第25話 アナトール ウゴルスキ
かつて、ロシアは偉大なピアニストの宝庫だった。
アントン ルービンシュタインを
しかし、スターリンの台頭と共にロシアは暗黒時代に入り、全ての芸術はマルキシズム(とは名ばかりで実際にはスターリンの独裁)のもとで
幸いなことに芽吹いた植物は枯れることなく氷河時代を生き抜き、やがて花を咲かせることができた。スターリンの死後、鉄のカーテンは少しずつ開き、それに伴い幾人かの芸術家たちが西欧で衝撃的なデビューを果たすことになる。指揮者ではムラビンスキー、コンドラシン、バイオリニストではオイストラッフやレオニード コーガン、チェロのロストロポービッチ、そして先に挙げたピアニストたちである。取り分けピアニストたちはまるで大きな波が打ち寄せるかのように輩出された。
しかし、その大きな波はやはり最初に現われたギレリスとリヒテルで頂点に達していたのだと僕は考える。その後、ラザール ベルマンのようにヴィルトーゾの系譜を弾いたピアニストや、新世代、例えばブーニンやプレトニョフといったピアニストたちも出てきたが、ギレリスやリヒテルの達した境地には結局及ぶことはなかった。闇深ければ光も又強し、と言う事であったのだろうか。
その中でエフゲニー・キーシンは豊かな才能に恵まれている正統的なピアニストだと思うのだが、なかなかその能力に見合った活躍ができていないようだ。もう一人ロシアと同じような氷河時代を経たクロアチアのポゴレリッチももう少し評価が上がって良いと思うのだが・・・。
そんな中で、一人ぽつんと旧共産主義国家から突然現われたのはアナトール ウゴルスキという一見冴えないピアニストである。西側でのデビューを飾ったのは50歳という年齢、新人とは思えない髪型(なぜ、側頭部の髪があんなに立つのであろう?)と相俟って却って印象的ではあったのだけど、僕は余り興味を惹かれなかった。ユダヤ系というだけで謂れのない迫害を受けたとはいえ、1942年生れというのはロシアの偉大なピアニストの系譜を弾くには余りに遅すぎる生れである。実際レニングラード音楽院に入学し、その教授になったとはいえ、彼がロシアの偉大なピアニストや教師の薫陶を受けたという話は聞かない。それどころか、グレン グールドに傾倒し、西洋の現代音楽を弾いた彼は、そうした進歩主義を疎まれるのと同時にユダヤ人の家系ということもあり、やはりピアニストである娘共々政府から迫害を受けることになった。
結局、彼ら親子はドイツに亡命しそして、その地でデビューする事になる。僕が最初に彼のCDを買ったのはまさにそのドイツで彼の亡命の直後であった。亡命直後、彼はかなりのスピードで録音を進めたらしく(逆に言えばあのドイツグラモフォンがそれだけ評価していたのだ)シューマンとシューベルトは4番目のアルバムでどんなピアニストなのか聴いてみたのだが、残念なことにその時は格段の印象はなかった。
今回、彼のことを書くに当たって、念のためもう一度聞き返してみたのだが、その感想が大きく変わることはなかった。
技術的には何の問題もなく、比較的ゆっくりとした指使いから現われる音の表情は豊かである。ただテンポには少し癖がありメロディは川底に凹凸がある小川のような流れかたをする。最初のシューマンの「ダビッド同盟舞曲集」は曲自体がどこか曖昧な雰囲気のある曲であり、その曲想のせいか或いはピアニストの演奏法の故か、捉えどころのないまま進みそして終わっていくという感じを拭えない。
しかし、シューベルトの「さすらい人幻想曲」は名曲である。曲の方に押しつけることは出来ない。だが残念なことに、この曲もシューマンと同じような、どこか捉えどころを欠いた演奏に感じた。となるとシューマンの方も曲のせいだけとはいえまい。
「さすらい人幻想曲」は確かにタイトルの通りどこかを「さすらう」ようで、「幻想的」ではあるのだけど、曲を名付けた趣旨は「そういうことではない」筈だ。残念ながらリヒテルやポリーニ、或いはブレンデルの名演奏と比べると精彩を欠く、と言わざるを得なかった。
このCDを買ってからもう30年近く経って、つい最近のこと、ある日どういう心境か、僕はスクリャービンを聴こうと思い立ったのだ。
そもそもスクリャービンを余り聴いてこなかった僕がなぜ、そんな事を思い立ったのかの記憶さえ定かではない。スクリャービンといえば、僕に取ってホロビッツやリヒテルのコンサートに気まぐれに混じる曲、それも小品しかなく、要はほぼほの聴いたことのない作曲家であり、ある意味ウェーベルンやツェムリンスキーよりも馴染みがない作曲家であった。ラフマニノフと同期の作曲家に拘わらず、ラフマニノフの10分の1ほどしか関心がなかったと言って良いほどだ。
思い立ったその際に選んだのはブーレーズの指揮したピアノ協奏曲と二つの交響曲。ピアニストをメインとして選んだと言うよりブーレーズがどのような指揮でこの作曲家を表現しているのかに興味があったと言っていい。つまりウゴルスキに関しては、否定的でも肯定的でもなく、単にブーレーズの共演者ということで購入したのだが、ピアニストに関して「良い意味で裏切られた」と言える。もし、この曲を買わなければウゴルスキについて書くことはなかっただろう。
シューマンやシューベルトではどこか曖昧でぼけているように感じた焦点は、スクリャービンのピアノ協奏曲では非常に明確に結ばれている。ピアニストの決して強くはないが、確信に満ちた指遣いが作曲家の若い叙情性を過つことなく描き出しており、バックのブーレーズの指揮も感情に溺れることなど一切なく(この指揮者なら当然だろう)明確な音を紡ぎ、作曲家とピアニストと指揮者が渾然一体となった演奏となっている。
同時代のラフマニノフが「脅かすような強い打鍵とオーケストラ」を要求しているとしたら、スクリャービンは「夜空に煌めくオーロラのような叙情性」を求めているのではないだろうか、ときちんとこの作曲家に対峙して感じさせられた。ドイツで生れたロマン派の系譜はショパンの生誕地ポーランドを超え、ウラルを渡りモスクワの地で一つの終焉を迎えたのだ、としみじみと思わせる曲であり、演奏である。
ピアノの小品だけを聴いただけではなかなか分からないこの作曲家の真髄はロマン派のロシアの地に措いて措いて「神秘主義」「神智学」という銘をもって建てることにあり、作曲家としてはロマン派からの脱皮の前段階、蛹のような状態を捉えた曲こそがこのピアノ協奏曲なのではないか。
非常に美しく、極寒の地に瞬くピアノの星をオーケストラが包み込むような第2楽章、何かから訣別するような意志を感じさせる第3楽章のピアノ、・・・とても美しい。その美しさをウゴルスキとブーレーズに開眼させてもらったのはとても有り難いことである。(歳を取るとなかなかそうした巡り会いが出来ないものだ)
恐らくこのピアノ協奏曲を聴いたからこそ、「プロメテウス」やピアノソナタに耳を傾ける事になったのだ。順番が逆だったらそうならなかったかもしれない。ピアノ協奏曲とカップリングされている「プロメテウス」はピアノ協奏曲の11年後に作曲されたオーケストラとピアノの為の1楽章からなる「交響曲」であるが、ピアノ協奏曲の叙情性はだいぶ背景に後退し、良くも悪くも作曲家の意志が強く出た曲である。もちろん同時代の現代音楽とは一線を画し、むしろ「神秘主義」という主張の中にロマン派を匿ったような音楽でその意味では
ソナタも同じ傾向ではあるが、(嬰ト短調や嬰ヘ短調のソナタは明らかにロマン派の系譜にある)オーケストラが入らない分、連続性が保たれているように聞こえる。作曲家自身が「邪悪」とまで呼んだ「黒ミサ」(タイトルは作曲者自身がつけたものではないらしい)にしても以前のスクリャービンの音との一貫性は保たれている。
一般的にはソナタは4番までと5番以降でその性格が異なる(有名な「神秘和音」の使用を含めて)と言われるが寧ろスクリャービンの本質は豊かな叙情性であり、それは最後まで変わらないというのがピアノ曲には現われているような気がする。そしてその本質にこのピアニストは光をみごとに当ててくれたのだ。
スクリャービンを通してこのピアニストの素晴らしさを知ったときには既にこのピアニストは天命を終えていた。2023年9月5日、デルトモルト。50年に亘り迫害を受けただ、残りの30年でそれを跳ね返した彼はしかし、娘が先に逝くという不幸に再び見舞われ、そしてドイツに8年住んでいた僕も聴いたことの無い街で密やかに息を引き取った。
彼が遺したまだ聴いていない幾つかの曲はあるけれど、さてどうしたものか・・・と僕は思い悩んでいる。取りあえずメシアンの「鳥のカタログ」に手を伸してみようかと今は思いつつ。
*アレクサンドル スクリャービン
法悦の詩 作品54(交響曲 第4番)
ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 作品20
プロメテウス-火の詩 作品60(交響曲 第5番)
シカゴ交響合唱団(合唱指揮:デュエイン・ウルフ)
シカゴ交響楽団
指揮:ピエール・ブーレーズ
ユニバーサル UCCG-2108
*アレクサンドル スクリャービン
ピアノ・ソナタ 第2番 嬰ト短調 作品19≪幻想ソナタ≫
ピアノ・ソナタ 第5番 作品53
ピアノ・ソナタ 第9番 作品68≪黒ミサ≫
ピアノ・ソナタ 第3番 嬰ヘ短調 作品23
ユニバーサル UCCG-2109
*ROBERT SCHUMANN
Dvidsbundlertanze op.6
FRANZ SCHUBERT
Fantasie C-dur D.760 ≫Wanderer-Fantasie≪
Deuteche Grammophon 437-539-2
ピアニストに恋をして 西尾 諒 @RNishio
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