下
茶器を片付けていると夕食の時間になり、お里は食堂へゆく。
今夜の
間の悪いことに、お里の前にお梅が座っていた。
「麦入ってる。うち、こんなしみったれたもん食べる気がせん」
一口食べるだけでお梅は箸を置く。
そのけだるげにひそめられた顔も、そこだけ切り取れば、ひそみに
「三食白米食べれると聞いて来たのに。嘘ばっかりや」
「麦飯になったのは最近でしょう」
お里は思わずいう。
最初の一年は、工女をつなぎ止めるために白米の飯が出ていた。
里帰りでそれを聞いたお里の親は、山ほどの麦こがしをお里に持たせたのだ。
白米ばかり食べると悪い病になる、と言って。
「下女が! 調子に乗って!」
お梅はお里に茶碗を投げつけた。
茶碗が胸に当たり、うっとお里はうずくまる。
「すんません。お梅さま、ほんとにすんません!」
「あんた麦こがし好きやろ! それならあんたの米みなよこし! うちの麦をやるわ!」
「お梅さまには、できるだけ米の多いところをよそっておりますので……どうか、お許しを」
「……このへんにするわ。お里、茶碗拾い」
大ばばの足音を聞きつけて、お梅は折檻をやめ、食堂から立ち去る。
「お里ちゃん、大丈夫?」
お里の隣の工女に、お里はうなずく。
「慣れました」
「でも、お梅さまが食堂で取り乱すのは初めて見た」
「お梅さま、
その原因にお里は心当たりがあるが、言わない。
お梅が手足の
いつものように、お里は細心の注意を払って、繭から引きだした糸を器械の黒い油で汚さないように大枠にかけていた。
その時、なんの前触れもなく、ぶつりと糸が切れた。
同時に、お梅がいるあたりの工場で、悲鳴が上がったのを、お里は聞いた。
仕事終わりに、見舞いに来いこいとお梅が言っている、とお里は大ばば様に呼び出され、医務室へ。
入室のお伺いを立てようとお里が戸を叩こうとすると、板越しに医者と男衆の会話が聞こえてきた。
「どうも
そして、お梅の生きていた時代では、手を尽くしても心不全で死ぬことが多く、間違いなく死病であった。
「死病にかかった上にあの見目か。もう、嫁の貰い手もあるまい」
明治時代、嫁に行けないことは女としての死を意味していた。
「失礼致します。見舞いに参りました」
お里が名乗ると、医者たちは療養室への道を開けた。
療養室の真ん中に布団が敷かれ、お梅はその上で上体を起こしている。
お梅の表情は、巻かれた包帯のせいでわからないが、お梅の手はきつく掛け布団をにぎり、震えている。
医務室と療養室の間には
医者の話は、お梅に聞かれていたというわけである。
「お梅さま──」
「この役立たず!」
枕元に座ったお里へ、お梅は結い上げた髪から
ああそうだ。役立たずなのだ、とお里は思う。
筆者の時代、脚気は、体内のビタミンB1の不足により発症すると解明されている。
かつて日本人の主食は玄米や麦などの雑穀であり、ビタミンB1を補給できていた。
だが、ビタミンB1を含まない白米食が普及した江戸時代から脚気の症状が出始め、明治時代から大正時代にかけては結核と並ぶ2大国民病と言われるほど多くの人が発症したと記録されている。
お里にそこまで詳細な知識はなかったが、麦を食べる身分の人間に脚気が少ない、ということを、彼女は薬師の娘として、経験上知っていたのだ。
──お梅さまが脚気になると知っていて、放っていた。役に立つ下女なら、お梅さまを
お里は、
お梅の
「きゃあっ!」
お里の悲鳴に、隣の部屋にいた医者や男衆が療養室に駆け込んでくる。
「役立たずはお前じゃ!」
「うるさいうるさいうるさい! こがし麦じみた下女なら火傷しても変わらん! うちの身代わりにならんなら役立たずや!」
狂乱するお梅。
いたい。あつい。ひだりめ、何も見えない。
うずくまるお里の前に、誰かがやってくる。
「誰か手当てを!」
お里とお梅の間に、男衆がはさまる。
お梅の悲鳴が聞こえて、男衆にお梅はどこかに連れて行かれた。
呆然と目の手当てを受けるお里の耳に、ホーホケキョと里の
それっきりお里はお梅に会っていない。
筆者が調べたところ、製糸工場の記録によると、お梅は実家に戻されたとあった。
お梅の戸籍に記されている死亡日からして、実家に戻されたあとすぐにお梅は死んだと思われる。
製糸工女奇譚 相葉ミト @aonekoumiha
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