同じ傷と、同じ痣。

D・Ghost works

同じ傷と、同じ痣。

 死にたがる心に逆らうように生きている青痣だらけの体が憎くて、僕は中学校から帰る途中にホームセンターで牛刀包丁を買った。


 放課後、学校から出る前、いつもの三人に男子トイレに引きずり込まれた。一人に羽交い絞めにされると、すぐさま他の二人が殴り、腕や足を殴られて骨に響いた単純な痛みと、腹を殴られた黒い塊が破裂したような重い痛みが、歯に引き裂かれた唇の裏側の熱さと絡み合った。

 その日、いつもの痛みが、いつもと違う事を教えてくれた。僕は閉じた掌の中に自分の本当に大切な物をいつも握りしめていた。そして、あんまりにも大切にしていたから長い間、掌を開くことを忘れていた。大切にしていたモノが何だったのか思い出せないくらい長い長い時間、握りしめていて――

 けれど、死んでしまえば何もなくなるんだって、痛みも、悔しさも。あの三人だっていずれ、必ず、死ぬ事は確定しているんだって、便器の中に溜まった水に顔を突っ込まれながら気づいた瞬間、僕は今まで解決できないでいた計算の糸口を掴んだような喜びと、驚きに気づいて、昨日まで夢見てた希望の糸口すらどうでもよくなって――

 殴るのに飽きた三人が男子トイレから出ていったあと、便器に溜まった水は僕の口から流れた血で薄く色づいていた。顔についた水滴をぬぐった掌に一線、口から流れた血の跡が付いた。

 開こう。僕は握りしめていた掌を開こう。何が大切だったのか完全に忘れてしまう前に――


 シャワーを浴びて、髪に染み付いた悪臭を洗い落としてからダイニングに戻って牛刀に手を伸ばした。

『殺すなら牛刀だな。普通の包丁は薄いから折れる。重さもあるから牛刀だな……』

 数年前から僕とお母さんが住むアパートに出入りしている田崎さんと言う男の人がそう言ってた。田崎さんは機嫌が悪いと酒に酔って僕を殴り始める。機嫌の良い時は酒を飲みながら暴力の代わりに、暴力的な話しを聞かせた。教師が生徒に教訓を与えるのとは違う。これは単純な強迫だ。時折、ビールの空き缶を僕に投げつけながら。彼が酔っていない姿を見た事はない。

 お母さんがアパートに帰ってくると二人そろって出ていくか、もしくは僕が部屋から追い出されるか――

 左の手首を縦に裂きながら、わざわざ牛刀を買う必要はなかったって気づいた。けれど今さら些細な事だった。トイレに顔を突っ込んでいた過去も、親に捨てられた最近の出来事も、生まれてきた十数年前も発端も、全部、僕の手で些細な事に変えられる。開くんだ。掌を開いて僕が本当に大事にしていたものを――

 自分の体が刃物に裂かれる痛みは思っていたのとはちょっと違って、もっと冷たいイメージがあったのに、何だか殴られた痛みに似ていて、テーブルの上や自分の足の上に垂れた血、床に広がった血を見ていると、なんでだろう、その先に絶望をくつがえすようなしらけの新芽を見つけた。

 僕は親に捨てられて、学校に行っても毎日死んだ方がマシだって思っていて、僕が居なくなっても悲しむ人は居ないし、たとえ居たとしても、それが何だって言うんだ。そう自分に言い聞かせて、しらけに抗って、僕は手首に刃を突き立てる。けれど白けの新芽は流れる血を吸い上げて裂けた手首から這い上がっていく。


 確定的な事象。確定的な事象。避けられません。アナタボクは必ず死ぬ。


 数十年、数百年、数千年、僕が死んだ後も年月は流れて、何もかもが何物でも無くなって、誰も彼もが何者でもなくなることが確約されているのに、死のうとする心に反して死なない体に刃を突き立てているのに、手首から流れる血を吸って成長するしらけの新芽は空に向かって這い上がり、葉を伸ばし、僕の掌の真ん中で花を咲かせ――



 気が付くとテーブルの上に零れた血を眺めてた。黒い血は静脈血。赤い血は動脈血。理科の知識。テーブルの血は黒ずんでいるから切れたのは静脈だけ。多分、僕の肉体は、このままなら死なない。

 テーブルに落ちた血は、表面張力で玉になった血の一滴、一滴は、蛍光灯の明かりを受けて、輝く姿が卵みたい。

 生命的。

 死のうとした心が皮膚を引き裂いて産んだ生命。その血の輝きが鮮やかで、いつも鏡に映る僕の怯え切った顔と相反するように美しく思えて、僕は牛刀を置くとテーブルの上で玉になっている血の雫を右手の人差し指で静かに撫でていた。今はもう、何を開こうとしていたのかわからなくなっていた。僕が大事にしていた物?

 何もかもが何物でも無くなることが確約されているなら、生きていても意味はないけれど、死んでもしまっても意味はないのかもしれない。僕の苦しみも痛みも、希望的観測も欲求不満も、いずれ消えてしまうことが確約されている。生きる事も死ぬ事も、本質は同じ。だから大丈夫。小さい、小さい、小さ――



 上の階から響いた男の怒鳴り声が僕の視線を動かした。いつの間にか外は暗くなっていて、小雨が降っている音がする。少し寒いのは気温が下がったからなのか、それとも血を流し過ぎたからなのか。わからない。

 怒鳴り声は続き、壁を叩いたような騒音もする。耳を澄ますとすすり泣く声も聞こえた。二週間ほど前に上の部屋に越してきた住民の顔を見た事はないけれど、数日おきに聞こえる怒鳴り声が中年の男の存在を教えていた。

 昨日まで、その声にただ怯えて聞こえていないふりをしていたのに、今の僕はその怒鳴り声をとして感じていた。すすり泣く声が僕に届いたのは、自分の抱いていた恐れにすらしらけてしまったからかもしれない。

 僕はタンスに入っていたタオルを左手首に巻くと右手に牛刀を持って外に出た。外の空気は冷たく、雨の音が小さなノイズを奏でているだけで、怒鳴り声の例外を除けば夜は静かだった。錆のわいた階段の手すりを掴みながら二階へ向かった。鼻をくすぐる臭いは、血の臭いなのか錆の匂いなのかわからない。怒号の響く部屋の前まで来ると扉をノックした。

 ……すみません

「うるせえ!」

 怒鳴り声、それから扉の向こう側に、お皿か何かかな? 陶器がぶつかって割れる音。僕の心は死んだみたいに何も響かない。

 ドアノブに手を掛けると扉は普通に開いた。不用心だなと、牛刀片手に僕は思う。足音を隠すわけでもなく部屋に上がりながら、僕は何でわざわざ藪蛇やぶへびになりそうな事に首を突っ込んでいるんだろう、と思った。騒音を注意するため? 違う。すすり泣く声に気づいたから? 違う――

 ダイニングに繋がる扉の向こうから柔らかい所を殴った音、その後に悶えながら息を吐く声がした。幽体離脱したみたいな現実感の無い自分の手が扉を押すと、黒いジャージ姿の中年男の背中、僕よりも十センチくらい背が高くて、体格も良い、その男の足元に僕と同じくらいの年の女の子が腕で顔を守るようにして転がって――受けてきた暴力の回数に比べて、暴力を俯瞰ふかんで見る経験が余りにも少なすぎた僕は、無意識に声をかけていたんだと思う。

 ……あの、すみません

 僕の声にビクッと肩を揺らして振り返った男は、不精髭の生えた赤ら顔の男は、酒臭い声で怒鳴って

「なんだ、勝手に入って――」

『刃物で人を刺す時はな、手の平を柄尻に添えて押し込むようにするんだ』

 左手で牛刀の柄を握り、右手の平で柄尻を抑えて男の懐に飛び込み、切っ先が男の腹に食い込むと同時に柄尻に大きな抵抗を感じたから、僕は前のめりになって、体重を預け、体を振るようにしてグイグイと柄尻を押すと刃が少しずつ男の体に消えていく。埋まった刃を中心に黒いジャージが黒く湿っていき、その湿り気に触れると広がる赤色。赤色。男の怒鳴り声が耳元で聞こえる。聞こえた。

 受けてきた暴力の回数に比べて、暴力を俯瞰ふかんで見る経験が余りにも少なすぎた僕は、ゆっくりと仰向けに倒れていく男の腹から牛刀を抜くと、切っ先から落ちていく血の雫を追うように、男の喉元に、振り下ろして、叫び声が、男の叫び声が聞こえた、聞こえた、聞こえた? もしかしたら叫び声が何度も聞こえていたのかも――


 返り血で手の色がわからなくなった頃、僕は牛刀を振り下ろすのを止めて外に出ると、一階の自分の部屋に戻った。洗面台で手を洗ったのだけれど、爪の間に入った血、指紋の隙間に流れ込んだ血は簡単には落ちてくれなくて、そして、次第に、どうでもよくなった。

 洗面所を出ると、玄関が開いた。そこに立っていたのは僕と同じくらい、中学生くらいの女の子。彼女はさっき上の階に居て、ジャージを着た男の足元に転がって、腹を蹴られていて――

 その……お父さんの事、殺しちゃって、ごめん

 彼女と目が合うと、僕は特に思案するわけでもなく呟いた。それから酷く疲れを感じたので自分の部屋に戻って、明かりも点けずにベッドに上がった。そこで胡坐をかいた。寒かったから、毛布を羽織って。窓からの月明かりが、部屋を薄ら白く照らしていた。

 足音が僕の後を追って、トントントン、玄関を上がり、廊下を進み、リビングのドアを開け、部屋の前まで付いてきていた。

「……ここに居ても、アタシ邪魔じゃない?」

 扉の向こうで声がした。僕は好きにすれば良いよ、って応えた。気が抜けたように体が動かない。寒い。そんな肉体に反して心は眠ろうとせず、記憶は牛刀越しに掌に伝わった感触を反芻させた。

 僕は後悔していたわけじゃない。後悔しても意味がないから。過去はあって無いようなものだから。一秒前の僕はもう存在しなくて、未来はまだ来ていない。

 ベッドの枕元には血と脂で曇り顔の牛刀。部屋に入ってきた彼女の白いパーカーの袖には跳ねた血の跡。誰も気にしない。

「君、親は?」

 部屋の隅で突っ立ったまま、彼女が言った。

 お母さんは知らない男と出ていった

「うちと同じ。お父さんは?」

 知らない

「そうなんだ。うちも同じになったね」

 彼女の声が嫌味には聞こえなかったから、僕は顔を上げた。始めてちゃんと彼女の顔を見ようと思った。白いパーカーと白い肌に対照的な肩まで伸びた黒い髪、黒い目。薄い唇の端は切れていて、暗い内出血の影がある。月の明かりを飲み込んで泣いてるみたいに輝く彼女の瞳は、僕が裂いた手首の傷から伸びたしらけの新芽、掌で咲いたしらけの花の幻を思い出させるから――

 自分の左手を見た。手首にはまだタオルが巻かれていて、血で黒く汚れている。タオルを取ると血は止まっていて、周りの皮膚を引っ張ればグズグズと口を動かす大きな傷がそこにある。

「それも、アタシと同じだ」

 なに?

 顔を上げる。彼女はゆっくりベッドに近づきながらパーカーの袖をまくって僕の目の前に差し出した。

 左手首に傷。縦に、まっすぐ切り裂いた跡。今は血は流れていないけれど、代わりにミミズ腫れのような凹凸が月明かりを浴びて緩やかな陰陽を作っていた。

「自首するの?」

 彼女が僕の隣に座るとベッドが揺れて、その振動が船酔いのような眩暈を感じさせた。

 ……考えてもみなかった

 隣に座る彼女の顔を確かめる。表情からは何を考えているのか読み取れないから、怒ってる? と尋ねると

「怒ってないけど、中途半端にされても困る」

 そう呟いた彼女の言葉が、ふと今日で僕は終わりじゃなくて、もしかすると明日が来るのかもしれない、と気付かせた。ポケットに入れていたスマートホンを引っ張り出して、何度も見ていたホームページに飛んだ。僕が昨日まで夢見てた、希望の糸口。液晶の光は月明かりよりも凶暴で剃刀みたいに目に刺さる。

 スマホの画面を見せると彼女の顔が青白い光に染まる。まるで水槽の中にいるような、息の出来ない魚みたいな僕らでも、深呼吸ができる場所にいきたくて――

「ここ、どこ?」

 東北の方にある島。ここにDV被害者とかネグレクト被害者の子供を保護してくれる施設があるんだって

 スマートホンの画面に映る少し濁った海、そして真っ青な空が彼女の瞳の中で輝いている。

「綺麗な空。ここに行くの?」

 うん

「……アタシも着いていっていい?」

 彼女の言葉に頷いて、それからスマートホンを受けとってポケットに戻した。島へ行くために使う交通機関も、それにかかるおおよその金額も、全部頭に入っていた。何度も、何度も思い描いた場所。

 彼女は僕を見つめていて、小さく笑うと唇の端の内出血の後を指さして、

「ここも」

 え?

「ここも同じだ」

 つられるように右手で自分の右頬に触れた。唇には今日の放課後に殴られてできた傷。引き裂かれた跡が熱を帯びて、滲み出る体液の味を舌が感じる。

「ね、キスってしたことある?」

 ……無いけど

 彼女の顔がスッと近づく。瞼が閉じられて、月明かりに煌めいていた瞳の代わりに小さく震えるまつ毛が並んでいる。あと数センチ、近づくことは僕に求められているような気が――

 血の滲んだ互いの唇と小鼻がぶつかった。

 これがキスなのか僕らにはよくわからなかった。



 インターホンの音で目が覚めた。いつの間にかベッドに胡坐をかいたまま壁に凭れて眠っていたみたい。僕の右肩に女の子が頬を預けていた。

 インターホンが鳴る。それからコンコンコン。ドアを叩く音。彼女を起さないように、ゆっくり立ち上がると玄関まで進み、覗き穴に顔を近づけ――

 キュッと息が止まるのを感じた。一瞬止まったかのように静まり返った心臓が胸の中で叫んでる。もう来た。もう来たんだ。もうやって来た。

 ……はい。どちら様ですか?

「警察の者ですが、今ちょっとよろしいですか」

 今ですか……ちょっと待ってもらえますか、その、さっきまで寝てて。服を着ていないので

 嘘をついた。服は昨日のまま。自分の手首から流れた血と、男を牛刀で刺した時に浴びた返り血にまみれている。

 服着てくるんで、少し待ってください

 そう言いながら、僕は玄関先に並んでいる女の子の靴を持って自分の部屋に急いだ。呼吸の度に脈が速くなるのを感じる。僕の体は魂が抜け出たみたいに感覚が遠のいて、けれども踏み出す足は軽く、自分が何をすべきか固まっている。

 起きて

 肩を揺らすと、彼女はゆっくり目を開けた。

 警察が来た。起きて、逃げるんだ

「警察?」

 僕はポケットに入れていたスマートホンと財布を彼女に預けた。それから枕元の牛刀包丁に手を伸ばす。

 先に島に行ってて、追いかけるから

「けど、スマホは?」

 いき方は頭に入っているから、大丈夫。窓から逃げて

 彼女に靴を預ける。瞼についた目やにを擦りながら靴を履く彼女を確かめてから、牛刀の波紋を見つめた。曇っていて、そこに映った自分の顔はモザイクがかかったみたいだった。

 玄関ドアの覗き穴の向こうには警察官の制服を着た男が二人。一人は五十代、落ち着いた感じの雰囲気、白髪交じりの髪の毛が帽子隙間から覗いている。その奥にもう一人、三十代くらいで、体格が良い。僕は左手で牛刀をしっかり握って

『刃物で人を刺す時はな、手の平を柄尻に添えて押し込むようにするんだ』

 ドアを開けた瞬間、手前に居た年配の警察官の懐に飛び込んだ。驚いたように半歩後ずさりして、けれどもまさか刃物を持っているとは思っていなかったのだろう。「何をやって……」若い方の警察官が僕の肩を叩いた時には、牛刀の切っ先はもう一人の警察官の腹に突き刺さって――



 サイレンの音がいつまでも耳に残っている。パトカーから降ろされて、手錠をかけられたまま狭い部屋に押し込まれて長い時間がたつのに、今もまだ聞こえている。机の向かいに座る男が僕の名前を確認した後、田崎さんがお母さんを殺したといった。心中だったって。けど田崎さんは死にきれなくて、今は病院で生命維持装置に繋がれてるって。

 そうですか

 僕はそう答えた。いつか、みんな、そうなるから、それでもよかった。

 いつか、みんな何者でもなくなるって事は、僕らは一つの何者でもないものに集約される。みんなごちゃごちゃになって、何物でもない何かになる。孤独はありえない。

「上の階で亡くなっていた男は間違いなく君が殺したんだな?」

 はい

「何で殺した?」

 ……空が見たいんですけど

 向かいに座る男の人が溜息をつく。

「取り調べの最中だ」

 ……空が見たいんですけど

「あの部屋には殺害された男の娘がいたはずだ。何か知っている事は?」

 僕は彼女の名前も知らない。けれど同じ傷と、同じ痣があったから、どこかであの空を探しているかもしれないから――

 ……空が――



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