう言ってくれるのは。今は看護師というけど、私は看護婦さんと呼ばれるほうが好き。そのほうが暖かくて優しく聞こえるから。本当は医者になりたかったんだけど英語があまりできなかったから、少しテストが簡単だった看護婦の学校に行ったの。だけど中学生の英語くらいならまだ分かるから何でも聞いてね」
実際、先生は正看護師の免許を持っていて、僕が聞く数学や英語の問題はすぐに、わかりやすく答えてくれた。僕は理科以外の勉強もおもしろくなり一生懸命やるようになった。先生は教え方が上手で、興味がもてるように解説をしてくれたり質問してくれたりした。
冬休み、正月の朝。お母さんが郵便受けから年賀状を取ってきた。いつもうちにはあまり多くの年賀状がこない。
「あんたにきてるわ」
お母さんが一枚だけ年賀状を手渡してくれた。僕にくることはないと思っていたのでとても驚いた。保健の天野先生からだった。嬉しかった。僕は裏返して大切に一文字一文字ゆっくり味わいながら読んだ。小さい字でいっぱい書かれている言葉が宝石のように輝いて見える。いまどきの子のように細いペンでいろんな色を使って書かれていた。先生は今、青森の田舎に帰っていて雪に埋もれているらしい。地吹雪といって下に積もった雪が強風で飛ばされて前が見えないほどになるらしい。季節は厳しいが食べ物は冬のほうがおいしく感じるし、悪いことばかりではないとも書いていた。そして最後に三学期も気軽に保健室にきてもいいと書かれていた。先生がいる青森の真っ白で前も見えないほどの吹雪の様子や、荒れる港から大きな魚が水揚げされる様子を想像しながら、なんとも暖かい気持ちになった。こんな小さな紙片のこれだけの文字で、これほど幸せな気分になれるんだなあ。先生ありがとう。もちろんその日のうちに時間をかけて丁寧な文字で書いた返事を出した。勉強がおもしろくなりかけていること。もう宿題はお正月前に終わっていて、大晦日前に、かなり難しい問題集を理科と数学の分を買ってきて明日からやるのを楽しみにしていることなどを書いた。
三学期は先生が持ち込んでくれた机で勉強するようになった。ひとつやりかたを教えてもらうとどんどん分かるようになった。それを先生がほめてくれる。それが嬉しくて自分で買った問題集も持ってきてやるようになった。でも相変わらず教室にはいけなかった。それでも先生はそのことについては何も言わなかった。
二年生になってクラス替えがあり僕はクラスに少しずつ出られるようになったが、三年になるとまた中心になっていじめていた中西君と同じクラスになってしまった。一年のときとは比べ物にならないくらい陰湿な嫌がらせと暴力。悔しくて何度も泣いた。こんなやつに負けるもんかと意地になって教室に行っていた。二年の時には少しみんなの中にいる楽しさが分かり始めていただけに、今度は余計につらかった。五月の連休が終わるころどうしても耐えられなくなり、再び保健室に逃げ込んだ。
三年の六月、梅雨に入ったころだった。昨日から降り出した雨は上がっていたが、帰るころにはまた細かい雨が降り出していた。いつものように保健室から出たぼくは、裏門から学校を出た。三年になったときからみんなを避けるように遠回りして帰っていた。いつのまにか顔が見えないように傘を前に倒して歩く癖がついていた。見通しの悪い狭い道に入ったところだった。
「やあ、博士じゃないですか」
突然前で声がした。傘で前が見えなかったけど声の主は分かった。中西君だ。三年になり体が大きくなり、ちょっとたたかれただけでもとても体にこたえる。傘の下から見えている足は三人いるようだ。僕は踵を返した。しかしその先にも足が見えた。知らない間に後ろからもついて来ていたのだ。
「おや、どこに行くんですか」
「いい傘持ってるじゃないですか。僕傘忘れちゃったんだよね。貸してくれないかな」
いつも中西君にくっついて歩いている浅井君に傘を取り上げられた。
「お前、俺たちのクラスのくせになんで教室に来ないんだよ」
「俺たち学級会でいつもいじめについて言われてうっとうしいんですよね」
「おい、聞いてんのかよ」
中西君に胸倉をつかまれ体が浮き上がった。
「てめえ、うっとうしんだよ。教室こねえんなら、学校に来るんじゃねえ」
太田君の声が後ろからして髪の毛をつかまれた。中西君がどんと突き飛ばしたので僕は後ろの太田君のほうによろめき、もつれて一緒に倒れた。下は雨で濡れていて体が濡れた。
「つめてえ、なにすんだよ」
太田君は立ち上がってすごい形相で僕をつかみあげた。びりびりと音がしてワイシャツが破れ、ボタンがとんだ。そのボタンが太田君の目に当たった。
「このやろう」
がーんと顔の横に衝撃があって気がついたら地面に転がっていた。
「ふざけんなよ、このばい菌やろう」
背中をどーんと蹴られ、それから何人かでけられた。僕は頭を抱え嵐が過ぎ去るのを待った。痛くなんかない。でも濡れた地面で体が濡れて気持ちが悪い。
「てめえら、何やってんだ」
頭の上で大きな声がした。女の声だった。
「な、なんだ、てめえ」
太田君の声がした。僕は声のほうを見上げた。くるぶしまである長いスカート、尻まで隠れる長いブレザー。うちの中学の制服だが改造してすごい形になっている。臙脂のネクタイは胸まで下ろし、ブラウスは第二ボタンまで開いていた。顔は見ないでもわかった。籠井つばめだ。
「お、おい」
中西君が悲鳴のような声を出した。ノート一冊くらいしか入りそうにないくらいに薄く改造したかばんからかばんから出した手が、銀色にぎらりと光る。それはゴムのグリップがついた大きなナイフだ。
「おめえら、うじうじ、うじうじと寄ってたかって一人をいじめやがって。見ていてべどが出るんだよ。今度やってたら殺すぞ」
ナイフを前にむけたままグイッと一歩前に進んだ。
「わ、わー」
みんなは変な悲鳴を上げて逃げ出した。その情けない声や姿がおかしくてくすっと笑ってしまった。つばめも少し笑った。
「ありがとう」
「お前もちょっとはやり返したらいいじゃねえか」
つばめはあのころと同じように、小さい『っ』を言うとき、舌を前歯で軽く噛んでからそう言った。それはつばめの昔からのくせだっだ。
「僕には無理だよ」
「まあいいか。あんまりひどいようだったら言ってこいよ。また脅してやるから」
「つばめ」
「なんだよ」
「そんな物持ってるの見つかったら大変だよ。今度は僕、逃げるから。もう助けてくれなくていいよ」
「まっくん強いんだ」
「僕、嬉しかったよ」
「じゃあな」
にこっと笑った顔が眩しかった。金髪にしていて、ところどころピンクに染めている髪をかき上げて手をあげた。
「じゃあね」
かかとを踏み潰したスニーカーを突っかけ、ぞろぞろという靴の音が遠ざかる。引きずりそうなスカートととんでもなく長いすそのブレザーの後ろ姿が角に消えた。
僕は骨が折れてへちゃげてしまったお気に入りの傘をたたんで歩き出した。壊れた傘をくるりと回してみた。
籠井つばめ。小学校のときのいじめられっ子。あまりみんなと一緒に遊ぶ子ではなかった。小学校三年くらいまで授業中におしっこを漏らしてしまう子だった。しても黙っているのだが、休み時間に入って床にたまった水溜りに気がついた男の子がからかい始める。みんなではやし立て、汚いといって逃げ回る。女の子たちも自然に避けるようになった。今だからそれは心因性頻尿だったと言うことがわかったが、そのときは誰も、多分先生でも考えつきもしなかっただろう。当時籠井つばめの家では両親が離婚する直前で、喧嘩が絶えなかった。小さかったつばめをかまってやる心の余裕が両親になかった。そのことが原因となり、おしっこを漏らせば誰かがかばってくれると言う心理状態になった。そう言うことを知ったはずっと後になって、たまたま同じようなことが雑誌の記事で出ていたのを読んでからのことだ。
三年生のときは席が隣同士だったが、僕は別につばめが嫌いではなかった。積極的に冗談を言ったりはしないが、朝は『やあ』帰るとき『ばい』とか、消しゴムを借りたときは『ありがとう』とかそういう会話はした。四年生くらいからはおしっこを漏らすということはなくなったが、つばめのそばに寄る子はいなくなっていた。五年生のとき、春の遠足で小さな山に登った。友達と追いかけたり、追いかけられたり、はしゃぎながら息を切らして登った。やがて頂上につき五九七メートルと書いた板の周りに集まってみんなで記念写真をとった。頂上を越えた向こう側は小さな草原で、短い草が春の乾燥した気持ちのよい風に揺れている。。休憩のための屋根付きのベンチと机も二つある。周りの木も南東の方角に刈り払われていて、景色がとてもいい。まだ行ったことのない町が下のほうにきらきらと輝いている。みんなは競ってその明るく日のあたる、景色のきれいな広場で弁当を広げた。ふと見るとつばめが一人で立っている。しばらく何か考えていたが、やがてもと来た道のほうにもどって行き、頂上を越えて北面の日の当たらない方に降りていった。少し間を空けてついていってみると、大きな木の向うに座っている。僕もなんとなく少し離れて北側の斜面のほうに座った。そこは日陰になっていて少し湿った木の匂いがした。つばめは別段寂しそうではなく、すっきりした表情でゆで卵をむいたような白く丸い顔をすっと上げている。前にある切り株を机のようにして、一人で弁当を開き自分たちが住んでいる町のほうを楽しそうに見ていた。僕も弁当を開き食べ始めた。静かな景色の中で、何種類かの鳥の声だけが、聞こえている。斜面の向こう側では叫び声や笑い声が時々聞こえてくる。弁当はすぐに食べ終えた。
「おい、つばめ。これやるよ」
僕はデザートのイチゴが三個入っていたのをつばめの弁当箱に入れた。つばめはびっくりしたような顔で見上げたが、にっこり笑って「ありがとう」と、はっきりした声で言った。なんかそれが嬉しくて僕は持っ来たお菓子を全部つばめのリュックに押し込んで立ち上がった。
「まっくん」
つばめは恥ずかしそうにキティーの絵がついたピンクのチョコレートをくれた。つばめの話しかたにはちょっと変なくせがある。詰まる音、小さい『っ』がつくとき舌を細く突き出して前歯でちょっと噛むようにしてから次の音を出すのだ。それが今日は妙にかわいく見える。
そんなことがあってから、学校に戻ってからも時々話しをするようになった。一人でテレビタレントに会いに行ったという秘密を打ち明けられたこともある。以前親と見学に行ったことがあるテレビ局に一人で入り込み、前から好きだったジャニーズのお兄さんがいる楽屋を大胆にも訪ねたということだった。そこで追い返されることなく、グループのお兄さんたちに囲まれて彼らの出番までの時間を過ごしたらしい。お兄さんたちに絶対ここに来たことを誰にも言っちゃだめだといわれたらしい。そんな噂が広まれば子供たちが押し寄せるからだそうだ。記念に何個かそのグループの人の物をもらって来ていた。つばめは絶対誰にも秘密だよといって僕にそのひとつをくれた。目を輝かせてジャニーズのお兄さんの話をするつばめを見ていてちょっとおもしろくなかったが、みんなの前では見せないいい表情をしていた。
中学に入ってクラスが離れ、あまり会うことがなくなった。つばめは中学に入ってからもしばらくからかわれていたらしいが、夏休みが終わると変身して来た。髪の毛を金色にして長いスカートに大きなブレザー。注意した先生がやくざに脅されたといううわさが流れた。そして誰もからかわなくなった。
教室には相変わらず出れなかったが、からかっていた友達は廊下で会っても、向こうが目をそらし、目を合わせることがなくなった。もちろん、帰り道で待ち伏せされることもなくなった。
やがて卒業のときがやってきた。保健室で勉強を続けた僕も、学校に来たりこなかったりのつばめも卒業ができることになった。学校の先生たちも早く送り出したかったに違いない。
卒業式の後、送り出してくれる保健室の天野先生は僕にこう言った。
「並木君、めがねを変えるとイメージかかわると思うけどなあ。今のあなたは自信がなさそうに見えるのよ。今いろいろなめがねが安くで買えるでしょ。そうかコンタクトにしてみたらどう。めがねとると結構いい男なのよね、あなた」
僕はどきどきした。
「そんなことないです。先生、からかわないでくださいよ」
「ふふふ、この髪もおかっぱが伸びたような感じだし、今風に短くしてジェルか何かでぴぴっと立ててみれば。ゆっくりでいいの。回り道をしてもいい。あなたはできるわ。もう一度やり直してごらん。どこかでみんなに追いつく日がきっとくるよ」
「ありがとう、先生。さようなら」
めがねに涙が落ちて曇った。
結局、高校は通信教育で卒業した。天野先生のおかげで勉強はかなりできるようになっていた。大学を受験して工業系国立大学の、理学部理学科に入った。大学はぜんぜん今までと違う雰囲気で実験に明け暮れる僕を許容してくれる人たちが多かった。ほとんどの人がめがねをかけていて、TシャツにGパン。その上からよれよれの白衣を着て試験管を振り、顕微鏡を覗く。僕だけでなく、ゼミの中のみんながそんな感じだった。学期ごとに打ち上げと称してゼミのみんなで担当教授やスタッフを囲み、実験室で飲み会をする。それが唯一苦手な行事だったくらいだ。それでも部屋の隅でみんなの話にあわせて笑うくらいできるようになった。店でやる二次会は出たり出なかったりだったが、それで仲間はずれにされることはなかった。理科系の学生はそれぞれにユニークで、個性的な人間が多かった。そういう人でなければ今までのトレースはできても、新しい道を切り開くことはできないと言う分野の学問であったためでもあるだろう。だから少しぐらい変っているからと、いちいちいじめという形で修正してみんなと同じにすることの無意味さもわかっている。お互いが、お互いの変った部分、違う部分を認め、受け入れなければ学問の前進はないし同じゼミにいること自体が無意味になってしまう。僕にとってこの四年間は久しぶりに得たとても居心地がいい時間だった。
三
僕は移動の当日お客様相談室に出社した。会社の敷地はかなり広い。正門に近い五階建ての事務棟、その後ろにはお菓子を作る長く大きな工場が三棟もある。一週間前まではそこの中の一室で仕事をしていたのだが、今日からはさらにその工場も通り越し、駅から一番遠い、北側の端にある小さな二階建ての建物が仕事場所だった。今日までこんなところにこんな建物があるとさえ知らなかった。一階は敷地の草木の管理を委託している業者の用具のための倉庫。脚立や草刈り機、剪定機などがはいっている。その隣りはその人たちの休憩室や更衣室。狭い階段を上がり二階のお客様相談室とプレートが貼っているドアをあける。中に並んでいる机に何人かが座っていた。
「おはようございます」
僕は苦手の挨拶をいつものように口の中でして、うつむき加減に部屋に入った。誰からも返事は返ってこない。僕はどこに行けばいいんだろう。僕の机は。
「ええと、並木君ですか」
一番奥から野太い声が聞こえて顔をあげた。そこにはきちんと短い髪を分けて四角い顔に銀縁のめがねというまじめそうな人がいた。近づくと少し赤黒い顔が顔の油でてかってエネルギッシュに見える人だ。
「はい、今日からこちらに移動になりました」
「私は室長の佐伯。君の席は入り口の近くのその机。ここでの仕事はお客さんの苦情を聞き解決すること」
電話やメールで寄せられる質問や苦情に対して回答をする。電話で受けた苦情はできる限り丁寧に誠意をもって話を聞く。そしてクレームとなった商品を送ってもらい検討したうえで、クレームになった商品を送ってくれた人にそれと同じ物を二つ送る。ひどい事故商品、たとえば異物が入っていたなどのものに対しては、直接訪問してその商品を受け取りに行く。お詫びセットと呼んでいる当社のお菓子を一種類ずつ入れた箱詰めのセットを手渡しし誠意を見せる。どうしても納得しない場合はひたすら謝る。それでも納得しない客は弁護士と相談する。もちろん事故商品は専門の部署に送り、徹底的に原因の究明をし、改善点が見つかれば必ず改善し、再発防止を徹底する。しかし、客の勘違いや故意に異物を混入したと思われるものもかなりある。できるだけ経費をかけず、当社のイメージも損なわず、そして最悪でも裁判や行政機関、マスコミに持ち込まれたりしないようにするのがここの仕事だと佐伯が簡単に説明してくれた。
「とりあえず今日はみんなの作業の流れを見て覚えてくれ。あしたから早速やってもらうから。みんな今日から配属された並木雅実君だ。いろいろ教えてやってくれ。手前から安達君、大隅君、菅野君、椿山君、大場君、そして私と君。全員で七名。ラッキーセブンだ」
向こう側の席に座っている人たちの苦笑、失笑が聞こえた。
「研究開発室から来ました並木雅実です。宜しくお願いします」
小さな声でこう挨拶した。ぱらぱらと拍手が聞こえた。
その後二本の電話があったが問い合わせだったのか何事もなく終わった。メールは一時間に一本くらいの割合で届くが商品の材料に遺伝子組み換えのものは使ってないのかとか、残留農薬のコントロールはどうしているのかとかそう言った質問が大半だった。同じような質問も多く、そういったものはマニュアルになっていてパソコンで検索してそれをメールで送り返す。専門的で分からないことはそれぞれの担当部署に社内メールで聞き回答する。それらはデーターとして蓄積され、次には聞かないでも回答できるようになっている。苦情処理係というとどんなに大変なところかと思ったが、なんとかやっていけそうだ。昼前、プルルルルと電話の着信音が鳴り一本の電話が入った。どうやら電話は席に座っている順番にとっていくようだ。安達、大隈が取っていたので次は菅野が取った。菅野は三五歳くらい。全体的に長めの髪の毛を軽く横に流している。受話器を耳にあてる前に耳の横の長い髪の毛をかき上げてから受話器をあてた。
「ありがとうございます。東京製菓お客様相談室、菅野でございます」「いえ、決してそのようなことはございません」
一瞬にして室内が緊張したのが分かった。誰も自分の仕事をしているふりをしているが、耳は菅野のほうに集中しているようなピーンと張り詰めた空気が流れた。
「はい、はい」「まことに申し訳ございません。できましたらその商品をお送りいただきまして……」「お客様を疑うなんてとんでもございません。原因を追求しまして改善点を探す参考にさせていただきたいのでございます」「はい、はい。もちろん送料は着払いで結構でございます」「申し訳ありませんでした」
最後、菅野は立ち上がって誰もいない空間に向かって深々と頭を下げながら受話器を置いた。誰もが溜めていた息を気付かれないようにそっと吐いたかのように空気がふっと緩んだ。
「室長、個別包装しているパリセンで中身が入ってないものがひとつあったそうです。とりあえずあけてないので現物を送るそうです」
「う、じゃ工場にそれを回してパリセンを二つ送っといてくれ」
「電話を受けるとその結果を室長に報告するんだ。その電話に対する担当は最後まで変わらないから、ひどいのに当たらないことを祈ってろよ」
前の席の大場さんが教えてくれた。この部屋では一番若い方だと思うが、それでも三〇歳は過ぎているだろう。そんなこといったってどうやって話をしたらいいのかわかもらない。パリセンとは甘辛く味付けした一口サイズのせんべいで、昔からある東京製菓の人気商品のひとつだ。
映画『千と千尋の神隠し』のオルゴールがスピーカーから流れて昼休みになった。みんな社員食堂に行くのだろう。ぞろぞろと部屋を出て行った。僕はリュックを開けてコンビニで買ってきた弁当を出した。社員食堂のほうができたてのものが食べることができ、種類も豊富で安いのだが、人が多いところは苦手だし、研究開発室の仲間に会うのもいやだったので、朝来るときに買ってきた。
「君は生え抜きだろ。何でここに流れてきたんだ」
ふと顔をあげると佐伯室長が家から持ってきた弁当を開いていた。
「なんででしょう。わかりません」
本当になんでこんなところに転属させられたのか分からない。僕の一番苦手な分野の人と話す、しかも交渉する部署に。
「私は五年前にこの会社に入ったんだ。これでも大手の会社の人事部長をやっていたんだぜ。上の命令で社員をずいぶんリストラした。つらい仕事だったよ、無理やり辞めさせるんだからね。優秀な人ほどさっさと辞めちゃう。会社に金を儲けさせてない人ほど残りたがる。結局みんな自分を知っていたということかな。どうしても辞めないでしがみついている人は、辞めたくなるような部署に回して、給料も下げて。やっとスリムになりこれから会社が立ち直れると思ったら、君、辞めてくれって言われたよ。ま、しがみつけないよね。自分がみんなにやってきたことだから」
佐伯室長は意気込んで僕に聞かせるような感じではなく、ずいぶん昔の他人の人生について語るようにあさりと、そう自己紹介をしてくれた。
「僕は人と話すのが苦手なんです。だから前の部署では自分勝手にやってチームワークを乱していると思われたのかもしれません」
「ここに回されるとね、生え抜きの人は長くても半年くらいで辞めるよ。プライドを傷つけられるからだろうね。残っているのは大隅君くらいだろう。彼はもう二年になるよ」
「すごいですね」
「今、再就職は大変だよ。君も彼を見習って、我慢してここでもいいから東京製菓に残ったほうがいいよ」
「そうでしょうか」
「私は、ここに来るまで大変だったよ。リストラされたなんて家族に言えやしない。それまで女房にも子供にもえらそうに言って、家では殿様のように振舞っていたからね。弁当をこうして作ってもらって、毎日同じ時間に家を出るんだ」
佐伯は自分の机の上に開いている弁当を指差して微笑んで見せた。
「ハローワーク、人材バンク、情報誌。毎日、何社も自分で探したり紹介されたところに行って面接をするんだ。行ってみると若い面接担当者はばかにしたような態度で面接をするんだ。私のような年頃の男がいっぱいくるんで面倒なんだろうね。あるとき言われたよ。求人広告を出したらあなたで二〇〇人目です。これに時間ばかり取られて自分の仕事ができないから、毎日残業して自分の仕事の分を取り戻すんですよ。まったく、もういいかげんにしてくれないかな。こっちだって自分の仕事ができなければリストラされる身なんだからとね。一部上場企業で人事部長をやっていたので、再就職はそんなに時間がかからずに決まるだろうと思っていたが、そこで間違いに気付いたよ。一人の募集に二〇〇人じゃ、くじに当たるようなもんだ。面接でぼろぼろに言われて、寒い風に吹かれながら公園で弁当を食べるんだ。惨めになるよ、実際」
その話をしているときはちょっとつらさを思い出したのか、胃液が逆流したときのような苦い顔をした。
「それでこの会社に来たんですか。でも、この会社それほど入りやすかったですか」
「そうじゃないよ。二〇〇人も来るなら二〇〇回面接受ければ一回はくじに当たるだろうと自分を励まし、面接を受け続けたんだがさすがに五〇回もするともう気持ちが萎えてね。人事や総務の仕事はあきらめて営業などの面接も受け始めたんだよ。そして最後にここのクレーム処理の仕事にありついたというわけ」
「大変ですね、再就職って」
「だから、君もつらいと思うけど少し我慢してここにいた方がいいよ」
「ご忠告はありがたいですが、僕にはできそうもないです。僕は独身ですからどこか町工場でもいいような気がします」
「まあ、好きにするさ。あしたからは君も電話を受けてくれ。想像以上にストレスがあるから、他の人たちの負担を少しでも軽くしてくれ。ややこしいところに当たったら、私もついていって指導してあげるから」
「そうします。宜しくお願いします」
僕は話を聞いていっぺんに食欲がなくなった。弁当を半分残し、対応の仕方のマニュアルを読み始めた。あしたから本当にできるだろか。だめなら辞めたらいい。僕は養わなければならない家族があるわけではないし、今の給料を当てにしたローンがあるわけではない。家賃と食べるものと魚と文鳥のちーちゃんが生きていけるだけ稼げばいいんだから。
翌朝かなり緊張しながら出勤した。埼玉の郊外にあるこの工場は駅からはそれほど離れていない。しかし、事務所が広大な敷地の一番北の端にあるため敷地の中に入ってからかなり歩く。僕はいつも少し早めに出社することにしている。みんながいる部屋に入っていくのが苦手だからだ。とぼとぼとまだ人影まばらな工場の脇を歩く。今朝は肩に担いだリュックがうまく背中でおちつかず、何回も担ぎなおしている。まもなく梅雨に入る季節、工場の脇に植えられた、緑の濃くなってきた木の中から小鳥の声が盛んに聞こえる。ああ、この声はめじろだなあ。縄張りに入ってきた仲間を追い出そうとしているんだろう、カチカチとくちばしを鳴らした後、声高にキュー、キューと鳴いている。歩いていくほどになんだか暗い雰囲気になってくる。自分の気持ちのせいもあるだろうが、それだけでなく、北の方角に向かって歩いているのと、その方向には周辺地域に配慮して木が多く植えられていて実際暗く見えるのだ。僕は歩を進めるごとに憂鬱になってくる。ここから引き返して帰ってしまおうか。いつのまにか思い出したくもない中学時代のことを思い出していた。昔いじめられていたときに中学校に通っている朝も、このような重い気持ちで通っていた。しかしあの時と違ってここには優しい天野先生もいなければ保健室もない。
どうすればいいんだよ、ちーちゃん。
「おはようございます」
小さな声でうつむいたまま挨拶をして中に入った。
「おはよう」
元気な声が返ってきた。少し驚いて顔を上げたら笑顔の佐伯室長がいた。
「逃げずにきたな。今日からがんばってみろ。別にミスしてもいいし、対応がわかなくなっても気にするな。どうにもならなくなったら、あとはわたしがホローする。もちろん部屋のみんなだって最後には協力するよ」
僕は黙ってうなずいた。逃げずにという言葉にちょっとむっとしたが、佐伯室長が言う
ようにここにくるまでにかなり迷っていたのは事実だ。考えてみれば逃げたすだけの勇気と決断力がなかっただけかもしれない。僕は入り口に近い自分の席に座り対応マニュアルを読み始めた。事故になった商品を手にとってもらったお礼を言う。お客様の気持ちを静める努力をする。相手が感情的になっているのに巻き込まれない。事故になった商品を送ってもらう。お客様にたくさんしゃべらす。お客様の意見を否定しない。その間に過去にそのような事例がなかったかPCで検索する。事故原因がわかっている場合でも、断定せずに○○と思われますというような言い方で言う……
そうしているうちに次々とみんな出社してきた。そろそろ始業の時間だ。どきどきと心臓の音が高くなってくる。始業のベルがリリリンと鳴った。聞きなれているはずなのにビクッと跳ね上がりそうになった。始業と終業はこの品のないベルが鳴る。何で昼休みのようなオルゴールの音を流さないんだと、いつも不思議に思う。いつか寝ているやつを起こすためだと、本気か冗談か分からないようなことを言っていた人がいた。
PCを立ち上げメールをチェックしてみる。地域限定発売のかにせんべいの買える地域についての質問がメールで届いていた。それに対して室長が信越地方として具体的に各県名を書き添えて返信していた。部屋ではみんな話しをしたり、コーヒーを飲んだり雑誌を読んだりしてリラックスしているようにみえる。しかし次に電話を受ける順番に当たっている人は自然に無口になりがちだ。やはりみんなも緊張しているのだろう。今日は大場さんから電話を受ける。大場さんは盛んにコーヒーを飲んだり雑誌を忙しくめくったりしているが、はたから見ていても読んでいるようには見えない。僕まで緊張してくる。
プルルルル
部屋が一瞬静まり返る。手が伸びるときの衣擦れの音がはっきり聞こえた。大場さんが深呼吸を一つして受話器を取った。
「はい、東京製菓、お客様相談室、大場でございます」
「毎度ありがとうございます」
「はい、はい。一応、今回は少しだけの変更でしたので。改めてお客様のご意見を社内に上げまして検討させていただきます。これからもどうぞ宜しくお願いいたします」
受話器を置いた大場はにっこりと笑い室長に報告に行く。
「パリセンの味を少し変えたみたいだけど、この味もなかなかいいということです。でもこういう味の変更は消費者に知らせたほうがいいのではないかというご意見でした」
「う、わかりました。広報に上げときます。検討結果は広報室長の名で書類をもらっておきます。今のお客様の名前をPCにいれておいて、次にかかって来たらそのご報告をするように。また住所がわかれば広報室長印の入った書類を送ります」
「はい、わかりました」
大場はほっとした顔に戻り、そしてぐったりと椅子に背中を預けて目をつぶった。次は僕の番だ。どうしよう。逃げ出したいような何をしていいのかわからないような感じでじっと座っているのが苦痛だ。脂汗が出てめがねがずれる。僕は立ち上がった。でも何をしていいか分からず、また座った。
「並木君、落ち着けといっても無理だろうが深呼吸をしなさい。そして、電話がかかってきたときのシミュレーションを頭の中でやってみてごらん」
佐伯室長が言ってくれてはっと気がついた。電話がかかってきたらどう対応すればいいのかぜんぜん頭に入ってなかった。まず受話器を取り『ありがとうございます。東京製菓、お客様相談室、並木でございます』か。それから名前をまず聞く。お客様が興奮していても『失礼ですが、お客様のお名前を承れませんでしょうか』と聞く。その間にディスプレーに出ている相手の電話番号をPCに打ち込む。以前その相手から電話があった場合その内容などが検索できるようになっているのだ。
そんなことをしているうちにオルゴールがスピーカーから流れ昼休みになった。僕はとても食事などのどに通るわけはなく、部屋の隅に置いてある応接セットに座り、頭を抱えて目をつむっていた。
あっという間に昼休みが終わり、みんなが帰ってきた。席に戻りPCをスタンバイさせ準備をした。いつもはみんなおしゃべりをしたり、コーヒーを入れに立ったりしてがさがさ音が立っている部屋の中が、シーンとしている。みんな僕を注目している。それとも僕の緊張が部屋に伝染したのか。心臓が走った後のように速くなっている。どれくらい時間が経ったのだろう。頭が痛くなってきた。
プルルルルル
どくんと大きく心臓が跳ねた。
「ゆっくり、落ち着いて」
遠くで佐伯室長の声がしているが、考える機能を失った頭はただの音にしか聞こえない。
「はい、東京製菓です」
し、しまった。ありがとうございますと言うんだった。
「あのなあ、娘があんたんとこのマーチチョコレート買ったんだけど、ぼろぼろに割れてたぞ。どうなってんだ」
「申し訳ございません。あのー、えっと」
なんだっけ、なんだっけ。息が苦しい。回りが急に暗くなり、机の上のキーボードに置いている手の周りだけが白っぽく見えている。
(検索、名前、相手、お前)
隣の椿山さんがメモ用紙を滑らせてきた。そ、そうだった。検索。マーチチョコレートをクリック。『中味の破損。原因、輸送中の落下、過積載。小売店側のミス。店頭でのいたずら。謝罪→代替製品の郵送』とでてきた。
「あの、原因はいろいろ考えられると思うんですが、その、すいませんでした。ええと、すぐに割れてない商品を送らせて頂きますので、ご住所を教えていただけないでしょうか」
「いろいろ考えられるってなんだ。こっちが悪いってのか」
「いえ、決してそうのようなことでなく、流通過程でとか、小売店の店頭でとか、破損が起きた場所のことです。すぐ新しい商品を送ります」
「すぐったって、今食いたいって言ってんだよ、娘は」
「はい、ええと」
(今日中にお届けいたします)
またメモが滑ってきた。少し物が見えるようになって呼吸が楽になってきた。
「今日中にお届けいたします。申し訳ありませんでした」
「ちぇっ、しょうがねえな」
相手は住所と名前を言って受話器を置いた。僕はその場に崩れ落ちた。気が付いたら回りにみんなが集まり、拍手をしてくれていた。床にへたり込んでいた僕を誰かが手を伸ばして起こしてくれた。
「これから頼みますよ、並木さん」
安達チーフが頭をぽんぽんとたたいてソファーのほうに行って座った。
「お前ね、相手だってからかい半分、何かもらえたらラッキーって気持ちで電話してきてんだ。くそまじめにやることないんだよ。がはは」
大隅係長は豪快に笑いながら席に戻っていく。椿山さんがコーヒーを机の上に置いてくれた。僕は席に座ったが、力が抜けてもう立ち上がれなかった。
「今の対応のまずかったところをメモしといたから、後で見て次から修正してくれ」
佐伯室長からのメモにはすごくいっぱいの項目がメモしてあった。
夕方まで放心状態は続いていた。極度の緊張からは開放されたが、頭の中でキーンと言う音が鳴りつづけ、頭がぼんやりと痛い。
「おーい、みんな、今日は並木君の歓迎会をやろう」
突然佐伯室長から声がかかった。
「賛成。ぱっと行きましょう」
真っ先に椿山さんが手をあげた。
「おお、いいですねえ。久しぶりに肉、行きますか、肉」
安達チーフが応じる。ええっと思っているまにみんなもうその気になって帰る用意をし始めている。まいったなあ。
「なーみちゃん、今日の都合はどうよ。まあ、おまえさんの都合が悪くても、みんなは行くんだがな。がっはは」
大隅係長が笑った。
「そういうこと。でもどうせなら歓迎会の主賓がいた方が盛り上がる」
と菅野さん。
「だからみんなが盛り上がるために出てくれるとありがたいんだがな」
椿山さんが優しい目で誘ってくれる。いつもこんなにみんなに誘われることは、今までなかった。つぎつぎに声をかけられて目を白黒させていると、
「初めて電話を受けた日に歓迎会をするんですよ、ここでは。でもそれは口実で、みんな君を肴にストレス発散する会なんだけどね、実際」
ちょっととぼけた調子で大場が笑った。
「ま、最初くらい付き合ってみんなの肴になりなさいよ」
安達チーフはふちナシのめがねの下で目がたれている。半分白髪になった油気のない髪の毛は多く、背が高かった。この人よく見ると学校の先生のような雰囲気の人だ。やさしく話されるとその気になってしまう説得力がある。結局、誘われるままに大宮まで行った。いつも行く店らしく、何も言わないでもみんなぞろぞろと韓国調の朱と黄色の色調に塗られた入り口の、明梨と言う店に入った。注文の仕方に驚いた。佐伯室長はいきなり四人前ずつ全部持ってきてよと言って、ビールも七つの大ジョッキを頼む。みんなも何も言わないでそれぞれの相手と話をしていてる。いつものことなのだろう。そんなにたくさん食べられるのだろうか。
「ここは会社の経費。何にも心配しないで死ぬほど食っていいんだぞ」
佐伯室長が言った。
「次はすしに行きましょうや。なーみちゃん次はおおとろ食い放題だぞ。」
大隈は僕の肩をパンパンたたきながら言った。なんだか心地いい痛さだ。ビールで乾杯した後はみんなすごい勢いで食べ、飲み、そしてしゃべった。僕はその風景を呆然と眺めていた。でも思ったより居心地は悪くなかった。人と話すことが苦手で大勢の人と一緒になるところは避けてきたが、今はそれほど心の負担がない。食べなれないピンク色でやわらかい肉が、甘いタレに漬け込まれている。それをさっと焼くと自分の小皿にはピリッと辛いタレが入れられていて、それにつけて食べると驚くほどうまい。話の輪には入れないが、楽しい雰囲気にいつもは飲まないビールも、いつのまにか二杯目を飲み始めていた。みんなもペースが早く、早くも四杯のジョッキをあけた佐伯室長。ウーロンハイに切り替えてお茶を飲むように五杯もあけてしまった大隈係長。みんなそれぞれ好みの酒に切り替えてウィスキーのボトルまで空いている。みんな会社にいるときと顔がまったく違っていた。学生のようにはしゃぎ、飲み、笑った。顔も一〇歳以上若く見える。佐伯室長が次々に注文して持ってこさせた肉の入った大きな皿が、すぐきれいにあいていく。二時間もするとみんな酔っ払い、もう食えませんよ。馬鹿やろう、俺の肉が食えねえかと無理やり口に肉を押し込んでいる状態だ。
「う、みんな、そろそろお開き。二次会へは各自でどうぞ」
佐伯室長が閉会を告げる。
「大隅さん、風俗行きましょう、風俗」
パーマがかかった長い髪をかき上げながら菅野さんが叫んだ。
「だめですよ、菅野さん。係長はこれのところです、これから」
大場さんが小指を立てる。
「ああ、また受付の志穂ちゃんですか」
「馬鹿やろう、今日は美加ちゃんのところだ。がっはっは」
「ほどほどにしといた方がいいですよ」
「前ら、何が楽しくて生きてるのよ。俺はこれでここに飛ばされました。がっはは」
大隅係長が小指を立てて屈託なく笑った。
「懲りないですねえ、大隅係長」
先生のような安達チーフがやさしく微笑んだ。
「じゃ、われられだけで行きましょうよ、風俗」
大場が言った。
「お前と行くと長いからなあ」
「何いってるんすか。菅野さんのはしごにはかないませんて」
「え、菅野さんは風俗のはしごをするんですか。すごい体力ですね」
店を出たみんなはそれぞれに分かれて散らばっていった。
「並木君、よかったらそこらでもう少し飲んでいかんか」
振り返ると支払いを終わった佐伯が後ろから声をかけてきた。
「えっ、ええ」
「う、じゃ、そこいこ。チーフもどうです」
「じゃ、ちょっとだけ」
二人は肩を並べて地下に降りていく。少しがやがやとした居酒屋だった。
「ここは私が出そう」
「いや、並木君の歓迎会だし、室長、二人で割り勘にしましょう」
「う、そうだな」
佐伯室長が勝手につまみを注文して飲み物はビールで言いかと僕に聞き、安達チーフは、私はダブルで二つとウィスキーを注文した。
「どうだ、やっていけそうか」
「いや、ちょっと。今日一日でもうぐったりで」
「そのうちそこそこには慣れますよ。外から見ていると難しいように感じるかもしれませんが、一定のルールというか方程式があって、それを理解すれば誰でもできる仕事ですよ。ストレスが多くて大変ですけど」
「方程式ですか」
「並木君は人と話すのが苦手かい。いや、いいんだ、みんな多かれ少なかれ何か問題を抱えてここに来ている。特に東京製菓から配置転換でくる人はね。いや、一概に君たちが悪いというわけでなく、一種のいじめみたいなもんだから、ここへの配置転換は」
「ふふふ、大隅君、驚いたでしょ。あの人の言ってた女性関係、あれはほとんど本当のことなんですよ」
「私はこれで、ここに飛ばされましたとか言ってたが、あの人は暗くなくていいよ。だまされたとか女の人が悪口を言うのを聞いたことがないらね、彼の場合」
「大隈さんだけでなく、皆さんよく食べて、よく飲んでよく話すんでちょっとびっくりしちゃって」
「日ごろストレスのある職種だからね、ここは。ストレスの出口をいつも、いつも求めているんだよ」
「経費も結構使えるし、もらってみるとボーナスの多さにびっくりしますよ。みんなお金は持っているし、それを使ってそれぞれのやり方で上手に、ストレスと付き合っているようですよ」
「ちょっと分かるような気がします」
「酒もよく飲む、タバコもコーヒーも量が多くなる。女性を求めるようになる」
「ストレスが多いと危機感を感じて、本能的に子孫を残すために性欲が増進するそうですよ室長」
「じゃ、我々はストレスを感じてないってことかな、チーフ」
「いや、我々はこっちのほうで」
安達がからになったウィスキーグラス二つを掲げて微笑んだ。
「すいませーん。ダブルで二つ」
そう言っているうちにもつまみもみるみるなくなっていく。二人ともいい年のはずなのにすごい食欲だ。
「あの、僕、こういうこと苦手で」
「う?」
「その、みんなと一緒に何かやったり、どこかに出かけたり。でも、今日、みんなと来てみてなんか違うんです。僕がいてもいい場所かな、居心地が悪くないかなって」
「う、そうか、そうか、そうか」
佐伯室長は目を細めた。
「チーフは元高校の教師だったんだよ。チーフの話し方や対応の仕方を見て勉強させてもらいなさい。とてもうまく対応するから。先生やってからみんなの前で話すのは苦になるほうではなかったでしょ」
「そうですが、それはこっちが教える立場だったからで、ここではこっちのほうが弱い立場ですからね。やはりやりにくいですよ」
「でもチーフの話し方はソフトで人当たりがいいですよ。ぼくもそういう話し方ができれば、もう少しみんなに好かれるんでしょうけど。室長がおっしゃったように勉強させてもらいます」
「私も最初からこんな話し方ではなかったんだ。教師をやっていて自然にこんな感じになったんだよ。少しゆっくり話すようにしてごらん。それだけで違ってくるから」
「はい」
「教師というのもストレスの多い仕事でね」
「こっちから見てるとそうは見えないんだけどな」
佐伯室長は鮎の塩焼きと格闘していた手を休めて言った。
「辞めてみて、教師の仕事は仕事としてはまだましなほうだということに気がつきましたよ。でもやっている時は、難しい仕事をしているといつも思っていました。どうしようもない陰湿な子供や、チンピラみたいな子供を相手にして何もできない自分が本当にいやになりましてね。何かやるとすぐ暴力教師と騒がれるし、おとなしくしているとやられたい放題だし。ストレスたまるんですよ、ああ見えても」
「チーフの奥さんはすごくきれいなんだよ、並木君」
「そうなんですか」
「ふふふ、ちょっと歳が離れていますが」
「へえ、いいですねえ。話し方が上手だから」
「並木君も言うね。まるで安達チーフがだましたみたいに聞こえたな」
ニヤニヤ笑いながら佐伯室長が行った。
「あっ、いえ、決っしてそんな……」
「こら、こら。大人をあんまりからかうんじゃないよ」
「あはは。並木君もここでしばらくがんばっていい奥さん見つけなきゃな」
「僕は仕事も女性もちょっと自信はないですよ」
「あなただけが不幸な状況というのではないですよ。みんな自分にはちょっと無理かなとか、今日は逃げたいなとか思いながらここにきているんです。だからみんな君とそれほど違うこと考えているわけではないと思いますよ」
「どんなことやっていても結局そう感じるんじゃないかな、仕事なんて。ここほどそれをストレートに感じないにしてもさ。ただ、ここでの仕事はそれほどいろいろな人が生き残れるわけじゃない。東京製菓から配置転換になった人で歓迎会をしたのは君で四人目だ。挨拶をして翌日からこなくなった人とか、でも、それはいいほうか。ほとんどは人員補充の連絡が総務からははいるんだけど、こっちに来る前に顔さえ見ることなく退職する人が多いよ。だからここは案外、並木君に合ってる職種かもしれないな。はっはは」
「それはないと思いますけど」
僕もおかしくなってつられて笑った。何年ぶりだろう、人とこうして笑ったのは。
翌朝、起きたら割れるように頭が痛かった。こんなこと初めてだった。朝、目がさめたら背広を着たまま布団を抱いて寝ていた。気持ち悪い。昨夜はじめてふらふらになるまで飲んだ。酔うことがこんなに気持ちいいものだとは思わなかった。気持ち悪かったがなんとか起き上がって、よれよれの背広のまま歯磨きだけをして、昨日帰ったときに放り出してあったリュックを持ち出かけた。きっと髪の毛も立って、あっちこっち向いているだろう。でも、僕は昔からそんなことには余り頓着しなかった。
「おはようございます」
いつもより少し大きい声。自分の声が頭に響く。部屋には佐伯室長、安達チーフと椿山さんが来ていた。
「並木君、今日はもう少し小さい声でいいよ、挨拶は」
佐伯室長が頭を抱えて言った。安達チーフも心なしか少し顔色が青い。それがなんだかおかしくて笑ってしまった。椿山さんは普通の顔をしている。それから次々にみんなやってきたが、みんなすっきりした顔をしている。
「室長、また飲みすぎですか。もう年を考えないで飲むから。我々みたいに女に走れば翌朝もすっきり、朝から全開でいけるのに」
「大隅係長、我々って係長と一緒にしないでくださいよ」
「何言ってやがる、菅ちゃんは昨日三軒は行ったんだろう。俺の三発とどれくらい違うのか説明してよ」
「大隅さんにかかっちゃ、かないませんよ、菅野さん。ちゃんとお見通しなんだから」
「あのね、大場君。君と僕は同じところに行ったでしょ。お互い二軒で帰ったよね」
「でも、二軒目は二回延長でしょ、出てこないから先に帰っちゃいましたけど」
大場さんがちびまる子の花輪君みたいに手を開いて肩をすくめている。
プルルルル
一瞬みんなが凍りついた。
「ああ、これがなけりゃ天国なんですがねえ、ここも」
そういいながら安達チーフは受話器を取り上げた。みんな話しを止めてそれぞれの方法で時間を過ごし始める。僕も昨日のミスしたところを安達チーフのやり取りをトレースしながら復習してみる。やさしい教師のようなソフトタッチのやり取りで、流れるように話している。何のよどみもない。さすがだ。
「室長、中の包装が破れて中味が出ている事故です。カシューナッツチョコです」
「う、報告書を書いておいてくれ。報告はあげておく」
昼前にもう一件電話がなった。
「ありがとうございます。東京製菓、大隈でございます」
大隈係長は野太い声を少し高めに変えて、日ごろとはまったく違う丁寧な話し方に変わっている。何かカチッとスイッチが入ったような、そんな変わり方だった。PCを検索し、忙しくキーボードをたたきてきぱきと対応している。
「いえ、決してそういうことではありません。よろしければ、これからお詫びにお伺いさせていただけませんでしょうか」「ええ、ええ。こちら埼玉県の蓮田ですので一時間もあればそちらの駅に着けます。お宅まででも一時間半もあればお伺いできると思いますので。そうさせてください。ハイ、ハイ、分かりました」
大隈係長が受話器を静かに置いた。
「室長、これから行ってきます。ポップキャンディーが三つとも粉々に割れていたそうです。でも、そんなこと買ったときに分からんもんかなあ」
「う、がんばってきてください。報告書はあとであげてください。関係部署には第一報を入れときます」
「室長、俺、今日はこれで直帰」
大隈係長はぺろっと舌を出してちょっと甘えたポーズを作る。なんかかわいい。
「飲みすぎないでくださいよ、明日もありますから」
「分かってますって」
「大隈係長、今から行っても美加ちゃんはまだ会社ですよ」
「馬鹿だねえ、菅ちゃん。今日は志穂リンのところ。たまに機嫌取っとかないとむくれるからさ」
そう言うと革のかばんとお詫びセットを持って出かけて行った。
「志穂さん、今日は休みか、大場」
「知りませんよそんなこと。もうすぐ昼休みだから受付、覗いて来たらいいじゃないですか、菅野さん」
受付にはその日担当の女性社員の名前が机の上に載っている。
「ああ、皆さん。総務に電話で確かめたら浅田志穂さんは本日、有給休暇を取っているそうです」
高らかに佐伯室長が告げた。
「何であの脂ぎった中年のおじさんがもてるんですか。顔も大きし、体つきだって横にばかり大きいし、目がぎょろっとしていて怖そうだし。僕には理解できません」
抗議するように菅野さんが叫ぶ。
「まあ、まあ、菅野さん。菅野さんにも加奈ちゃんがいるじゃないですか」
「何いってる。だったら大場にだって愛ちゃんがいるじゃないか」
「レベルの低い話をしていますねえ」
椿山さんが穏やかに笑った。
「椿山さん、空手ばかりやって禁欲生活しているうちにじじいになっちゃいますよ。気がついたら、誰も相手をしてくれなくなりますから」
「女は一人いればいいのよ、大場君」
「えっ、椿山さん、彼女いるんすか」
「まあな」
ふっふふと余裕の笑いを残して部屋を出て行った。時計を見るともうすぐ昼休みだった。
四
プルルルル
目の前の電話が着信音。落ち着いて、深呼吸をしてと自分に言い聞かせて受話器を静かに上げた。
「ありがとうございます、東京製菓、並木でございます」
「ちょっと、あんたんとこの青海苔せんべいを買ったんだけどな、髪の毛が入ってたんだよ」
「ええと、それはまことに申し訳ございませんでした」PCに入力。個別包装の中か外かという項目が出てきた。「ええと、それは個別包装の中でしょうか、外でしょうか」
「あんたな、外だったらたいしたことないと言いたいのか」
「いえ、決してそんなつもりじゃ、あの、その」
となりからメモ用紙。(それぞれ原因が違うから、関係部署に連絡する都合上)
「あの、髪の毛が入っていた場所によってそれぞれ原因が違うもので、関連部署に連絡する都合がございますので」
「外だよ、外。あんたんとこ、こんな商品出してて平気なのか」
「いえ、すぐ関係部署に…」
「そんなこと勝手にやりやがれ。こっちはどうしてくれんだよ」
(一度お伺いさせていただいて、お詫びをさせていただけませんでしょうか)
「一度お伺いさせていただいて、お詫びをさせていただけないでしょうか」
「来てもらってもどうなるものでもないだろ」
「いえ、ぜひ。お願いします」
住所を聞いて受話器を置いた。
「あ、あの、室長」
まだ足が震えている。
「う、じゃ、一緒に出かけよう。お詫びセット持って」
「はい」
「それから次からは、そこに行き着く大体の時間を相手に告げ、そのとき在宅かどうかを聞いておくこと」
「はい」
すぐにでかけた。梅雨に入り、外は細い雨が降っている。電車に乗っている間も心臓はどくどくして、体中が熱を持っているようにだるい。佐伯室長はこれから相手先に行って話す手順を教えてくれる。
「とりあえず君がやってみろ。手におえないようになったら私が助けてやる。なあに、失敗してもいいんだ。気楽に行け」
今日に限って乗り継ぎがめちゃめちゃいいように感じる。待ち時間が全然なく葛飾区のお花茶屋というこんな気持ちの日には不釣合いな名前の駅に降りた。そこから立て込んだ住宅街の細い道を少し北のほうに歩き、水戸街道に近いところにその住所に当たる家はあった。すすけた二階建ての小さな家。両隣は軒を接しておりほとんど隙間はなかった。表札を見ると百倉と電話で告げられた名前があった。足ががくがくする。室長に促されて震える手でインターフォンを押した。玄関ドアをあけると狭いたたきに靴がいっぱいで中に入る隙間がない。室長が後ろから押して僕を無理やり中に押し込んだ。
「あの、東京製菓の並木と申します。このたびはまことに申し訳ございませんでした」
「あんたの電話、ありゃなんだ。言い訳ばっかりで、何考えてんだ」
僕はもうすでに頭の中が真っ白で思考能力は停止状態だった。
「いえ、あの。状況が分かりませんでしたもので。工場のほうにも報告しなければいけないものですから」
「そんなこと聞いてんじゃねえよ」
「それでですね、外に髪の毛が混入する原因としましては、製品が一応できましてから包装をしてて、その後にですね……」
「馬鹿野郎。いいかげんにしろ」
はっとして目を上げた。僕はそのとき初めて電話の主、百倉の顔を見たような気がした。その男は目玉を剥き、薄い髪の毛の中まで赤黒く染まった鬼のような形相をして見下ろしていた。
「ひい~」
僕はしりもちをつき後ろにずり下がろうとした。しかし二歩くらい後ろにずり下がると、何かに当たってそれ以上どうしても動けなくなってしまった。見上げると室長が最敬礼で頭を下げていた。
「百倉さま。お怒りはごもっともでございます。このたびお買い上げいただいた青海苔せんべいに髪の毛が混入しており、大変不愉快な思いをさせ申し訳ありませんでした。この通り、我々、東京製菓一同反省いたしております。今後お客様にこのような不愉快な思いを二度とさせないよう、衛生管理には徹底させていただきます」
「最初からそういえばいいじゃないか。なんだこいつ」
「百倉さま、まことに申し訳ございません。こいつは研究室のほうからこの月曜日に転属になったばかりでして、今日が初めてのお客様訪問なのでございます。失礼は重々承知しております。あとで教育しなおしておきますので勘弁してやってください」
「初めてなのか」
何か考えるような目で百倉が僕を見下ろした。
「さようでございます」
「最近流行のリストラか」
「いえ、いえ百倉さま。並木はまだリストラされたわけではございません。ここでがんばるつもりです。ですからこいつを育てると思って今日のところは勘弁してやってください」
ふーっと息を吐き出した百倉は急に目から力が抜けた。
「そうかい、まあがんばりなよ」
「ありがとうございます」
頭の上で室長が最敬礼をした。僕も慌てて正座しなおし頭を下げた。
「ご指摘いただいた点を改善いたしまして、必ずよりよい物にいたします。今後とも当社の商品をよろしくお願いいたします」
佐伯室長はそう言うとお詫びセットを百倉に渡して玄関を出た。表に出たところで外の壁に背中をつきへたり込んでしまった。足の震えは不思議に止まっていた。
「まあ、初めてにしちゃ、上出来だな。次はもっとうまくやれよ」
あんなにへましたのに室長は何も言わない。教育しなおすって言ってたのに。僕は涙が出そうになった。ないてはいけないと思い慌てて上を向いた。
「さて、何かうまいものでも食いにいこう。腹減っただろう」
「そう言えば少し」
うん、うんとうなずき先に立って歩き出した。
「なあ、並木君。人は謝る、非を認めるということを嫌がるよな」
「えっ、ええ」
「自分がミスして髪の毛が入ったわけじゃない。やったのは工場で話をしながら仕事をしているおばちゃんだ。何で俺が頭を下げなければいけない」
「あの、そんなつもりじゃ」
「百倉さまはいっぱい並んでいる中から東京製菓の商品を手に取ってくださった。買ってくれなければ、クレームもないわけだから。まずそれに感謝しなきゃいけないよ」
「はい」
「そして、それなのに不愉快な思いをさせてしまったことに対する謝罪の気持ち。心の底から湧きあがってくる、申し訳ないという気持ちをあそこで現さなければ」
「は、はい」
佐伯室長は諭すようにゆっくりと話す。本当にその通りだ。僕がやったのは言い訳だった。どこかで僕がやったんじゃない、何で僕がという気持ちがあったのかもしれない。ほほに暖かいものを感じた。気がつかないうちに涙が流れていた。
「感謝や謝罪というのは相手の信頼を勝ち取る最大のチャンスなんだ。クレームと言う形ではあるが、お客様と直接話す機会ができたわけだ。相手の心をそこでつかむことができれば、今まで以上に東京製菓の、そして君自身のファンが増えるんだよ。丁寧に、言葉をつくして、何回も相手に自分の感謝と謝罪の気持ちを伝えるようにしてごらん」
「はい」
「そして、私はお客様に心が通じ納得していただいた後で、最後に必ず同じ言葉を言い、玄関を出るようにしているんだ」
「ご指摘いただいた点を必ず改善してよりよい商品を作ります。今後とも当社の商品をよろしくお願いします」
「まあ、そういう意味のことだ。並木君にだってできるようになる。まずはお客様の気持ちを理解しようとすること。そしてそれに誠意で答えようとすることから始めよう」
「すいませんでした」
「う、いいんだ。えらそうに言っているが、わたしもこの会社に入ってから勉強したことが多いんだよ。そのうちできるようになる」
佐伯室長はそう言うとぽんぽんと肩をたたいてくれた。気持ちがふっと晴れていく。少しだけだけど、僕にもこの仕事ができそうな気がしてきた。上野の駅前でうなぎをご馳走してもらい、直帰しなさいとまだ三時すぎなのに帰ることを許してくれた。アパートのドアをあけるといつもと変わらず熱帯魚の太郎左衛門たちが迎えてくれる。六畳の間ではちーちゃんが嬉しそうにケージの中で跳ね回って歓迎してくれる。みんなにただいまと言ってまわった。そして久しぶりにネットの掲示板に書き込みをした。反応が早い。みんな久しぶり、どうしてたのって歓迎してくれる。僕のショートショートを楽しみにしてくれてる人からもいっぱい返事があった。ネットの上では僕は人気者なのかなあ。ちょっと嬉しかった。
翌朝出勤して部屋のドアを開けた。パチパチパチ。大きな拍手の音。驚いて目を上げたらみんなもう席についていて拍手で迎えてくれた。
「えー、みなさんどうしたのですか」
「何言ってんだよ。初クレーム処理おめでとう」
大場さんが言ってくれた。
「で、どうでしたか」
「緊張しただろう。俺も初めてのときはがらにもなく緊張したからな」
「どんな人だったの」
みんなてんでに話し掛けてくる。僕は佐伯室長を見たが、昨日のことは何も話してないようでニコニコしている。
「あの、あの」
僕はうつむいて言葉が出ない。どうしようか、格好つけても室長はみんな知ってるんだし。僕は思い切って顔をあげた。
「えっと、僕、思考停止状態になってしまって。玄関のドアあけたとたん真っ白になってしまって。気がついたら佐伯室長に押されて玄関の中に入れられていて」
「室長、後ろに仁王立ちして絶対に逃がさないぞって勢いだっただろ」
菅野さんが笑う。
「えっ、ええ。それで突然相手の人に怒鳴られ腰抜けて、しりもちついちゃったんです。そのとき初めて相手の顔をみたんですがそれはもう、赤鬼みたいな形相で」
「いやー、最初はみんなそう見えるよね。僕も逃げ出そうとして室長に首つかまれて、猫状態だったからね」
大場さん自分の背広の襟をつかんで捨て猫のような格好をしてみせる。みんな爆笑した。
「僕も逃げ出そうと思ったんです。でも腰が抜けてて、こうやって後ろに這って逃げようと思ったら動かないんですよ」
僕も床にしりもちをついた格好をして、後ろに手をつき、めがねを斜めにずらした。みんなやんや、やんやの喝采と大爆笑。
「慌てて上を見上げたら足があって、その上に最敬礼した佐伯室長の顔があったんですよ。それで少し気持ちが落ち着いたような気がして」
「並木君、あれ、落ち着いたって感じじゃなかったよ」
室長が言って、それでみんなまた腹を抱えて大笑いした。
「でも、なーみちゃん、なんとか乗り切ってきたんだ。よかったじゃねえか」
「う、大隅係長の言うようにいいほうだな、ここに配属されてくる人の中では」
「まさか。からかわないでくださいよ」
「う、並木君、なかなかなものだったよ」
菅野さんが腕を組み難しそうな顔を作り、佐伯室長の口調をまねて言う。部屋の中が笑いに包まれる。
「ようこそ、東京製菓、お客様相談室へ。君も今日から僕らの仲間だ」
自衛隊か何かのポスターに書いてあるものを読む調子で大場さんが言った。
「慣れれば、うまくできるようになる。毎回が勉強だ」
椿山さんはゆったりとした笑顔で言ってくれる。なんだかくすぐったかった。逃げる勇気も決断もつかず、ただ優柔不断にここまで来てしまっただけだ。
「これから少しずつ勉強して我々の仲間になってくださいよ、並木さん」
安達チーフもうなずきながら目を細めてくれた。そしてまた新しい一日が始まる。
休日になった。最近は休日でも暗く気が晴れないときが多かったが、今朝は久しぶりにゆっくりと眠れた。最近、いつも何度となく目がさめる。夜中、ときに二時間くらい目がさえて眠れなくなってしまうこともあったが、昨夜は一度も目がさめなかった。よく眠れたと思って目をあけるとちーちゃんが早く遊んでくれとケージの中で跳ね回っている。
ちーちゃん、どうやら最初の難関は通過できたみたいだよ
ちーちゃんと太郎左衛門たちに朝ごはんをあげて自分も冷凍庫に入れてある食パンを焼いた。冷凍庫に入れているとカビが付きにくく日持ちがする。ピーナツバターをトーストに塗る。インスタントコーヒーに牛乳と砂糖をたっぷり入れて甘いコーヒーを作った。一人で食べる朝ごはんがこんなにうまいと思ったのは久しぶりだ。片づけをしてちーちゃんを部屋に放す。例のごとく部屋を二周ほど飛んで肩にとまった。PCのスイッチをいれ、いつも行くHPに行き掲示板に書き込みをする。鳥ばか掲示板はメーリングリストの主催者がやっている掲示板で、写真も多く、ML仲間だけでなく鳥が好きな人が集う掲示板だ。このホームページの管理人さんはなんと六〇を過ぎたおばちゃんだ。五〇を過ぎてからパソコンを教室でパソコンを習い始めた。一人で自分の趣味の絵や園芸を始め鳥のことなどを豊富な写真とともに楽しい文章でこのホームぺじを作るようになった。とても親切にできていて見やすいので人気がある。僕もちーちゃんの写真を何枚か撮りおもしろい表情のを選び、『いざゆかん』のサブジェクトとこれから飼い主さんのために狩りをしに行ってまいりますbyちーちゃんとコメントをつけ送信した。それからメールをチェックしてMLを読む。ここには鳥のことに詳しい人、飼育歴が長い人もいて、いろいろな情報がメールで流れてくる。与えるえさの種類と鳥の健康に関するレポート。誰かが病気になった鳥のことで質問する、それに対応する方法。評判のいい病院、悪い病院など、閉鎖された空間での仲間同士のやり取りなのでかなりシビアな情報も入ってくる。僕は日常のレポートとショート、ショートの投稿専門だ。それを楽しみにしてくれている人も結構多い。ちーちゃんを遊ばせながら思いつくままにキーボードをたたく。
『ただいま、ちーちゃん』
ただいまと部屋をあけると、今日も元気にケージの中で飛び跳ねて僕を迎えてくれるちーちゃん。
ち「お帰りなさーい。ねえ、ねえ、まあさん出してください」
ま「ちょっと待っててよ。先に用事をしてからね」
ち「いいでしょ、いいでしょ。ねえねえ出してください」
ちーちゃんはケージの中でばたばたと飛び跳ねてアピールを続けている。上のふたを開けてやるとぱっと飛び上がり、電灯を中心に部屋を大きく一回、二回と回り、僕の肩の上に乗った。
ち「ねえまあさん、僕はまあさんの子供なの?それともお友達なの?」
ま「それは大切なお友達だよ」
ち「まあさん。僕おなかすいたな」
ま「君は何が好きなのかな。小松菜?」
ち「違いますよ」
ま「あっ分かりました、これでしょう」
僕は冷蔵庫からレタスを出してきた。ちーちゃんはそれを避けるように首を伸ばす。
ち「僕が欲しいのはあれですよ、あれ。ねえねえまあさん」
ま「しょうがないなあ。あんまりこんなものばかり食べてると太りすぎて飛べなくなっちゃうぞ」
僕はちーちゃんの甘えたしぐさに負けてもう一度冷蔵庫を開けた。中からみかんを一房取り出し、皮をとって手のひらに置いた。
ち「これですよ、これ。ああ、これを一日待ってたんだよね。あー、たまりませんな、このうまさ」
まるでおじさんが一日の終わりにビールを飲んで目を細めているような表情です。もう少しおっとりとかわいく食べれないものでしょうかねえ。
メールを作って送信ボタンを押す。MLにちょっとした日常を送信して、ちーちゃんを相手にしばらく遊ぶ。手のひらに載せて首やのどをなぜてやる。するといかにも気持ちよさそうに目を閉じ、もっとやってというように首を伸ばす。それに飽きるとちょんと手の上に座り込む。ちーちゃんをもう一つの手のひらで包み込むようにして暖める。するとすぐこくこくと眠り始める。よくこれだけ慣れたものだと感心する。この子の表情を見ていると何をしてもらいたいのかがよく分かる。この子も僕が悲しいとき、疲れているとき、嬉しいとき、楽しいときが分かるようで、そのときそのときでまったく違う反応を示してくれる。だから自然に気持ちも落ちつくし、楽しくなってくる。かけがえのない相棒で、友達だ。そんなことを思っているといつのまにか僕も眠ってしまっていた。
五
台風が近づいてきて前線が刺激されたのか、昨日は本格的に雨が降っていた。しかし、今日はうって変わってくっきりと遠くが見える、乾燥した快晴だった。ここ数日たいしたクレームもなく部屋の中が平穏な空気で包まれている。クレーム処理といっても、そう毎日毎日がクレームの対応に追われるわけではない。商品に対する質問や新商品の発売時期などの問い合わせが多く、僕も二本くらいそういう電話を受けた。一日の終わりのベルがなると同時に留守番電話システムに切り替え、みんなはさっさと事務所をあとにする。僕も事務所を出て工場横にある植え込みの小道を歩いて駅に向かう。
「おーい、ちょっと待ってろよ」
後ろから声が追いかけてきた。振り返ると菅野さんが小走りでこっちにやってきた。
「なあ、今日は若い者で飲みに行こうと言っているんだけど、なみちゃんもどう」
「若い者って」
「うん、俺と君と椿と大場」
「ええ、僕はいいですけど」
「あいつら、もう来るから」
四人そろったところで大宮まで出かけた。駅を出て向かいの二階にある、料理居酒屋の看板が上がっていたところに菅野さんを先頭に入った。
「ここもなかなかうまいんだぜ」
菅野さんが向かいの席から言った。まだ外は明るく店はすいていた。内装は古民家風のすすをイメージしてか、黒い塗装だった。昔の素朴な傘付きの裸電球が温かみを感じる。落ち着いたいい店だった。掘りごたつ風の座敷に座って菅野さんが適当に頼み出した。
「あと追加で厚揚げ、煮込み」
向かいの大場さんが言った。
「俺は塩で焼き鳥の盛り合わせを」
隣で椿山さんが言った。
「なみちゃんは何かない」
「いえ、とりあえず」
生ビールが来て乾杯をした。
「今日は割り勘だからな。遠慮せずにしっかり食わなきゃ損だぞ、なみちゃん」
菅野さんがごつんとビールのジョッキをぶつけながら言った。
「おまえ、商品開発室にいたんだろ」
大場さんは一気に半分ほど飲み干し、げっぷをしながら聞いてくる。
「いえ、研究開発のほうです」
「それ、俺たちにはどう違うのかわからないんだけど」
「商品開発は、どんな商品が売れそうかマーケッティングをして、夏はグレープフルーツ味の飴がいいとか、ちょっと泡が出て清涼感が出る飴を作ろうとか、そういう方向を出すんです。研究開発はそれに対して味や香り、清涼感を出したり刺激を出す物質をいろいろな組み合わせのなから提案たりするんです」
「へえ、じゃあ並木はそんな物が作れるんだ。すごいじゃないか」
椿山さんは色白の丸い顔に穏やかな笑顔を浮かべて言ってくれた。
「ふーん、なみちゃんは理科系なんだ。椿、お前はここに来る前は事務屋だったんだろ」
「はい、総務でその他雑用って感じの仕事でしたけど」
「なんでやめたのよ」
「まあ、いろいろ」
「お前、いつもそう言うよな。言いにくいことなんだ」
菅野さんは長い髪を少しうっとうしそうにかき上げた。
「菅野さんもいつも椿山さんにそれを聞きますよね。菅野さんは営業で上司と喧嘩してやめたんでしたっけ」
椿山さんは別に気分を害した様子もなく穏やかに笑っていたが、大場さんは取り成すように話に加わった。
「喧嘩したんじゃねえ、俺が一方的に殴ってやったのよ」
「そりゃ初耳ですね。殴ったらやばいでしょ、社会人にもなって」
「ところが、そいつ尻餅ついたまま口をパクパクさせて何も言えねえでやんのよ。くたばりやがれってんだ、ほんと」
細いが背が高い。菅野に殴られるとさぞかし効いただろう。
「大場はなんとなく辞めたってくちだろ」
「いや、おれはあれですよ。その会社でプログラムを相手先に合わせて作る仕事やってたんですよ。始まるのは普通の会社と同じように九時に始まるんですけど、終わりはエンドレスなんです。納期が短く請け負い価格が安いのを売りにしてましたから、給料は安いし、やってもやっても終わらない仕事がどんどんたまってくるんですよ」
「僕の友達にもいます。システムエンジニアって聞こえはいいけど大変な仕事らしいですね。時間も長くて」
「おお、わかってくれる人もいるんだ。うれしいねえ。ある日、今日はいやだなと思って休んだんです。そしたら次の日も行きたくなくなって結局三日と土曜日曜の五連休。週明けて会社に行ったら社長に呼ばれて、新しい募集かけて決まったからもう来なくていいって言われて、こっちもあっそうって感じですよ。どっちも未練もなんもなし」
「ふーん。お前も苦労してたんだ」
「そうなんですよ。俺も苦労してるんすよ」
「こら、こら。自分で言うな、自分で」
菅野さんがすぐに突っ込んでみんなが笑う。
「おれがこういう話しすると怠けてサボって職、失って、自業自得じゃないかってみんな言うんですけど、ほんと、俺も苦労してるんですよ。あんな仕事やってると本当に神経が擦り切れてくるんですよ。やっと完成して次の仕事にかかってもバグって言って不具合が出てきて、要するにクレームですよ。これはこういう仕事につき物で当たりまえなんですが、それを理解してない素人のクライアントはねちねち文句言うし。新しい仕事の納期があるのに、前の仕事の手直しを文句言われながらやって、それで給料安いし、休みないし。景気が一番悪いときだったんで募集かければすぐ決まったんでしょうね。こっちも辞めてから次の仕事探すの苦労したけど、ここは神経、磨り減ることには変わりないけど、時間も決まっているし、給料もいいし。俺的にはあれですよ、まだましって感じですね」
「しかしな、こんなところに流れてくるなんて、みんなろくな人生歩んでないってことだろ。なあ椿」
「そうなんでしょうね」
椿山さんは相変わらず丸い顔に穏やかな笑みを浮かべて聞いている。この人を見てるとこっちの気持ちまで落ちついてくるから不思議だな。居心地がいいって言うか、すべてを受け止めてもらえそうな感じだ。
「そうなんでしょうねって、他人事みたいに言うなよ、椿」
「じゃあ話しますが、自分はあれですよ、人を殺しちまって」
椿山さんの押し殺した低い声に、全員ギョッとして椿山さんのほうに視線を集めた。回りの音が消え、温度が一〇度ほど下がった気がした。事実、足元にスースーと風が流れつま先が冷たくたったような気がして、つま先を暖めるために足を引き上げあぐらをかいた。
「また、また。冗談きついですよ、椿山さん」
ワンテンポおいて一瞬固まってしまった場を取り繕うように、大場さんが引きつった顔で笑いながら言う。
「なんとなく言いそびれてしまっていましたが、佐伯室長と安達チーフはご存知ですから、菅野先輩がどうしてもと言うなら隠すこともないんですけどね」
「あ、いや。でも、殺したなんてことは」
「自分は事務職と言っていましたが、本当は大手商社に勤めてました。商社って、大きくても、小さくてもやることは同じなんですよ。物をできるだけ安く買って、高く他所に売る。不況が長くなり、大企業はリストラ、中小は倒産が相次ぎました」
椿山さんが遠くを見るようにして話しはじめたその声は、いつもの穏やかなものと違い硬かった。
「自分は大手自動車メーカーの一次下請け清峰精機に部品を納入する仕事をしていました。購買部に顔を出すと言われることはいつも同じでした。まず、こういう時代だからねと前置きして、あんたのところに利益が五%は多いよ、と始まるんです」
それでものらりくらりとやっていたが、ある日訪問すると担当課長が言った。昨日はS商事がきて、午後からM物産が来ることになっている。同じものなら安いところから買えと役員会で決定したので、今まで付き合いのなかったところも呼んで、商品と価格の比較を今一度しようということになった。感情のこもらない声だった。部品を作る町工場の大西製作所とは駆け出しのころから付き合っていた。社長、奥さんと大学を出たての息子一人を入れて社員数はやっと二〇人と言う小さな工場だった。そこで作ってもらった部品を清峰精機に納入していた。エンジンの爆発で力を得たピストンの縦の動きを横の動きに変えシャフトを動かすのだが、そのジョイントの部分の部品だった。社長の大西は独立して工場を作ったときから熱心に改良に取り組んだ。エンジンの動きを効率よくシャフトに伝えるために自動車メーカーの意見を聞き、それをもって帰ってきて夜遅くまで試作に取り組んではつぶし改良を加えていった。メーカーからの要求水準は毎年上がって行ったがその積み重ねが実って大西製作所の部品はF―1でも使われるまでになった。
「少しのロスが、レースの極限状態で走るとすごい燃費の差になってくるんですよ」
「燃料をいっぱい使えばそれだけピットインの回数が増えるから不利なんだよな」
「それもあります。それとピットインの回数を同じにしても燃料搭載量を減らすと、重量が軽くなると言う有利な面もあるんです。軽ければそれだけ速いし、タイヤの磨耗にも影響します」
F―1を転戦しているうちにかなりシビアな改良の要求が出される。耐久性、重量、性能。極限までロスを省き部品を芸術品のように磨き上げていく。そのような夜も休日もない努力の結果、ジョイント部品は世界最高水準のものが完成した。
「自分がその仕事にかかわり始めたのは、部品を一般に転用できないかと言う要求がメーカーから出され始めたころでした」
椿山さんの声がかすれた。それを戻そうとするかのように少なくなったビールのジョッキを傾けた。
ところがこれを一般の車に転用するために量産するのには、あまりに微妙で精巧すぎてうまく作れない。それでも一般車に転用するので何とか部品の供給をしてくれ、という要請がメーカーからきた。最高水準のF―1仕様の部品を一般車に転用して一〇年間使える耐久性も合わせて注文してきた。
「連日おやじさんはメーカーに打ち合わせの会議でかけ、試作品を持っていってこれならというものをたたき台として作ったんです。二年ほど金型屋と試行錯誤しましたがうまくいきませんでした。結局、普通に削り出した金型からでは要求されるの精度が出ず、おやじさんと息子と自分と三人で、お互いの仕事が終わってから何ヶ月かかけて作りました。ヤスリと磨き粉と最後は刃物を研ぐ革や新聞紙まで使って磨き上げて、金型をまったくの手作りで完成させました」
「機械のことはよく分からないんですけど」
「つまり、メーカーからの要望をその工場オリジナルのアイデアで、部品だけでなく、それを量産する機械の部品も作ったと言うことです」
「そして、その金型で作った部品をメーカーに納入したんだろ」
「それを納入業者である一次下請けの清峰精機に納入するのです。清峰精機は我々の部品を、ピストンやシャフトといっしょに組み立て、半製品にしてメーカーに収めるのです。清峰精機はその部品を他の商社に見せてこれと同じ物が後一〇円安くできないかと聞いてまわったのです」
椿山さんは毒でも飲むような苦い顔でビールを飲んだ。
「そりゃひどいな」
S商事は強烈だった。金型さえあれば半額で作りますと提案した。常識はずれの金額だった。
「どうやって作るんです」
こういう話は技術者の端くれとしてすごく興味を見かれた。
「今では中国で生産してコストを下げるのは珍しくもないけど、ベトナムで作ると言う話だった。ベトナム人というのはアジアの中では器用で、勤勉でまじめな、日本人に似た日本人好みの民族なんだそうだ。細かい作業、精密な製作には向いてる民族なんだよ」
「ちょっと待て。金型さえあればって、おまえそれ」
「清峰精機は言ってきましよ。金型だけ売れと」
「当然拒否ですよね」
大場さんの悲鳴のような声。
「拒否したら、仕事を切られる。少しでも生き延び、時間を稼いで方向転換するために金型を売ったよ、大西社長は」
「そ、それで」
「仕事はそれっきり入らなかった。不渡りを出す前の日の深夜、社長は首をつって死んだ」
椿山さんは絞り出すような声でそう言った。
「大手メーカーがそこまで腐っているなんて」
「メーカーじゃない、その下請けだ」
「でも、椿が悪いわけじゃなないよな」
「メーカーと同じ理屈でですか。自分はその金型を買って清峰精機に売った当事者ですよ」
「それで、ここに」
「通夜に行っても入れてもらえませんでした。当然ですよ。雨が降る葬式の日、土下座して出棺を見送りました。その足で会社に辞表を出しました。しばらくぼーっとして何もできませんでした。このままじゃいかんと思い直ししばらくたってから居酒屋でアルバイトをやったんですが、長くは続きませんでした。自分はもうまともな仕事はできませんでした。アルバイトを転々としました。そんなときここの募集を見て思ったんです。ざんげの人生にお似合いの仕事じゃないかってね」
ふぃーっと菅野さんが長い吐息をついた。しばらくはみんな無口で飲んでいた。
「すまん、椿。いやなことを思い出させちまった」
「いや、いいんです。常に思い出しとかなければ、自分は楽なほうに流されますから。それに、ここの居心地はいいんですよ、案外」
「かわってるな、おまえ」
菅野さんはだいぶ酔いが回ってきたような目をしている。
「だけど、そういうことやっていると優秀な底辺の工場が全部だめになって、日本の産業は崩壊します」
「ほう、めずらしくずいぶんはっきり意見を言ったな、なみちゃん」
椿山さんのやっていた仕事を踏みにじったその会社のことが許せなかった。そして、技術者を金のために平気で切る今の社会のシステムにも、ずっと反感を持っていた。
「日本製品の武器は、そういう細かい工夫の積み重ねです。全部が東大出の大手メーカーで設計しきれるもんじゃないんです。長年の経験、手触り、勘。その道何十年というおやじさんが作り出す細かい工夫は、学校で習う計算式では決して出てこないものすごく微妙ものだと思います。料理で言えば料理の本には出てこない、熟練した板前やコックの微妙な火加減や隠し味のようなものだと思います」
「そうだな」
「そういう大切なものを一時の金のためになくしたら、大量生産のアメリカの産業と何の代わりもなくなってしまいます。そのときは確かに安くすばらしい車ができたはずです。でも今もそうでしょうか。その部品は改良を続けて進化し続けているでしょうか」
「いや、自分がやっていたときのままだといつか聞いたこあるよ」
「一般車ならそれでも今までの貯金があるので何年かはいいでしょうが、F―1などのようなシビアなレースでは無理でしょう。毎年、毎年進化しなければ、現状維持では生き残れない世界だと思います」
「そういや、そうだな。最近F―1で、日本車は優勝してないんじゃないか」
「それどころか、新規参入をした別の日本メーカーのほうが、優勢でしたよ、昨年当たりのレースでは」
「自分は、もうあれ以来車に興味をなくしてしまったから、よくは知らないがそうなのか」
椿山さんはちょっと残念そうな、悔しそうな顔をしていた。
「おやじさんも上から見て悔しがっているだろうな。でも、並木がそう言ってくれたんでちょっとは救われたよ」
「ほんと、並木がこんなにはっきり意見を言うなんて驚いたよ」
大場さんが目を剥いてくるくる動かして、大げさに驚いて見せた。それで、少し場が和んだ。
「皆さんの話聞いちゃったんで、ぼくも話します。ぼくは社内のリストラで。僕の部屋は三人分の経費を節減しろと役員から言われたらしいです。それで給料の高い課長と協調性のない僕が」
「ふーん。でもやめる必要ないんだよね、ここでやれば」
「言い渡されたとき、とても僕にできる仕事じゃないって思ったんです。それでも何回かやってみて、この仕事はやっぱり僕にはできないと思いますけど、椿山さんが言うように、ここにいるとみんないい人ばかりでちょっといいんですよね」
「何がいい人ばかりだよ」
「いい人ばかりならこんなところに吹きだまらないって、ねえ椿山さん」
「いい人だからはじき出されたり、汚いやつの中にどっぷりと漬かれなかったりということもあるんじゃないかな」
「けっ」
吐き出すように菅野さんが言ったが、まんざらでもない顔をしている。
「本当になんだか居心地がいいんですよ、今まで感じたことないほど」
「よっぽどいままでいやなやつに囲まれてたんだな」
「並木は案外この仕事、向いてるのかもしれないな」
「椿山さん、からかわないでくださいよ。室長にもそう言っておだてられたんですよ」
「なみちゃん、ここで辞めたら会社の思う壺だ。ちょっとがんばってみたらどうだい」
みんなが頼んだ大量のつまみもあらかたなくなり一人二千円と、後は菅野さんのおごりということで店を出た。ちょっとペースが早かったからか、話がシビアになったからか、結構酔っ払っている。外で待っていると会計を済ませて菅野さんが出てきたので四人並んで歩き出した。
「菅野さん例の風俗行きましょう。これから」
「大場君、君も好きだねえ。おい、なみちゃんもどう」
「あの、僕は、あっ」
菅野さんに呼ばれたので僕は菅野さんのほうを向いた。ドンと体の右半分に衝撃があったと思ったら尻餅をついていた。
「いてえな、兄ちゃん」
角刈りの大きな男が僕を見下ろしている。ちょっとがらのよくない男が二人、後ろについている。
「すみません。横を見ていたもので」
立ち上がってその囲みから出ようとした。
「当て逃げはいかんな、リーマン君」
スキンヘッドに襟をつかまれた。
「はなしてください」
「派手なリュックしょってるな、おまえ」
もう一人にリュックの肩ひもをつかまれて身動きができなくなった。
「ちょっと話をしようや」
髪の毛をハリネズミのように立てた男とスキンヘッドに両脇を抱えられた。ぶつかった体の大きな男があごをしゃくった。それほど怖いとは思わなかった。
「僕が横を見ていたのはよくなかったかもしれないですが、そちらも見えてたらよけてくれればよかったじゃないですか。放してくださいよ」
僕は体をゆすって逃げようとした。足がハリネズミと絡まって二人で倒れた。
「てめえ、いいかげんにしろ」
腹に衝撃が来て息が詰まった。
「そのへんで勘弁してもらえませんか」
見上げるとでかい男の前に椿山さんが立っていた。どっしりとして動きそうもない小山のように見えた。それほど大きくない丸みを帯びた体がすごく大きく見た。
「なんだ、おまえ」
「いえ、この人、後輩なんですよ。この人を連れて行かれるとちょっと困るんですよ」
「ほう、いい度胸だな、兄ちゃん」
椿山さんはいつもと変わらない穏やかな表情で大きな男の前に立っている。
「ならおまえが変わりに落とし前つけるんだな」
僕から離れた男たちが椿山さんの両脇を抱えた。すっと動いたと思ったら別の場所に移動し平然と立っている。スキンヘッドたちは唖然としている。
「やろう、なめんなよ」
ハリネズミは回し蹴りを放った。長い足が音を立てて椿山さんの顔を横から襲う。危ないと思ったその一瞬、椿山さんの体がすっと斜めに向いた。たったそれだけでその鋭い回し蹴りはむなしく宙を蹴った。足が着地した瞬間ハリネズミが間髪をいれず左右の連続のパンチ。椿山さんはまったく動かない。頭の後ろにハリネズミのこぶしが通り抜けていっているように見えた。後ろからスキンヘッドが短い足で蹴り上げた。
「危ない、椿山さん」
椿山は後ろを見ていたように一歩だけ横に移動して大きな男に頭を下げた。
「勘弁してください。このとおりです」
目を見開いた大きな男が苦笑をした。
「いい腕だなおめえ。うちに転職しねえか」
「そのせつは」
「けっ、行くぞ」
三人が野次馬を蹴散らしながら消えた。
「すみません、僕のために」
「うん」
椿山さんは穏やかな笑みを浮かべて普通の返事をしただけだった。
「びびったぜ。それにしてもなみちゃんも気をつけなきゃ」
「すみませんでした。いっしょに連れてきてもらったのに、皆さんにいやな思いさせちゃって」
「もういいって。並木が悪いわけじゃないし、なんでもなかったんだから」
「それにしても椿山さんすげえな。俺、空手やってるって知ってたけど、こんなにすげえとは知らなかった」
「なんでもないよ。だって相手は素人なんだから」
「でも、椿よ。相手のパンチがおまえの顔を通り抜けたよな。それに後ろから蹴ってきたのに見ないでよけたろ」
「やめてくださいよ、菅野さんまで。たまたまそういうタイミングになっただけですよ。もういいじゃないですか。風俗いかれるんでしょ」
「おっと、忘れてた。なみちゃんも行くか」
「いえ、ぼくは」
「何だよ、椿も並木もたまには付き合えよ」
「自分たちは酔いが醒めたんで飲みなおしていきますよ。先輩方でゆっくりしてきてください」
「ちぇ、まあいいか。行くぞ大場」
「今日はありがとうございました」
僕がした挨拶に軽く手をあげて答えた二人は路地を曲がり裏の道のほうへ消えていった。
「並木、どっかで口直しして行くか」
「ええ、ありがとうございます」
誘ってもらえて体が浮き上がるほど嬉しかった。この人のそばにいられる、話ができる。それだけのことが何でこんなに嬉しいんだろう、幸せを感じるんだろう。
椿山さんについて煙のもうもうと上がっている小さな焼き鳥屋の暖簾をくぐった。店頭ではすごい勢いで焼き鳥を焼いていてその煙で入り口が煙っていたが、中はそれほどでもなかった。
「いらっしゃい。椿ちゃん久しぶり」
カウンターの中から角刈りにしてちょっとやくざ映画の主役で出てきそうな、ハンサムな板前さんが声をかけた。
「静さん、ご無沙汰しております」
「何、今日は練習の帰り」
「今日は会社の後輩と」
「ゆっくりして行ってよ」
椿山さんはにっこり笑って手をあげた。
「並木、ビールでいいのか。酎ハイもあるぞ」
「椿山さんと同じ物でいいです」
「じゃあ生二つ。塩焼き、横に洋がらしをつけて。トリ、ハツ、かしら、タン。あとシロはタレでいいや、七色ふって。並木、ここの焼きトンはいけるぞ」
「さっきのところもうまかったですね」
「ああ、トリはあっちもうまいな。こっちは豚がいけるんだ。僕は学生のときからここでバイトしたり飯食いに来たりしてるんだ」
「就職してからもですか」
「前の会社に行ってたときもここに来てたのは、ここに道場があるからなんだ。子供のころからここに通っていてね。高校、大学は学校のクラブでやっていたけど、その間も道場には通ってたから。この街は僕の第二の故郷みたいなものなんだ」
ビールと焼き鳥が運ばれてきた。
「とりあえず乾杯だ。こうやって塩、コショウで焼いたのにからしをつけて食うとうまいんだよ」
ジョッキをぶつけてビールを飲んだ。先ほどの出来事でのどが乾いていたのでうまかった。それから洋がらしをつけて、かしらと言うのを食べてみた。大きなさいころのような肉だが、案外柔らかい。じゅっと肉汁が口の中に出てきて、塩コショウそれにピリッとしたからしが効いていて本当においしかった。
「本当にうまいですね、ここの肉も。僕、初めて食べました。これ」
「勉強不足だな。並木は味を作る仕事をしてたんだから」
そう言って微笑んだ。
「子供のころから通ってたということは、椿山さんの実家はここですか」
「いや、実家は東上線の板橋だけど、ここの道場は本部だからね」
「もしかしてあの実戦空手って言うところですか」
「まあな。だけど、並木もたいしたもんだと思ったよ。三人に囲まれてもほとんどびびってなかっただろ」
「いやあ、もうちびりそうでしたよ」
「そんな感じはなかったな。落ちついていてどうでもいいって投げやりな感じでもなく、冷静だっただろ」
「えっ、ええ」
「こいつ、ほっといても大丈夫だなと思ったんだけど、ついおせっかいしたよ」
「いやあ、助けてもらって本当に感謝しています。ただ椿山さんだから告白しますが、僕は中学のときいじめられっ子だったんですよ」
あまり暗くならないようにそのころのことを少し話した。
「そうか。大変だったんだ」
「はい。それでやられ慣れてるって言うか、はは、こういう言い方っておかしいですか。ああいう感じになるとすぐ心のシャッターが閉じてしまうんですよ。そうすると何を言われてもあまり気にならいし、不思議と殴られたりしてもあまり痛くないんです」
「そんなもんかな」
「弱くて、意気地なくって、ほんと恥ずかしいですよ」
「それでも並木は結構いいやつだよ。自分で気付いてないだけじゃないか。並木が思ってるほどみんな、おまえを見下したり、ばかにしたり、嫌ったりしてないって。それなのに自分から後ろを向いてしまっているんだよ。もう少し心を開いて、周りをしっかり見てみなよ」
「そうでしょうか」
「前の部署でも並木のことが嫌いでこっちに転属になったわけじゃないと思うぞ。自分で自分のことを追い込んでしまっているように見えるよ。並木が今言った心のシャッターはひとつの武器でもあるけど、傷つかないように自分を違う場所においたままでは人とは付き合えないよ」
「そうですよね。わかっているんですけど。心が弱すぎるとわかっているんですけど」
「そんなことは並木だけではないよ。さっき言ったように俺だってあんなことがあって気持ちが折れちゃって、どんな仕事をやっても続かなかったんだ。昔やっていたこういう所でもバイトでさえ、二週間もするとどうにも我慢ができなくなってきてな」
「働くことがですか」
「働くことというよりなんていうかな、普通に生活していくことが。うまく言えないんだけどそのころはもうだめだなと思ったり、どこまで落ちていくんだろうと地下道で転がっているホームレスを見て怖くなったりしてな」
「今の椿山さんからは想像できませんよ、そんな姿」
「そんなことないって。今の仕事についてからもあまりにも理不尽なクレームで、いやになってしまったことが何度もあるよ。佐伯室長はお客様の気持ちになって、誠意をもってというだろ。それはよく分かるんだ。だけど俺は少なくとも言いがかりのような不正義に対しては、どうしても拒否反応を起こしてしまうんだ」
椿山さんが珍しく胃の中の物が逆流したときのような苦い顔をしている。
「それは誰でもそうだと思いますが」
「そんなとき、自分が一番の不正義をやっていてよく言うよ、ともう一人の自分が笑っていやがる。そんなときはがっくりと気持ちが折れて、相手との話し合いもこじれてしまうんだよ。どんどん泥沼にはまってこの仕事もだめかもしれないとかな、ぐずぐずと考え込んでしまう訳よ」
椿山さんの苦悩を聞かされ、こんな人でもそうなのかと少し驚いた。
「やめないでくださいね、椿山さん」
僕は小さな声になった。いつやめようかと思い続けているのに、それこそ自分のことを棚に上げていい気なもんだと思った。
「わかってる。俺はそんなことじゃあやめられないよ。自分がやったことに対してという気持ちもある。でもそれだけじゃあない。本当にいい人たちなんだ、この部署の人たちは。俺が苦い顔をしているといろいろ気を使ってくれる。それは槍が降って来るように、痛いほどストレートに俺の心の深い部分に入り込んで来るんだよ。痛いんだけど嬉しい。嬉しいんだけど痛い」
「少しわかります」
「そして最後には佐伯室長が助けてくれる。俺はこの仲間といっしょにいたよ」
「はい」
「おい、もっと食え。せいちゃーん、煮込み、から揚げ、肉じゃが。あと生二つ。」
椿山さんはすごい勢いで食って飲む。
「椿ちゃん、今度メノコ行こうよ」
「そうですね。じゃあ来週せいちゃんが店はねるころ寄りますよ。道場で練習がある日に」
「オーケー」
どかどかと追加のつまみがきた。
「並木もどう、一緒に行かないか」
「えっ、僕は…」
「ほら、そう言うとこだよ。行くか行かないかは本人の自由だけどさ、メノコってどんなところですかとか一応興味を示してみろよ。菅野さんに誘われても付き合わない人が、せいちゃんに誘われたら二つ返事で了解したよ。メノコって何の店だろうって。みんなおまえに興味を持って、こいつどんなやつなんだろうとか思ってるわけだろ。だから話をするきっかけが欲しいわけじゃない。そういうことなんだよ。もう少し砕けてこっちの側に入ってきても、いい大人が誰もいまさらいじめなんかしないって」
「そうですよね。メノコってどんなところですか」
「ぶっあはっは。だからー」
「あはは、おかしいですよね、こんな取ってつけたような言い方。長く人と話しなんかしたことないから下手なんですよ、しゃべり方。それに、どう話したらいいか分からなくって」
「そう、そう、そうやって話せばいいのよ。ふっふふ、だいぶよくなってきたぞ」
「はあ」
何がよかったのか分からないけど椿山さんは愉快そうだ。
「メノコってのはすごい安い飲み屋でな、トリスって言う一番安いウィスキーが一杯八〇円とか、さば缶は皿にさばの缶詰を丸ままばさっと移しただけだけど一五〇円とか」
「すごいですね。そこらでコーヒーを飲むより安いんじゃないですか」
「だからかなり飲み食いしても一人千円とかそんなもんかな。すごく古い店で、その雰囲気もいいんだ。金がないときはよく通ってたよ、昔」
「なんか、おもしろそうなところですね」
「だろ、飲み食いして最後に勘定って言うと、二人で千八百円とか言われると感動するぞ。ええ、一人九〇〇円かよって」
「あの、僕も連れて行ってもらえませんか」
「あっはは。それでいいのよ、並木君」
「はあ」
椿山さんもだいぶ酔っていたが、僕も気持ちよく目がまわっていた。楽しい、幸せだ。こんな時間いつ依頼だろう。
また新しい週が始まった。季節は梅雨に入り、今日も細かい雨が降っている。雨もまたいいものだ。空気が適度に湿気を帯びていて呼吸が楽な気がする。木々の緑が雨に洗われて鮮やかな色に見える。工場のそばの木が多いところを通りながら、大きく深呼吸をした。お客様相談室の事務所が駅から遠いのも、こういう気持ちで歩くと散歩のようでいいものだな。僕はさしている傘を少しくるくると回しながら事務所に向かって歩いた。
午後からみんなとソファーでくつろいでいたが、大場さんが電話を受けたので自分の番が回ってきた。何回か電話を受けたり、みんなのを聞いて対応を勉強したりしたので以前より少しだけ落ちついてきた。マグカップに入れたコーヒーと大きな湯のみに入れた緑茶を持って自分の机についた。三時を回ったころ電話が鳴った。以前と違ってみんなもう僕が電話に出てもそれほど気にしていないようで、そういうことでもまた少しリラックスできる気がする。深呼吸を一度して、落ち着いてと口の中で唱えた。
「ありがとうございます、東京製菓、並木でございます」
「あんたの所のキャンディーってプラスチックで作っての?」
いきなり中年のおばちゃんの強い声がした。
「申し訳ございません。プラスチックがキャンディーにくっついていたのでございますか」
さっとみんなが緊張したような空気が部屋に流れる。
「ばかにしないでよ。ぺロッティーキャンディーを買って口に入れたらプラスチックでできてるのよ、全部。どうなってんのよ。かんだら歯が折れそうだったわ」
「プラスチックでできていたのでございますか?」
慌てて検索するが出てこない。席にいた安達チーフがサンプルかもしれませんというメモを滑らせてくれた。
「あの、すぐお伺いさせていただきたいのですが。もしかしたらサンプルが商品の中に混じっていたのかもしれません」
「いいかげんにしなさいよ、こんなもの食べさせて」
そのおばさんは住所と名前を言って電話をたたききった。
「佐伯室長、プラスチックでできたキャンディーを買ったということです」
「う、私もいっしょに行こう。お詫びセットとペロッティーを一セット持っていこう」
「はい」
僕はリュックにお詫びセットとキャンディーのセットを入れて立ち上がった。
「今日はこの前より少しうまくやってみろよ」
大隅係長が言ってくれる。
「よっ、いいリュックが光ってるよ」
菅野さんの声。
「がんばってきてください」
安達チーフも穏やかな笑顔で送ってくれた。きっと僕は緊張に顔が青くなって引きつっていたのだろう。実際、心臓のどくどくという音が聞こえていたが、この前ほど頭は真っ白ではなかった。電車に乗り浦和に着く。それほど高くないビルが駅前に並んでいる。雨は相変わらず降り続いていた。傘をさし、駅を出る。狭い二車線道路と、傘をさして行き違いにくい狭い歩道。雨を避けてビルの入り口に入り小さな地図をひらく。出るとき目安をつけたように、この駅前から線路に沿って続く道の二ブロック目が、目的の番地だった。迷うことなく姉川という電話してきたおばさんのマンションを探し当てた。道路沿い。駅から徒歩五分。どっしりとしたレンガ造りの大きなマンションだった。入り口には大理石張りの柱、木製の格子になっている自動ドアが重い音を立てて開いた。中に入ると壁の下側は御影石と青御影石の二色、上は砂岩を張った壁になっている。間接照明が灯り、応接セットまで置いてある。その向うは竹と白い小石を敷き詰めた小さな中庭がガラス越しに見えている。広いホテルのロビーのようなエントランスに圧倒された。扉の横にカメラつきの押しボタン。深呼吸をしてインターフォンを押した。名前を名乗ると返事もなく自動ドアが開いた。エレベーターで七階まで上がった。普通のビルのように建物の中に廊下があり、そこにはなんと臙脂色のじゅうたんが敷いてある。濃緑色のドアに金色のプレート、七○七号室。一番奥の突き当たったところの部屋だった。ここにもカメラ付きのインターフォンがついていて、ボタンを押した。どうぞと低い女の人の声がスピーカーから流れ、ガチャッと自動でドアのカギが開く音がした。今日は自分であけて入るぞと心の中でつぶやき、恐る恐るドアを開いた。入ったところにかなり広めの玄関と上がりがまちがある。僕のボロアパートの一部屋分くらいありそうな広さだ。白いスカート。赤と紺の大胆な模様の派手なブラウス。腰に当てた太い手には頑丈な手錠のようにブレスレッドが三重に巻いてある。指には大きな石が入った指輪が左右に何個もはまっている。見上げると青白い顔の少し太り気味なおばさんが仁王立ちになっている。心臓がどくりと跳ねた。
「このたびは申し訳ありませんでした。これ、私どもの会社の商品で申し訳ないんですが、お受け取りください」
広いはずの玄関は蒸し暑く湿気がこもり、人が三人も顔をつき合わすとうっとうしい感じがする。その雰囲気が余計相手を不機嫌にさせるのではないか。上がりがまちに持ってきた商品を置いた。
「これ、何よ。こんなものいらないわよ」
「あの、サンプルが、商品に紛れ込んでいたのかもしれません」
「あんた、どんなものか見ないでそんなこと分かるの。ばかにしてるんじゃないの、消費者を」
「いえ、決してそんなことは……。ええと、あの、よろしかったらご購入なさった商品を見せていただけませんか」
「ばかにしてんの、あんた。もういいわよ。帰って」
「申し訳ございません。私の言い方がお気に触ったのでしたら謝ります。このとおりです」
僕は慌てて最敬礼した。最初にあったほんの少しの余裕はどこかかなたに吹き飛んで、また頭の中が真っ白になってしまった。
「帰りなさいよ!」
大きな怒鳴り声。
『オカエリ、オカエリ。お父さんお帰り』
突然、頭の上で場違いに明るい声が聞こえた。からかわれているのかと思い顔をあげるとそこに白いオウムがいた。
『僕あきちゃん。僕あきちゃん』
その白いオウムはお腹の所の毛が抜け落ちて血も出ていて痛々しい。
「あの、姉川さん。この子、コバタンですよね」
「えっ、ええ」
この白いオウムはコバタンという種類の三〇センチくらいのオウムだ。頭に少し黄色がかった白色の冠の羽がある。
「この子のお腹の羽、自分でむしったみたいですけど」
「そうなのよ、やめさせようとしてもやめなくて」
少しめんどくさそうに答えた。
「あきちゃん、あきちゃん。僕なみちゃん。僕なみちゃん」
僕はそういいながらケージの隙間からそっと手を入れた。
「あっ、その子かむわよ」
「いいんです、ちょっとケージを開けていいですか」
「ええ、いいけど」
「あきちゃん、怖くないよ。なみちゃんはお友達。あきちゃんのことが大好き」
精一杯の笑顔をつくってケージの前のふたをゆっくり開けて、空手チョップの形で手をゆっくり入れた。
「あきちゃんいい子だねえ。ほうら怖くないよ。僕たちお友達、お友達」
コバタンは緊張して少しからだの羽を膨らませている。とさかのような冠の羽も逆立っている。僕はゆっくり空手チョップの手を止まり木の少し上の、コバタンの胸のほうへ近づけた。コバタンが足を本能的にすっとあげ僕の手をつかんだ。すっと掬い取るように手を上に上げた。コバタンはもうひとつの足でも僕の手をつかむ。つかんだ指のつめが手に食い込み痛い。その痛さと足の暖かさが気持ちいい。
「あきちゃんはいい子だねえ」
嬉しくなって顔が自然に緩んでくる。ケージの中でゆっくりコバタンが止まっている腕を上下させた。ぎぇ、ぎぇ、ぎぇッとオウム特有の地鳴きをして少し羽をばたつかせた。
「あんた、すごいね。この子喜んでるわ」
「オウムは本来、人が大好きです。こうやって遊んであげると嬉しいんですよ。姉川さん、あきちゃんはずっとここに置いているんですか」
「そうなのよ。最初応接間に置いたりしてたんだけど、あまりにも鳴き声が大きくてお隣さんから苦情が来て」
「できたらお昼の間だけでも日の当たる部屋に置いてあげてください。紫外線が羽を作る上で大切なんですよ。オウムが地鳴きをするのは朝と夕方、鶏と同じような感じでその時間に鳴くんですよ」
「そうなの。ここじゃ、昼も朝も夕方も同じように薄暗く、かわいそうだなとは思ったんだけど」
「それから、この子が羽を抜くのはストレスからなんだと思います。玄関にいると寂しいんですよ。できれば朝夕少しでいいから出してあげて遊んであげてください。簡単なことでいいんです。あきちゃんおんも出ようかねえ」
そういいながら手につかまっているコバタンをゆっくりとケージから出してきた。
「はい、エレベーターでしゅよお」
僕は手を上下にうごかす。
「はい、階段でしゅよお」
オウムの胸のあたりにもう一つの手を出す。すると足を出して乗り換えてくる。はい、はいと言いながら次々に手を差し出して乗り換えさせる。
「あはは。あきちゃん上手、上手。あっ、痒いところはありませんか」
首のあたりを掻き掻きしてやると、うちの文鳥のちーちゃんと同じように首を伸ばし羽根を逆立てて気持ちよさそうに目を細めている。
「あれー、あきちゃんはここが凝っていましゅねえ」
羽の上あたりの筋肉をゆっくりもんでやるとこれも気持ちよさそうだ。
「姉川さん、手に乗せてみてください」
「私は怖いわ。主人には慣れているんだけど」
「すごくかわいいんですよ。ちょっとだけやってみていただけませんか」
「じゃ、ちょっと」
おずおずと手を出した。
「大丈夫、この子は噛みませんよ。緊張しないで力を抜いて、笑いながら声をかけてあげてください」
「あきちゃん、お母さんのところにくる?」
「あきちゃん、嬉しいねえ。お母さんが手に乗せてくれるって。お母さんもあきちゃんが大好きって言ってるよ」
そういいながら姉川さんの手に胸を近づけてやるとひょいと言う感じで乗った。
「姉川さんもあきちゃんもいいですよ~。はい、エレベーター。声をかけながらゆっくりやってあげてください」
「あきちゃん、エレベーター」
しばらく遊んであげていると、姉川さんの表情もすごくやさしくなってきた。栗色のボリュームのある髪。少しふっくらしているが、こうしてやさしい表情をしているとかなりの美人だと気がついた。何種類か遊び方とスキンシップの仕方を教えてあげてケージに戻すときには、もうすっかり姉川さんもあきちゃんも慣れていた。姉川さんは名残惜しそうにオウムをケージに戻してからも、ケージの外からしばらく話し掛けていた。
「こうやって慣れてくれるとかわいいもんね。つかまれると痛いのかと思ったけど、痛がいいというか、結構気持ちいいものね」
「あの足でつかまれてると暖かさが伝わるでしょ。あきちゃんにも姉川さんの手の暖かさが伝わっているんですよ。今の調子で朝と夕方、少しだけでもいいですから遊んであげてください」
「ええ、やってみるわ」
「オウム頭がいい動物なんです。犬なみという人もいます。慣れてくるともっと自分からやって頂戴ってアピールするようになりますよ。それから、ちょっと根気がいりますけど、おしゃべりで会話できるようにしてください。できたときは大げさに喜んであげるんです。だいぶなれたら地鳴きした時はほうっておいて、おしゃべりで呼びかけられたときに反応してあげるんです。それもとっても喜んであげてください。それからいつも必ず反応してあげてください」
「おしゃべりって会話するの?」
「一種の芸ですが、たぶん半分以上意味もわかってやるようになると思います。そしてそれで反応してくれると嬉しくて、朝、夕の大きな声での地鳴きも減ってくると思うんです」
「へえ。そうなの」
「人間の言葉を話しているほうが楽しいことがあるって分かると、そうするようになるみたいです。うまく飼ってあげれば何十年も一緒にいてくれる本当にいい友達になれるんです、オウムは」
「なんだかもう一度最初からやってみようかなって気になってきたわ」
「あきちゃんのためにもぜひお願いします。ストレスがなくなると羽をむしるのもおさまると思います。困ったことがあったら僕に電話をください。名刺に電話番号ありますから」
「ええ、ぜひお願いします」
「それから、キャンディーの件ですが」
「それはもういいわ。口に入れたらプラスチックでびっくりしただけだから。だまされたって言うかちょっとばかにされた気がしたのよ。それより、オウムのこと、また教えてね」
「はい。いつでも。申し訳ありませんでした。ご指摘いただいた点を改善いたしまして、必ずよりよい物にいたします。今後とも当社の商品をよろしくお願いいたします」
頭をしっかり下げてから玄関を出た。立派なエントランスを抜けマンションを出たとき、雨はすっかり上がっていてきれいな夕焼けが広がっていた。
「並木君、ご苦労さん。できたね」
佐伯室長がにっこり笑っていってくれた。
「なんだか夢中で。だめですね。この前とあまり進歩ありません。なさけないな。オウムに助けてもらいました」
「確か最初の謝り方や説明はかなり稚拙だったが、結果的に普通に謝りに行った我々よりも強い信頼関係が築けたんだからいいじゃないか」
「怪我の功名です。最初はそうでもなかったんですが、この前と同じようにもう頭が真っ白になりかけてましたから。」
「そうだね。その冷静だったというのが悪いほうに出てたんじゃないかな。妙に理屈っぽく聞こえてた。自分が言った会話をトレースしてごらん。再現してみて悪かったところは直さないとね」
「はい」
「客にしゃべらせる。客の話に興味を持つ。途中で自分の意見を言わない。客の意見を否定しない。客の体を心配する」
「はい、ちょっと反省してみます」
歩道の先に雨上がりの夕日に輝く浦和の駅が見えている。走り出したいような気持ちだ。
「それにしても君のオウムに対する知識はすごいな」
「僕もオウム飼いたかったんですよ。すごく高いし、それに声も大きいのでアパートじゃ無理なんですよね。いまは文鳥がいるんですが」
「へえ、そうなんだ。動物は好きなの」
「はい、とても」
「おっ、もう六時か。じゃあ今日は直帰だな。俺はちょっとやっていくから」
佐伯室長は親指をはじく仕草をして見せた。
「あっ、パチンコですか」
「ああ、この街はパチンコ屋が多くてな、よく出るんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「ストレスが多い仕事をしていると、どこかで息抜きをしないともたないからな。並木君も一緒に行ってみるかい」
「いえ、僕はやったことないですから」
「君も何かいい遊びを覚えた方がいいぞ。そうじゃなきゃまいっちまう。じゃあ気をつけて帰れよ」
佐伯室長はにっこりと笑って手をあげた。
「はい、さようなら」
今日は出たのが遅かったのでこんな時間になっていた。もう事務所に帰っても誰もいないだろう。
駅で佐伯室長と別れてちょうど滑り込んできた京浜東北線に電車に乗った。電車はすいていて座れた。乗ったとたん気が抜けたのかすぐに眠くなった。すぐに降りなきゃいけないので寝ちゃいけないと思ったのだが、どうにも我慢できなくなって眠ってしまった。心地のよい疲労だった。
六
電車を下りた足で本屋に向かう。本は昔からよく読んだ。遊ぶ相手がいなかったせいでゲームをしたりしていたが、人が作った物に踊らされているようでどうもおもしろくない。やっている途中は夢中になっているし、おもしいろいように思うのだが、全面クリアしてしまうと達成感よりむしろむなしさを感じた。長くは続かなかった。テレビも心に響かなかった。通信教育を受けていた高校のあるとき、図書館に行ってみた。平日の昼間の図書館はがらんとしていて膨大な本が、全部自分の物になった気がした。たまたま手に取った物はミステリーだったが、導入の部分から主人公と思われる女の子が死んでしまう。どうなるんだと思ったら母親の体は小学生になっていた。女の子と母親が入れ替わってしまったのだ。おもしろくて最後に少し切ないミステリー恋愛小説になっていた。それから本にはまり、小説を手当たりしだい読んだ。歴史小説から、歴史物、旅行記などに範囲が広がっていった。今日は、駅前の大きなこの本屋で、仕事に何か役立つ本を探そうと思って立ち寄ったのだ。たなぼただったけど今日少しうまくできたことで、今の仕事にちょっとだけ興味がわいた。今のような対応の仕方ではすぐに行き詰まってしまうだろう。少しはましに人と接したり話したりできないだろうか。実用書のコーナーで『クレームをチャンスに変えろ』『営業の神様は、必ずお客様をうんと言わせる』という本を見つけ、それから自己啓発のコーナーに回って『人に好かれる技術』『交渉の達人はこうしている』という本を買った。四冊もリュックに入れるとさすがにずっしりとする。
期待して読み始めるてみたが、驚くようなことが次から次へと書いてあるわけではない。そりゃ、そうしたいよ、できるものならということが多かった。こんなこと出来るのはよほど積極的な性格の人か、絶対に傷つかない鉄のように硬い心をもった人だろうと思えてしかたない。そう言えば大隅係長は営業でいい成績をあげていたらしい。そうだ、あのタイプの人が読めばさらに成績が上がる手引書だなあ。などと思いながら最初の本を読んだ。
七月に入った。相変わらず雨が降っている。そして肌寒い。今年は雨が多く冷夏になるのではないかと思う。季節の天気や温度は菓子の売れ行きや、売れる物の種類に影響する。どれをどれの位の量作るかなど工場の生産計画のほうも大変だろう。明日は土曜日で休日なので帰りに大宮の駅で途中下車した。ちょっと自分の印象を変えてみようと思って駅ビルや周りの商店街をぶらつくつもりだ。この前買った本の中にも出てきたが、人と接する仕事は清潔感のある第一印象を与える、好感が持てるようにするなど見た目も結構重要だと佐伯室長にも言われた。そう言えば中学卒業のときに保健室の天野先生にも髪形やめがねを変えたらと言われたことがある。まず洋服売り場に行ったが、仕事に着る服は限られている。それに僕が見ていてもいらっしゃいませとは義理で言うが、買うように見えないのだろうか、どの店でも店員が寄って来ない。スーツなどは紺でもグレーでも同じじゃないか。どうすれば第一印象が良くなるのかさっぱり分からない。はじめの意気込みは一日水をやらなかった花のように早くもしおれてしまい、うつむきながら駅ビルを出た。どうしようかと思って途方にくれていると、雨で暗くなりかけた駅の向かいに大きなガラス張りの明るい店が目に付いた。僕なんかが用がある店とは思えないが、女性の高級な洋服屋なのか華やかな雰囲気のある店だ。一体何の店なのかだけでも確かめてみたくなった。駅ビルを出てふらふらとそっちのほうに近づいてみた。小降りになった雨の中、ビニール傘をさして店の手前でチラシを配っている若い女の子がいる。もちろん僕になんかチラシを渡さない。女の人に渡しているようだ。店の前には電気工事の人か大工がやっているように腰のベルトにちょっと大きな物入れをつけた若い男が二人立っている。そろいの黒のシャツに、黒のスラックスをはいている。通り過ぎるときに見たら物入れの中には、はさみが四本くらい、櫛が数本、ものをはさむような物が何本か挿してある。横を見た。とても散髪屋には見えないような店だったが、女の人の髪を切る店のようだ。お客はあまり入ってない。高いのだろうか。通り過ぎるときまだ幼く見える女の子と目が合った。やはり黒の襟付きのシャツに黒の膝丈のスカート。にっこり笑ってチラシを手渡してくれた。
「男性の方もどうぞ」
ちょっと舌っ足らずの話し方だ。僕は会釈をして通り過ぎた。そうだ髪形を変えてみよう。そう思うとどうしても今のおしゃれな店でやってみたくなった。回れ右をした。さっきチラシをくれた女の子がさしているビニール傘が近づいてくる。どきどきした。息がつまりそうなくらい緊張してそのまま通り過ぎる。チラッと横目で店の中を見ると広いフロアーに二席くらい髪を切っている人が見えた。明るくフラットな空間、そんな清潔感のある店だと感じた。少し行きすぎてまた戻ってきた。店の明かりがどんどん近づいてくる。心臓がどきどきしてのどが渇く。だめだ、入れない。いくじなし。こんな所に入ったことないんだからしょうがないじゃないか。自分にがっかりしてうつむいた。どこか別の散髪屋で髪形だけでも変えて帰ろう。膨らみかけた風船はあっけなくしぼんでしまった。
「いかがですか」
驚いて顔を上げるとさっきの女の子が微笑んでいた。短く見える後ろで束ねた髪、少しピンクのふっくらしたほほが幼く見えた。
「あの、いいんですか、僕でも」
顔が真っ赤になっているのがわかる。背中では大量の汗が流れ落ちている。
「もちろんです。どうぞ」
女の子のはじけるような笑顔に誘われて明るい店の中に入った。なんだかまぶしくて顔をあげられない。フロアーの中央にあるおしゃれな椅子に座らされた。男の散髪屋にあるようなリクライニングと洗面台つきの機能的で不恰好な椅子ではない。こんなところで髪を切ったあと、どうやって髪を洗うのだろうか。変な心配ばかりが余裕のない心の隙間に広がっていく。さっとカバーをかけるまでその子がやってくれた。宜しくお願いしますとその子が言う声で振り向くと、三〇前くらいの女の人が後ろに立っていた。
「いらっしゃいませ。今日はどのようにいたしましょう」
「ええと、あの……」
「はい」
僕は頭が真っ白になりな頭が回転しない。落ちつけ、落ちつけ。
「ええと、どうしたらいいでしょうか」
「くっくっく」
横に置いてある鏡を見ると、女の人は顔を真っ赤にして笑いをこらえている。隣りで心配そうな顔をしてさっきの女の子が立っている。
「あの、いやそうじゃなくって。すいません。僕こういうところ初めてなもんで」
「いえ、失礼しました。お客様がこちらに来られたということは、今までの髪型を変えたいということですよね。それはどんな感じに考えていらっしゃいますか」
僕は少し落ちついてきた。ふーっと息を吐き出した。なんだかこの人と話をしていると気持ちが落ち着くような気がする。横におかれている長細い大きな鏡をチラッと見ると、きれいな長い髪の女性が僕のすぐ後ろに立っている。
「短くしてちょっと髪の毛が立つような感じのイメージなんですけど」
「ちょっと立ち入ったことをお聞きしますが、お客様はどういう理由でイメージを変えようとしているのでしょうか」
「あの…」
「いえ、お答えしにくければ結構ですが、それによって髪形を考えたらどうかと思ったものですから」
「仕事でお客様にいいイメージを持ってもらいたいんです。今度、移動で苦情とかを聞いたり、不良品が出たときに謝りに行いったりする部署についたものですから」
「へえ、大変なお仕事をなさってるんですね。では第一印象が大切なんですね」
「ええと、さっき言った短い髪形って、朝ニュースに出てくるような若いアナウンサーの爽やかな感じをイメージしたんです」
「大体分かります。ちょっと待ってて下さいね。由紀ちゃん、本とって。四月号がいいわ」
「はい」
鏡越しに見ていると、先ほど案内してくれた女の子が大きな本を持ってきた。本を開いて見せてくれる。若い男のモデルがポーズを作って写っている。なるほど、髪形を見る本なのかと分かった。
「お客様、これなんかとっても爽やかな感じですよ」
小さい『っ』。突然鏡に映る女性を見ていてそう思った。黒っぽいブラウスの胸に金色に輝くネームプレートを見た。光が反射してよく見えない。『井』の文字だけがかろうじて見えた。そう言えばすごいきれいな人だけど、むき卵のようなつるっとした顔。自分が知っているのとは少しほほからあごの線がとがっているが、大きく少し上がり気味の眼の形に昔の面影があるかもしれない。僕はゆっくりと深く息を吸って吐き出した。
「あの、お客様?」
「ええと、もしかして籠井さんですか」
鏡の中の女性は怪訝そうな顔で小首をかしげた。違うんだ。やっぱり言うんじゃなかった。ああ、どうしよう、変なこと言っちゃったよ。その女性の表情が大きく動いた。僕は顔を伏せた。
「あの、」
「あの、すいません」
その女性と僕の声が重なった。
「もしかしてまっくん?」
「はい、そうです」
「わー、まっくんだ、まっくんだ」
籠井さんは僕の肩を両手でパンパンとたたいた。
「いや、その、お久しぶりです」
「あはははは。まっくん、ため、ため。敬語おかしいよ」
「あっ、あの。そうだよね」
顔がかっと熱くなって口ごもった。
「ようし、じゃあ、あたし張り切ってやっちゃう。思いっきりいい男にしてあげるから任せといてね」
つばめの声が大きかったので店中の注目が集まっているようで顔をあげられない。
「いや、普通でいいよ」
「あはは、いいから、いいから」
つばめは腕まくりをして、ポケットからよく切れそうなはさみを取り出してちょきちょきとやって見せた。
翌日の土曜日、朝一〇時につばめとここの駅で待ち合わせをして、二時間後に店を出たときにはなんだか顔の回りが涼しく、身も心も軽くなったような気がした。千円カットで散髪して二ヶ月以上たって、ぼーっと長かった髪はふんわりとウエーブがかかり、サイドはすっきりと短くなっていた。ガラスに映るたびに姿を映してイメージが変わった自分を見た。なんだか嬉しい。
「おはよう~。まっく~ん」
改札の向うではじけるような笑顔のつばめが大きな声で呼びながら手を振っている。あいつあんなに明るかったかな。みんながこっちを見てちょっと恥ずかしかったが、嬉しい。
「おはよう。今日は店、いいの」
「うん、十二時から出るから。今日はまっくんのめがねと服を選ぶんだから。まずめがねからね」
「ああ」
つばめに勢いよく手を引かれるようにして歩き出した。今流行の安い眼鏡屋に入った。全部一万円以内でできるので驚いた。いつの間にこんなにフレームの種類ができて、安くなったのかと思った。種類が多すぎてかえって迷う。これはと思うものをいっぱい選んで並べて、かけてみたがよく分からなくなってきた。
「まっくん、どれしても似合うよ。かっこいいよ。あたしが一つプレゼントするから仕事用と遊び用と二つつくろうよ」
そう言って選んでくれたのは仕事用にはコッパーといって銅色の上ふちのめがね。レンズの部分は少し丸くなっていてソフトな感じがする。すっきりしたビジネスマンという感じだ。もうひとつ遊び用に選んでくれたのは、紺色の上ふちで横のつるの部分はブルーでちょっと太くメッシュになっている。レンズは角張っていてほんのわずか傾斜をつけ薄い茶色の色が入っているのを選んだ。素材はどちらもアルミらしく重くなくぴったりとフィットしているわりに痛くなかった。
「あはは、これをするといま流行のちょい悪アニキだよ。まっくんかっこいい~」
つばめは喜んだが、なんだか自分でないようでくすぐったい。こんなおしゃれを考えたこともなかったし、第一、自分の顔をこんなに長い時間見るなんて事、今までなかった。コッパーのほうは七千八百円、紺色のほうは九千八百円。銀色のめがねをはずし、つばめがプレゼントしてくれた紺色のめがねを早速かけた。
「次は洋服ね」
つばめは僕の腕を取って歩き始めた。隣りからいいにおいがしてくる。これが小学校のとき仲がよく、中学ではいじめっ子を震え上がらせるほど怖かった、あのつばめだと思うと不思議な気がしてくる。腕を組んだまま紳士服売り場まで迷うことなくリードしてくれた。各店はバーゲンをしていて半額になっていた。まず仕事用の服を見ることにした。つばめはこれがいいかとか、これはちょっとへんだとか僕の体に服を近づけいろいろと考えてくれている。つばめに聞くとその服だけでなく中に着るシャツの色やそれに合わせるネクタイの色を考えながら見ているのだそうだ。つばめが選んだのは濃緑色のジャケット、ベージュのスラックス、明るい黄色系のネクタイ。紺色のスーツを持っているというと、それに合わせる薄い色のピンクのワイシャツ。それにブルーとグレーのストライプのネクタイ。それから黒で織りの入ったスーツは私のプレゼントといって選んでくれた。今年は黒がはやっているそうだ。少しスリムなズボンだった。それに合わせるブルー大きなストライプののシャツ。それからピンクのネクタイ。あっという間に時間が過ぎて気が付いたらもうお昼前だった。
「つばめ、ご飯でも食べに行こうよ」
「ごめんね。もうそんなに時間がないよ」
仕方がないので駅の向かいにあるハンバーガーショップに入った。
「ジャケットは中に普通のシャツを着れば普段着になるよ。靴は茶系の靴がいいわ」
「紺の背広はは黒の靴がいいよね」
「それはどっちでもいいよ。黒のスーツには黒の靴がいいと思うわ」
「さすがに髪を切る仕事をしているだけあってセンスいいよね。何を着ても同じと思っていたスーツがすごく華やかな印象の仕事着になったよ」
「いつもそういうこと気にしててみて。あっ、いまの人の服、素敵だなとか、今の色の組み合わせいいなとか思っていると、自然に自分なりの好みの形や色使いが分かってくると思うの」
「今日は本当にありがとう。一人ではとてもできなかったよ。イメージ変えようと思ったけど何をどうしたらいいか昨日は本当にとほうにくれてたんだよ、つばめの店に行くまで。いろいろ見てもらって助かった」
「あたしだって楽しかったよ、いろいろ見て歩くの」
「あの、今度お礼をしたいんだけど…どうかな」
僕は思い切って誘ってみた。
「お礼なんていいよ。でもまた、一緒にどっか遊びに行こうね」
「うん」
これって断られたってことかな。そうだよな、いまのつばめすごくきれいだもんな。誰かと付き合ってるのかもしれない。
「休みが合わないからなあ、まっくんと」
「僕、休み取るよ」
「無理しちゃだめだよ。じゃあね、今度の火曜日はうちが休みだから、まっくんの会社が終わってからご飯でも一緒に食べよ」
「うん。じゃ、火曜日の五時半に」
「ね、たまには池袋か新宿まで出ない?電車で一本だし」
「そうだね」
僕たちは手を振って分かれた。僕は帰り道歩きながらさっきのことを考えていた。つばめと食事の約束ができたけど、休みは取らなくていいって言われた。それって気を使ってくれてるのか、それともそれ以上の付き合いはしたくないということだろうか。それ以上の付き合いって、僕はつばめとどうしたいんだろう。遊びに行こうといってもどこへいったらいいのか分からない。だいいち、つばめはどんなことが好きなのだろう。食べ物は何が好きなのだろう。好きな人はいるのだろうか。気になり始めるといろんなことが一気に、頭の中で膨れ上がってしまった。でも、食事を一緒にできるだけでもいいじゃないか。僕はいつも思ったことをストレートに言えない。一人でああでもない、こうでもないと考えているだけ。だからみんなに嫌われるんだ。この前の本にも書いてあったよ。この人はと思う人に理解してもらうには自分も努力しなくっちゃいけないって。自分から変わる努力をして自分の感情を表現する。自分の欠点や傷も隠さないでも聞いてもらえばいい。そのときは分かった気がして、ちょっとだけ椿山さんとのふれあいができたような気がしたけど、女の人を相手に実行するのはまだちょっと難しい。第一つばめと僕は小さいころからお互い知っているわけだし……本当につばめの事を知っているんだろうか。何を知っているんだろう。
「おはようございます」
月曜日の朝。出かけるときに着ていく服の色あわせに戸惑っていつもより遅くなってしまった。ちょっと緊張してお客様相談室のドアをあけた。佐伯室長はいつものように、机で読んでいた新聞からちょっと目をあげた上目遣いのままぽかんとしている。
「ええ、その。並木君です?」
僕はにっこり微笑んでうなずいた。それから次々みんなが来るたびにみんな驚いて、からかって、のけぞって、口笛を吹いて、そしてみんな肩をたたいて笑いかけてくれた。そう、今日、僕はつばめが選んでくれた中で一番派手な、グリーンのジャケットにベージュのパンツ姿で出勤したのだ。もちろんめがねはコッパーカラーの物に変えてきた。
「なかなかいいですね、並木君。そういう感じのほうがお客様の気持ちもやわらかくなるんじゃないんですか」
安達チーフは元教師らしい評価だ。
「しかし、大変身だな、なーみちゃん。女でもできたか」
「ない、ない、ありえないよ大隅さん」
「菅野、それはなーみちゃんに失礼だろ」
「でもどうしちゃったんだ、なみちゃん。髪の毛もなんかすごく決まってるじゃん」
「ふふふ、どうしちゃったはないでしょう菅野さん」
椿山さんは穏やかに微笑んで親指を立ててウインクしてくれた。
「いや~、変ですか。変ですよね、やっぱ。でもちょっと自分を変えてみようかなとか思ちゃいまして。そうしたら何かいいことあるかなって」
僕は気になっている髪の毛にちょっと手をやって言った。
「ない、ない。そうそういいことなんてあるもんか」
「まあいいじゃないですか菅野君。並木君、なかなかいい感じだぞ。部屋が明るくなったようだ」
「並木、佐伯さんの言うとおりいいセンスだぞ。髪もパーマかけてちょっと茶髪気味だな。それくらいやさしく品がよく見えるようになるなら茶髪やパーマもいいかもな」
「パーマって椿。おまえ、その坊主がちょっと伸びたような頭にかけるのか。パーマかけるって柄じゃないよ」
「菅野さん、パンチパーマですよ、椿山先輩の場合」
「大場、いいのか」
椿山さんがちょっとすごんだふりをして見せた。
「すみません。勘弁してください」
大場さんは首をすくめ、手を合わせる。
「あっはっは。しかし、こりゃ、俺の次に女を泣かすようになるだろうな」
「じゃ、大隅さんと同じように君もこれで会社を辞めましたのくちになるのですか」
小指を立て安達チーフが珍しく冗談を言った。
「まだまだ俺のほうがもてますよ」
「あははは。菅野さんは風俗嬢にでしょ」
「大場君、君と一緒にしてもらいたくないもんだね」
部屋の空気は柔らくなって流れた。今朝、部屋に入るまではどきどきした。ちょっと恥ずかしいとか、みんなにからかわれるんじゃないかとか、仕事をする格好じゃないと怒られるとか。でも、みんなが喜んでくれたような気がする。僕自身も気持ちがいつもより明るくなったみたいで、よーし今週もがんばるぞという力が湧いてきた。つばめ、ありがとう。僕、もう少しここでがんばってみようと思う。
僕は机に向かいこの前読んだ営業の人向けの本を思い出していた。初対面の人と名刺を交換しただけで終わってないか。顧客をあなたのファンににすることができないでいるあなたは何かが足りない。とりあえず時間をとっていただいたことに対するお礼状を出すことからはじめてみようという内容だった。電話や面談よりも自分宛のはがきや手紙というのは嬉しいものだと書いてあったが、僕はそれを読んで中学のときに天野先生が、青森からくれた年賀状を思い出していた。小さな紙片の、小さな文字があんなに嬉しかった。天野先生とは年に一度のことだが、その後も年賀状を交換して近況を伝えあっている。もちろん今でも天野先生のはがきは毎年心待ちにしているし、もらうと嬉しい。
僕の机の横でことっと音がした。見るとカップに湯気が立っていてコーヒーのいい香りがしてくる。慌てて見上げると椿山さんがにこっと笑い、手のひらでどうぞという仕草をして自分の席に戻っていく。なんてかっこいいだろうこの人。しばらく見とれ慌てて立ち上がってお礼を言った。いつも自分専用のいい豆を買ってきて、日に何度か入れて飲んでいるのを僕にもくれたのだ。カップを近づけるとなんともいい香りがした。一口、口に含むとほろ苦い、それでいて深い味わいがある。あとでちょっとだけ酸味が口の中に残る。なんだか今考えていたことが頭の中スーッと整理されるような感じがした。そうだ、クレームを受けた人の住所がわかっている場合、はがきを出そう。お詫びの言葉、事故が起こった原因、その後の対策などを書いたらいい。工場を直接回ると、その取り組みに特に気をつけているようになっていることもある。それもはがきに書いて送ってみよう。はがきに書き始めると、時候の挨拶から始まって結構書くことが多く、文字が小さくなっていく。そしてすぐに社用箋にして手紙に変えた。電話だけで済んだ先にも住所がわかっている場合は出すことにした。考えてみるとクレームや質問が来るということはうちの商品を買ってくれたからで、一番大切にしなければいけないお客ということではないだろうか。これを失うのと、もう一度うちの商品を買ってくれるようにするのとでは大違いだ。別の本にクレームは迎え撃つようにしろ。前のめりなほど積極的な気持ちで処理しなければならない。クレームのときは信頼を得るための最大のチャンスだからと書いてあった。歓迎会のとき佐伯室長も似たようなことを教えてくれたような気がする。そうなんだよ、この部署はお客様の声に一番近いところにいるんだから大切部署なんだ。決して姥捨て山やガス室なんかじゃない。
ぽんと肩をたたかれた。驚いて顔をあげると佐伯室長が笑っている。慌てて見回すと部屋には誰もいない。
「昼休みになったよ」
「あっ、ああ。そうなんですか」
「ずいぶん一生懸命やっていたのでね、みんな気を使って静かに出ていったんだよ」
「ええ、ぜんぜん気がつきませんでした」
「私も声をかけようかどうしようかと迷ったんだが、ま、ちょっと息抜きでもしておいで」
「すいません。自分の世界に入っちゃうと周りが見えなくなってしまって」
「いいんだ、いいんだ。自分の仕事さえちゃんとやっていればほかのことはあまり干渉しないのがここのルール。でも飯を食うのを忘れて空腹で倒れられても困るから」
愉快そうに笑って室長は自分の席に戻って行った。
翌日はつばめがプレゼントしてくれた黒のスーツとピンクの大きなストライプのシャツ、黄色にグレーのストライプが入ったネクタイをして出勤した。今日は夕方つばめと夕食を食べに行く日だ。朝から体が軽く落ちつかなかった。クレームの電話も苦痛ではなかった。明るい声できびきびと対応できていたと始めて佐伯室長がほめてくれた。分からないことがあればPCで検索して答えればいいということだが、僕はいざ個人宅を訪問したときにそれでは困ると思い、項目ごとに印刷して常に目を通し覚えていくことにした。理科系なので材料などはもちろんだが、機械のラインなどの話も案外すっと頭に入ってくる。しかし、クレームになる原因のほとんどは人為的なミスによるもので、うっかり操作を誤り、帽子をかぶり忘れ、検品をしているときに見逃して、倒してなどのほかに、会社以外の流通段階や小売店段階でという原因も三分の一以上はある。中には消費者の故意によるものと思われるものまである。今までにあったクレームの報告書も膨大だが、すべて目を通すことにした。それが性格なのか、理科系の思考なのか細かいところももれなく徹底的に理解し自分の物にしてから、仕事をしたいという気持ちがどんどん大きくなってくる。受験でもするのかと部屋のみんなにからかわれたが、その人たちの顔には好意的な笑顔が浮かんでいた。それでまたやる気になった。紙に赤で線を引いたりノートにまとめたりという作業に熱中した。もちろんまだまだ人と話をするときは気が重い。精神的にもハードでストレスのたまる仕事には違いない。しかしほんの一ヶ月前のときの気持ちとは雲泥の差だ。
「まっくーん」
相変わらず元気に手を振るつばめがいた。今日はレースと刺繍で飾りがついた白いブラウス。下は薄いうぐいす色の膝丈のスカートをはいている。僕の知っているつばめとはずいぶんイメージが違う。最もあれからもう十数年が過ぎたし、よく考えたら当時だって僕はつばめの制服姿しか知らない。手を振りながら小走りに近寄ってきたつばめに腕を取られて、池袋に出た。僕たちの育った町は西武池袋線の沿線にある。だからちょっと大きな買い物に家族と来たり、大きな本屋や電気屋を回ったりと、子供のころから結構この街には来ている。大学へ行くようになるとここは乗換駅で、大学のゼミなどのグループでたまに遊びに来た。
「かっこいいよ、今日のまっくん」
「うん、ありがとうね、つばめ。会社でもみんなに評判だった。椿山さんて尊敬できる先輩がいるんだけど」
「うん」
「その人、ものすごい硬派の人なんだけど、その人が僕の髪を見て、俺もそんな感じにしてみようかなって言ったよ。つばめがやってくれたこの髪型に」
「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ」
「つばめが変えてくれたから気持ちまで明るくなった気がするよ。仕事へ行ってもクレームを受けるという暗い雰囲気の部屋が明るくなったような感じだよ」
「そうよね。着る物や化粧などで自分の気持ちやみんなの雰囲気が変わると感じることがあるよ、あたしも」
改札を抜けると地下道いっぱいに人が流れている。この地下道はいつも人が多いが、帰宅ラッシュの時間と重なっていて息が詰まりそうなくらいの人だ。。階段を上り地上に出る。池袋はサンシャインのある東口がにぎやかだが、今日は西口のほうへ行こうというつばめに従って駅の上に出た。駅前に小さなロータリー。手前は巨大な百貨店。向こう側は小さな店が建ち並ぶ、猥雑な感じのする街が広がっている。商店街にはこの街にある有名な大学の小さな旗が、いたるところにかけられている。紫紺に白の十字。左上に黄色のマーク。祝ご入学と書かれた横断幕も目に付く。西口はこの大学系列の小、中、高校もある。安い飲食街、学生相手のゲームセンター、ちょっと崩れた感じの人が多い何件ものパチンコ屋。そして少し奥に入ると風俗街。
「でも、あの日よくうちの店にはいる気になったね、まっくん」
「いや、何回も行ったり来たり、勇気が出なくって。でも、案内してくれた女の子」
「由紀ちゃんね。安西由紀子。ちょっとかわいいでしょ。まっくんきにいった?」
「そんなんじゃないよ」
ちょっと大きな声。思ってもみないことを言われあわてた。つばめが隣りでクスリと笑った。
「あの子が始めに声をかけてくれて髪を切ってみる気になったんだけど、どうしてもはいる勇気がなくて店の前を行ったり来たりしたんだよ。三回くらいあの子の前を通ったと思うんだけど、ぜんぜん普通に笑顔でいかがですかって言ってくれたから、勇気を出して入ってみようって思ったんだよ」
「そうなんだ。あの子見てると昔のあたしみたいで楽しいのよ。高校中退してふらっと前の店にきたんだけど」
「へえ、中退して」
「高校ぐらい行っといた方がいいから、昼に四時間、学校に行かせてるの。四年かかるんだけど、卒業してくれるといいな」
自分の昔のことを思い出しているのだろうか。つばめはちょっと祈るような母親の顔になっていた。
「つばめって店長なのかい」
「うん、あれあたしがつくった店よ」
「えーっ。すっごいなあ。つばめが作ったの、あの店」
「すごくないよ、ぜんぜん。だってほとんど借金だもん」
「でも大きくて明るくて、清潔な感じのいい店だよね」
「うん。そういう店を作りたかったの」
「駅前のいい場所だし、家賃も結構高そうだね」
「普通のビルの一階にテナントではいるよりずいぶん安くしてくれたわ。あそこはもともと住宅兼店舗の商店街だった建物なの。ほかは全部建て替えちゃったらしいけど。だからちょっと古いの」
確かに二階にある駅の広場から見たとき五、六階建てのビルに囲まれるようにして、あそこだけ陥没したように上の空間が空いていた。
「上も借りているの」
「あそこの二階は住居として使えるようになってるわ」
「へえ、じゃ、つばめはあそこに住んでるの」
「あそこは女の子のための寮みたいにしてる。私は実家から通い」
「昔のあの家」
「うん。まっくんもでしょ」
「僕は就職してから家を出たよ。一人でいるほうが気楽だし」
歩道が狭いわりに人通りはすごく多い。歩道沿いには大きな家電小売店のビルや、大きな本屋さんなどがあり、人の出入りも激しい。二人で並んで歩くのも歩きにくいような感じで、二人の間を向うから来る人が何回も割って入ってくる。
「でも懐かしいなあ。忙しくてしばらくこの街には来てなかったけど、中学の後半からよく遊びにきてたんだ」
「一人で?」
「そう。あたし悪かったから。あのころ」
「うん」
「あっはっは。あっさり納得しないでよう、まっくん」
「あっ、いや。ごめん」
「ははは。まあ、実際、悪かったよね、あたし」
丸井の横断歩道を渡って左に少し行き、狭い道に入ってそれを抜けた角の店につばめは僕を案内した。そこは昔の倉のような白い壁に黒い木の枠が外壁になっている店だった。入り口にメニューがスポットライトで照らされている。ガラガラと音を立てて木のドアを引いた。
「ここは洋食の店だよ。ファミレスより高いけど、マスターが時間をかけてソースやスープを手作りで作ってるからとってもおいしいよ。まっくんが気に入ってくれるといいけど」
木の椅子を引いてつばめと向かい合わせに座った。
「じゃあ、僕はハンバーグ定食」
「あたし、ビーフシチュー」
「ね、つばめはいつから美容師なの」
「あたし、あんなだったから高校まともに行ってないんだよ。遊び歩いて、家にもほとんど帰らなかったんだよ。でもお金ないでしょ。あるときふらふら街を歩いてたら(住み込み、美容師見習募集)って貼り紙が大きな店の前に貼ってあったの」
「へえ」
「ガラス張りで中まで全部見える素敵な店だった。とりあえずこれで寝るとこ確保って軽い感じで、店のドアをあけたんだけどね」
洋食用の白い帽子と清潔感のある白い前掛けをしたちょっと太り気味のマスター自ら、ワゴンを押して出てきた。料理が熱いプレートに乗っている。紙の前掛けをさせられてマスターがソースをプレートにソースをかけてくれた。じゅーっとソースがプレートで焼けるととてもいい香りがした。
「おいしい、このハンバーグ。でもいつも食べる味とちょっと違う気がするな」
「お客さん、これは牛肉一〇〇%だからだと思いますよ。今度来たときはミデアムを食ってみてください。柔らくてすごくおいしいから」
「はい。ぜひ」
「とってもいい肉使ってるからこんなに焼くのはもったいないんだけど、初めてのお客さんにそれを出すと、中まで焼けてないって必ず言われるんでめんどくさくなっちゃってね。ステーキで中まで焼いたりしないじゃないですか、ほとんどの人は」
「そうですね」
「あれとおんなじなんですよ。周りを焼いて肉汁を閉じ込めてしかもやわらかい。それにこのソースが抜群に合うんですよ」
「うまそうですね。それを食べたくなってきました」
「また早いうちのお越しをお待ちしております」
マスターはにっこりと笑って一礼して厨房に戻って行った。
「あのマスターを見てるとお店を経営するのにも勉強になるんだよね」
「うん、確かにまたきたくなるような人柄だよね、料理だけでなく」
「まっくん、よかったこのシチューも味見してみてよ。これもとってもおいしいよ」
スプーンで一さじすくって食べてみた。
「本当だ。いろいろな素材の味がソースに絡まってとってもおいしいね」
「その肉も食べてみて」
「なんだか溶けそうな感じの柔らかさだね」
つばめは僕を見て笑った。
「何かおかしいこと言っちゃったかな」
「ふふふ。だって、まっくんでなんだか料理評論家みたいな言い方なんだもん」
「変かな。変だよね、男がこんなこと言うの。ついこの前まで味や香り作るのが仕事だったから、会議なんかで味を言葉にしたり言葉を味にしたりしてたんだよ」
「そっか。それでね」
「この味にするにはこれとこれを混ぜて、それからどうしてってすぐ考えちゃうんだよ」
「まっくんのお嫁さんになる人は大変ね。いろいろわかっちゃうから」
「いや、いつもはそんなこと言わないよ」
あわてて否定するとつばめはふふふと笑った。なんか今日はつばめの言葉に異常に反応しすぎかな。
「よかったらそれ食べて」
「じゃあ、僕のハンバーグをつばめにあげるよ」
「えー、まっくんは男の子なんだからいっぱい食べなきゃだめだよ」
「いいんだよ。半分も残ってないけどこれ」
ハンバーグの入ったプレートをつばめのほうに差し出した。慌ててマスターが出てくる。「お客様さまそれは違反でございます。違う料理はまた来店したときの楽しみに取って置いてください」
「いいの、いいのマスター。けちけちしないの」
「もう、籠井さんだからしょうがないか」
首を振りながらまたカウンターのほうへ戻っていく。
「あの人もいい人なんだけどねえ。もうちょっと商売っ気が抜ければ」
つばめはわざと聞こえるように大きな声で、顔をしかめながら言った。マスターは背中で声を聞きながらえへんと咳払いをした。僕はその掛け合いがおかしくて笑い出してしまった。
「あっはっは。なんだか今日はすごく楽しいよ。つばめはこの店に昔から来てるんだね」
「まあね。中学を卒業してからだからもう一〇年以上になるかなあ。最近はなかなかこれないんだけどね」
「そうなんだ」
僕がいつまでも中学のときのことを引きずって家に閉じこもっている間、つばめはずいぶん色々なことを経験したんだろう。いつも前向きなつばめらしいな。
「あいかわらず、ハンバーグもおいしいね」
「ごめんね、もう少し暖かいうちにあげればよかったね」
「ふふふ、なんだか恋人同士みたいだね、あたしたち」
「えっ」
なんだか恥ずかしくなってシチューを食べているふりをしてうつむいた。顔が熱い。デザートとコーヒーを飲み、店を出た。細かい雨が降っていた。僕の安物の傘を差し二人で入った。ふらふらと西口公園まで歩く。石畳のきれいになった公園を歩く。昔は全面土の広い運動場のような感じの公園だったが、今では石やレンガなどを敷き詰めてきれいにしている。できたばかりのときは、近くの大学の学生や会社帰りの若いカップルであふれていたこの公園だが、今夜は雨が降り出したこともあり人影はまばらだ。公園の外ではバスがひっきりなしに到着し、人を吐き出し、そしてまた多くの人を乗せて出てゆく。その向かいには安物の透明のビニール傘を通して、家電量販店のネオンがにじんで見えている。雨の日にこんなに街がきれいに見えるなんて思わなかったな。しばらく噴水の前でライトアップされたてきれいな噴水を見ていた。小さな傘なのでつばめの肩が僕の腕に触れて暖かい。
「でも、よくがんばって美容師になったね。大変なんだろ」
「仕事自体はそんなでもないよ。始めてすぐね、あっ、これって楽しいなと思ったの。掃除したり洗濯したりばっかりだったけど、全部片付いているときはね、来たお客さんを椅子に連れて行って準備をするの」
「ああ、つばめの店であの子がやってくれたみたいにだね」
「うん。そういうことをすると、ああ、あたしも早く髪をきってみたいなって夢が膨らむのよ。あれはなんかわくわくする仕事だったな」
つばめは懐かしそうに遠くを見る目をしていた。
「仕事は楽しいんだ」
「うん。でもあたし、つっぱってたでしょ、あのころ」
「そうだね。髪の毛の色も違ったよね」
「うん。でもそれはすぐみれる程度に茶色くさせられたの。接客業だからね。でも性格悪かったから、先輩に意地悪されてね」
「つばめは性格悪くないよ」
ちょっと怒ったような声になってしまった。
「あはは、ありがとうね、まっくん。あたしの味方はまっくんだけだ。でも、意地悪されてもほとんどこたえなかったよ。だって慣れてるもん、そんなこと」
「ああ。そうだね」
小学校のころの、独りぼっちのつばめの姿を思い出してちょっと暗い気持ちになった。
「あたしたちってさ、学校でいやなことばっかりだったけど、そういう面では、あのころのことが役立ってるよね」
でもつばめはちっともそんなふうじゃなく、上を見て明るく、力強くそう言った。なんかこの子はいつも前向きだ。小学校の僕たちが話すようになったきっかけになったあの遠足。すっきりとした表情で顔をあげ、日の当たる自分たちの町を眺めていたあの表情が忘れられない。春のぼんやりした暖かさではなく、冬の凛とした明るさだった。南面の日の当たる明るい広場ではみんなの楽しそうな声が聞こえてくる。その斜面とは反対側の日の当たらない北側の斜面の木下に一人で座り、膝の上に小さな弁当箱を開いていた。その姿に惹かれてあの日僕はそのそばに腰を下ろしたのだった。
「つばめはすごね」
「でもちょっと大変だったんだけどね、本当は。女の子だけの世界だから、意地悪もちょっと下にもぐっているような意地悪でね」
「でもそれを乗り越えて、美容師になったんだろ」
「うん、なった」
つばめは自分に言い聞かせるような感じでそう言った。
「そんなことよりさ、まっくんはいままでどうしてたの」
「僕、なんかかっこ悪いよね」
「なんで、なんで」
「つばめみたいにかっこいい人生じゃないもの。あれからだって」
「ね、きかせて」
僕は高校にいけなくて通信教育で高校を卒業したこと。勉強は嫌いではなかったので理科系の大学へ行って卒業したこと。今の会社でお菓子の味や香り作りをしていたこと。部署で孤立していた僕を上司が会社を辞めさせようと、今の苦情処理の仕事に回したことなどをちょっと投げやりに話した。
「でもがんばってるじゃない」
「もう、毎日めげそうで」
「だってイメージ変えるって、勇気出してうちに飛び込んで来たんでしょ。今の部署のみんなとはうまく行ってるんでしょ。がんばってるよ。まっくん逃げてないじゃない」
そういわれてちょっと気持ちが軽くなった。
「そうなんだ。いまの部署の人とはなぜだかうまく話せるんだ。こんなこと始めてなんだよ。仕事はつらいけど、その関係を保ちたいだけで必死に会社に出かけていっているという感じさ」
「まっくん、よかったね。いい仲間ができて」
「うん」
水溜りににぎやかなネオンが映っている。そして、そのネオンは雨が作る波紋でゆがんで見える。雨が少し強くなってきたようだ。
「つばめ、そろそろ帰ろうか」
つばめは黙ってうなずいた。
七
梅雨が明けた。見上げると空が今まで以上に青く眩しく見えた。工場の横の植え込みでは鳥たちがいろんなおしゃべりをしている。いままでより声も高い。鳥たちも夏を歓迎しているのだろうか。お客様相談室に入り電気をつける。最近一番に部屋に入っている。それから雑巾でみんなの机を拭き、湯を沸かしてお茶を入れた。そのころ佐伯室長が出勤してくる。気が向けば窓を拭いたりドアや桟を拭いたりすることもある。次々にみんなが挨拶をして入ってくるのを迎える時間が好きになっていた。九時前に大隅係長と菅野さんが「やあ、やあ」「うぃーっす」っとばたばたと入ってきて全員そろう。ここにいる人はいいかげんなようでも不思議と遅刻する人は誰もいない。
一〇時ごろノックがあって総務の女の子が入ってきた。ポニーテールで、うちの薄いグリーンの夏の制服がよく似合っている。
「やあ、めずらいね、綾香ちゃん。俺に会いに来たのかい」
ソファーに座ってた大隈係長が満面の笑みで迎える。
「いいえ」
彼女はわざとつんと上を向いて見せた。
「大隅係長には浅田さんがいらっしゃるでしょ。それにそんなソファーでふんぞり返ってないでちゃんと仕事しないでいいんですか」
「怒った顔もかわいいよ、綾ちゃん。ちょっと僕の横においで、そのかわいいお尻なでであげるから」
「けっこうです。でも浅田さんにふられたら、お尻くらい触らせてあげてもいいですよ」
「ええ~」
大場さんがのけぞった。
「あの~、こんなエロじじい、どこがいいんですか。催眠術とかにかかってませんかあ」
菅野さんが続いた。
「いいから、いいから。子供にはわからん女心ってもんもあるのよ」
大隅係長はまんざらでもなさそうな顔であごをなでている。
「ええと、並木さん」
いきなり僕の名前を呼ばれてドキッとした。ハイッと言って席を立った。総務の女の子は手を口に当ててクックと笑いをかみ殺している。首筋まで真っ赤だ。
「あのねえ、なーみちゃん。中学生が出欠取ってるわけじゃないんだから」
あきれたように大隅係長がからかう。女の子はスーッとひとつ深く息を吸って僕のそばに来た。
「会社に手紙が届きましたので持ってきました」
「はあ。あっ、ありがとう」
女の子はまたクックと笑いながらいいえと言って出て行った。封筒の宛名には大きく東京製菓、並木雅実様と書かれている。あまり上手な字ではない。裏返すと差出人は百倉秀明となっていた。忘れもしない、僕が始めて訪問したお客様だ。あの時はこの人の赤鬼のような形相と大きな怒鳴り声に驚いて尻もちをつき、後ずさりして逃げようとしたっけ。この人には真っ先に手紙でお詫びと、その後の髪の毛が混入しないようにする対策と、工場の中で改善した実際の様子を書き送っておいた。封を開けるとその手紙の礼が書いてあった。筆圧が強く、丁寧で読みやい文字がびっしりと並んでいる。百倉さんは精密機械の工場で働いていたが、リストラの一環の早期退職制度で退職金を多くもらい定年より早くにその会社を辞めた。再就職さきはなかなか見つからなかったが、家の近くの小さな町工場で工員を募集していて、面接を受けたら次の日からきてくれということになったそうだ。居心地もよく運がよかった。しかし、自分も再就職では苦労したから、簡単に会社の思惑通りに辞めたりせず、今の部署でがんばれという励ましまで書いてあった。本当にありがたい。そう言えばこの人の家に行って腰を抜かしたとき、佐伯室長は僕が会社の嫌がらせでこの部署に移らされてまだ間がない。だからうまく対応できなくてすいませんと言って謝ってくれたんだった。手紙には昨年娘さんが結婚した相手が愛知の方で味噌を作る仕事をしているということが書いている。一度連絡をくださいと最後にあった。とりあえず佐伯室長に手紙を見せることにした。佐伯室長はしばらく穏やかな表情で手紙を読んではうなずいていたが、やがて手紙から目を上げるとすぐに電話をしてみなさいと言った。僕は受話器をとった。ちょっと緊張で手のひらに汗をかいている。呼び出し音がなっている。この相手が出るまでの時間が、どうもいつまでたっても苦手だ。
「もしもし、百倉さんでございますか。私、東京製菓の並木でございます。お手紙をいただきありがとうございます」
「ええと、一度あんたに会いたいんだが」
「はい、あの、どういった…」
「うまくいえんので、会ってから話す」
「はあ。私のほうはいつでも結構でございます」
「じゃあ、今日、会社が終わってからうちに来てくれるか」
「あの、うちは五時で終わりますから、そちらには六時過ぎになると思いますが」
「それでいい」
それだけ言うと一方的に電話が切れている。なんだか要領を得ない電話だった。百倉さんも怒っているようでもないが、ぶっきらぼうだし。どうも電話というやつは相手の表情がわからないので苦手だ。僕はあまり気が進まずちょっと憂鬱な感じだった。
「あの、室長」
「う、まず行ってみなさい。君はもうひとり立ちしている。任せたよ。報告だけ明日してください」
「はあ」
ちょっとため息交じりで席に戻った。
会社が終わり百倉さんの家に向かった。途中、電車の中で手紙なんか出すんじゃなかったと後悔しはじめていた。何の用事だろうとか、何かいやな事言われるのかなとかいろいろ考えてしまった。
お花茶屋で電車を下りた。百倉さんの家までの道は覚えていた。駅を出て北の方角へ水戸街道を目指して歩きはじめた。そうだ、前のめりに歩くように、迎え撃つ気持ちを持って当たらなければ。相手はお客様だ。ちょっと怖そうな人だったが、今回は決してクレームというわけではない。なんとかなるだろう。やがて見覚えのある家の前に立った。深呼をしてインターフォンを押す。返事はなくドアが開いた。
「やあ、いらっしゃい。まあ上がって」
思いのほかすっきりした顔の百倉さんの顔がドアの間から出てきた。こんな人だったかな。前のときとイメージが違って少し戸惑った。挨拶をして会社の商品を詰め込んだ大きな袋を手渡した。ちょっと肩透かし気味の気持ちを抱えたまま、後について玄関を入った。そう言えば今日は白っぽいポロシャツと黄色に近いベージュ色のゆったりとしたズボンをはいていて、着るものからもリラックスしているように見える。とはいえ、この前、百倉さんがどんな服を着ていたかは思い出せないのだが。玄関を入ったところにいきなり二階まで続く階段。狭い廊下。そのすぐ脇のドアを開けて招き入れられた。壁はシンプルな白、下はフローリングだろうか、薄いグリーンのシルクの絨毯を敷き詰めている。明るい黄土色の皮製のソファーとガラスの机。壁にはディズニーの仕掛け時計がかわいらしく動いている。窓も大きく明るく開放的な部屋だった。
「そう見回さないでくれ。おれの趣味じゃないんだ。嫁いだやつが子供のころこういうのが好きでな」
あごで壁掛け時計を指す。
「すいません。明るく素敵なお部屋なんでつい」
ドアが開いて小柄で上品な和服を着た女性がお盆にビールとグラスを持ってきた。小鉢にはアサリの佃煮などの珍味が何種類か上品に盛り付けてある。
「いらっしゃいませ。この人ったら帰ってくるなり、おい、お客さんが来るから何か用意してくれですもんね。こんな物しかできなくて。今何か用意しますから」
「うるさい。くだらないこと言ってないで早くはずせ」
「はい、はい。ではごゆっくり」
「あっ、奥様、お構いなく」
「まあ、奥様ですって。ほっほほ」
うるさそうに手を振る百倉を気にするでもなく、楽しげな笑いを残して部屋を出て行った。百倉は僕のグラスにビールをついでくれ、自分のにもつぎ、目の高さにあげ、乾杯の形をしてグイッと飲んだ。
「まったく、口から出てきたような女だから」
「いえ、いえ。明るくていい奥様でございます」
「なあ、並木君。今日はクレームで呼んだんじゃないんだ。もう少しリラックスしろよ」
「はい」
「実はな、俺もあれからずいぶん反省したんだ。自分も工場で物作ってるんだから、完璧にやっていても不良品が出ることくらい分かっているんだ。それをつい娘のことになるとかっとしちまって、まったく大人気なかったよ」
「しかし、せっかくうちの商品をと選んでいただけたのに、不良品だったのですから」
「いやね。嫁いだ娘の下に二人いるんだけど特に末の娘はかわいくてね」
「そうでしょう。皆さんそうおっしゃいます」
「あの時、君も技術者だって言うのを聞いて、余計に心に引っかかっててな」
「おわずらわせして申し訳ありません。技術者って言っても、菓子の味や香りの研究です。いや、でしたか」
「それだって立派な技術よ。他社にない、しかもみんなに受け入れられる物をつくるんだからな。いや、それでな、この前娘むこが出張でこっちに来たとき話していて、こいつは並木君に相談してみようということがあったんだよ」
「僕でお役に立てるかどうか」
百倉はどうぞと僕に勧めてからつまみの佃煮に箸をつけた。一息ついてから実はとはなし始めた話にやがて引き込まれて行った。その人は愛知の老舗で味噌やしょうゆを作っている会社に勤めている。そこでできる醤油はたまり醤油という高級な物で、これをなんとか広めたとがんばっているという話だった。
「そこから買えって言ってるんじゃないんだ。いい味だし君が味を見たら何かいいアイデアが浮かぶかも知れないと思って。これなんだが」
そう言って百倉が脇から小さなビンを出してきた。僕は失礼しますと言ってビンのキャップを開け、手のひらに少しとりなめてみた。なんともいい香りのする醤油だった。
「いいせんべいができそうですね、これを使えば」
「そうだろう、そうだろう」
うん、うんと何度もうなずき嬉しそうな顔をしている。
「これは一般販売用だが、この会社の倉に行けば特別にうまい醤油もあるらしいぞ」
「あの、一度この工場にお伺いしてみたいんですが」
思わず口をついて出た言葉に僕自身が驚いた。開発をやっていたとき、ちょっとでも新しい味や、おいしい物があると聞くと必ず持ってくるのではなく、現場に出かけていって実際に確かめていた。まだそのときの感覚が残っていたのだろうか。
「あの、もう開発の仕事ではないので、お力になれるかどうか分からないんです」
あわてて言いたした。
「ぜひ行ってみてくれ。君の会社に売りたいんじゃないんだ。君の参考になればと思って言ってみたんだ」
「ありがとうございます」
奥さんが入ってきて刺身や手作りの料理が机一杯に並んだ。
「あの、お気を使わないでください。すぐおいとましますので」
「まあ、まあ、そういわずにゆっくりしていってくださいな。こんなに機嫌のいい主人は久しぶりなんですよ」
「いらないこと言ってないで、置いたらそっちに行ってろ」
「はい、はい。ではごゆっくり」
その夜は思いもしない盛大なもてなしと、先日腰が抜けるほど怒られた相手の好意を受けて尻の下がむずむずしながらも、居心地のいい時間を過ごして遅くなってしまった。
翌日、佐伯室長に朝一番に報告した。
「並木君、行ってらっしゃい。明日にでも」
「あっ、いえ、まだ先方に連絡をしなきゃいけないし、平日に行って皆さんに負担をかけたくありません。自分の仕事はやらせていただきますので週末にでも」
「並木さん、こういうことは早いほうがいいと思います。同じ研究をしているライバルメーカーだってあるでしょう」
「でも、安達チーフ、僕はもう研究開発の仕事をはずれていますし」
「なーみちゃん、何ぐずぐず言ってんのよ。チャンスの女神は前髪を引っつかまなきゃならんのよ。行き過ぎてからつかもうとしても、あの子の後ろははげててつかみそこなうんだ。営業の常識だぜ」
「あの……」
「なみちゃん、相手だって週末は休みだろうよ。おまえに合わせて仕事させる気か。室長、出張扱いですよね、当然」
「菅野さん、たまにはいいこと言いますね」
「椿よ、俺に喧嘩売ってるのか。買わねえけどよ」
「はっはは。経費はたっぷりいただいていますから、あなたたちの飲み代を削ればグリーン車でも飛行機でも」
「室長、別バラでお願いします」
「現金なやつだな、大場は」
部屋の中に妙な高揚感がある。僕は意外な展開にちょっと戸惑った。
「あの、自分のお金で行きます。皆さんのお言葉に甘えさせていただけるなら有給で行ってまいりますから」
「な~みちゃん。何びびってんのよ。結果を出せとか、何かを期待してみんなが言ってんじゃねえぞ」
大隅係長は難しい顔をして腕を組んで言った。
「そうですよ。私たちを気にせずに」
「プレッシャー感じる柄か、おまえ。いつものようにマイペースでいけ」
「菅野先輩、今日は冴えてますねえ。そういうことだ。みんな、応援したいだけだ、おまえのことをな」
「椿よ、いいとこ持ってくな。なみちゃん、ウィローと安倍川餅、あとゆかりくらいでいいぞ、気を使わないでも」
「ま、菅ちゃんのセンスはそんなもんか。ついでにうなぎくらいは頼む」
こんな仕事を長くやっていると前向きな話にみんなが飢えていたのかもしれない。僕はみんなの気持ちをありがたく受けることにした。先方にアポをとって早速明日、木曜日に出かけることにした。
梅雨があけてから暑い日が続いている。朝から暑く、せみも鳴き始めていた。始発のこだまに乗った。のぞみやひかりはもう少し早い時間にもあるが、名古屋のひとつ手前の三河安城で降りるためにこだまに乗ったのだ。こだまは席もゆったりと取っていて乗り心地がとてもいい。車内はすいていてのんびりした空気が流れていた。途中ふと見上げた車窓右手に、ひときわ大きな富士山がくっきり見えた。上のほうに白い雪があり、子供が絵に描くような典型的な姿をしていた。これほどいい富士山はめったに見られない。それを見ながら乗る前に買ったサンドウィッチを食べた。三河安城には九時前についた。乗り換え時間まで少し時間があった。新幹線で座り疲れたので改札を出て少し歩いてみた。新幹線が停まるといっても駅も町も大きくない。改札を抜けると、さすがに新しく新幹線が停まることになって作った駅だからか駅構内は広く明るい。コーナーの一角にある土産物屋はまだあいていないがかなり広そうだ。帰りは部屋のみんなとつばめにここで何か買っていこう。駅を出るとかなり広いローターリー。しかし、バスも車も止まっていなく、客待ちのタクシーも数台。閑散としている雰囲気だ。その向こうにぱらぱらと店が見えるが、歩いている人が少ない。伸びをして体を伸ばしてから駅に戻った。
東海道線に一五分ほど揺られ、そこから単線のディーゼル電車に乗り換えて三五分ほどローカル電車の旅を楽しんだ。この電車は半島の先端で行き止まりになっていて、こういう路線のことを盲腸線というらしい。そういう路線は雰囲気のいいローカル線が多いらしく、それ専門に訪ね歩くファンもいるらしい。車窓からは夏の元気のいい光をきらきら跳ね返している三河湾が見え隠れしている。確かに旅行に来たらいい旅になりそうな、ゆったりとした景色が車窓の外を流れていく。
一〇時を少し過ぎて小さな駅の改札を出ると、細くて背の高い男の人が立っていた。肩幅が狭いせいで、よりいっそうひょろっとして見える。年は僕より少し上、三〇くらいか、黒ぶちのめがねをかけていてまじめそうに見える。
「失礼ですが、東京製菓の並木さんですか」
「はい、そうです」
始めましてとお互いに名刺を交換した。まるかわ食品営業企画部、課長成田精一郎となっている。
「お聞きと思いますが、私は百倉の娘むこです」
「はい、そうおっしゃっていました」
横に赤い文字でまるかわと書いている白いバンに乗せてもらい出発する。古い町並みの細い道を成田は巧みに運転しながら話し掛けてくる。
「東京のほうから来られてたら、ずいぶん田舎なんでびっくりなさったでしょう」
「来る途中の電車からの景色もよかったですが、ここも古い町並みが残っていて、いい雰囲気の町ですよね」
「有名なものは何もないですが昔からここは味噌としょうゆの町で、そのころの建物が今でも残っているんですよ。時々それを目当てにこの町やうちの会社を訪ねてくれる観光客がいます」
「そうでしょうね。僕は埼玉ですけど、川越の町が雰囲気が似ていると思います」
「あの、失礼ですが、並木さんは義父さんとはどう言う」
「あっ、ええ。僕は名刺にもあるように東京製菓のお客様相談室に勤務していまして。お恥ずかしい話しですが、事故の商品が出て、百倉様のところにお詫びに伺ったのです」
「ああ、義父さんは技術者ですから、品質とかに結構うるさそうですものね。あっ、内緒ですよ、僕がこんなこと言ってたなんて。ふっふふ。今はそうでもないんですが、結婚の報告に行ったときえらい剣幕でね、百倉さん。今でも話をしているとちょっと緊張するんですよね」
「僕なんか腰抜かしてしまいまして、這って逃げようとしたんですよ。上司の足がつっかえ棒で逃げおおせられませんでしたが」
「はっはは。愉快だな、あなた。それでどうしました」
フロントガラス越しに古い町並みの間からきらきら光ってるのは三河湾だろうか。
「ええ、上司がフォローしてくれまして。実はそのとき僕、始めてお客様のところに訪問したんです。それまで研究開発で味や香りの研究をしていましたから、人と接することはどうも苦手で」
「へえ、並木さんも技術者なんだ」
「技術者というのかどうか分かりませんが」
「それで、義父さんと気があったんだ」
「まあそんなところです。この前お伺いしたときすごく歓待してくださって」
話をしているうちに車は一段と時代を感じさせる町の一角に着き、会社の敷地に滑り込んだ。周りは木の壁を張り巡らしている。意外と広い前庭。アスファルトではなく土のままの敷地だ。建物も一部鉄筋二階建ての棟があるが、その奥に見える大きな建物は木造のようで、昔の倉のようなつくりだった。車を出たとたん塩の香りがほのかにした。海が近いからか、塩を仕込みに使うからか分からなかったが、気持ちの落ちつくいい雰囲気の会社だった。まず事務棟の会議室に案内された。
「ええと、義父さんうちの商品を一通り紹介するように言われてるんですが、それでいいでしょうか」
「ええ、お役に立てないとは思いますが。お手数かけてすいません」
「いや、並木さんに見ていただくだけでいいからといわれてますから」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
会社案内のパンフレットを前に置かれた。創業は江戸時代となっていてその伝統の長さに驚いた。
「この土地は昔から味噌や醤油を作ることが盛んだったんですよ。最盛期には一五〇の味噌、醤油製造会社があったらしいです」
「へえ、町をあげてという感じですね」
「そう、この町の人口が四万人ほどだからそうかもしれません」
「ここへは近鉄も名古屋からきてるんで意外と便利そうですよね」
「そう、この小さな町に四つも駅があるんですよ」
成田は嬉しそうに胸を張った。
「四つもですか」
「ええ、それに海に近いから港も。それも結構大きな港があるんです。昔、味噌や醤油は重要な軍需物資だったらしいですね」
「ああ、それで」
「後で工場をみていただきますが、味噌も醤油も全部一から自社で作ってます。名古屋近辺は味噌をよく料理の味付けやソースとして使いますし、そちら向けの商品です」
「ああ、それ知ってます。味噌カツとか言ってとんかつやエビフライにもかけるんですよね。名古屋出身の人が大学のときいて、それをかけないとカツを食べた気になれないと嘆いていました。僕はまだ食べたことないんです」
「案外うまいですよ。ぜひ、一度食べてみてください。それから醤油ですが、これはたまり醤油というのを作っています」
百倉さんの家でなめた香りのいい醤油を思い出していた。
「ええ、この前、味見させていただきました」
「このたまり醤油というのも主に東海地方で製造消費されている醤油の一種です」
醤油の種類は一般に知られている濃い口醤油や薄口醤油。山口を中心にしたさいしこみ醤油、東海地方の白醤油がある。これらは知識としては知っていた。
「普通醤油は大豆と小麦を半々で作りますが、たまり醤油は大豆のみで製造します。このためタンパク含有量が多くうまみ成分である窒素分が多いので味が濃いのです。しかも当社では天然醸造で、熟成期間を長く取ります。そのためよりまろやかでうまみのあるたまり醤油ができるのです」
「なるほど。醤油というかどうか分かりませんが漁醤というのもありますよね」
「さすが、よくご存知ですね」
「いえ、頭でっかちですいません」
「醤油のルーツには諸説あるようです」
成田さんが説明してくれたところによると文献に醤油の文字が登場するのは室町時代らしい。それようり数百年前の平安時代には醤油のルーツといわれる『醤(ひしお)』が作られていた。醤とは塩蔵発酵食品のことで草びしお、肉びしお、穀びしおに分かれていた。肉びしおの一部が別れて魚醤、穀びしおの一部が別れて醤油になったと考えられているということだ。
「さて、工場のほうに行ってみましょうか」
そう言うと成田さんは先に立って歩き出した。あまりに背が高いので入り口のところで頭がつかえそうになり、心もちかがみ気味にそこを出て行く。昼近くの外はいちだんと暑く、周りの色が白っぽく見えるほどの日差しの強さになっていた。大きな倉のような建物の重いドアを開き中に入ったとたん、すっと涼しくなった。外から入ってくると少し薄暗く、一瞬、物が見えにくかった。
「味噌や醤油を作る建物は昔からのものですが、通気と断熱がしっかりしたつくりになっているんです」
「あまり涼しいので空気調整機を入れているのかと思いましたよ」
「冬は中に入ると案外暖かく感じますよ。もっとも通気孔などをこまめに調整するんですけど」
むっとするような塩のにおい、大豆が発酵しているのであろうか、味噌のにおい、そして適度な湿気と暑いのとは違う暖かい室温を感じた。ドアをあけて隣りの部屋に入った。そこは天井の高い体育館のような空間で、巨大な機械や入れ物に目が奪われた。
「ここが工場です。低温の倉庫が別の場所にあってそこに大豆を貯蔵しています。その大豆をこの巨大なタンクで洗い、水分を十分吸わせて蒸すのです」
中空に銀色に鈍く輝く巨大な円柱形の物があり、両脇に大きな歯車がついていてわずかに傾いている。大豆を入れたり、蒸しあがった物を出したりするときに、このタンクを上に向けたり下に向けたりするのだろう。
「蒸しているときはここはすごく暑くなります。あのへそのような所から蒸気を時々抜き調整するのですが、これは重要な作業のひとつです」
「ノウハウ、企業秘密ですね」
「そうですね。うちでは今でもこの作業は職人に任せ彼らの勘に頼っています」
成田さんについて次の部屋に移る。そこには巨大なプールのような容器がある。
「そして、小指の大きさほどの小さな味噌玉をつくり種麹を表面につけます」
「このプールのような中にそれを入れるのですか」
「そうです。この部屋は温度と湿度を一定に管理しています。麹菌を増やして、表面に黄色い麹菌がきれいに付いたら出来上がりです」
「しかし、手作りというか、お菓子のオートメーション工場とはやはり違い、人の手と時間がかかってますね」
「そうでなければ大手の工場で作る醤油とは差別化できませんから」
次の部屋に進むと直径二メートルはあるような、大きな杉の桶が広いの部屋土間の上一面に並んでいた。高さは一メートルくらいだろうか。五、六人は入れる風呂のような感じのものだ。部屋の中は味噌の匂いがさらに濃くなった。よく見ると桶の表面にはこぶし大の石が敷き詰められている。
「この桶に麹と三河湾で取れた天然の塩で作った塩水を大体半々に入れます。そしてここに筒が見えるでしょう」
よく見ると石と同じくらいの直径の筒が覗いている。そこには茶色い液がたまっている。たぶん下のほうまでこの筒は続いているのだろう。
「ええ」
「そこにたまった汁を毎日毎日ひしゃくで上にかけてやるんです」
「とっても手間がかかる作業ですね」
「そうです。約一、二ヶ月で麹が赤くなってきます。さっき長く熟成させるといいましたが、工場で作る醤油の場合、半年くらいで汁を絞り醤油にします。ここの場合一年半から長い物では三年この作業を毎日続けるわけです」
「三倍から六倍。それじゃ、価格競争になりません」
「そう、値段では到底太刀打ちできない。売上げの大部分は固定客のようなものでして、この味でなければだめだというお客様に支えられていると言うのが実情です」
「安定した仕事ということですか」
「いえ、それでもそういうお客様はお年を召した方が多いのです。昔ながらのこの地方の味しかだめだという方です。若い方ほどファーストフードやコンビニ弁当、ファミリーレストランなどのチェーン店の味に慣れています。値段が安いなら工場で作った醤油で十分という方が年々増えてきていまして、我々も同じことをやっていたのでは生き残れない時代です」
「どこも厳しいですね。お菓子だって毎年違う味を開発して市場に出さなければなりません。定番商品の出荷量は安定していますが、それでも少しずつ味は変えているんです。まして、今年爆発的に売れた商品でも、来年にはぱったり売れなくなるというのもあります。それどころか半年という商品寿命のものも珍しくありません。関東と関西でも味は変えなければ売れ行きに影響します」
「並木さんのお話を聞いてると考え方は、我々の手作業に通じるところもありますね」
「だからかな、百倉さんが行ってみろって言ってくれたの」
成田さんが桶と桶の狭い間を、するすると体を横にしながら進んでゆく。こういうところを歩き慣れてないので、離れないように歩くのが大変だった。
「ここにあるのがそろそろ完成する最高級三年ものの桶です」
はりのある自信に満ちた声でそう言うと、ひしゃくを取り下の栓を開けひしゃくに少し汁をとってくれた。
「たまり醤油といっても、普通はこの中の味噌を布に包み汁を絞り、最終的には圧力機で圧力をかけて搾り出すんです。この栓から出る汁はほんのわずかしか取れない貴重な物なんです。ちょっと味を見てください」
ひしゃくを傾けほんのわずか口に含んだ。
「うーん」
言葉が出てこなかった。塩辛いとか醤油を飲むというイメージが先行して、身構えたような状態で口に含んだが、それはまったく想像していたような物とは別の味だった。大げさに言えば縄文時代のようなイメージ、太古の味という感じ。ふーっとその味を通していろいろな時代を一瞬で遡り、本当に素朴な昔の生活が頭の中に浮かんだ。原料の大豆は麹の働きを通してその味とその中にあるうまみが引き出され、加えた塩分の角が取れ、芳醇な香りとまろやかさが口の中に残る、そういうものだった。
「これが醤油ですか。僕は今まで何を見ていたんだろう」
「それは仕方のないことです。これを口にできる方はそうたくさんはいませんから」
「たとえば、これでせんべいを作ったらこの味だけで何も工夫しなくても、生産が追いつかなくなるほど売れるでしょう」
成田さんは少し寂しそうに首を左右に振った。
「値段が合いませんよ。それにそれほどいっぱいは取れない」
「じゃあ、じゃあですよ、たとえばそれを宮内庁献上品にするとか」
「それよりも、これを三年待ちわびていらっしゃる方がいるのです」
「そうでしょうね、これなら」
ちょっと肩が落ちた。でも頭の中では猛烈に、それこそ煙が出るほどの勢いで思考を巡らしていた。なんとかならないか。これは見逃せない。見逃してはいけない。量が、いや、何か手はある。化学薬品では作れない。何かいい手が……
肩をぽんぽんとたたかれ、我に返って見上げた。黒ぶちめがねをかけたまじめそうな人の顔が覆い被さっていた。
「わっ」
自分の声で我に返って、慌ててあたりを見回した。自分は桶の間にしゃがみこんでいたようだ。
「大丈夫ですか。ご気分でも悪いのかと思いまして」
「い、いえ。すいません」
「いや、いいんですけど。頭抱えてしゃがみこみ、うーん、うーんと唸ってましたから」
「おはずかしい。何かを考え始めると周りが見えなくなってしまうんですよ、いつも。この味を何とかしたいと思って。何か方法があるだろう。どうすればこの味を商品化できるのかって。考え出すとその世界にはいちゃうから、周りの人とうまくいかなくて。あの、その、みっともないところ見せてしまいました」
「いや、すごいものですね、技術者って言う人種は。最初驚いて、次にあきれて、そして感激しましたよ。うちの商品にこれほどまでに反応してくれるとは。きっと義父さんもこんな人なんだな」
成田さんはニコニコして盛んにうなずいている。
「ちょっとこちらに来ていただけますか」
もう一度大きな桶の間を引き返した。この貯蔵庫の入り口に近いところの隅のほうに、ひとつだけ赤いテープを巻いた桶があった。
「これ半年物なんです。隣もまだ半年の桶が並んでいます。でもこの桶だけ、僕がちょっと実験であるものを入れてみたんです。ちょっと比べてみていただけませんか」
まず普通の桶から採った半年物の汁を口に含んでみた。これは、これでなかなか濃い味の醤油だなと思った。スーパーで売られている小さなビンに入っている、ちょっと高い醤油の味のようだった。しかし、正直に言ってさっきの味を知ってしまった後ではそれほどの感激はない。期待で膨らんでいた体の空気がシュッと抜けて、少し縮んだような気がした。成田はそんな僕の態度を気にするようすもなく、となりの桶のほうへと回り込んだ。次に赤いテープを巻いているほうの桶からとったひしゃくを受け取り口に含んだ。おやっと思い成田の顔を見た。三年物には及ばないものの角の取れた丸い味がする。うまみも口の中に広がりさっきの半年物を口にしたものとはまったく別の、いい味がする。ただ残念なのは口に含んだときの香りが単調で奥行きにかけることだ。そこをなんとかすれば三年物とまでは行かなくても、かなりいい味に近づけられるのではないだろうか。
ふっと顔をあげると成田さんが不安そうに僕のほうを見ている。
「成田さん、これいけます。半年の熟成でこの味が出るならかなりいい商品になること間違いなしです」
一瞬嬉しそうな顔をしたその笑顔がすっとしぼんだ。
「私も結構いけると思うんです。でもこれはちょっと工夫しているといったでしょう。大豆と食塩だけでなく違う物も入れているのです。社長はそれがだめだというのです。たまりには混ざり物は入れない、それが伝統だ。その伝統を守っているからこそ江戸時代から生き残っているんだと。それも一理あります。でも、僕はもう少し工場生産の醤油に対抗してみたい。三河のある一部分でしか流通していないこのすばらしい味のたまり醤油を、日本中の人に味わってもらいたい。そう思うんです」
「僕にもう少し時間をいただけませんか」
「ええ、それは」
「僕も一生懸命考えます。成田さんも半年という期間だけでなく、より効率のいい方法でたくさんの物が安定した味になるように、さらに考えていただけませんか」
「やってみます。義父さんにも相談してぜひやってみます」
背の高い成田さんがさらに大きく見えるほど元気にそう言った。僕は三年物と半年物のサンプルをもらい、土産にと商品になっている三本セットの箱詰めたまり醤油ももらって駅まで送ってもらった。これで何かできないか。研究開発の仕事は外れたが、でも何かを作り出したいという強い欲求が海の向こうに見えている夏の入道雲のようにモクモクと湧き上がってくる。気持ちが高揚していていい気持ちだった。帰りに会社のみんなとつばめに持ちきれないほどの土産を買って新幹線に乗った。やはり気持ちがハイになっている。上の棚にそれを上げながら、おいおい、こんなにいっぱい買ってどうするんだよと独り言を言って自分で笑った。
八
東京に着いたらもう日が暮れかけていた。お土産を渡すためにその足で大宮のつばめの店まで行った。若い子が多いから、休憩のときなんかにお菓子を食べるのではないかと思ったからだ。いや、本当はつばめの顔を見たかっただけかもしれない。店の前に安西由紀子は立ってなかった。店はこの前のときと違ってかなり人が入っていた。カットするほうの椅子はは二つ空いていたが、奥で洗髪をしているお客さんがいるのかもしれない。髪を切っている人が三人、順番待ちでソファーに座っている人が二人。つばめはお客さんの髪を切っていた。今日はあいている店員はいない。由紀子はほうきを持ち、床を掃いている。邪魔になってもいけないので、ちょっと夕食でも食べて時間をずらして行くことにした。
つばめの店にもっていくものを出して、手にいっぱいの荷物を駅のコインロッカーに預けるとなんだかほっとした気分になった。見知らぬ地へ行き緊張していた神経が、地元に戻ってきて緩んだのかもしれない。それとも単に買いすぎた土産がかさばって大変だったのから開放されて、ほっとしただけか。そんなくだらないことをいろいろ考えながら、身軽になって商店街をゆっくり歩きながら何を食べようかと店を探した。結局、商店街のはずれのとんかつ屋に入った。味噌かつという文字が目に付いたからだ。これも名古屋の方の味だ。出てきた料理を食べたらあれっと思った。味噌というので味噌汁の味噌の味を想像していたが、味噌は甘い味だった。それに唐辛子でも入れているのか、ピリッと辛い。味噌本来の塩味、それから砂糖やみりんの甘さ、そして香辛料。それらの味の組み合わせがいいバランスになっている。菓子などを作るときにも使う単純な手法だが、これはこれで面白い味だと思った。ただ、自分は関東人で味が濃いほうだとは思うが、この味噌カツの味はさらにこってりとして、各味が喧嘩し始めそうなぎりぎりのところでバランスを取っている感じがするほど味が濃い。地域限定ならこれでいいが、全国展開するにはもうひと工夫欲しい。でも最近の子供やティーンエイジャーは毒々しいくらいの味付けでも、刺激を求めて平気で食べる傾向が強い。そういう菓子類ははまれば爆発的に売れる。ただしライフサイクルは短い。今のたまり醤油が日の目を見たらまた成田さんに相談してみよう。多分またとんでもなくうまい三年物の味噌ですとか言うのが出てくるんだろうな。そんなことを考えるとまた嬉しくなってくる。思ったよりも大きくてボリュームのあった料理を食べて、四五〇円という値段に驚きながら店を出てきた。あれでどれくらいの儲けがあるのだろう。駅前の店であんなしっかりした料理を出して、あの値段に出きるんだ。きっとたまり醤油にも何かいい方法があるはずだ。あれに少し何かたしてせんべいなどに付けて焼いたときに、あの三年物のような奥行きのある丸い味と香りが口の中に広がればいいのだ。何をたすか。うまみ、奥行き、味、香り……
気がついたら駅前の広場のベンチに座っていた。手にした紙コップの底にわずかにコーヒーがゆれている。いつのまにこんなところで考え込んでいたのだろう。外はもう真っ暗だった。時計を見ると八時を過ぎていた。ちょっとゆっくりしすぎた。慌てて階段を降り、通りを渡ってつばめの店まで行った。
「いらっしゃいませ」
入り口で安西由紀子が笑顔で迎えてくれる。若い女の人の髪をつばめが切っている。お客さんはその人だけだった。鏡を通して僕を見てわずかに笑ってくれた。順番を待つためのソファーに座って待つ。白と黒を基調にした店のカラーによく合う、臙脂色をした柔らかな革のソファーだ。座り心地もよく、家具に詳しくない僕でもいいものだということが分かる。この前は余裕がなかったが、改めて店を見回すと男の散髪屋と違いフロアーを贅沢に使っている。黒色のフロアーに白い壁。髪を切る椅子も、座り心地のよさそうな黒い椅子が五席。かがみが前面と移動式のかがみが椅子の後ろに置いてあり、いつもお客が後ろもチェックできるようになっているようだ。それとは別に洗髪のための席が三席。こちらはアイボリーホワイトの洗髪台と同系色の椅子で明るい雰囲気になっている。掃除も行き届いており、壁にはしみ一つない。床にも髪の毛が落ちていない。清潔感のあふれる店だ。有線放送だろうか、優しい音楽が流れている。従業員もきびきびと働いており、無駄話をしたり、だれた態度をお客の前では見せたりしていない。
「いらっしゃいま……」
「何だよ、てめえ。お客に挨拶もできねえのか」
野太い声に驚いて入り口のほうを見た。肩を怒らせて柄のよくないハリネズミのような髪形の男が入ってきた。続いてスキンヘッド、そして濃紺色にシルバーのストライプの入ったダブルのスーツを着た薄い茶色の色が入っためがねをかけた角刈りの大きな男が入ってきた。こいつら、この前の。三人はこちらに気付く様子はない。二つある待合ソファーの一つのソファーのところまで来て、スーツの男は靴をはいたままソファーの上に足を伸ばして横向きに座った。ポケットから赤いパッケージのタバコを出してくわえた。ハリネズミが慌てて大げさな仕草で火をつけに駆け寄った。スキンヘッドがこっちに近寄ってきて遅れてきたハリネズミとで僕をはさんで座った。
「兄ちゃん、ずいぶんしゃれたところで髪を切るんだな」
ハリネズミがねめつけながら話し掛けてくる。
「おまえ、また今度来たほうがいいんじゃねえか」
スキンヘッドはひじでごんごんわき腹をつつきながら顔を近づけてくる。餃子でも食べたのかにんにくくさい。
「いえ、ぼくは」
「ほう、名古屋へ行ってきたのかおめえ」
スーツの男が土産に持ってきた袋を見ている。ハリネズミは僕の足の間に置いた大きな紙袋を取り上げ、中味を出した。
「おお、このゆかりってかっぱえびせんみたいなやつだよな。ちょっと味見してやるよ」
いきなり包装紙をバリバリと破り中身を取り出して食べ始めた。
「うめえな、これ。社長もいかがですか」
「おお、一個くれ」
わざわざ袋を開けて両手で手渡した。
「けっ、こっちはあんこかよ。甘い物見るだけで胸がむかむかするんだよ」
スキンヘッドは安倍川の箱を開けもせずに靴でぐしゃっと踏みつけた。包装紙が破れて中味がはみ出した。
「ああ、やめてください」
「うぜんだよ、さっさと消えろ」
ハリネズミが背広の襟を持って僕を立たせようとした。
「あんたたち、いいかげんにしなさいよ」
後ろからつばめの声。
「気のつええ姉ちゃんは俺の好みだぜ」
スキンヘッドが真っ赤に上気した顔をつばめに近づける。
「警察呼びますよ」
「ちょっと待ってくれよ。俺たちが何したって言うんだ。ただお話ししてきただけじゃねえか」
「その件ならこの前お断りしました」
スーツの男がのっそりと立ちあっがて、ニヤニヤ笑いながらつばめにゆっくり近づく。人指し指を軽くまげてつばめのあごの下に持ってゆき、くいっとつばめを上に向かせた。僕は頭が真っ白になっていた。
「やめて下さい」
気がついたら男とつばめの間に手を広げて立っていた。みぞおちにどすっと衝撃が来た。重たい砂袋でみぞおちをたたかれたようで、一瞬、息ができなくなった。折り曲げた僕の目に男のこぶしが見えた。さらにもう一発。うーっと胃の中の物がせりあがってきたが歯を食いしばって耐えた。つばめの店を汚せない。男は無言のままさらにもう一発。腹を押さえてしゃがみこんだ。
「てめえ、社長に何しやがる」
ハリネズミの声が頭の上で聞こえた。見上げたとき目の前に足が迫っていた。
「きゃー」
女の人の悲鳴を遠くで聞いた。
「まっくん、まっくん。大丈夫」
「うん。これくらいなんてことないよ」
ゆっくりと立ち上がった。目がかすむので、軽く頭を振りながら周りを見回した。三メートルほど飛ばされて尻もちをついたようだ。
「何回、言ったらわかるんだ。あとが残るようなやり方するんじゃねえ、馬鹿野郎」
スーツの男は正座したハリネズミを蹴りつけている。どさっと派手に横倒しになる。顔が血だらけだ。すいませんと座りなおしたところをまた蹴りつけられている。
「ちょっと。後は他所でやってくださいよ。これ以上ひどいことをすると本当に警察を呼びますよ」
スーツの男はいぶかしそうにこっちを見た。
「おめえ、えらいふてぶてしいな。女の前で格好をつけてんのか。それとも何にも感じない本当のばかか」
「まあ、どっちでもいいじゃないですか。さあ、出て行って」
スーツの男がゆっくりと近づいてくる。大きいので薄茶色のめがねで見下ろされている格好になって気味が悪い。額がほとんどくっつくほど男が近づいて来た。その不気味さに耐えられなくなり小さな声で言った。
「あの、この店にどんな話しがあるんです」
「どっかで会ったことあったかな。人のいないところでは、あまりいきがらないほうがいいぜ。俺は止めてもきちがいが俺んところにもいるからな」
ささやくようにそう言うと、名刺を僕の胸ポケットに押し入れ、顔を離した。おい行くぞと顔を振り、二人を従えて出て行った。
「まっくん、大丈夫」
つばめが駆け寄ってきた。由紀子がタオルをぬらして持ってくる。鏡の中の顔は赤鬼のように血に汚れていた。いつだったか、椿山さんが華麗によけた回し蹴りをまともにくったにしては、鼻血が出ただけですんだのはラッキーだった。緊張が取れたからか、今ごろずきずきと痛くなってきた。涙も鼻水も出ている。格好悪い。ぬれた真っ白なタオルに顔を埋めてしばらくへたり込んでいた。
「皆さん、ご苦労様。今日はもう店を閉めましょう」
ぼんやりとつばめの声を聞きながら、さっき髪を切っていた女の人はどこへ行ったのだろうかと考えていた。どれくらいそうしていただろ。そろそろ涙も引いたようなのでタオルから顔をあげた。つばめが冷たい水に浸した代えのタオルを持ってきてくれた。
「またつばめに助けられちゃったな。なんか恥ずかしいよ」
「何いってんの。あたしのほうこそ助けてもらって、ごめんね。こんなになっちゃって」
「これくらいなんでもないよ。でも、なんなんだい、あの連中」
「不動産屋と言ってたわ。昔、はやった地上げ屋みたいなものだと思うけど」
「なんでまた」
つばめはため息をついて話し始めた。
「ここの家賃、周りと比べて結構安かったのよ。それで思い切って店をやることにしたんだけど、ここの持ち主の資金繰りが悪くなって、銀行に担保にしていたこの土地を取り上げられたという話しだったわ」
「でも、借りているわけだから」
「ここの土地、二階建てでしょ。こんな駅前に普通の家を改造したような二階建てはないわよね、考えてみたら。そう言われて改めて見てみたら、周りは五階建て以上でここだけすとんと落ち込んでいるのよ、駅のほうから見ると。隣と後ろ四つくらいの土地をまとめてビルを建て直すという話しなの」
「だから出てけっていうのも、ずいぶん乱暴な話しだよね」
顔がほてっている。タオルを鼻の上に置き、上を向いた。腫れてきているのが自分でもわかる。目をつぶると店の優しい音楽が耳に流れ込んでくる。これはエンヤだったかな。気持ちが落ち着いてきて、興奮が鎮まってほどよい疲労が入れ替わりに体を包んでくる。このまま眠ってしまいたい。明日行ったらみんなに笑われるだろうな。
「さっきの不動産屋の話しでは、権利金の全額返却と立退き料として家賃三か月分免除するといってきてるの。三ヶ月のうちに探して出て行けって」
「だって、また新しい店を始めるにも改装費用とかかかるし、ここの費用もまだ払っているんだろ」
「そうなの。だから困っちゃって」
またため息をついた。
「で、今日は、また髪を切に来てくれたの、まっくん」
「いや、今日、名古屋に出張に行ってきたんでお土産を持ってきたんだ」
ソファーのところにあった、踏みにじられた箱は従業員によってきれいに片付けられていた。いつのまにかみんな帰っていて、電気も半分消えて薄暗くなっていた。
「ちょっと待っててよ」
膝に手をついて重い体をゆっくり持ち上げた。
「どこに行くの、まっくん」
「すぐもどるから」
駅のコインロッカーで荷物を取り出し戻ってきた。
「ええと、ゆかりと、安倍川餅と、うなぎパイとウィロー」
「こんなに悪いよ。これ誰かにあげるんでしょ」
「みんなで食べてよ、明日。クレームのほうじゃなくて商品開発の仕事で出張したら、嬉しくなっちゃって、帰りについいっぱい買いすぎてどうしようかと思ってたんだよ。あとは会社のみんなで食べる分と、自分の分でまだほら、こーんなにあるんだ。」
つばめはくっくと口を押さえて笑っていたが、やがてこらえられなくなり、あははと笑い出した。
「まっくん、それ、買いすぎじゃない?会社って会社の全員に配るんじゃないんだから」
「ははは、そうだよね、やっぱ。自分を入れて七人しかいないのに」
「そうだよ。よく持てたね、これだけ」
「大変だったよ、両手でこうやって持って」
大げさに両手で持ったポーズを作って、誰もいない店の中で二人笑い転げた。
九
翌日は体が痛くてなかなか起きれなかった。会社に出たら大隈係長と菅野さんよりはちょっと早かったが、ほとんど始業時間直前だった。
「遅くなってすいません。お土産、ここに置いときます」
「う、お帰り」
「並木、なんだその顔」
「おや、出張に行って、けんかでもしてきましたか」
椿山さんはチラッと顔を見ただけでなにも言わなかった。
「おはよーっす。おい、なーみちゃんまた派手にやられたな」
「うぃーっす。おい、おい。暴力バーかぼったくりの風俗でも行ったのかよ」
「菅野さんて。それ、自分のことでしょ」
「何いってやがる。大場だって一緒だったじゃねえか、昨日は」
にぎやかに一日が始まった。佐伯室長に昨日の報告をした。
「う、わかった。行ってよかったかい」
「ええ、それはもう。久しぶりに楽しい時間でした。皆さんありがとうございました」
「どんな所でしたか。そこは」
「知多半島のほとんど先端で、とても古い町並みが残っているんです。海も穏やかそうで、のんびりしたいい町です。近くで温泉も出るそうですよ」
「室長。経費で研修旅行、行きましょう。」
大場が手をあげて提案した。
「たまにはおまえも使えること言うな」
「大隅さん、たまにははないでしょう」
「そう、そう。こいつは遊びのことになると頭が回るんですって」
「あっはっは」
千と千尋の神隠しのオルゴールがなって昼休みになった。みんながぞろぞろと出て行った。佐伯室長はやはり一人で愛妻弁当を広げている。
「おい、椿、行くぞ」
「はい、今、行きます」
椿山さんと二人で話したかった。まるでそれを察していてくれてるかのように、椿山さんはみんなと少し遅れて部屋を出た。僕はあわてて追いかけた。
「あの、椿山さん」
「ちょっと上にあがろうか」
上を見る仕草で屋上に誘ってくれた。
「上はちょっと暑いな」
手すりに寄りかかって目を細めて微笑んだ。屋上には夏の強い日差しが振り注いでまるで暑く熱したフライパンの上にいるような感じだ。
「僕、昨日帰ってきて大宮の駅の近くに行ったんです」
「うん」
「そうしたらこの前の三人組と出会って」
「あいつら、並木を覚えてたのか」
「いえ、そうじゃないんですが」
簡単に昨日のことを話した。椿山さんはリラックスした様子で向うの木がいっぱい植わってるほうを見ている。
「それで、俺にやつらを追い払えというのか」
「いいえ。あのハリネズミみたいな人、空手か何かやっていますよね」
「まあ、ちょっとやってるな。町道場の初段、二段くらいかな」
「ああいう人にやられたとき、どうすればいいかと思って」
椿山さんはゆっくりと僕のほうを見た。
「そりゃ、逃げるのが一番だな」
そう言うとにやっと笑った。僕はうつむいた。
「女の子の前でそんな格好悪いことできませんて言うのか」
「えっ、ええ」
「でも、一日か二日俺が教えても勝てないぜ」
「そうなんですけど。ああいうときただやられるのもと思ったんです。何かいい方法ないかなって。あるわけありませんよね、そんなに都合のいい方法」
「まあ、やつ一人だけなら隙を見せた瞬間に目玉を突くとか、金玉を握りつぶすとか、どうにでもできるが。あとから、あとから湧いてくるからな。ああいうやつらは」
「はあ」
「でも、昨日おまえが経験したの状況なら手がないこともない」
「えっ」
「やられることには変わりないけど、ダメージが少なくなる方法」
「教えてください」
僕は勢い込んで行った。
「相手の体のどこでもいいからしがみついて離れないことだよ。殴られようが、蹴られようが絶対に離れない。そういう根性は、並木はありそうだから」
「しがみついてですか」
「握力はちょっと鍛えといたほうがいいぞ。鉄棒にぶら下がったり、ゴムマリを握ったりして。それからつかみやすいところを持つ。髪の毛、ベルト、破れにくそうなら服でもズボンでも。手も足も口も使って絶対に離れるな」
「やってみます」
「ボクシングにもダッキングといって相手に抱きつく防御方法があるんだ。でも、そういう状況にならないようにするのがいいんだがな」
「ええ」
「そういうわけにはいかないときもあるよな、男なら」
「がんばってみます」
「ああ、健闘を祈ってるぜ」
いつものように穏やかな笑みのままそう言ってくれた。この人と話しているとすごく気分が落ち着く。いつまでも話していたい、いつまでもそばにいたいそういう感じがする。
いつのまにか昼の時間が過ぎてしまっていた。ぞろぞろとみんなが部屋に帰ってくる。
「おい、椿。待ってたんだぞ」
菅野さんが入ってくるなりそう言った。
「すいません。ちょっとトレーニングしてたら気合が入りすぎてしまって、気がついたら昼、終わってました」
「ばかじゃねえの、こいつ。飯食うの忘れてたなんてよ」
あきれたように大隅係長が言った。
「はい、これ。並木にも」
大場さんが菓子パンやおにぎりやカップめんを袋から出して机に並べてくれた。
「おお、悪いね」
「ほんと、空手ばか一代だな」
部屋の中が笑いに満たされる。椿山さんはみんなに愛されている。
プルルルルル
電話のベルで一瞬水をうったように部屋が静かになった。
「ありがとうございます。東京製菓、お客様相談係、並木でございます」
「こんな電話したくなかったんだけどね」
ちょっと年配の男の人からの電話だった。
「いえ、結構でございます。ご意見をお聞かせください」
「じゃあ、言わせてもらうけど、お宅の本当においしいせんべいってのあるでしょ」
二、三ヶ月前に発売された新製品だ。少し値段が高めに設定してあるためか、ちょっと苦戦しているようだ。
「ええ、当社の新製品でございます」
「あれ、四五〇円もするんだけど、どこがおいしいの」
「せんべいにしている米は有機栽培で、調味料にいたるまで化学薬品は使っておりません。原材料の味を生かして…」
「いや、お宅の宣伝を聞きたいんじゃなくて、この味でこの値段なんだ。お金返して欲しいよ、まったく」
「あの、貴重なご意見をありがとうございます。できましたらもう少し詳しいお話しをお伺いいたしたいのですが、お宅にお伺いさせていただいてもよろしゅうございますでしょうか」
「ああ、いいよ。いっとくけど、わし、因縁つけてごねてるわけじゃないよ」
「はい。私もぜひお目にかかってご意見をお伺いしたいのです」
住所と名前を聞き受話器を静かに置いた。
「おい、おい、なみちゃん。何、いまの電話。あんなのにかかわってたら、体いくつあっても足りないよ」
「そう、そう。ほっときゃいいんだよ」
「はい、でもちょっと行ってきます」
「う、ご苦労さん。本当においしいシリーズ持っていったらいいよ」
「並木さん、がんばってくださいよ」
「はい」
夏の高い空の下に飛び出して行った。セミがわしゃ、わしゃと鳴いている。見上げると高いところに真っ白な入道雲が湧いていた。
横浜で京急線に乗り換えて能見台で降りた。すぐ近くに迫った丘。深い緑色の木々からはむっとするほどの夏の暑さが、その香りとともに漂ってくる。そのにおいをかいだとたん汗がどっと噴出したような気がした。急な坂を登り、下りにかかると向うに港が見えた。下り坂の中腹あたりに新しく山を切り開いてできた小さな住宅地があった。そこで尾台の家を探した。その表札はすぐ見つかり一軒の真新しい小さな家の前まで来てインターフォンを押す。通された部屋には程よくクーラーが効いていた。背の小さな、白くなった髪を短く刈り込んだ初老の男。口は意志が強そうにへの字に結び、むっつりとしている。コースターに冷たい麦茶の入ったグラス二つを自ら持ってきて向かいに座った。
「ここはいい場所ですね。見晴らしはいいし、自然の丘がすぐそばにあるし」
窓の外に目をやれば、緑色の山をくるりと回るようにゆっくりととんびが舞っている。
「いつもはいい風が来るんで、クーラーはほとんど入れないんだけどね」
「じゃあ、窓を開けましょう。僕もそういうの嫌いじゃないんです。会社ではいつもクーラーがかかってますけど」
男はほーっと意外そうな声を出して立ちあがった。窓を開けてレースのカーテンを引いた。白いレースが風に遊んでいる。
「電話でも話したけど、これが本当においしいのかね」
男は傍らにあったせんべいの袋をぽんと机の上のほうった。
「おいしいというのは主観でしょうけど、お客様がおいしくないと思われる理由を教えていただけませんか」
「おいしくないとは言ってない。言ってないが。ちょっとこれを食べてみろ」
みたことない包装のせんべいだった。裏返してみる。ホシノ製菓。そう印刷されていた。一枚、一枚包装されたせんべいのひとつを割って口に入れてみる。醤油の味かちょっと勝っているようには思う。がりがりと噛んで飲み込む。醤油のほのかな香りが口に残ったが、それがちょうどいい。
「おいしいです」
「だろう。あんた裏を見たんだから分かったと思うけど、それは新潟の会社で作っている。向こうでは結構普通に流通しているおかき類だ。値段も三五〇円とけっして高くない」
「そうですね」
「これと、お宅の四五〇円、どう違う。わしはだまされたと思ったよ」
「多分、有機農法の米と天然素材の調味料を使ったためのコストアップ。後は全国展開するための管理費や流通、宣伝コストでしょうか」
「それとおいしさとどう関係ある。あんたのところは本当においしいとうたっている。だったら、全国展開、有機栽培、無農薬、化学調味料なしとかそううたうべきだな」
「おっしゃるとおりです。報告書を必ずあげておきます」
尾台は苦い顔をしてうなずいた。
「あんたにこんなこといってもしょうがないことは分かっている。一消費者のわしの意見なんかいちいち取り上げていたんじゃ、企業として収集がつかんだろう」
「でも、直接いただけるご意見は、我々企業にとって大変貴重です。必ず商品開発、企画や、研究開発のほうに通しておきますから」
「うん。ところで、新潟のせんべいはあんたの所のものだけでなく、他社のせんべいに比べてもうまいと思う。何でこんなにうまいんだと思う」
「それは調味料でしょう」
即座に答えた。
「ほう、今まではおどおどしていたけど、この問題にはいやに自信たっぷりだな」
「あっ、すいません。僕もなんでこんなにうまいんだろうって考えてたものですから、つい力が入ってしまいました」
「いや、いいんだが」
「食べたときのどに引っかかるようなしょうゆ臭さのような刺激がないんです。甘いのともちょっと違う。味付けにかなりノウハウがあるんだと思います」
「なるほどな。さすがに菓子を作る会社の人は詳しいな」
「私、最近まで味や香りを開発する部署にいたものですから」
「じゃあ、あんたの所のせんべいをあんたが変えるとしたら、どう変える」
「それはもちろん私は技術者ですので、値段はそのままでコストを引き下げ、味にお金をかけてよりおいしいと思われるものを作りたいです」
「ふーん。具体的に何か考えている」
「考えかけている部分とまだ分からない部分があります」
「それができたらもう一度食べてみたよ、あんたが作ったせんべいを」
「はい、必ずお知らせしますから。ご指摘いただいた点を改善いたしまして、必ずよりよい物にいたします。今後とも当社の商品をよろしくお願いいたします」
「今日はわざわざこんなところまで来てもらって悪かったね」
尾台さんはにっこり笑って立ち上がった。玄関を出たとき頭の上でとんびがピー、ヨロヨロヨロと鳴いた。
僕は大汗が流れ落ちるのもかまわず、急な坂を駆け上がった。息がきれる。急な坂にかかって体だけが前のめりになり足が動かない。それでも必死で足を前に進めた。僕は先ほど裏返したホシノ製菓の包装紙に大変なヒントを発見していた。後味の深さのカギはたぶん魚醤だ。原材料のところに出ていたものの一つにその文字を発見して体が熱くなった。これだ、これだという声が体の内側で駆け回っている。来た電車に飛び乗り途中で乗り換え神田まで出た。この街の古本屋街はよく来ていた。駅を降りたところにどーんと大きなインターネットカフェがある。中に入りアイスコーヒーを一気に飲み干し、お変わりのグラスを持ってPCに向かった。ホームページに出ている魚醤を作っている会社を片っ端からメモした。なんと秋田から日本海沿いに福井まで、そして九州と高知にもある。カフェを出て木陰のベンチに座り、携帯電話を取り出す。とりあえず行きやすい新潟から電話をしてみる。しかし土曜日は休みだったり、担当者が出張だったりしてなかなかいいところがない。五件目の田辺食品。直江津の会社だ。
「もしもし、私、個人的に魚醤に興味を持っているものなのですが、一度おうかがいしてお話しをお聞きしたいのですが」
「えっ、明日。また急だなあ。ええよ、午前中だったら工場におるから」
田辺と名乗ったその男は二つ返事で了解してくれた。直江津は日本海に面した、信越本線沿線の港町だ。電車を調べてみると、明日こちらを始発の六時半ごろの新幹線で出て、向うには九時半ごろに着く。一〇時ごろに工場に入れればいいほうだ。こういう仕事は朝が早いのだから、これではちょっと遅すぎるかもしれない。今日、仕事が終わってからこっちを出て一泊して、朝一番に工場に行ってみるか。そこまで考えてふと思った。朝一番か、夜行バスはどうだろう。神田の駅まで行き、時刻表を開いてみる。池袋の駅を夜一二時近くに出発して、直江津に朝の五時四五分に着く。それから工場を探して六時半ごろに訪ねてみる。早すぎるようなら時間を聞いて出直せばいい。バスの会社に電話して座席が空いていることを確認して、コンビニでお金を払い切符を買った。最近は商品だけでなく、銀行からお金を引き出したり、振り込んだり、切符から野球のチケット、本の受け取りまで何でもコンビニエンスストアーでできる。本当に便利だ。手土産を一つ買って会社に戻って佐伯室長に報告をした。
「う、それじゃ、報告書をあげといて。これは商品開発、営業企画、商品企画のほうに回しとかなければいけないか」
「はい。それで室長、このせんべいのうまさを調べるために明日、直江津に行ってきたいのですが。もちろんプライベートで行ってきます」
「並木君、休みをどうすごそうと自由だよ。しかし、直江津は遠いな」
「なーみちゃんも熱心だねえ」
「大隅さんも女性にでなく、仕事にこれほど熱心ならここにはこなかったでしょうね」
「俺はこれでいいのよ。おまえらも風俗じゃなく、まともな恋をしてみろ。いいもんだぜ」
「大隅係長がからまともな恋なんてセリフ、聞くとは思いませんでしたね」
「ばかやろう」
すぐに終業のチャイムが鳴った。午後から外出したため一日が短かった。帰りに飯を食って、部屋に戻り支度をした。一二時までまだ少し時間があった。池袋まで一本だし大宮に行ってみることにした。九時過ぎの駅前。商店街の半分は電気を消している。しかし、決して人通りは少なくなく、千鳥足の酔っ払い以外にも、会社帰りのしゃきっとした人も結構たくさん駅に向かってくる。そういう人は女性が多い気がする。急ぎ足で、遊んでいる人とはスピードが違うのですぐわかる。夜遅くまで開けているつばめの美容院の狙いはいいかもしれない。つまりそういうバリバリ働いている女性がお客になるのだ。
もちろんつばめの店は元気よく明かりがついている。店も前に男の子と女の子が立っている。向うも顔を覚えてくれてどうもと頭を下げてくれた。店を覗くと、つばめを始め三人が椅子の後ろに立ち忙しそうにはさみを使っていた。お客のいっぱい入った明るいつばめの店を見たら元気が出た。まだ、仕事は当分続くのだろう。『つばめに会いに来たけど、お客さんを相手に忙しそうなつばめを見たら元気がわきました。この前の仕事の続きで、直江津に今夜の夜行バスで行ってきます。仕事がんばってください』僕はメモを書き、店の前にいた安西由紀子に渡して池袋に向かった。俺もできることを精一杯がんばるよ、つばめ。
ぷしゅーっと音がしてバスは日本海側の小さな町に到着した。バスの扉が開くと乾燥して快適だった車内に、外の湿気ととも塩の香りが入り込んできた。外はすっかり明るくなっている。バスを降り立ったとき海の近くのせいか、子供のころ海水浴に来たようなそういうわくわくする臭いがした。商店街はまださびの浮いたねずみ色のシャッターがすべて下りており、寂れた雰囲気で暗い感じがする。人通りもほとんどない。片側一車線の道には時折、白い四輪駆動の軽トラックが行き交っている。商店街が途切れたところを右に曲がると、コンクリートの狭く短い道があり、その突き当たり右側が田辺水産だった。あまりに簡単に行き当たったので拍子抜けしてしまった。とりあえずその前まで行ってみると引き戸は開け放たれており、中ではおばちゃんたちが元気よくおしゃべりをしながら働いていた。突き当たって左手を見るとそこはもう港だった。隣接して市場のような建物もある。ぶらぶらと港の先端まで歩いて行った。漁から帰ってきたばかりか、結構大きな細長い漁船が五艘ほど停泊している。朝の海の風は少し湿っていたが、涼しくて気持ちよかった。港のある湾をはさんで向の丘の上に朝日が上がっている。そちらのほうからセミの声が聞こえ始めた。
大きく深呼吸をして再び田辺水産の入り口に立った。初めてのところは相変わらず緊張するし苦手だ。時刻は七時を回ったところだ。入り口から中が見える。コンクリートの床、二〇畳くらいの作業場だ。八人ほどのおばちゃんがしゃべりながら作業をしている。理科の実験室にあるような大きなステンレスでできた銀色の机の中央にパイプが渡されている。そこから緩やかなシャワーのように、水が出ている。その作業台では短い包丁で魚が開かれ、中から内臓が出されている。身は編み籠に、内臓は下のバケツに入れられる。その一連の作業はものすごく手際がいい。おしゃべりをして笑いながらも、次々に魚が網の中に放り込まれていく。魚の体液や血液で汚れた作業台は水が流れていて洗い流されていく。
「ごめんください」
作業をしていたおばちゃんが一瞬静かになり、視線がこちらに集まった。
「おはようございます」
みんなが口々に挨拶の言葉を口にした。
「社長さーん。お客さんだよー」
「おー、今、行くから」
建物の中に足を踏み入れた瞬間、むっとするような魚の生臭い匂いに包み込まれた。奥のアルミのドアがあいて、三四、五の想像していたよりずっと若い人が出てきた。短い髪にはパーマがかかっている。顔は四角で大きい。背は高くないが、パワーのありそうながっちりした体つきだ。薄い緑色の作業着に、白い長靴を履いている。
「始めまして。昨日は電話で失礼しました」
出した名刺を一瞥して僕を作業場の奥の事務室に招きいれてくれた。社長と呼ばれたその人は青いプラスチックのケースに入った名刺を一枚出して、無造作に僕に渡してくれた。田辺水産社長、田辺重徳とあった。田辺社長は僕に椅子を勧め、向かいの相当古そうなソファーにどっかりと座った。
「ええっ。あんた埼玉から来たの。俺はまた、こっちの人だと思ったから。こっちの人が魚醤を一本欲しいからと言うのかと思って。そう、埼玉から。それは遠いところ、よくきたねえ」
「いえ、こちらこそ、ちょっと早すぎたでしょうか」
「こっちは早いのはぜんぜんかまわないよ。昨日こっちに泊まったの」
「いえ、夜行バスで来て、さっき五時半ごろ直江津の駅に着きました」
「夜行バス。そりゃまたご苦労さん。で、うちの魚醤を買うために?」
「それもあるんですが、魚醤の事を少し教えてもらえないかと」
「そう、じゃあ、これを」
と言って会社案内を一部出してくれた。魚醤の歴史は、たまり醤油のところで成田さんに聞いたのとよく似ていた。ただ、田辺社長は魚醤の歴史をすごく詳しく説明してくれた。それによると、紀元前三世紀にはすでに中国の書物に魚や肉の塩蔵品が、宴会用に出ていたと記されているという話だ。その後、内臓と肉を一緒に漬け込んだ肉醤(ししびしお)が漢の時代に現れこれが魚醤に発展しらしい。日本では縄文時代から肉醤、魚醤、草醤が平行して使われていた。奈良時代になって穀醤が中国や朝鮮半島から入ってきた。これはまめが主流だった。現在の味噌、醤油の原形だ。
「だから醤油の本家はこっちなのよ」
「やはり大豆のほうが、『クセ』がないからですか」
「その『クセ』に味わいがあると思うだけどよ。ただ、豆は安く、気象の変化にも比較的強いので安定して供給できた。厳しい環境でも作ることができるので供給量も多い。腐りにくいので輸送もしやすかった。そんな関係で、江戸時代には全国に広まったんだ」
田辺社長はちょっと悔しそうな顔をして言った。
「なるほど。材料が簡単に手に入り、誰にでも作りやすかったんですね」
「だけど魚醤は動物性タンパクを魚自身の酵素で分解して作られるからね、格段に味は深く、奥行きがある。タンパクが分解されグルタミン酸を始めとするアミノ酸や、ペプチドができる。グルタミン酸は昆布だしなどに含まれるうまみの元だからね。これだけ定着してしまった醤油にとって代わるのは難しい。だけど、このうまみ成分が多く含まれている点を強調すれば、もっと多くの人に手にとってもらえると思うんだ」
「だしの元が売っているけど、そういう感じで使えるということですね」
「そう思うんだ。ビタミンやタウリンもたくさん含んでいるから健康にもいい。この長所を何とか生かして、今、漁協や町などに協力してもらって、だしとしても売り出そうと力を入れて始めたところなんだ」
「タウリンて、あの栄養ドリンクで宣伝しているタウリンですか」
「そう、もともとは海藻や魚介類に多く含まれているからね、あれは。何もあんなもん、高い金出して飲まなくても、これを使った料理を毎日食べれば、毎日元気はつらつ、二四時間戦えますよってね。ははは。」
田辺社長は部屋な隅に積まれている箱の中から茶色の色がついたビンを取り出した。
「これがそうなんだけどよ」
ビンを傾けて手のひらに少したらした。たまり醤油を体験したばかりなので相当期待して舌でその魚醤をすくった。
「どう」
「正直に言っていいですか」
「おお」
「僕は、少し拍子抜けしました。魚醤というからどんなに魚臭い匂いがするのかなと思ったんです。なんだか塩味の効いただしの元をなめたような感じがします。これでお吸い物を作る主婦には受けるかもしれない。でも、今のだしの元そんなに変わらない。もう少し奥行き、後味、くせがあったほうが他のだしの元と差別化できるかもしれませんね」
「うーん」
社長は腕を組んで上を向いてしまった。机に置いた僕の名刺を取り上げて眺める。それをポーンと机の上に放り出し、また自分の前まで持ってくる。悪いことを言ったかもしれない。
「あんた、はっきり言うな。魚醤はくせがあるから食べ慣れた人にはたまらない味だけど、一般の人にはそれが受け入れられない原因になっていると、ずっと言われ続けてきた。そこで地元の大学と提携してうまみは残しながら独特の味を削る努力をして、やっとこの商品ができたんだ」
「ええ、ですから、大量販売ルートに乗せればそこそこ売れるかもしれません。かなり宣伝をしなければいけませんが。ご存知とは思いますが後発メーカーが消費者に自社の製品を認知させようとした場合、前のメーカーの三倍は宣伝費用がかかります。後は都会から来た人向けのみやげ物として売るとか」
「本物の魚醤はこれなんだが、これではちょっと都会のスーパーでは売れないと思うんだ」
透明のビンにあめ色の液体が揺れている。手のひらにとってなめてみる。醤油の中に濃厚な魚の香りと少しの苦味と塩味。ただし、苦味や塩味は何かオブラートのようなものに丸く包まれているようで決して自己主張していない。
「うーん」
今度は僕が唸る番だった。悪くない、悪くないんだこれだけだとがちょっときつい。
「なるほど、このままでは都会受けしないかもしれませんね。食べ物は難しいですね」
「そうだねえ」
「でも、僕はこの味のほうが好きです。これの塩分をもう少し薄めて、それこそだしの元のように使えば、いけると思うんですが」
「なるほど、これをだしにねえ。薄めてねえ」
「醤油のように大量に使うというわけにはいきませんが、隠し味としてなら結構受けると思います」
そう言いながら僕はすでに成田さんが造ったたまり醤油とこの魚醤の組み合わせを頭に描いていた。この味、くせ、香り。たまり醤油とこの魚醤は何対何にするか。どうすれば焼いたときに一番深い味になるのか。
「鍋に入れたりとかは、俺たちもしているんだけど」
「これは安定して作ることができるんでしょうか」
「昔からつくってるからね、これは。大体出来上がるのに二〇日。殺菌処理や瓶詰め、出荷の手間を考えて約一ヶ月かな。ちょっと作ってるところ、見てみるか」
田辺社長は、そう言って立ち上がった。アルミのドアを押して作業場に入り、その奥のドアをあけた。むっと、より濃厚な生臭さが押し寄せてくる。そんなはずないとは思うが、匂いのせいで酸素が薄くなっているのか息苦しい。口をあけてパクパクと息をする。田辺社長が振り返りふっふふと笑い、まだ先に歩く。
「ここでミンチにした身や内蔵を塩でつけるんだ」
表の作業台と同じ物が置かれているが、その端っこに銀色のフードのような物が付いた一抱えほどの機械が取り付けてある。これに魚を入れミンチになったものが下から出てくるのだろう。その向うにタンクがいっぱい並んでいる。目がちかちかするような気がする。どうやら匂いの元はそこらしい。
「これが」
そう言ってタンクのふたを開けたとたんにおいの爆風にあおられて気が遠くなりかけた。
「あっはっは」
遠くで田辺社長の笑い声が聞こえた。
「きょうれつですね、ここ」
涙目になった目をこすりながら僕はやっとの思いで言葉を搾り出す。
「このタンクで発酵させているだよ」
呼吸を止めていても目から匂いが入ってきそうな、魚が腐ったような強烈な匂い。必死で目を見開きタンクの中を恐る恐る覗いてみる。黄土色でペースト状のものの表面にオレンジ色の油が浮き、プチプチと泡が沸いている。
「気をつけたほうがいいよ。その汁がついた服はもう着れなくなるからね。女房子供はもちろんだけど、ここのおばちゃんたちだってよけて通るくらい強烈だから」
声が出せず無言でうなづいた。急いでそこを離れて止めていた息を吐いて吸い込む。また強烈な匂いが襲ってくる。口で浅く呼吸してやっと落ちついた。
「はっはは。あんた、それはちょっと大げさでしょう」
田辺社長は愉快そうに笑いながらさらに奥に進む。すると不思議にすっと匂いが収まったような気がした。さらに進むと奥に並んだタンクの中から、なんとたまり醤油の倉でかいだような、濃厚な醤油の香りが漂ってくる。タンクのふたを開けたらなんともいえない芳醇で奥行きのある魚の香りが醤油の香りに混じってしてくる。タンクから直接とった汁を手のひらにのせてなめてみると、いい香りが口の中に残った。
田辺社長について工場を出た。
「あのタンクの汁は、またなんともいえないうまみがありますね」
「まだ加熱してないからね。それにしても、あんた、よく逃げ出さなかったな。」
「もう、気を失いそうでしたよ」
「あっはっは。そんな顔してたわ。だけど、よっぽどこういうのが好きなんだね。そうでなければこっちではなく、向うの出口から出てるもん」
反対側の入ってきたほうを指差しながら愉快そうに笑った。つられて笑った。気持ちのいい海辺の朝が終わり太陽は中空に浮きコンクリートに光と熱の針を投げつけている。防波堤のすぐ向こうはもう日本海だ。磯の香りがほんのり漂ってくる。そうか、魚醤の香りはこの香りに似ているんだな。
田辺社長と、もうそろそろ帰り支度をはじめてていた作業場のおばちゃんにお礼を言い、魚醤と、おさかなエキスという新しく売り出そうとしている魚醤を三本ずつ買って、工場を出た。すでに一二時が近い。商店街へ向かって歩く。魚醤を入れてもらった袋の紐が、指に食い込み痛い。焼きトウモロコシのいい匂いがしてくる。突き当たりの店で盛んに煙が上がっている。覗いてみるとイカや魚、トウモロコシなどをフランクフルトのように棒にさして、炭火の周りに立てて焼いている。そう言えば腹が減った。
「おばちゃん、その焼いた魚をください」
「はいよ。三五〇円。旅行でこっちに?」
「まあそんな感じです。埼玉からきました」
話をしながら手際よく醤油をつけて、さらにあぶってから渡してくれた。一口かじるとなんともいえないうまみのある魚だった。
「この魚うまいね」
「魚はただのアジだけどね、いま旬だから。企業秘密だけどね、この魚醤がいい味出してくれるんだよ」
おばちゃんは首にかけたタオルで汗を拭きながら、田辺水産のお魚エキスの小ビンを振って見せた。僕もにっこり笑ってその大きいビンを出して見せた。
「よく分かってるねえ、お兄ちゃん」
「社長が今度力を入れて売り出すって言ってました。うまく行くといいですね」
「ほんとにね。東京のほうでも宣伝しといてね」
「はーい」
手を上げて店を離れた。店の向うから、にぎやかな子供たちの声が聞こえてくる。そっちを見ると、狭い道路の先に砂浜が見えた。海水浴場のようだ。僕は海が見るところまで出て、うちあげられた大きな木の幹に腰をかけ魚をかじった。熱く焼けるような砂浜に潮風が気持ちいい。魚を食べ終えて大きく深呼吸をし、海の空気で肺を満たした。
一〇
その日のうちに信越線、長野新幹線と乗り継いでアパートまで帰ってきた。ドアを開けて電気をつけると熱帯魚たちが上の方に集まってくる。太郎左衛門たちにただいまを言ってえさを一つまみ撒いてやる。そのころには隣の部屋のケージからばたばたと羽音が聞こえてくる。隣の部屋を開けて電気をつける。
「帰ったよー、ちーちゃん」
ケージのふたを開けてやるとさっと飛び立ち、電灯の周りをくるりと回ると、肩にとまった。
「長い時間お留守番させて悪かったね」
指で首筋やのどをなぜてやると気持ちよさそうに首を長くする。水とえさ、小松菜をケージにセットして下の新聞紙を変えてやる。家庭用の自動餅つき機に米と水、それに少しの塩をセットしてスイッチを入れる。ほっと吐息をついて畳に座った。餅を薄く延ばし、かき餅を作り焼いてみようと思っている。机替わりにしているコタツの上に成田さんの造った半年もののたまり醤油と、今日もらってきた魚醤二種類を出した。部屋の隅に丸めて置いてある大きなグラフ用紙を出してきた。これはB全版という一メートル×七〇センチのグラフ用紙だ。横長に置いて、一〇センチごとに鉛筆で線を引き、正方形の升目を作った。升目の下に一〇:〇から〇:一〇までの数字の列を二つつくった。一つはたまり醤油と魚醤を入れる分。もうひとつはたまり醤油とお魚エキスを入れる。ビーカーを二二個、出してきて並べた。横で餅つき機から水蒸気が上がり始めた。もち米を炊いているのだ。文鳥がそこに突っ込むと、気管や肺をやけどするのでケージに入れた。
メスシリンダーにまずたまり醤油を一〇cc注ぎ、ビーカー二つに入れた。次に九cc、八ccと注いでいった。次にお魚エキスのビンを開け一ccから順番についで行く。魚醤も同じようにやる。ガラスの棒で丁寧にビーカーの中身をかき混ぜた。水を入れたやかんとグラス、そしてポリバケツを用意する。餅つき機から振動音が聞こえてきた。すぐにつきあがるだろう。
目をあけるとぼんやりと蛍光灯の丸い電球が見えた。旅行の疲れが出て居眠りをしたみたいだ。時計を見ると午前一時を回っていた。餅もつきあがったことを示すオレンジ色のランプに変わっている。バットの上にサランラップを引き、片栗粉を振って、餅がくっつかないようにしてから上に餅を載せた。ちょっとつまみ食いをする。塩味がうっすらと効いてなかなかうまい。そう言えば腹が減っている。もう一口食べる。もう一口。きりがなく、実験用のものがなくなってしまいそうなので食べるのをやめた。手に水をつけてから、丁寧に薄く延ばしていった。上から包丁で切り目を入れる。これでしばらく乾燥させてばいい。乾燥した餅を焼きさらに醤油をつけて焼いてみるつもりだ。さらに餅つき機に米などをセットしててから、顔を水で洗って口をゆすいだ。顔を両手の平ではたいて気合を入れてから、ガラスの棒を一番端のビーカーに入れて軽く回した。上に引き上げるとそのしずくを舐めてみる。舌で味わって、やかんから水をグラスに注ぎそれで口をゆすいでバケツに捨てた。この前、成田さんの倉で味わったたまり醤油の味だった。一回ごとに口をゆすぎながら、さらに順番に味わっていく。お魚エキスのほうはなかなか味の違いが出てこない。魚醤も試してみる。何回かじっくり味わってみた。魚醤のほうは八:二あたりで、たまり醤油の味に深みと香りがいいバランスで出てきた。ほぼ思ったとおりの味になってきた。もう一息だ。九:一から七:三の間をさらに八.九:一.一というふうに分けてビーカーに作った。ヒーヨ、ヒーヨ。気がつくと外でヒヨドリが鋭い声で鳴いている。窓の外は紫色になってきていた。夢中でやっているうちに、いつのまにか時間が過ぎていたようだ。
組み合わせを変えて、味見をしてやっとこれだという物ができた。もちろんこれをつけて焼いたり、揚げたりすると味が変わる。水分が蒸発する分味も濃くなる。だからその味の周辺、一〇種類のビーカーを残した。できたー、できたぞ。うーんと伸びをして横になった。心地のいい疲労が頭の芯でキーンという音を立てている。
昼近くまで畳の上で眠っていた。体の痛さと、ものすごい汗で目がさめた。外ではセミがけたたましく鳴いている。やかんから水を一杯飲む。餅つき機をあけて出来上がっていた餅をかじる。太郎左衛門たちやちーちゃんにご飯をやって、餅つき機にまた餅をセットした。この醤油にみりんと砂糖を混ぜるのだが、これがまた無限の組み合わせがある。分量もだが、砂糖にもいろいろな種類がある。たとえば、白砂糖、黒砂糖、三温糖など。この自宅の実験室ではそこまで追求するのは不可能なので、この分量は、今、売り出している本当においしいせんべいと同じにすることにした。ヒット商品のパリセンはちょっと甘辛く味付けがされ過ぎて癖が強すぎるからだ。たたき台としてノーマルな物を作ってそこから発展させていけばいい。一〇種類のビーカーにそれぞれ砂糖とみりんを入れてよくかき混ぜた。かき餅を一度オーブンで軽く焼く。お好み焼きのソースを塗るのに使う刷毛を出してきて、せんべいのように焼けた餅に塗ってもう一度オーブンに入れる。醤油を焦がしたようないい匂いがしてくる。わずかに磯の香りがする。三回塗って焼いてを繰り返してからひとつ食べてみる。ぱりぱりと噛むと焼いた醤油の香りが濃厚に口の中で広がる。思ったとおり、深みのあるそれでいてまろやかなたまり醤油の特徴が引き立っている。わずかに海苔巻せんべいのような磯の香り。うめーなー。ひとつ食べると押さえが利かなくなり、次から次に食べてしまった。気がついたら最初に焼いた分はもうなくなっている。これが本当にやめられない味だな。ひとつ食べるとほんのりといい香りが口の中に残り、もう一つ、もう一つと手を出してしてしまう。味もくどくなく、たくさん食べてもあきない。これはいいな。
それから夢中で餅を焼いた。オーブンを頻繁に使い出すとやたらと部屋の中が暑くなってきた。汗が流れ落ちてきて目にはいる。腕でぬぐうと今度はあごから落ちる。エアコンはあるが普段はつけない。仕事に行っていたりして昼間、部屋の窓を閉めきっているときに文鳥たちのために弱めにつけているだけだ。基本的にけちなのだ。子供のときにひどい経験をして、どんなに困っても誰も助けてくれないという恐怖が頭に染み付いている。だからいざこうなったらといろいろな悪い状況を想像すると、ついお金は蓄えに回してしまう。社内預金は金利がいいので限度目一杯の給料天引きをしている。それにあわせて持ち株会にも入って、これも補助金が出るので限度目一杯している。残ったものは郵便局に入れている。男一人、会社とアパートの往復ではほとんど使う金はない。このアパートも会社の補助金が出ている。それでも今の部署に移ってから誘われればみんなと飲みに行ったり、ご飯を食べたりするようになったほうだ。そんなわけで普段、家にいるときは窓を開けて網戸にしているのだけど、今日はカーテンがそよとも動かない。あまりの暑さにとうとうたまらなくなってエアコンを入れた。ブーンという音とともに心地のいい乾燥して涼風が吹き出してくる。汗まみれになった顔を洗ってまた机替わりにしているコタツにもどってきた。袋に醤油の比率を書いた。自分としては七.八:二.二の組み合わせがいいと思う。そこでその醤油を五〇〇cc作った。砂糖、みりんを混ぜ、残りの餅全部をそれで焼いた。背中も首も腰もバリバリに痛い。最後のせんべいをオーブンから取り出した。かなりの量のせんべいが出来上がった。湿気ないように冷めたものから袋に入れる。気がつくと外で鳥が鳴いている。時計を見ると朝の四時になっていた。このまま眠ったらもう起きれそうもなかった。風呂に二日間入ってなかったのでシャワーを浴びることにした。ぬるめにして体と頭を洗い、床に座り込んで少し熱めのシャワーにうたれる。このまま眠ってしまいたい気持ちを振り切って風呂を出た。眠気はあったが悪い気分ではない。テスト勉強を徹夜でしてテストの日の朝を迎えたような、気力の充実した、いい気持ちだ。
月曜日、今週もまた始まる。少し早かったが、このまま部屋にいると眠ってしまいそうだったので朝ごはんを食べて、出来上がったせんべいの袋をお気に入りの若草色のリュックに入れて出勤した。朝、七時半の工場横の小道。すでににぎやかに鳴き始めたセミと、朝の訪れを喜んでいる鳥たち。人はまだほとんど歩いていない。工場の裏手にある僕たちの部屋がある小さな建物も、今は木々の中で息を潜めるようにひっそりとたたずんでいる。しんとした建物の中に入り、眠っていた建物を揺り起こすように電気をつける。湯を沸かし、掃除を始めた。時間があったので今日は窓も拭き、サッシのごみも取る。それが終わると各机の上にあるパソコンのディスプレーの画面を乾いた布で拭いて回った。今週もみんなを助けてくれよ。いろいろな情報を映し出して、提供してくれるこのディスプレーはみんなの心強い相棒だ。八時半を過ぎるとみんなが来はじめた。いつもの週初めのように、休日の疲れを少し残したような顔でみんなが次々に出勤してくる。
一〇時を過ぎたころ僕はみんなに、昨日作ったせんべいの大きな袋を出して見せた。
「これ、今回行ってきた所の調味料を使って作ったせんべいなんですけど、よろしかったら食べてみていただけませんか」
みんながソファーのところに集まってきた。
「ほう、並木君はこんな物作れるんだ」
「室長、そりゃそうでしょ。こいつはこの前までそういうところで働いてたんですから」
「でも、自分のうちでせんべいをつくちゃうなんてちょっとすごいな」
みんなが口々にそんなことを言いながらせんべいを取ってくれる。大隅係長はせんべいを光にかざしたり、香りをかいだりしてから慎重に口に入れた。
「なーみちゃん、なかなかいいな、これ」
大隅係長のその一言でほっと僕の緊張が解けた。
「ほんと、おいしいですねえ。こんな物が家で作れるんですねえ」
「おい、おい、なみちゃん、こんな特技があるんなら早く言ってくれなきゃ。今度、彼女に持っていってやろう」
「菅ちゃん、相変わらず物で釣ってるのか。俺みたいに男の魅力でついてこさせなきゃな」
「大隅さん、そっちの袋に確保してるのなんですか。まさかこれから受付にいる志穂ちゃんや美加ちゃんに、あげに行くんじゃないでしょうね」
「大場君、そのように細かいこと気にしているからもてないんだよ」
「大隅係長もマメですよね。でも確かにうまいな、これ」
椿山さんも気に入ってくれたみたいだ。いつのまにかせんべいで大きく膨らんでいた袋は、かなり小さくなっていた。
「おい、おい、みんな。もうなくなってきたじゃないか」
「だって、佐伯室長、これ、一度食べ出したらやめられないんですよ」
「確かにいくら食べてもくどくないし、あきないよ」
菅野さんにしては素直な感想をくれた。
「しかしな、なーみちゃん。これはせんべいだから、腹にたまるよ。いくらでもと言っても限度がある」
「大隅係長、さすが営業の意見は鋭いですね。じゃあ、軽いスナック菓子のようなものにこういう味付けをするって言うのはどうですか」
「確かにそうなんだがな、椿」
ちょっと息をついて再び大隅係長が話し出す。
「スナック菓子というのは不思議なもので、塩味以外なかなか受けないんだ。いろいろトライしてみたんだがな。スナックに味を吸い込みすぎてくどくなるからなのかなあ」
「そうなんですか」
椿山さんはちょっと驚いたような顔で大隅係長を見た。
「なるほど、そういうもんですか。大隅さんもやるときはやるんですね。ちょっと見直しました」
「あのですね、安達チーフ。私はいつもやっています」
「あっはは」
月曜の朝だというのに部屋の中が明るい雰囲気に包まれる。まるで新商品開発の会議をしているような雰囲気だ。
「あーあ、もうなくなっちゃったよ」
「大場、おまえ食べすぎなんだよ」
「菅野さんだって」
「俺はおまえみたいに二個も三個もいっぺんに口の中に入れてないぞ」
「だって、こうやって食べたほうがうまいんですよ」
「まったく、食い意地張ってるともてないぞ」
いつもながらこの二人のコンビの掛け合いは楽しい。この部屋のムードメーカーとしてなくてはならない存在だなと思う。
「あの、佐伯室長」
「う、なんだ、並木君」
「これが作ったサンプルなんですが、一度、研究開発室のほうに提案してみていただけませんか」
「なんだ、自分の古巣なんだから自分で行けばいいじゃないか」
「菅野さん、並木はこの部屋からの提案ということにしようとしてるんですよ」
相変わらず椿山さんにはかなわない。この丸い穏やかな顔の下に、どれだけの思慮深さと包容力と、そしてパワーを秘めているのだろう。
「ふーん。いいとこあるねえ、なみちゃんも」
「ここでの仕事を通して作れたものですから。それに僕、あそこの室長、苦手なんですよ」
「なーみちゃん、俺がもっていってやるよ。俺の提案ですって」
「大隅さんならやりかねませんねえ」
「勘弁してくださいよ、安達チーフ。冗談ですよ、冗談」
「しかしねえ、並木君。私がこれをハイと渡してもうまくは説明できないよ。何しろ人事畑が長かったから」
「では、大隅係長。お願いします」
「そうだろう、やっぱり。室長、お供しますよ」
各袋に書いた比率の意味と作った過程を説明した。
「だけど、そんな説明したら、後はこっちでやりますってことになるでしょ」
「そう、そう。アイデアだけ取り上げて自分の手柄にするとか」
「なあ、菅野君、大場君。俺を誰だと思ってるのよ」
「いや、女の敵」
「ただのエロおやじ」
「こら、こら、二人ともなんということを言うんだ。俺はこう見えても凄腕営業マンだったんだぜ。なーみちゃん任せとけって。うまくやるよ。アイデアだけを取られるようなことはしないぜ」
「よろしくお願いします」
佐伯室長と大隅係長は生き生きとした表情で部屋を出て行った。クレーム処理も大切な仕事だろう。ここに来るまで、毎日、毎日こんなにたくさんのクレームや意見、問い合わせが寄せられているとは、まったく考えもしなかった。でも、やはり新しい物を作るということは特別な気持ちの高揚感がある、本当に楽しい作業だ。改めてそう実感していた。
昼ごはんをみんなと一緒に社員食堂で食べ、少し昼寝をしようと外に出た。
「並木さーん」
後ろから女の人に声をかけられた。会社で女の人に声をかけられるなんで初めてのことで、心臓がどきどきと速くなった。振り返った。夏のまぶしい光の中に立っていたのでよく顔が見えなかったが、うちの制服を着た女の人がゆっくりと建物から出てくるところだった。やがて明るいところに出てきて顔が見えた。大隅係長が冷やかされるときにいつも話題になる、浅田志穂さんが建物の入り口から出てくるところだった。両手にはコーヒーの紙コップを持っていて歩きにくそうだった。
「こんにちは」
こちらからも近づいて行って挨拶をした。自分よりも少し年下だとは思うが、髪の長いきれいな人だ。紙コップが入ったアイスコーヒーを一つ渡された。
「これ、僕に」
「そう、おせんべいのお礼。おしかったわ。ご馳走様」
浅田さんと日陰のベンチに並んで座った。アイスコーヒーが冷たくて美味しい。
「こんなに美味しい物が作れるなんて並木はすごい。うちの部署に置いておくのは宝の持ち腐れ、会社の大損だって言ってたよ、あの人」
「そんなことないですよ。でも、大隅係長がそんなこと言ってくれるなんて意外だな」
「あの人並木さんたちの部署でなんて言われているんですか」
「まあ、いろいろ」
「口が悪いから自分も結構いわれているんでしょ。私たちのこととかも」
ちょっと悲しそうな顔になった。
「ええ、まあ。でも人気者ですよ、大隅係長は」
「あの人ああ見えて営業ではかなりすごかったんです。同期の中で一番出世。大抜擢されて第三営業部部長」
「部長?」
「並木さんはうちの社員だったので知ってるでしょ。エーススーパーのこと」
「ええ」
あいまいにうなずいた。あれは五年ほど前だっただろうか。神戸に本社を置く、小売業、国内売上高最大のエーススーパーから取引の打ち切りをされ、その後一切の東京製菓の製品は納入できなくなった。新聞でも大きく取り上げられ、株価もストップ安が何日も続いた。かなりの打撃だっただろうが、そのころの並木はそんなことはまったく興味がなかった。興味があったのは自分が作る味や香りのことについてだけだった。実際、部屋の中にいる限りでは、何の影響もなかった。
「きっかけは本当に小さな出来事だったの。あることでクレームを受けた。それをエーススーパー担当の若い社員が、軽く考えて忘れてしまっていた。そして営業にかかってきたお叱りの電話も行き違いで、担当者に伝わらなかったの」
「営業の部署って忙しいんでしょ、結構ありがちなことだと思うけど」
「そうだけど、普通はそんなことありえないというような行き違いが重なったの」
そのときちょうど女子社員が電話に出ると、卑猥なことを言うようないたずら電話が頻繁にかかってきていた。そのことで中にいた女の人はかなりぴりぴりしていたらしい。
「そして再びかかってきたお叱りの電話で、折り返し電話しろと言ったのがわからなかったのかとか、あんたの所の社員はみんなばかばっかりだというようなことを言われ、ついその女の子も言い返しちゃったの。大きな傘の下で威張ってんじゃないわよと」
「そんなことで」
「あわててお詫びに行ったのだけど、話しが上に上にいちゃって」
「そう言えばあそこは創業した人がまだ会長で、すごくワンマンなんでしょ」
「ええ、最後はその人がうちと取引するなと言ったらしいわ」
「それでー」
「大隅さん、その責任を全部一人で引き受けちゃったの。たまたまその直属の部長だっただけ。課長が責任取るのか部長か、その上の本部長か、重役か。誰が何の基準で部長だって決めたのかすごくあいまい。でも、自分で責任は俺にあるなんて言っちゃって」
「へえ、そうなんだ」
そんなまっすぐな正義感の塊の人のようには見えなかったので意外だった。
「それで出された辞令は二階級降格。新設されて間もなかったお客様相談室行き。つまり辞めろってことね」
「ぼくみたいに」
「あ、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの」
「ははは。いいんですよ」
「しばらくして離婚したの、部長」
「結婚してたんですか、大隅係長」
「社内結婚だったらしいわ。こんなこと言っていいのかどうか分からないけど、社内結婚する女の人の気持ちって打算があると思うの。この人と一緒になって将来どうなるのかを想像する」
「それは誰でもそうじゃないのかな」
「同じ会社にいるんだから余計そういうことが見えると思うの。この人出世しそうだなとか、部長くらいにはなるんじゃないのかなとか。そうなったときの具体的な待遇もわかる訳だから、将来の自分たちの生活も思い描きやすいでしょ」
「そんなもんなのかな」
「その奥さんは勝ち馬にのったって感じがあったんじゃないかと思う。だって部長は二〇代後半で結婚したらしいけど、そのころにはもう完全に同期の人たちから頭一つ抜けていたらしいから。新規取引先の開拓記録はいまだに破られてないらしいわ」
稲光を見たようにあっと思った。その話なら聞いたことがある。取引先にどんどん商品を押し込む。売り方も工夫して、小売店に自ら出向き店頭販売も手伝う。アルバイトの女の子も雇って笑顔で商品の宣伝をさせたり、試食させたりと言う、今でいうキャンペーンガールのはしりのような事まで個人のアイデアで行なっていた。目新しいこの売り方が受け、その人が担当していた地域だけ局地的に、ある商品が飛び抜けて売れると言う現象が何度も起こった。新規取引先の月間、年間の開拓記録はいまだに社内で更新した者がいない等。並木たちにとっても開発した新商品が売れるのはありがたいことなので、たびたびその人のことが話題になった。それが今の大隈係長?当人を目の前にしながらまったくそれに気がつかなかった。それが本当なら大隈係長こそこの部署にいるのは、会社にとって大損ではないか。
「その人がいきなり二つも階段を滑り落ちて係長に降格。それがすべてではないかもしれないけど、結局つらいときにいっしょにいてあげれないというのは、そういう見方をされてもしょうがないんだと思うな」
「そうあってほしくないけど」
「部長がそうまでして守った第三営業部は、その後の経営縮小で分解されたの。メンバーも希望退職でほとんどが自ら出て行ったわ。担当だった若い人も、直属の係長も、課長も。そして、当時の営業担当の最高責任者、常務の秋田だけが出世した」
「今の副社長?」
「そう。最後の交渉に失敗して帰ってきたやつ。その責任を部下に押し付けて自分だけいい子になったやつ。あんなやつが次期社長候補だなんて、この会社も傾くはずね」
「何でそんなに詳しいんです、浅田さん」
「私、当時営業部にいたから。電話を取って言い返した子はもう退職しちゃったけど。担当だった若い人、結構やり手でね、電話を取った子と付き合ってたんだけど、私もあきらめられなくて彼のことで張り合ってたの。だから、部長の奥さんのこと打算だ、勝ち馬に乗っただとえらそうに批判できないんだけどね」
「大隅係長が伝説の人だとは知らなかったよ」
「だから、あの人のこと悪く言わないでね」
「あの人はみんなに人気があるよ。僕も大隅係長のこと好きだし」
僕がそう言うと浅田さんは夏のひまわりのように、にっこりと笑った。
一一
翌日、三時を過ぎたとき突然、電話が鳴った。みんなの手が一瞬止まった。しかし、すぐに内線電話の音だとわかり、それぞれのことをまたやり始める。
「ハイ、お客様相談室、並木です」
「お疲れ様です。こちら受付の浅田です」
「はい」
「並木さん宛に安西様がお見えです」
「安西…」
浅田志穂さんは声をひそめていった。
「とてもお若い、かわいい方ですよ」
「はあ…」
僕は受話器を置くと受付へと向かった。外は今が一番暑い時間だろう。セミがにぎやかに鳴いている。太陽の光が強烈で、気のせいか景色が黄色がかって見える。安西さん、若い人。こんな僕に若い女の子が何の用だろう。事務関係や営業などが入った、正門に一番近い五階建の大きく長い建物に、裏側の工場からの通用口から入って、受付の裏側のドアを開けた。
「ラッキーセブンですよ」
そう言うと、浅田さんはウィンクまでした。七番というと衝立で仕切られただけの一般の面会室ではなく、中庭が見える個室の立派な応接室だ。何でと思ったが、すぐに浅田さんの好意だと気がついて、ありがとうと言った。これも大隅係長のおかげか。深呼吸を一つしてノックをする。知らない人と会うときはどきどきとする。
「失礼します」
向かいであわてて立ち上がる気配があった。顔をあげると確かに若い女の子が向かいに立っていた。まっすぐに見つめてくる目に見覚えがあった。誰だっけ。どっかで確かに会ってるんだけど。
「あっ、あの、つばめさんの」
「すみません、お仕事中にこんなところまで押しかけてしまって」
この子は確か安西由紀子とつばめが言っていた、僕が始めて店に行ったとき髪を切るように誘ってくれた若い店員だった。黒色の制服を着ているときも一番若く見えたが、私服姿の安西由紀子はより幼く見える。襟が白で薄いブルーでノースリーブの涼しげなワンピースを着ている。いつもは髪を後ろできっちりまとめているが、こうは肩くらいまでの長さの髪を下ろしている。それにふっくらとした顔のほほがほんのりとピンク色で、それでいつもと違ってより幼く見えるのだろう。いつも店にいるときはそばにいるものまで楽しくさせるような明るさがあるのだが、今日は表情が硬い。知らない会社にきて緊張しているためだろうか。ノックがして、浅田さんがアイスコーヒーをグラスに二つ、トレーに乗せて持ってきてくれた。普通の面会客にこんな物が出ることはまずない。紙コップで麦茶が出るか、よくて茶碗に入った番茶だろう。僕は喫茶店で出るようなグラスに入ったアイスコーヒーと、ストローを置いてくれた浅田さんにどうもと頭を下げた。浅田さんはひじでこんこんと突付いてクスリと笑った。
「ええと、今、並木さんは暇ですからゆっくりしていてよいと大隅係長の伝言です」
「あの、暇でもなぃ、いった…」
浅田さんに足を踏まれた。
「このまま直帰してもよいと佐伯室長の許可が降りたといっていました」
「あ、ありがとう」
「では、ご健闘を祈ります」
浅田さんは自衛隊の隊員のように敬礼をしてドアを閉めた。僕は首をゆるゆると振った。
「なんだい、ありゃ。からかってんのかな」
「ごめんなさい。私、普通の会社のこと、何も分からなくて、ここに来ておどおどしてたんです。そうしたら、あの受付のお姉さんがわざわざ出てきてくれて、声をかけてくれていろいろと親切にし相談にのってくれて。あの、仕事が終わるまで待ってますって言ったんですけど、いいから、いいからって」
「うん。今日は美容室、休みなんだよね」
「はい、朝からここに来ると思ったらもうどきどきしちゃって、時間はなかなか過ぎないし。早く話しをしたいのに」
そこまで言うと安西由紀子はアイスコーヒーを一気に半分以上飲んだ。
「あの、話しというのは」
「お客さんにこんなお願いしていいのかどうか分からないんですけど」
そう言うと後の言葉を捜すように黙り込んだ。見ていると、目に急に涙が膨れ上がった。みるみるうちにそれは溢れ出し、後から、後から、ほほを伝って流れ落ちる。
「あ、あの。安西さん、しっかりして」
やがてコン、コンとまたノックの音が聞こえた。由紀子はあわてて涙を拭いた。浅田さんが顔を覗かせた。僕の若草色のリュックを持っている。いつまでも顔を引っ込めようとしないで、興味津々で見ているような感じだ。
「あの、浅田さん」
「並木さん、大隅係長がこれ持ってきてくれたわ。でも、ここでゆっくりお話を聞いてあげたほうがいいようね」
「あ、ありがとう」
「何時になっても私が残っててあげるからいいよ。ごゆっくり」
そう言うとやっと顔を引っ込めた。
「ごめんなさい。わたし」
「さあ、何でも話してみて」
「あの、籠井先生を助けてあげてください」
「何、この前のやくざがまたきたの」
「そうなんです。今月中に立ち退かないとあの店をブルドーザーでぶっ壊すといって」
「そんなこと」
「でも私、ちょっと聞いたんです。ただの地上げじゃないみたいなんです」
「どう言うこと」
由紀子が硬い顔をして一つ一つゆっくりと思い出しながら話し出した。大日本銀行から五千万円の融資を受けて、つばめは店を借りて、改装をほどこしてあそこで美容院を始めた。そのうち一千万はさいたま市の保証での低利融資、さらに一千万は中小企業支援融資などで、残り三千万はつばめの実家を担保にしての銀行からの融資だ。売上げも順調で毎月の返済は滞ったことがない。しかしあるとき周辺の土地をまとめて大きなビルを立てるから立ち退いてくれと、ガラのよくない人がやってきて嫌がらせが始まった。
「建物の持ち主には言ってみたの」
「ええ、向うから店に来ました」
もともとの建物の持ち主も契約解除の説明にきた。地上げ屋に言われて無理やりこさされたらしい。その人の話ではバブル期に建物を担保に株をやり、一時はかなり儲けたらしいがその後の暴落で借りていた金を返せなくなった。銀行で相続税対策にと強引に入らされた変額保険も元本を大きく割ってしまったと愚痴を言った。財務省の指導で銀行は不良債権対策として、現金が必要になった。そこで貸し剥がしをして現金を確保しなければいけなくなったようだと建物の持ち主は言っていた。
「それで銀行は建物を処分して現金を確保しようって言うのか」
「そうなんです。でもひどいのはその銀行も大日本銀行だということ」
「えっ、じゃあ、自分のところで融資をして店を始めさせといて、それも分かった上で」
「そうなんですよ」
「うーん」
しばらく考え込んだ。ものすごい勢いで頭の中をいろんな考えが駆け巡る。経済や経営は専門ではないからよく分からないけど、とにかくなんか変だ、この話し。
「並木さん、大丈夫ですか」
「あっ、ああ」
頭の上から声をかけられて、僕は眠りからさめたように周りをきょろきょろ見回した。またやっちゃったか。
「ええと、うなってた」
「ええ、うーって」
「頭を抱えて」
「はい」
由紀子はクスリと笑った。僕もつられて笑った。
「考え出すと回りが見えなくなっちゃってだめなんだ、僕は。でも、これって、半分そうなるのが分かっててつばめにお金を貸したんだよね。道義的にも許されないけど、なんか変だよね」
「ええ、大日本て聞いてなんだか変だなと。わたし、ばかだし学校も先生に勧められて行き始めたばかりだから、そういうことわからないんですけど、でもちょっと待ってよって」
「分かった。僕が調べてみるよ。つばめには言わないでいいからね。何か分かったら報告に行くから」
「本当ですか。でもこの前みたいに怪我をしたらと思うと、わたし怖くて」
「僕は大丈夫。あれくらいなんでもないよ」
「すごい。うちの男の子なんてびびちゃって下向いたり、それはまだいいほうで、あの人たちが見えると用事があるふりして裏に隠れたりするんですから」
「それは誰でもそうするよ。僕だってそうする」
「でも」
「つばめにはね、借りがあるんだ。あいつのおかげで僕はすごく救われたことがある」
「ねえ、無理しないでください。ごめんなさい。頼みに来てこんなこというのへんですよね。でも、先生が困っているのをなんとかしたくて。」
「ありがとう。僕のことは心配しなくていい。うまく行くかどうか分からないけど、何が起こってこんなことになったのかだけでも知らないと納得できないよね」
気がついたら、中庭は暗くなっていた。時計を見ると七時前だ。
「さあ、今日はもう遅いから」
「あっ、ごめんなさい。遅くまで」
玄関まで送って行った。由紀子はぺこりと頭を下げて小さく手を振り正門のほうに歩いて行った。戻ってくると受付の電気がまだついている。浅田さんが机の向うから乗り出すようなポーズを作って、興味津々という感じを出して笑っていた。
「ありがとう、助かったよ」
「うまく口説けなかったの」
ちょっと悲しそうな表情を作ってそんなことをいう。
「そんなんじゃないってば」
カーッと顔が熱くなり、なんていっていいのか分からなくなる。
「ふふふ、大隅係長がいうように、かわいいね、並木さんて」
「あの、とにかくありがとう」
僕はぺこりと頭を下げて逃げるように外に出た。相手が好意で言ってくれてるのは分かるのだが、どう反応していいのか分からない。きっとここを僕は治さないといけないんだ。しかし、会話って難しい。予期せぬことを言われたとき、ぱっと反応して、適切な言葉を選び、そのときにふさわしい表情で相手に返す。まるでスポーツのようだ。
翌日朝、会社に休みを取ると連絡して、午後から大日本銀行の大宮支店に出向いた。銀行の内部はキャッシュカードでお金を引き出すコーナーのガチャガチャしたイメージとは違い薄暗く静かだ。夏の暑い日に鍾乳洞に入ったようなイメージがふと頭の中をよぎった。外の暑さは微塵も感じさせない。厚いコンクリートと空調で不気味なほど静かだ。自分が緊張しているから余計にそう感じるのかもしれない。受付で自分の名前を告げて、大宮駅前のつばめ美容室の融資担当者に会いたいと伝えた。受付の女性は手際よく内線電話で調べてくれた。受付の女性に案内されて二階の通帳などを作るカウンターがあるフロアーへ行った。内部から案内されて一般の客がいるほうのドアが開くと眩しいくらい明るく感じた。壁で仕切られた応接室に案内されお茶を出されるとすぐに担当者が現れた。
「お待たせしました。大野木です」
三〇台半ばくらいだろうかいかにも勉強ができますという、色白で面長の顔、メタルフレームのめがね。きっちりと七、三に分けねずみ色のセンスのない背広を着ている。顔に力がなく表情に乏しい。何で文系のエリートはこんな陰険なタイプが多いのだろう。同じ勉強をするタイプでも理系の人間は、髪の毛ぼさぼさ、よれよれのGパンに首の回りが伸びたTシャツというイメージなのに。
「籠井さんに融資をしたのはあなたですか」
「会社です」
「あなたが判断をして、融資をしたんでしょ」
「判断は融資審査課がして、最終的には取締役決済です」
「では、あなたは何をしたんです」
「わたしはただの窓口です」
ぬる、ぬるとしてつかみ所がない。
「籠井さんへの融資の件ですが、あそこの建物がすぐに取り壊されるのを承知で融資なさったのでしょう。なぜ」
「取り壊されるのは知りませんでしたよ、当然」
「そんなことはないでしょう。あの建物を担保に融資をしたのもあなた方だ。しかも同じ部署だ。株や変額保険の価値が下がり、返済できないことも知っていた。あなたはあそこに店を出すための融資だと知っていた。先が見えているのになぜ融資をしたんです」
「言いがかりだ。迷惑だ」
「籠井さんは店を閉めさせられる。融資は返せなくなる。五千万のうち二千万は公的機関の保障つきでこれは労せずに取り上げられる。後の三千万。籠井さんの所の実家は今、県が道路を拡張しようという計画のライン上ある。実勢価格の三千万で取り上げて、県に一億で売る」
「な、何を根拠に」
「伊沢興業が買って、差額七千万。あなたのポケットにいくらはいるんだ」
「あなた、失礼だ。わたしは忙しい。あんたの寝言を聞いてる暇はねえんだよ」
やはり当たらずといえど遠からずだろうな、銀行を追い出されながらそう考えた。
大野木を訪ねる前に二つのことを確認していた。昨日会社を出た後、つばめの実家に行ってみた。つばめのうちは僕のうちがあるところから、小学校をはさんで反対側にある。駅からもかなりはなれている。子供のときの倍に広がった交通量の多い大通りにぶつかる。歩道橋を越ると、狭い一方通行の道路が碁盤の目のように走っている住宅地になる。子供のころはこんなに自動車が通らなかったが、今ではよく渋滞する大通りの抜け道として絶えず車が走っている。その住宅地の中につばめの家は建っていた。昔からの家なので少し広い庭と古い建物が建っている。周りを歩いてみたが、昔のまま変化はないようだ。しかし、自分の実家まで戻ってその周囲のことを聞いて驚いた。母親の話では、大通りとつばめの実家から二キロほど向うの環状線を結ぶ道路の拡幅工事が始まるという噂があるらしいことがわかった。その計画にどこが当たっているのかは、もう決まっていて、ルートがあればそれを知ることは簡単だろう。
そして今日、休むと会社に連絡を入れ、朝から用意をして出かけた。大宮から二駅。駅から一〇分も歩くと住宅地に畑が混じり始める。その一角に立花正義の家は建っていた。鉄筋二階建て、白かったであろうその建物は長年の風雨と畑のほこりに薄黒く汚れている。もう疲れたと言っているようだ。前庭は芝生とレンガで仕切られた花壇で芝は伸び、花壇は雑草が目立った。
招き入れられた応接室の向かいに座る初老の男の肩は落ち、少し肥満気味の体も着ている白の開襟シャツにしわが幾筋も入り、空気が抜けかけた風船のようだ。
「立花さん、すぐに取られると分かっていてどうして籠井さんと賃貸契約を結んだんです」
「そんなはずじゃなかったんです。お聞きかどうか、わたしはあそこの土地を担保に株をやり失敗しましてね。いや、銀行が無理やり融資をさせてくれとお金を押し付けてきたんです。そういう時代でした、あの当時」
「それで金が返せなくなった」
「そうなんですが、金利だけ支払えばすぐに返済してくれとは言わないと担当者は言っていました。無理やり融資を押し付けたした手前もあったと思います」
「返済を迫り破産されると不良債権になるからですよ」
いつだったか新聞で読んだことがある。
「「金利も下がってきていますし、あそこの家賃でほとんどは賄えてたんだ」
「ならどうして」
「前の店子が出て行って籠井さんがは入るまで三ヶ月空いた」
「そういうことはよくあるでしょう」
立花の顔が赤くなった。ギリッと奥歯を噛み締めた音が聞こえた。
「そうよくある。次が決まったときに礼金や保証金を遅れた分に当てて、今まではそれで銀行も何も言わなかった」
「でも、今回は違った?」
「あのやろう」
何か込み上げてくるものに必死で蓋をするように口を固く結んだ。再びギリッ、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「支払いはちょっと待ってくれと言ったら、ニコニコ笑いながら早くお願いしますよと言ったんだ」
「それがどうして急に返済を迫られる羽目になったんです」
「わからん」
立花はほっとため息をついた。
「籠井さんから振り込まれたお金を渡そうとしたら、審査部の検査が入っているのでちょっと待ってくれといわれて」
「でも支払うと言ったんですよね」
「言ったよ。それなのに、翌月になって返済が滞っている先は金融庁の検査のさい、不良と判断されるので融資を引き上げろと指示が出ましたと、しらっとした顔で言ってきやがった。あの土地もこの家も全部持っていって、まだその倍の残金を返済してくださいといいやがった」
「ひどい。それは故意に潰すということですね」
「そう思うだろ、誰だって。ちくしょう」
男は握り締めたこぶしで自分の膝をたたいた。
「担当はなんと言う人です」
「大野木」
外に出て駅へと歩き始めた。アスファルトから陽炎が立ちゆらゆらと揺れている。目眩がするような暑さだ。大宮駅に戻り、二階の広場にあるベンチに腰をおろした。財布から名刺を取り出す。通常の名刺よりかなり大きなものだ。この前、つばめの店を出て行く地上げ屋が、胸のポケットに入れていったものだった。右上に金箔で会社のマークが入っている。太陽に稲穂のように見える。伊沢興業。墨書きの行書体で書かれている。伊沢清秋 さらに大きな文字でそう書かれていた。堀の内にあるらしい。地図で確かめると駅をはさんでつばめの店の反対側だ。駅前の道をまっすぐ行けばいい。二階にある広場の端まで歩いて行き上からつばめの店を見ると、暑いのに外にたち元気に広告のビラを配る安西由紀子が見えた。まだ昼を過ぎたばかりで、店が暇なのかもしれない。つばめの店を見たら元気が出た。僕は感情を消して堀の内へ向かって歩き始めた。
会社のある場所はすぐわかった。駅前からまっすぐ伸びている道を、歩いて一〇分ほど行った、交差点の角にある細いビル。下はコンビニエンスストアー。横の狭い通路を通って、郵便受けで一番上の五階であることを確認して暗い階段を上った。五階は部屋が一つしかなく右手に無愛想な鉄の扉がある。天井から斜め下に向かってテレビカメラが下がっている。インターホンもテレビカメラつきだ。無造作にボタンを押した。どきどきもあまりしていない。すでに半分の感情は死んでいる。
「どちらさん」
相手はこっちの顔が見えているのでぞんざいな応答だ。
「並木と申します。お仕事のことでお話しにまいりました」
がちゃ、がちゃっと乱暴に受話器を置く音が聞こえた。カギがはずれる音がして扉が開いた。中からハリネズミが覗いている。
「あっ、てめえは」
「駅前の美容室のことで参りました。伊沢社長さんはいらっしゃいますか」
相手の返事を待たずに中に入った。一二畳ほどの部屋だ。窓際には普通の事務机が四つ並んでいる。机の上に電話がぽつんと二台置かれている。少し離れて黒光りする木できた、高級そうで二人分はありそうなほど大きな机がある。事務机のほうは普通の椅子だが、その大きな机の後ろには恐ろしく背もたれの高い、黒の革張りの椅子がおいてある。壁際に目を向けるとソファーが置いてある。そこにスキンヘッドが座り机に足をのせ、雑誌を開いたままこちらを見上げていた。
「あの、伊沢社長に」
「うるせー」
ハリネズミにいきなり後ろから蹴られ、ソファーの前まで飛ばされた。スキンヘッドに髪の毛をつかまれ、上を向かされる。スキンヘッドは顔をくっつきそうなほど近づけてきた。近くで見ると目がやたらぎょろついていている。
「てめえ、なめてんのか」
「いえ」
「どこまですっとぼけてやがる。社長に何の用がある」
「それはお目にかかってお話しいたします」
「ふざけんなよ。俺たちには話しができねえってか」
ハリネズミは僕の肩口を持ち立たせた。がーんとほほに衝撃がきた。ぶっ倒れるだろうという想像に反して立ったままだった。ハリネズミが再び殴るためにつかんだまま離さなかったのだ。すぐに二回、三回とほほに衝撃が来て火にあぶられているように熱くなった。口の中は鉄の香りとぬるぬるした液体で満たされた。ぱっとつかんでいた肩口を離した。左目の端で足が上がるのが見えた。本能的に後ろに飛びのいた。相手の足はむなしく中を蹴る。
「このやろう」
このまま抵抗なしにやられたら死ぬかもしれない。少しの恐怖が背中をざわつかせた。事務机の向うに走って逃げた。
「待てよ、このやろう」
ハリネズミも追いかけてきたが子供の鬼ごっこのように、事務机をはさんでいるので追いつかない。
「何を騒いでやがる」
突然奥のドアが開いて角刈りの大男が、ものすごい怒鳴り声を上げた。
「あっ、しゃ、社長。すいません」
伊沢はこちらを見て目を細めた。
「ほう、これは、これは、珍しいお客さんで」
「駅前の美容室のことでお願いに参りました」
「ま、そんなところに突っ立ってねえで、こっちの部屋にこいや。おい、イク、冷たい麦茶二つ」
イクとはハリネズミのことらしい。何でこいつにお茶なんかと言う悔しそうな顔で、こっちをねめつけている。
「まあ、まあ、こっちへはいって」
伊沢の満面の笑みで、奥の部屋に迎え入れられた。
「あそこの立ち退きの話となりゃ、お客さんよ。なあ、兄さんよ」
部屋の正面には大きな神棚がある。横の壁に太陽と稲穂のマークが紺色で描かれたちょうちんが一対、掛かっている。右手奥には窓があり大きな事務机。その前に高級そうなソファーのセットがあり、奥の長いほうの椅子に座らされた。伊沢が一人がけの椅子に座り、隣りにスキンヘッドが座った。座って話が途切れると、沈黙が重苦しく息が詰まりそうだ。やがてイクと呼ばれたハリネズミがお盆にグラスを二つ、麦茶を入れて入ってきた。
「それで?籠井さんはやっと立ち退く気になったのか」
「あそこを開店する資金もまだ回収できていません。もう五年、いや、八年待ってもらえませんか」
「おまえ、何、寝言っとんじゃ」
伊沢のニコニコ顔がとたんに一変した。
「籠井さんはあそこを開店するために、実家などを担保にお金を借りているのです。そのお金が回収できなければ、銀行に実家を取られてしまいます」
「そんなことは知ったこっちゃねえ」
「ごちゃ、ごちゃ言ってんじゃねえぞ、こら」
いつのまにか後ろにきていたハリネズミに、後ろから髪の毛をつかまれた。腹に衝撃。息が詰まる。胃が一気にせりあがる。昼からなにも食べていないので中からはなにも出ない。さらに一発、二発、三発。胃液を吐き出して激しくむせた。床に転がったところを、腹、背中と容赦なく蹴られた。
トルルルルル、トルルルルル
電話の受信音。ハリネズミが肩で息しているせいか、スキンヘッドが電話に出た。
「はい」「あっ、ごくろうさんです」「いえ、はい、いらっしゃいます。変わりますか。はい」「社長、おやじさんのところから戸田さんです」
「戸田のアニキが。機嫌悪かったか」
「いえ、ただ呼べと」
伊沢が幾分緊張した面持ちで受話器を取った。スキンヘッドが保留ボタンを解除する。
「アニキ、お久しぶりです。お変わりありませんか」
伊沢の声がやけに高くなっている。
「はい、すみません。ちょっと手間取ってまして」「いえ、自分たちにやらせてください」「今ちょうど、スケの男が訪ねてきてまして」「しめて、何とかうんと言わそうと」「そんな」「分かりました。すぐ伺います」
伊沢は不機嫌に受話器を置いた。
「おい、こいつを連れておやじのところに行くぞ」
「おやじさんのところにですか」
スキンヘッドが驚いたような声をあげる。
「地上げが進まんので銀行から文句がきて、おやじはいらいらしているらしい。戸田のやろう、おめえのところで手に余るようなら、こっちでやろうかと抜かしやがった」
「そりゃ、ひでえ。今まで手を回して、やっと収穫というときに」
「そうはさせるかってんだ。おい、車」
「はい」
ハリネズミが飛び出して行った。スキンヘッドが僕の脇をつかんで引っ張った。おやじのところってどこだ。このまま帰れなくなるんじゃないだろうか。逃げなくちゃっと思うのだが、体に力が入らない。引きずられているときに若草色のリュックが目の端を通り過ぎた。
「ぼくのかばん」
リュックの肩ひもをつかんだ。
「ほう」
伊沢は目を細めてしばらくこちらを見つめていた。
「おめえ、どっかで会ったことあると持ってたんだ。あんときのやつか」
「何の話しですか」
「あの焼き鳥屋の前で肩がぶつかったときのやつだろう、おめえ。ここが俺たちの事務所と知って乗り込んできたんか、おまえ。あの時も普通と違うと思ってたが、本当のばかか、それとも自殺志願者か」
「あっ、てめえ、あのときの」
スキンヘッドも思い出したらしかった。あの時は椿山さんに助けられた。ハリネズミとスキンヘッドは完全に遊ばれていた。
「あのときのやつは一緒じゃねえのか」
伊沢の目がそのときだけ一瞬和んだ気がした。
「あの人は関係ありません」
「まあいいや。いくぞ」
伊沢が再び厳しい顔に戻りあごを降って先に歩き出す。椿山さんはやっぱりすごいな、こんな人の心の中にも何か残している。スキンヘッドにほとんど抱えられるようにして下に降りながら、よく回転しなくなった頭で漠然とそんなことを考えた。歩道をはさんで玄関の前に黒のベンツが止まっていて、ハリネズミと二人で車に押し込まれた。大きな声で助けを呼べばコンビニにいる人や、歩道を歩く人が気付いてくれるかもしれない。そう気が付いたときにはすでにドアが閉まって車が動き出していた。
車は大宮駅の反対側に出て、しばらく走った商店街のはずれ、三階建の黒いビルの前でとまった。ハリネズミが運転席を降りてインターフォンに向かって頭を下げている。全体的に黒っぽいタイルを貼っているビルで、異様に威圧感がある。よく見ると窓は一番上の階にしかない。石垣の高い城のような建物だ。いたるところに照明装置とセットになっているビデオカメラが、下を通るものを睥睨するように無遠慮に上から下を見下ろしている。ビルの中段には大きな一枚板に金色で太陽に稲穂のマークと平沼興業の黒の文字が浮かび上がっている。その文字は両側から照明で照らされていた。やがてハリネズミが戻ってきた。ビル正面の城門のように重そうなシャッターが自動で開き、そこに車を入れる。車は地下に降りていき、駐車スペースの一角に慎重に止めた。周りは車の展示室かと思われるほどいろいろな外国の車が置かれている。スキンヘッドとハリネズミに両側を抱えられ薄暗いエレベーターの扉の前に立つ。ハリネズミがインターフォンを押すと「ご苦労様です」という声とともにエレベーターが下りてきて扉が開いた。こちらからは何も操作をしない。エレベーターの中にもテレビカメラがついている。それを中から確認して向うで操作をしているようだ。不気味な音とともにふわりと浮かび上がる感覚があり永遠に動き続けてくれという願いもむなしくごとんと言う音とともに止まった。二階に止まったようだ。ドアが開くと、きちんとスーツを着た坊主頭が二人、扉の前で頭を下げていた。
「ご苦労様です」
相当大きな声だ。二人とも顔を見たらまだ高校生くらいの幼い顔をしている。エレベーターを出たところが玄関になっていた。ベージュの落ちついた絨毯をしいたそのスペースは殺風景だ。三方向にドアがついている。
「社長、わしらはここで」
そう言うとスキンヘッドとハリネズミは一つの扉を開けた。下に向かう階段のようだ。
「こちらです」
坊主頭の一人が先に立って反対側のドアを開けた。上に続く階段。坊主頭に先導されて伊沢と二人でその階段を登った。
「あの人たちは何でこないんです」
「あいつらは直接この部屋には入れん。ここに入れるのは直系の者だけだ」
よく意味が分からなかったが、いろいろと厳しいしきたりがあるのだろう。このような組織は、そういうしきたりで縛ることによって内部を統制しないと崩壊してしまう。そんなことをテレビで言っていたような気がする。こんな緊迫した場面でよくこんなことを思い出すものだな、もうほとんど回転してない頭でぼんやりとそんなことを考えた。粘度の高い液体の中を歩いているようで、体が重くて足がなかなか前へと進まない。登った先に結構広い踊り場がある。そこにもカメラつきのインターフォンがあり、鉄の重そうな扉がついている。
「お連れしました」
坊主頭がそう言うと内側でがちゃりと音がして重そうな扉がいた。中に入ると一二畳くらいの応接スペース。赤ら顔のよく太った男が立っていた。この男も髪の毛を角刈りにしている。ここはみんな短い髪型にする決まりがあるのだろうか。
「ご無沙汰しております」
伊沢は最敬礼で状態を九〇度に折って挨拶をした。
「よう、久しぶりだなあ、伊沢よ」
「はあ、何かと忙しく動いていまして、なかなか顔を出す時間が取れなくて申し訳ありません」
「おやじさんがお待ちかねだぜい」
「はい」
伊沢に促されて隣の部屋に続く廊下に出た。恐怖のためか吐き気がしてきた。胃のあたりが重く、むかむかする。頭の中のキーンという音が大きくなり、手と足の指先がしびれているような感じがする。突き当りのドアの前で立ち止まった。部屋の向うから何人かの男たちの笑い声が漏れてきた。伊沢がノックをする。
「おう」
中から大きな声が聞こえて、伊沢はドアを開けて中に入る。かなり広いスペース。二〇畳以上あるだろう。正面に神棚。両脇には伊沢の事務所にあったのと同じように、太陽と稲穂のマークの入ったちょうちんが架けてある。黒色を一番内側に種々の色が対で並んでいる。一番外側に井沢の事務所でみた紫紺のちょうちんがあった。中は臙脂の毛足の長い絨毯が敷き詰めてある。濃紺で革の、かなり大きな応接セットが部屋の半分を占めている。ガラスの机を囲むように一四、五人ほどは座れそうなソファーがコの字形に並んでいる。
そのソファーの向こう、一番奥には体の小さな白髪の男が座っている。ベージュの背広に薄いブルーのワイシャツ、臙脂のネクタイをきちんと締めている。一見リタイヤしたおじいちゃんが昔の習慣で、いまでも背広を着ているという感じだ。ソファーの両側には五人の男が座っている。こちらはそれぞれくせのありそうな壮年の男達だった。
「おやじさん、ご無沙汰しており申し分けありません」
伊沢が先ほどよりももっと腰を折り小さくなって挨拶をした。後ろからいきなり頭をつかまれ下げさせられた。「組長の前だぜい。挨拶せんかい」押し殺した声が後ろから聞こえた。後ろに短い足が見えている。さっきの赤ら顔だろう。
「よう、伊沢か」
頭の向うで声がする。押さえられていた手がなくなったので頭を上げた。伊沢も頭を上げている。一番奥の一人がけのソファーに座った初老の小さな男は、機嫌よさそうに穏やかに笑っている。
「伊沢よ、ずいぶん手間取っているじゃねえか」
長いソファーに座っている紺色の背広に濃い青色のシャツ、紺色のネクタイを締めたかっちりとした大男が野太い声を出す。
「申し訳ありません」
「女だからわたしに任せてくださいって、てめえでいったよな」
向かいのほほかたるむくらい太っている色白のめがねが不機嫌そうに言う。
「まあ、いいじゃねえか。話を聞いてやれや」
組長と呼ばれた小さな老人は穏やかで柔らかな品がいい話し方をする。
「おやじさんはこいつの甘すぎますよ」
一番手前ののっぽはおもねるようにそう言った。
「で、めどは立ったのか」
「はあ、それが居座られちまってまして」
「たたき出しやがれ」
紺色の背広が凶暴な声を出す。
「それが、相手が警察に相談して、ちょっと強引にはできなくなっているんです。あまり無理に行くと、こちらに迷惑がかかるかもしれないんで」
「それで、後ろの兄ちゃんか、その女のひもは」
「いや、ひもと言うわけではないようですが、知り合いのようです」
「じゃ、そいつに説得してもらったらいい」
「あの、組長さん……」
いきなり横腹に衝撃がきた。体が宙を飛んで柔らかな絨毯の上にどさっと落ちた。うーっとうなり声が自然に出た。後ろの赤ら顔に蹴り倒されたようだ。体を折って、痛みを抱え込む。
「勝手にしゃべるんじゃねえぜい」
また頭の上から押し殺した声がした。
「まあ、まあ、戸田よ。それで、あんたなんて言う名前だ。わたしは平沼だ」
横にあったものにつかまって何とか立ち上がる。
「はい、わたしは並木と申します」
「あんた、素人さんだろ。どこの会社」
「東京製菓です」
「東京… 」
少し言葉が途切れた。
「それであの美容室とはどう言う関係なんだい」
にこやかで、つい釣り込まれそうな親しみ深い顔。
「はい、籠井さんとは幼馴染で」
「籠井ってのは美容室の経営者の女でして」
「そう、あんた、籠井さんにほれてるんだ」
顔がカーッと熱くなってうつむいた。
「そんなんじゃない。僕はあの人に借りがあるんだ」
「ほう、命に代えなきゃならん借りかね」
平沼の突然凍えそうな冷たい声。あわてて顔をあげると、目を細めて鋭い目でこちらを見つめいた。
「スケに電話しろ、伊沢。今すぐに立ち退き合意書に判子をもらえないとこいつ、東京湾に沈むぞと」
「は、はい」
伊沢は携帯電話を懐から取り出した。僕は突然足に震えがきた。ぶるぶる震えて立っていられないほどだ。横にあるものにつかまって崩れそうになる膝を、かろうじて手で支えた。しかし、手にもほとんど力が入らない。こんなことでひるんでたまるか。あのころこんなひどい目に毎日あったんだ。畜生、どいつもこいつも人を犬か猫のように、蹴飛ばして、殴り倒していびりやがって。そう思うと突然腹の底からえもいわれぬ悲しみが湧きあがってきた。「ウォーーー」地鳴りのような唸り声を遠くで聞いていた。ギョッとした顔が一斉にこちらに向けられた。
「電話するんじゃねえ。このやろう。殺せ、死んでやる」
自分の声とは思えないけもののような声だった。気がついたら銀色の棒を手に持っていた。今までつかまっていたハンガーや帽子をかけておくために置いてあるものだった。
「いざわー、ふざけるなよー」
必死で振り回しながら伊沢のほうへ向かった。思わず手をあげて避けようとした伊沢の手を棒の先が薙いだ。携帯電話が窓のほうに吹っ飛んだ。もう目の前が真っ暗だった。何をやっているのかどこにいるのか分からないまま、夢中でほえ、振り回した。何回か手ごたえがあったが、どうなっているのか分からなかった。その興奮は突然の後頭部への衝撃で収まった。続いて横腹。息ができない。つかまれたと持ったら体が一回転していた。上に天井が見た。すぐにつかみ起こされた。このままでは殺される。椿山さんの顔が一瞬浮かび、どこでもいいからひっ捕まえて、くっついてればいいんだと言っていた穏やかな声が耳の奥に聞こえた気がした。つかまれた腕を持ち体ごとぶつかって行った。意表をつかれた戸田がよろける。腕を体に回そうとしたがだめだった。肥満した体のため腕が回せない。投げ飛ばされそうになった瞬間、ちょうど手のところに相手のベルトか触れた。夢中でそれに指を通しきつく握る。足を絡ませ投げられるのを防いだ。いいぞ、その調子だ、絶対に放すんじゃないぞ。椿山さんの声に励まされる。相手は振り解こうとして振り回す。体は宙に浮くが夢中でしがみついていた。相手は必死に引き離そうとしていたようだが、すぐに振り回す力が弱くなった。
「てめえ……」
息があがって戸田の声が続かないのが分かった。振り解くのをあきらめて殴ろうとするが、あまりに近いためか、それほど痛くない。後ろから引き剥がそうと引っ張られた。チラッと横目で見ると顔面血だらけの伊沢が、目をむき地獄の底の餓鬼そのもののように、必死の形相で後ろから引っ張っている。離すもんか、絶対に。やられ続けた人生とも今日でおさらばだ。うじむしでも、ばかでも、ナメクジでもいい、最後に意地を見せてやる。戸田の息はすごい速さで胸が波打っている。やがて胸を抑え、膝をついて崩れ落ちた。伊沢も引きずられてくる。ベルトを離すと同時に思い切り後ろ向きに走った。伊沢がバランスを崩して尻もちをついた。その腕に自分の体を預けた。勢いが余って後ろに飛ばされた。再び立ち上がって伊沢の膝にしがみつくと力の限り噛み付いた。
「ぐわー」
伊沢が声をあげた。やがて鉄の香りとともに口の周りにぬるぬるした物が溢れ出す。どすん。突然わき腹を蹴られて口が開いた。続けて三発。たまらず転がった。
「それくらいにしといてやれや」
紺の背広が見下ろしていた。ぴかぴかに磨き上げられたとがった靴の先が顔面に迫ってくる。必死で手を顔の前にもっていったが、体ごと飛ばされた。服をつかまれ引き起こさる。背負い投げのように派手に投げられ、続いてまた蹴りがきた。手で防御してもしきれるものではない。最後にあごにまともにくらって後ろに吹っ飛んだ。どさっと背中に何か当たったのは分かったがそのまま崩れ落ちた。
「ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」
薄れる意識の中、頭の上で何か騒いでいる。
「あきちゃん、僕あきちゃん。あそうぼう、あそうぼう」
うっすら開けた目に白いオウムのコバタンがはねをばたばたさせてしゃべっている。
「あきちゃん…」
「なみちゃん、遊ぼう、なみちゃん遊ぼう」
「このやろう、余裕ぶっこいてんじゃねえ」
紺色のの背広が迫ってきた。
「やめんか!」
部屋にものすごい声が響いた。背広が固まった。
「なみちゃん、遊ぼう。なみちゃん、遊ぼう」
部屋の中にオウムの声だけが異様に大きく聞こえている。僕は朦朧とした意識の中でコバタンににじり寄った。ヨロヨロと立ち上がっる。コバタンの立派な薄黄色の冠の羽根。胸の羽根もきれいに生えそろっていて、とても健康そうに丸い体なっている。
「あきちゃん、よかったねえ、元気になって。よかった、よかった」
ケージの扉を開けて手につかまらませる。階段をやってやるといつまでもあきないで足を入れ替え続ける。
「エレベーターだよ」
手を上下させると羽を小さくばたばたさせて喜んでいる。自然に涙が流れてくる。ほほが温かい。僕は立っているのがつらくて後ろの壁にもたれかかり、足を前に投げ出して座り込んだ。あきちゃんの首筋をなぜる。コバタンは首を思い切り伸ばして毛を逆立てて、気持ちよそうに目を細める。お腹、羽、背中とマッサージをするようになぜてやる。
「おい、並木君とかいったな」
声がしたほうを目だけで見上げた。もう顔を動かすのも面倒なくらい疲れていた。
「あんたこのアキコを知ってるのか」
平沼組長の目からは先ほどの暗く冷たい光が消えていた。
「以前、クレームの電話をいただいて、姉川さんのマンションに行ったとき、この子がいたんです」
「そういや、東京製菓と言ってたな、あんた」
「ええ。そのとき、胸の毛が抜けたこの子を見て、ストレスだなと思いました。それで、姉川さんに遊び方と、地鳴きをしないように言葉で話す習慣とその喜びをこのオウムに教えてやったらいいですと言ったんです」
「あいつ、そのこと、喜んでたよ。アキコが元気になっただけじゃなく、自分になついて、自分も毎日が楽しくなったと」
「それは姉川さんに根気があったからでしょう。教えたからと言ってその通りやるのは、大変な根気がいりますから」
「あんたの言い方をすれば、わしはあんたには借りがあるんだな」
「僕もこの子が幸せになってくれて嬉しいので、それは当てはまりませんよ」
あきちゃんの首筋を再びなぜながらそう言った。
「まあいいやな。あんたの言い分を聞いてやろう。話しみな。ただしわしが納得できなければ美容室の立ち退きはしてもらうぞ」
「籠井さんは最初から理不尽なことは言ってませんよ。それを納得しないのはあなたたちが、世間の常識からずれているからでしょう」
「おい、言葉を慎め」
のっぽが陰湿な目を吊り上げて言った。
「いいんだ。言わせてやれ」
「あそこの店を開くとき、五千万の資金を大日本銀行の融資課の大野木と言う人を通して借りました」
「ほう。いまどき都市銀行がよく貸してくれたな」
「二千万円は県や公共機関の保証がついていますし、三千万は籠井さんの実家の担保がありましたから」
「まあ、そうだろうな」
「今度、あそこの立ち退きを求められる原因となった、美容院の入居しているあの建物の持ち主も、同じ大日本銀行から融資を受けていて、それが返せなくなったのです」
平沼はニコチン取りパイプにタバコを差し込んだ。すぐに横から紺色背広が火を差し出す。吸い付け一服ふかしてから目で先を促す。
「その借金はバブルのときのもので、もう返せなくなっているということは銀行でも分かっていたんです。同じ部署にいて、大野木がその物件を見て知らなかったと言うことはないでしょう。知っていて五千万の融資をしたんです」
「その女を無一文で家から追い出す以外、何の得がある、銀行に」
「籠井さんの実家がある町の道路拡幅工事がからんでいるんです」
そこからは自分で調べたり考えたりして、大野木を問い詰めたことを話した。
「ほう、おもしろい話しじゃねえか。えっ伊沢よ」
「いや、その件は報告しようと思ってたんですが」
「地ぃ上げるのを急いでるんは分かってるよなあ、伊沢」
「ええ、それは」
「市の条例が変わりそうなんだろ、あそこの場所。今の場所に新しく五階建て以上のビルを建てるときは、商店街に協力金を支払うことや、防火のために隣から一メートル以上の空きスペースを作って建てることということを市議会で検討しているんだよな」
白ブタが訳知り顔でうなずく。
「その条例が通っちまうとえらい損だ。だから急いでんじゃねえのかよ」
のっぽの陰険な声。
「で、伊沢とその大野木ってやろうが組んで女経営者の実家、取り上げて小遣いかせごうってか。しかも、本部を通さず」
紺背広がドスの利いた暗い声で言った。
「滅相もありません。おやじさん、信じてください。私はこの金、今度の九月までにかせいで、新しい車をおやじさんの誕生日に間に合うように買おうと思ってたんですよ」
「並木さんよ、それじゃ、そっちも立ち退きもできんわな。借金も残るし、騙し取られるって分かってて」
「経営は順調なんです。せめて借金がなくなるまで待ってやってくれって言ったんですが」
「それは無理な相談だな」
凍えそうな冷たい声で平沼は即座に否定した。
「しかし、ひでえ銀行だな。ちょっとお灸を据えてやるかい。おい、大日本の天野に電話」
ちょっと口調を変えてそう言うと、のっぽがさっと立ち上がってこちらに近づいてきた。入ったときは気がつかなかったが、こっちの窓際には巨大な執務机があり、そのとなりにコバタンの入ったケージが置かれているのだ。
「天野取締役が出られます」
のっぽは電話の子機を渡す。
「ああ、平沼です。お宅の融資課の大野木というのがうちの伊沢に知恵入れて、あくどい小遣い稼ぎをしているらしいですな」「いや、ことと場合によっちゃ酒井常務か副頭取にでも相談しようかと思ったんだが、まあ、先にあんたに話すのが筋だろうと思ってな」「なあに、世の中、正直に生きてるもんが報われんようじゃ、真っ暗闇ですよ。はっはは」「ああ、後はうちの伊沢とあんたとで今日にも打ち合わせをして、早急に解決してくれればいい」「事情はあんたも知っての通りで、こっちも時間がないんだ。長引くような副頭取に直で話しさせてもらうよ。あんたも次の移動で出世するんでしょう。こんなところで躓いてる場合じゃないわな」「ああ、よろしくたのむ」
受話器をそばで立って待っていたのっぽに渡した。
「伊沢」
「はい」
「天野に話してな、地上げの手数料にあと六千万上乗せするようにしろ」
「それじゃ、向うの足が出ちまいます。うんといわんで…」
「ばかやろう」
平沼の表情が一変した。
「てめえ、一回東京湾に沈むか。どうなんだ、おい」
「はい、上乗せさせるようにします」
「そんで、その五千万で美容室の融資の返済をしろ。それから希望があれば同じ家賃で新しいビルにもう一度店を開く権利もつけさせろ」
「はい」
「並木さんよ、それでいいかな。あとはあんたが女を説得してくれよ。こっちにも時間をかけれねえ事情があるんだ」
「分かりました。籠井さんに話をします」
「伊沢、お送りしろ」
僕も伊沢も戸田もヨロヨロしながら下の階に降りた。緊張が解けて痛みも出るし、体に力が入らない。誰もまともに歩いていなかった。スキンヘッドとハリネズミが目を見張った。それはそうだろう。僕だけでなく伊沢も顔面血だるま。戸田も顔が紙のように白くなっていて、玄関にどさっと座り込んだのだから。高校生のように見える坊主頭があわてて救急セットと濡れタオルを持ってくる。タオルで丁寧に顔を拭いてから消毒液を吹きかけ、脱脂綿で拭いてもらった。さすがに手馴れているなどと考えるとおかしくなった。そのときめがねがなくなっているのに気がついた。組み付いたか殴られたときにどこかに吹っ飛んだのかもしれない。せっかくつばめが選んでくれためがねなのにとちょっと残念だった。手渡された冷たい麦茶を一気に飲み干した。あまりにあわてて飲んだのでむせ返った。せきをすると傷口が痛い。気がつくと伊沢も戸田も同じようにむせていた。地下に降り、大宮駅のつばめ美容室の前まで黒いベンツで送られた。
一二
車を降りたときにはすっかり日が落ちて暗くなっていた。店の前には若い子が今日は立っていない。お客が店にいっぱい入っているのだろう。ウィンドー越しに明るい店内を見るとかなりの人が待っていて、店は混んでいた。つばめを始め三人が客の後ろに立って髪を切っている。安西由紀子は客の周りの髪の毛をT字ほうきで集めている。こちらに向いたとき由紀子と目があった。ほうきを使う風にして入り口から出てきた。
「あっ」
由紀子は口を手で押さえた。目は見る見るうちに涙が膨れ上がった。
「大丈夫だよ。お客さん、いっぱいだね」
「わたしのせいで、そんな顔になって」
「たいしたことないでしょう。ふっふふ。もっとも自分ではどんな顔しているのか、わからないんだけどね」
由紀子が何か言っているような気がするが声が小さくてよく聞こえない。今日は少し暗くて回りがよく見えない。疲れた。立っているのもしんどい。
「ちょっと疲れたよ。なんだか眠いんだ」
どれくらい眠ったろう。うっすらとあけた目に、薄暗い天井が見えた。
「まっくん、気がついたの」
「ああ、つばめか。ここはどこ」
「病院よ。店の前で倒れて、救急車できたの」
ああ、なんだか目の前が暗くなったな、そう言えば。
「つばめ、店に迷惑かけちゃったな。忙しいんだろう。早く帰れよ」
「もうとっくに閉店の時間よ。大丈夫だからもう少し寝て」
「そうか」
うまく頭が回らない。いつのまにかまた眠りに引き込まれた。
回りがやけに明るい。まぶしいなあ。目を細めて目を動かした。
「目がさめたの」
「ああ」
一人暮らしが長いので、起きたときに誰かに声をかけられるのが不思議な感じだ。でも悪くない。
「今、お医者さんを呼ぶね」
そう言うとつばめは病室を出て行った。やがて白衣を着た、僕たちと同じくらいの若い女の先生がやってきた。
「どうですか」
僕は起き上がろうとして顔をしかめた。胸が、首が、腕がものすごい痛みでうっと息が詰まったまま体は動かなかった。
「横になっていてくださいよ。あばら骨が二本折れています。腕はものすごい内出血、首は捻挫かもしれませんね。外の痛さ以外、お腹とか、頭の中とかどこか異常はありませんか。後で脳波などは調べますけど」
「ええ、大丈夫みたいです。ちょっとお腹、すきました」
「まあ、頑丈な体ですこと。ふっふっふ。ところで」
先生の表情が急に厳しくなった。
「はい」
「これはどう言う怪我ですか。道で転んだなんていいませんよね」
「はあ」
「警察に連絡しますか」
「連絡してください」
横でつばめがこらえきれなくなって涙を流しながらそう言った。
「いや、いいんです。僕は階段から落ちました。ぼうっとしてました」
「泣き寝入りしてたら、またつけ込まれますよ」
「そうよ、まっくん。もういいの。店、閉めるわ。実家には悪いけど、また一からやり直すから。伊沢興業でしょ。まっくんごめんね。ごめんね。由紀ちゃんから聞いてびっくりしちゃって」
つばめは布団に顔を付けて、声をあげて泣いた。
「先生、僕は大丈夫。脅されてなんかいません。ちょっと二人で話させてくれませんか」
「いいわ。でも、並木さん無理してはだめですよ」
「ありがとう、先生」
先生が部屋を出て行ってもしばらくつばめは泣き続けた。僕もそのままにしておいた。ちょっとつばめに落ちついてもらいたかったから。やがてつばめは泣き止み、顔をあげた。
「めがねをなくしちゃったよ。せっかくつばめに選んでもらったのに」
つばめの気持ちをちょっとでも楽にしようと思って微笑もうとしたのに、顔が痛くてうまく笑えなかった。
「安西さんが会社に来たんだ。火曜の夕方」
「ええ、聞いたわ。何でまっくんに頼みに行ったのって叱ったら、うちの男の子は頼りないけど、あの人は勇気がありそうに見えたからだって」
「笑っちゃうよね。いじめられっ子でつばめに助けてもらってたなんて知ったら、どんな顔するだろうね」
「あの子、まっくんを尊敬しているような目をしていた」
「ふふふ、見る目ないよね。男に泣かされるタイプだな」
「冗談言ってる場合じゃないでしょ」
「あはは、体が痛い。あの日さ、会社の来客室であの子からの話を聞いて、銀行のやろうとしていることに気がついたんだ」
僕が考えたことを話して聞かせた。硬い表情で聞いていた。
「そうなんだ。はじめからそのつもりだったんだ」
「銀行で大野木ってやつに話をしてあいつの表情を見て、そう確信した」
「かっこ悪いガリ勉タイプでしょ。今度、食事に行きませんかとか言うんだよね。気持ち悪いよ、あいつ」
「それで伊沢のところに行ったんだよ」
「そんな話ししたら殺されるよ。まっくん」
それから連れて行かれて人質に取られて、つばめに迷惑をかけるところだったことなどを話した。心配するといけないので武勇伝は少し省略した。
「それでね、前に仕事のとき会った白オウムがいるんだけど、その子が僕のことを覚えていたんだよ」
以前クレームで姉川さんのマンションを訪れたときのことを話した。
「そんなことってあるの」
「コバタンて言う種類のオウムであきちゃんて言う名前なんだけど、結構大きくて四〇センチくらいはあるんじゃないかな。オウムでも大型の物は五〇年くら生きるし、人間の言葉を覚えることでもわかるように、結構、頭もいいんだよ」
「それにしても、まっくんを覚えていたなんて」
「犬や猫も家族だけでなく道で頭をなぜてくれる人や、おやつをくれる人を覚えているだろう。オウムも犬、猫くらいの頭脳は持っているらしいから」
「へえ、すごいんだ」
それかがきっかけで話を聴いてもらえて、銀行の上の人と話をして、平沼が譲歩した条件をつばめに話した。
「五千万は銀行から地上げの手数料として伊沢の入り、その金をつばめ美容室に伊沢興業が渡す。それで銀行に返済することと、二年後の新しいビルに、今と同じ条件で店を開くことができるようにしてくれると言った。ただし、二階の寮にしている部分は無理だと言っていたよ」
一千万は平沼興業には入るらしいがそのことは言わなかった。つばめの目にまた涙があふれた。何も言わず僕の手を握って何度もうなずいている。
「ああっ!あいたたたた」
自分で大きな声を出して体中に響いた。
「何よ、いきなり」
「ちーちゃんと太郎左衛門たち」
「あっはっは、何、それ」
赤くはれた目でつばめは笑った。やはりこの子は笑顔のほうがいい。
「いや、こんなところでのんびり寝てる場合じゃないんだよ。僕、文鳥と熱帯魚を飼っているんだけど、ご飯あげなきゃ」
「なあだ。それならこれからまっくんのアパートに行ってあげとくわ。入院の用意もしてくる」
実験道具や参考書籍などで、散らかった部屋の中を見られるのはちょっと恥ずかしかったが、そうも言ってられない。世話の仕方を教えて、やってもらうことにした。つばめは昼食の配膳が始まると帰って行った。僕のアパートによってから店に出ると言っていた。入れ替わりにナースが顔を出し、ガーゼを変えてくれた。
「お腹すいちゃったよ」
「残念でした。並木さんは今日一日は点滴です」
「ええ、お願いしますよ。何かください」
「ははは、おとなしくしてないと伊東先生に大きな注射されちゃいますよ」
その若いナースはまったく相手にせずに、さっさと出て行ってしまった。
僕は結局その週は会社を休んで病院で過ごした。肋骨の骨折は上からコルセットをはめる以外やりようがないし、最初の日こそ痛み止めを点滴に混ぜもらっていたが、二日目には点滴ははずされ、普通にご飯も出された。体中、痛いと思っていた痛みは、腕の打ち身と首の軽い捻挫以外、全身の筋肉痛と分かって思わず笑ってしまった。ほとんど運動してない上に、絶体絶命という場面に遭遇して、限界以上の筋力を振り絞ってしがみついたからだ。いろいろな姿勢で力を入れてみて、筋肉痛の場所を確認して、そう納得した。全身の筋肉痛がこんなにつらいものだとは思わなかった。つばめに笑わされると腹が痛い。起き上がると肩から背中が痛い。立ち上がると太もももふくらはぎも痛い。それでも筋肉痛は土曜日には治まり、普通に動けるようになった。つばめは店に出る前と店が終わった後必ず顔を見せてくれた。疲れているからいいよと言っても平気だからとかしか言わない。文鳥や熱帯魚の世話もしてくれている。日曜日は手続きができないと言われて、土曜日の夕方ご飯を食べてから退院した。退院するときもつばめは店を抜けてきてくれた。女医さんにお礼を言ってから、タクシーに乗りアパートに向かった。入院しているときは快適だったが、外はむっとするような、湿度と昼の熱気がまだ街の中にこもったままだった。
「まっくん、伊沢が大野木と一緒に昨日来たの」
「雁首そろえて」
「そう、伊沢なんてまるでおとなしくなっちゃって。大野木の顔はどす黒くて、目が死んだ魚のようだったよ」
「そりゃ、そうだろう。どっちも今度のことで上に悪事がばれちゃったからね。特に大野木はお堅い銀行のサラリーマンだから、もうこれから先の道は閉ざされたろうね」
「経験者は語るだね」
「アハハ、つばめも案外きついね」
「うふふ、ごめん」
肩をすくめてぺろりと舌を出した。
「小切手を伊沢があたしに渡して、それを大野木に渡したの。大野木は融資契約書と実家の抵当権解除の謄本を渡してくれた。もちろん今まで返済に当てたお金も、全部、返してくれたよ」
「一件落着だね。二年我慢して、またあそこで始めればいい。今度はきれいなビルになっているから、余計いい店になるよ」
つばめはそっと手を握ってくれた。
「ありがとうね。まっくんのおかげだよ」
「安西さんのおかげでもあるよ。あの子、僕の会社に来るの、結構、勇気がいったと思うんだ。いい従業員に恵まれたよね。それもつばめの人柄のせいだろうけど」
つばめは首をゆるゆると振り続ける。
「運がいいって分かってるよ、あたし。みんなに助けられて。従業員には今回の経緯を話して、二年の間、他のところで働いてもらって、もしよかったら新しい店するときに帰って来てって言ったわ。由紀ちゃんはまだ資格持ってないから、あたしがいた店で雇ってもらうことにした」
「つばめは」
「あたしは、これから探すよ。店やってみて、短い間だったけど、まだ勉強不足だなと思ったところが多かったの。そういう部分をも一度勉強できる絶好の機会だから」
つばめは少し上をむいて目を輝かせながらそう言った。
「すごいね、つばめは」
涙が出そうになった。つばめは常に上を向いて前向きで明るい。そうだ、あの時。小さい『っ』を言うときにちょっと口から出てくる舌の動きを見ながら、突然頭に昔の光景が、一枚の絵のように浮かんだ。つばめと話をし始めるきっかけになったあの遠足。あのとき、遠足なのに一人ぼっちだと言うことを気にする様子もなく、透き通ったような屈託のない顔を上げて一人で遠くの景色を見つめていた。ちょうど今のように。
一三
月曜日、バンソウコと、包帯とコルセットで覆われていてちょっときまりが悪かったが、会社に早く出社して、部屋の掃除をした。相変わらず一番は佐伯室長だ。
「長い間すいませんでした」
「う、またがんばってくれよ」
僕の顔を見てちょっと驚いたようだったがそう言っただけだ。
「おはようございます。また並木さんは悪い遊びをしてきましたね」
安達チーフはそう言って笑った。チーフがこんな冗談を言うなんて久しぶりだ。次々にみんな出社してきた。
「おはよう」
椿山さんは穏やかな笑顔で挨拶してくれた。
「なーみちゃん、志穂リンから聞いたよ~ん。あんまり若い子泣かしたら俺みたいに飛ばされちゃうよ~ん」
「大隅さん。どこに飛ばされるんですか、これ以上」
菅野さんがまぜっかえす。
「そりゃ、資料室とか、社史編集室とか」
大場さんが悪乗りする。なぜか、僕のバンソウコだらけの顔のことも、包帯をした腕のことも、首やわき腹のコルセットのことも聞いてこない。微妙な薄い膜があるようでもどかしい。僕に気を使ってくれているのだろうか。
「うぉっほん。並木君、ちょっと」
「はい」
佐伯室長の前に立った。なんだか少し緊張する。この空気はなんなんだろう。
「朝いちで研究開発室へ行ってくれ」
「例のせんべいの件ですか」
「う、まあ、そうだが」
「並木さん、胸を張って行ってきなさい」
「そうだ、がんばって来いよ」
「なーみちゃん、女には気をつけろよ。出世に響くから」
みんな口々に言葉をかけてくれる。
「リュック忘れてるぞ」
最後に椿山さんにリュックを持たされて部屋を出た。なんだか釈然としない。セミの声を聞きながら木々が茂る小道を歩いた。三棟ある工場棟の一番正門に近い棟に向かった。久しぶりの研究開発室。六年通って通い慣れているはずの扉の前で、思いがけず緊張して、心臓がどきどきした。深呼吸を三回して思い切って扉を開いた。
「失礼します。おはようございます」
元気よく挨拶をして笑顔を作って部屋に入った。
「やあ、並木君、元気そうだなあ」
末永室長が満面の笑みで迎えてくれた。こんな格好で元気そうだはないだろうとちょっとおかしかった。いつか、お客様相談室行きを言い渡された会議室に招き入れられた。まだ三ヶ月ほどしか経ってないのに、ずいぶん昔のことのように思える。最近は暑いねとか、昨日、工場長とゴルフに行ってきてねと言う雑談をしている間に、研究室の女性がグラス入りのアイスコーヒーを持ってきた。研究室の女性がこんなことをするのも、今まで見たことがない。
「ところで、せんべいを見せてもらったよ」
「味は、いけると思うんですが。何しろかき餅でやったものですから、こちらでちゃんとしたせんべいに味付けしたらどうなるかなと思いまして」
「これだよ。かなりいいものだな、この醤油は」
出されたせんべいをかじってみる。確かに自分のうちで作ったものとは比べ物にならないほど、いい食感のせんべいだ。味も上品で思っていた通りに仕上がっている。食べ終わった余韻もよく、さらにもう一枚口に入れたくなるような感じだ。
「並木君」
末永室長は満面の笑みでこちらに乗り出す。
「はい」
「こっちに戻ってこんか」
突然のことで声が出なかった。あの日ここで受けたショック。恐る恐るお客様相談課という新しい部屋に入っていったときの緊張感。心臓が飛び出しそうになった初めての電話。そして、暖かい歓迎会。一瞬にして短かったけどいろいろなことがっあた、この三ヶ月くらいのことが頭の中に現われては消えた。そうか、みんなこの話を知っていたんだ。それで今日は優しかったんだ。椿山さんなんかリュックまで持たしてくれて、あの部屋にもう顔を出さないでいいように気をまわしてくれて。佐伯室長の暖かい指導、安達チーフの優しい話し方、大隅係長の豪快さ、菅野さんの奔放さ、大場さんのひょうきんさ、そして椿山さん。僕は涙が出そうになった。
「末永室長」
声が震えた。
並木をこんなところに置いておくのは会社の大損だ、大隅係長がそう言ってくれた。きっとサンプルを持ってここへ来てたとき、そんな話もしてくれたのだろう。
「何だ」
何の疑いもない笑みでそう答える。
でも僕はー。ぎりっと奥歯を噛み締めた。あふれそうになる涙をなんとかめのふちで食い止めた。
「僕、いまさらこちらには戻れませんよ。あっちのみんなにあまりにもよくしてもらいましたから」
ちょっとのけぞったような、驚いた表情を浮かべた。
「もう少し時間をかけて考えていいんだぞ」
「いえ、ここにもう僕のいる場所はありませんよ。それに、僕がここに戻ったら、今度は誰が出るんですか、あそこに」
「それは、おまえ」
室長はばつが悪そうにアイスコーヒーの氷をストローでもてあそんでいる。
「僕、あそこの仲間が好きです」
「俺はおまえの知識や発想は認めていたよ。しかたなかったんだ、無理やり人員削減を言い渡されて」
「分かっています。あの時はどうしようかと思っていましたが、今はいい仲間に囲まれて幸せです。仕事は大変だけどお客さまの本音を聞ける今の仕事は、何かがあるような気がするんです。」
「分かった。このせんべいはお客様相談課で相談して仕上げてくれ。改良点を言ってくれれば、その通りの試作を作る」
末永室長は力強くそう言ってくれた。
「はい」
「営業や、宣伝などにも事情を話して打ち合わせをしに行かせるから」
「ありがとうございます。みんな喜びます」
「並木、おまえ変わったな。なんだかすごく生き生きしているぞ」
ドアをあけて出るときにそう声をかけられた。それが少し嬉しかった。
「ただいま戻りました」
大きな声で挨拶してドアを開けると、みんなの視線が集まった。このちょっと緊張感のある雰囲気、みんなの顔。部屋の中に流れる、心地よい緩やかな連帯感。やっぱり僕はここにいるほうがいい。
「おい、おい」
佐伯室長が困った顔をした。
「なーみちゃん。がっはは。また飛ばされたか」
「ちょっと、ちょっと大隅さん」
あわてて菅野さんが大隅係長の袖を引っ張る。
「例のせんべい、ここで相談して商品化してくれといわれまして、戻ってまいりました」
「ばかだなあ。うまくやればいいんだよ」
椿山さんはそういうわりになんだか嬉しそうな顔をしてくれた。
「う、じゃあこの商品は何が何でもヒットするように作ろう」
「このせんべい、お客様相談から生まれた、新本当においしいせんべいと言うキャッチフレーズはどうでしょうねえ」
「安達チーフ、なかなかセンスありますなあ」
「お客様の声が生んだ本当においしいせんべい」
「皆様の意見を生かした本当においしいせんべい」
次々に意見が出る。部屋の空気も躍動感で満たされている。商品が完成したら商品を持って百倉さんに報告に行こう。喜んでくれるだろうか。成田さんや田辺社長には後で連絡して経緯を話しとかなければ。数量の確保や価格交渉など、商品化するまでにはまだ難問が山のように出てくるだろう。でもこの仲間とならきっと乗り切れる。尾台さん。そうだ、あの人の家に訪問して大きなヒントを得たんだ。新本当においしいせんべいを持っていって食べてもらおう。おいしいと言ってくれるだろうか。
「研究開発室の末永室長はほかに何か言っていたか」
大隅係長の声で我に返った。
「はい。今度、営業や宣伝の人もここに来て商品化に協力してくれるらしいです」
「営業は任せとけ。俺がケツたたいて絶対メインで売るようにしてやるから」
伝説の大隅部長がそういうのだから、きっとうまくいく。
「皆さんでせんべいの改良点や、キャッチコピーや何でもいいですから気がついたことがあったら意見を出してください。佐伯室長とりまとめをお願いします」
「う、みんなでやろう」
研究開発室が作ってくれた試作のせんべいを出すと、みんなが次々に手を出す。
「このまえのも美味しかったですが、こうしてせんべいに味付けするとまた一段とおいしいですね」
「第二弾は七味まぶすか」
「あっ、いいですねえ」
「僕、今度、出張に行かせてもらって思ったんですけど、これを商品化できたら今度は味噌味のせんべいに挑戦してみたいんですよ」
「へっ?みそ」
大場さんが素っ頓狂な声を出す。
「そうなんです。もともとは、江戸時代、峠や宿場町の茶屋などで休憩するときに、お茶と団子を出していたんです。団子はみたらしや甘辛いしょうゆ味、それから五平餅のように味噌や他の物をつけて焼いた物、安倍川餅などのようにあんこをつけたり、中に入れたりしたものなど工夫してありました」
「そう言えば、団子や餅などのお土産は各地にありますねえ」
「うん、種類も多いな」
「さすがに大隅係長は女性におみやげを買ったからよくご存知ですよね」
「大場、ひがむな、ひがむな」
「そういう団子が売れ残ると、当時のことだから捨てたりしないんです。硬くなってしまいますので次の日には売れないんですけど、持って帰って自分たちで食べるんですよ」
「冷蔵庫もラップもなかったからなあ」
「でも、売れ残りだし、硬くなっているのならあまりうまくないだろうね」
いつのまにかみんなの視線が集中しているのを感じて、ちょっとどぎまぎした。みんなが僕の話を真剣に聞いてくれるなんてことは、ここに来るまでなかった。心地いい緊張を感じ、そっと息を吸い込んで話を続けた。
「そうなんですよ、椿山さん。うまくないんで、ある人が暖めなおすために火であぶってみたんです。そうしたらしょうゆが焼ける香ばしい匂いと、あのぱりっとした食感になったんです」
「う、それがせんべいか」
「そうなんですよ。それがあまりにうまかったので、店に並べたらそれが飛ぶように売れたと言うことです」
「そうなんですか、じゃあ餅を作っていたところではその噂を聞いてみんな焼いてみたでしょうね」
「そうなんですよ安達チーフ。だから味噌をつけたものも焼いていたはずなんです」
「それを作ってみると言うのか。じゃあ、味噌探しか今度は」
菅野さんがやる気満々で身を乗り出してくる。
「菅野さんはどこかご存知ありませんか」
「いや、そういうことは詳しくないけど気をつけて探してみるよ」
「ありがとうございます。たとえば味噌味の食べ物、ラーメンや鍋や酒のつまみでせんべいに合いそうな味噌の味でものでもいいんです。そうじゃなければ、おいしい味噌味の食べ物でもかまいませんから、気がついたらメモしておいて教えてください」
「ようし、おもしろくなってきたな」
「将来の夢もいいけど、とりあえずこれを商品にしようぜ。こいつは売れること間違いなしだから」
「大隅さん、この前言ったこと忘れていませんよね」
「なんだよ、菅野」
「こう見えても凄腕営業マンといわれていたとか大見得切ってましたよね。売るほうはお願いしますよ。滑ったら大隅さんの責任ですからね」
「それは任せておけ。菅野よ、いい営業はな、売れるものと滑るものの鼻が利くからいい営業なんだよ」
どんと胸をたたいて請け負ってくれた。
「ちょっと待ってくださいよ、大隅係長。じゃあ、売れるものを持って歩いて、売れそうにないものはどうするんです」
「いい質問だ、椿。それは人に押し付けるのよ。売れないものに時間をかけてるだけ無駄だからな。がっはっは」
「じゃ、売れそうもないお菓子が残っちゃうでしょ」
「おお?意外と正義感があるようなことを言うな大場にしちゃあ。でも世の中うまくできててよ、売れないものを無理やり売ってどんなもんだいと威張りたいやつもいるのよ。だから、そういうのはそいつに任せるの」
「で、大隅さんはこのせんべいを売るのですね」
「そうです。今はここの所属だからおおっぴらには歩けませんが、こう見えても俺が顔を出せば、メインの売り場に積んでくれるスーパーや小売店はまだまだ多いですからね」
「う、じゃあ大隅係長はしばらく外回り」
みんながせんべいのサンプルを囲んで盛り上がっている。それが嬉しかった。ここが僕の居場所だ、改めてそう思った。
一四
金曜日の夜、つばめから電話があった。
「まっくん、おかげさまで無事店を閉めれたわ」
「そう、疲れただろ」
「ちょっとね」
体も疲れただろうが、それまでいろいろあって精神的にも疲れただろうな。僕たちはしばらく受話器を握ったまま何も話しをしなかった。うぶな恋人同士のように、話をしなくてもラインでつながっているだけで、心地よかった。
「ねえ、つばめ。明日は休みなんだけど一緒にどこか行かないか」
「うん、いいよ」
「僕さ、暑いんだけど行ってみたいところがあるんだ」
「どこ?あたしはどこでもいいよ」
「あのさ、小学校のときに遠足に行った山なんだ」
「あっ、それいい。行ってみたい、あたしも」
「じゃあ、明日、西武池袋線の池袋駅で。急行の一番前に九時でいいかな」
「いいよ。じゃあ明日ね」
つばめの明るい声がぷつんと切れて、機械音がなっている。
土曜日の朝、すごく早く目がさめてしまった。用意をしてご飯を食べる。腕の包帯も取れて、肋骨と首以外はほとんど痛みはなくなっていた。顔も内出血のため黒くなっていたが、それも黄色くなったり小さくなってきていた。帰ってきたときは服を着るのにも、洗濯するのにもあっちこっちが痛かったが、もう普通の生活をするのには何の支障もない。ちーちゃんと太郎左衛門たちにご飯を上げたらもうすることがなくなってしまった。しばらくテレビなどを見ていたが、どうにも早く行きたくなってしまって部屋を出た。コンビニによったり、池袋の地下にある王様のアイデアのショーウィンドーを見たりと、あっちこっちと寄り道をしながらできるだけゆっくり来たが、それでも約束の九時に二〇分も早く着いてしまった。
「まったく、子供の遠足じゃないんだから」
どうにもコントロールできない自分の感情に苦笑をしながら、ゆっくりとホームの一番前まで歩いていく。
「まっくーん」
周りを気にしない大きく元気な声が聞こえてはっと顔をあげると、笑顔のつばめがちぎれんばかりに手を振っている。白いTシャツにブルーのジーンズが夏の強い日を浴びて眩しかった。僕は思わず駆け出した。
「ちょっと早すぎると思ったんだけど、ばかみたいに早く目がさめちゃって」
「あたしもだよ。遠足の日っていつも暗いうちから布団の中で目がパッチリ開いちゃうんだ、昔から」
「じゃあ、いっしょか」
「うん、いっしょ」
二人で笑った。手をつないでまだすいている車両の一番前に乗り込んで、並んで座った。外はそろそろ暑くなりかけていたが、車両の中は程よく冷房が効いていて、乾燥した空気が気持ちいい。
急行に一時間も揺られていると、住宅街は駅の周りで途切れ、山の緑がが急に近くなってくる。駅で止まると熱気とともにセミのにぎやかな声が車内に流れ込んできた。風も熱いものの心なしか少し乾燥しているようにも思える。やがて目的の駅につき、小学校のとき何度か来た懐かしい町に降り立った。さすがに駅前のアスファルトは溶けるような厚さだ。汗が噴出し、背中を伝って流れ落ちる。
「せっかく遊びに来たのに、ちょっと暑かったね。映画でも行けばよかったかなあ」
「あたしは平気よ。夏は好きだし、あの山の上はきっと気持ちいいよ」
「そうだね」
つばめは僕の手を取って勢いよく歩き出した。やがて回りが木々で覆われるような山みちに入ると、太陽の光もさえぎられ、急に温度が二、三度下がったようだ。杉の木の香りだろうか。とても心地よい香りが道にあふれている。
「わっ、きれい。まっくん、これ見て」
つばめが指差した先には、琥珀色に輝く小さな宝石のような粒が落ちていた。なんだろうと思って触ってみると、飴を溶かしたような感触があり、べたべたする。匂いをかぐと回りの気の匂いがした。
「ああ、これは杉の木の樹液みたいだね。べとべとするけど、いい匂いがする」
そう言うとつばめも躊躇なく琥珀色の粒を指にすくって、匂いを嗅いでいる。
「ほんと、いい匂い。気持ちが落ち着くような香りね」
再び手をつないで歩き出す。鳥とセミの声に囲まれて急な坂を登っていく。
「あのげっ、げっって言うのは何の声なの」
「ああ、あれは仏法僧だと思うよ。紺色っぽい色でなかなかかわいい鳥だよ」
「へえ、その鳥、ブッポウソウって鳴くからその名前がついたって聞いたことあるけど」
「それは違う鳥だったらしいよ」
「あの、きよーっ、きよーって言うのはなあに」
「あれはね、ホトトギス」
「まっくん、よく知ってるねえ。尊敬しちゃう」
「鳥は、いろんな鳴き方するから、難しいよ。僕は、分からないときの方が多いんだ」
やがて急な坂道が少し緩み、気持ちのよい尾根に出た。もう一息だ。リュックから水筒を出して、冷たいお茶をつばめに飲ませ、自分も一口飲む。
「ああ、生き返るよね。汗かいた後、冷たいの飲むと」
「そう言えば、遠足っていつも春だったからね」
「そう、そう、秋はバスで行って、春は歩きだったよね」
再び歩き出す。僕はあのころのことを思い出していた。そう、背の順で二列になって登っていて、つばめはあの時も僕の少し前を歩いていた。他の子が上り坂で重そうに足を運んでいるのに、つばめはまるで雲の上を歩いているように見えた。多分そのときつばめのことを始めてまぶしく感じたのだろう。だからあの時、お弁当の時間につばめが北側の斜面に歩いて行ったのがすぐに分かったんだ。つばめ、僕はあの瞬間きっと君に恋したんだ。それが初恋だった。今まで自分の気持ちと記憶にふたをするように生きてきたから、長い間そんなことにも気がつかなかったんだ。そっと横を見ると相変わらず少し上を向いて軽やかな表情で歩いている。尾根で木が切れているところでは爽やかな風が吹いていて、つばめの髪の毛が涼しげに揺れる。
やがて山頂に到着した。山頂を越えて南側の面は開けており、ベンチや展望台などがある。あのころとほとんど変わってなかった。この展望台の上や屋根のついたベンチを、友達が競って場所の取り合いをしていた。昔の事をちょっと思い出しながらしばらく景色を眺めていたが、僕はつばめの手を引いてもと来た道へ戻っていった。やはり僕たちの思い出の場所は、二人でお弁当を食べたこっち側だ。それほど見通しのよくない北側の斜面に並んで座った。木々の間から今登ってきた細い尾根が、その向うに砂粒のようにきらきら光る僕たちの住んでいた街が見え隠れしている。
「このあたりだったかな」
「うん、あたし、ここに座ったよ」
つばめはあたりを見回して、確信したようにそう言った。そして大きな木を背にして腰をおろした。あの日、机の替わりにして弁当箱を置いていた切り株もそのまま残っている。
「まっくん最近すごく変わったね。なんだか明るくなったよ」
「そうかなあ。つばめがいろいろ変えてくれたからじゃないか」
「それもあるかもしれないけど。うん。なんだか自分に自信があるような感じと言うか、力強くて今のまっくん好きだな、あたし」
突然好きと言われて顔が一気に火照る。
「今の職場で仲間ができたせいかもしれないな。みんながそれぞれに個性的で、それをみんなが受け入れている。本当にいい人たちでね。今度新しい商品をみんなで相談して作ることになったんだ」
「へえ、すごいね。あたしに一番に食べさせてね」
「うん。僕、お客様相談室のほうがそういう新しい商品をいっぱい作れそうな気がするんだよ」
「仲間がいるからね」
「うん。そして飾りやお世辞のないお客様の声を直接聞ける場所だから」
「強烈な本音よね、クレームのときの言葉って。あたしたちもよくあるけど」
ふーっと涼しい風が木々の間を縫って渡ってきた。
「そう言えば」
「えっ、なあに」
「いや、いいんだ」
僕は考えていた。つばめと仲良くなるきっかけができたのはこっちの北側の面だった。中学のとき、優しくしてくれた保健の天野先生がいた保健室も校舎の北側の部屋だった。そして、お客さま相談室に行かされたときも、暗い気持ちで北側の一番奥のはずれににある建物に向かった。今回のたまり醤油を紹介してもらった百倉さんの家も駅から北に歩いて行く。僕は北に行くといいことがあるみたいだ。そして今日もあの日と同じように北側の斜面に座っている。
「へんなの、まっくん」
クスリと笑うとリュックからけっこうおおきな弁当箱を二つ出して開いてくれた。驚いたことに中味は刻みねぎの入ったそうめんだった。保冷剤を入れていたのか、入れ物自身か冷たく冷えている。どうするのかと思っていると、水筒を取り出し弁当箱のそうめんの上にトクトクトクとかけていく。一口食べてみると薄めのすごく冷えた麺つゆがたっぷりとかかっていて驚くほどうまい。
「うまいね、これ」
「うん、暑いときはいつもこれなんだ、あたしは」
「本当にこれはうまい。汗かいて登ってきた後には、この冷えたそうめんがどんなご馳走よりうまいよ。やはりその時々に応じた物と味というのは大切だね」
「ふふふ、そう言ってくれると、重いのに持って上がってきたかいがあるよ」
「あのときさ、つばめが気になってこっちについてきたんだけど、ここまで来ると恥ずかしくて隣りに座る勇気、なかったよ」
「あたし、まっくんがきたことは知ってたけど。あのとき、イチゴくれたでしょ。すごく嬉しかったよ。あたし一人でも別に寂しくないと思ってたけど、人に何かをしてもらうのってとっても嬉しいものだなって始めて知ったような気がするよ、あの時」
「うん」
「だから、今の仕事が楽しいの。人に何かしてあげて喜ばれるのが」
「ねえ、これ、覚えてるかい」
僕はピンク色のビニールの袋に入ったキティーのチョコレートをリュックのポケットから出してきた。
「あっ、それ」
「僕も嬉しかったよ、つばめがこれくれたとき。だから僕もお菓子を作る今の仕事しているのかな」
「まっくん……」
ちょっと遅すぎたけどやっと気がついたんだ。つばめは僕にとって大切な人だって。もっと頼りになる男になるからさ、いつまでも僕のそばにいて欲しい。
「ねえ、つばめ、僕と結婚してくれないか」
了
春は北からやって来る @maasann11
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