空に走る

夏頼

空に走る

 底辺という言葉が嫌いだ。あなたの大学はどちらですかと聞かれると身構えてしまうほどに。それに加えてそんな大学の分校舎で、うだるような夏の日の夕方に、打ち捨てられたような隙間だらけのガレージでオイルと煤まみれになっていれば卑屈にもなる。だれもが上を向いて歩くことはできないのだ。それならば、せめてお腹は満たそうとコンビニで買ってきたアイスとジュースを作業台に二人分並べていく。


「さぁ、つかさ、珍しいアイスキャンデーを買ってきたんだ。休憩にしようよ。あいたぁ!」


 作業台が盛大に音を立てて崩れ、車の下から相方がジト目で現れた。


あおい、その作業台、腐っているんだから使わないでっていったでしょう!」

「‥‥アイスとジュースを置いただけで壊れるのは作業台じゃないやい」


 底辺の大学の更に底辺に位置する部員二名の自動車部は、廃部になることすらも忘れられて、あたし達の秘密基地と化していた。


「あ~あぢいよぉ、これじゃぁ、夜に作業した方がいいんじゃない、詞」


 廃タイヤに毛布を掛けただけのソファに倒れこんで、あたしはアイスを真ん中から割った。いびつな形で割れたアイスを見て、一瞬の躊躇ちゅうちょの後、小さい方を詞に進呈する。


「あんたに友情というものはないの?お金を出したのは私なんだけど」

「悩みはした。でも詞、体調悪そうじゃない。あまり冷たいものは良くないって」

「え?」

「‥‥冗談よ。アイスはまだ冷蔵庫にあるから。しっかしこんな古いアイスまだ残っているとは、この町もどうしようもないね」

「そういうどん詰まりの町だからこそ、我が自動車部が活躍する機会を得られたのよ。いいじゃない」


 詞が賛意を示したのはアイスの事か、それとも今、あたし達が整備しているこのレース仕様の1969年式モーリスミニクーパーの事だろうか。ガレージの冷蔵庫に磁石で止めた、町長が胸とお腹を張ったポスターを見やって、睨むように目を細める。


「古くさい町ではない、古い街並みと美しい自然が保たれている素晴らしい町なのだ!町民の皆さん、これからはこの環境を活かしてイベントで地域を盛り上げよう!」


 さびれた町を骨董品の車でレースをして活性化をするのだと、町長が提案したのが二か月前。

 半島の岬を目指すコースを考え、賞金は二百五十万円と奮発し、意気揚々とポスターをつくり広報を行い、たった三十人の参加を集めたのが一か月半前。

 そして、出納役が賞金を持ち逃げして行方をくらましたのが一か月前だった。


 今更中止もできず、町民が勝てばいいのだと助役が町内放送を使ってまで参加者と車を求めた結果、町には老人と、農業用の軽トラックとオート三輪、そして修理が必要な古いモーリスしかない現状に気づいたらしい。町長が頭を抱えているとき、土地が安いがために飛びついてきた我が大学の分校舎(あたしはあえてキャンパスとは主張しない)の自動車部という存在を思い出し、ガレージで夏の暑さで溶けている私と詞を発見したのが三週間前だった。


「何すか、町長」

「こら、葵、失礼でしょう。ええと、なにか御用でしょうか?」

「君たち、君たち、修理をしてほしい車があるんだ」

「まぁ、そのくらいなら‥‥」

「それで、レースにも出て欲しい」

「嫌です」


 塩をまくように町長を追い出し、行儀悪く足を拡げてソファに座る。珍しく詞もあたしの隣に飛び込むように座り込んで足を組む。


「葵、走るのやめたの?」

「もう、大学に入る前の話じゃない。そんな昔のことは忘れちゃいました」

「高校では一緒にカート競技のライセンスを取ったり、モトクロスのレースとか出たりしたじゃない。学校の裏山を荒らして怒られて、でも最後には世界に出るんだーって先生に向かって啖呵を切ってね」

「世界に出られる力がないってわかったのよ。それに地元が好きだしね」


 それは半分本当で半分嘘だ。才能が足りないのは分かっている。レースで食べていけるはずはない。でも本当は走りたい。エンジンの振動を体中で感じてどこまででも行きたいのだ。この町を出て、日本や世界中をめぐり、新しいものに出会いたい。車はそんなあたしの何処へでも行けるパスポートなのだ。いや、パスポートだと思っていた。


「葵、昨日、詞ちゃんが入院したんだって、あなたたち仲がいいんでしょう、お見舞いに行きなさい」

「はーい」


 母にそういわれた高校三年の夏、都心の大学の入試要項を片手にあたしは病院にいった。詞も不運だな、きっと夏バテかなんかだろう。


「おーす、詞。どうしたんだ?」

「‥‥葵、ううん、少し体調が悪くてね。でも大丈夫、お薬をもらったからすぐ退院できるわ」

「そうか、早く治しなよ。なぁ、それより来年、この大学に一緒に行こうよ。女の子で工科大学は少ないかも知れないけれど、あたしがいるから大丈夫。詞も機械いじり得意だもんね」


 夕焼けが差し込む病室で、困ったように詞とそのお母さんが笑う。結局その夏は彼女と遊べずに終わり、そして入退院を繰り返す彼女は、そのまま町内に分校舎がある今の大学を選んだのだ。

 頬がやせこけてきた詞を見て、あたしも町内に残ることを決めた。レースを走るのが好きなのではなく、一緒に走ったり、レースでの活躍をほめてくれる詞の顔こそが見たかったのだ。車はパスポートじゃなかった。詞こそがあたしを外の世界に連れ出してくれるパスポートだと気づいたからだ。

 

「葵、葵、聞いているの!」

「あ、あぁ、ごめん!詞。へへっ、ちょっとね。考え事」

「もう、しっかりしてよ。‥‥町長のあの依頼だけど、受けましょうよ」

「え、でもレースはこりごり‥‥」

「何をいっているの、私がでるの!あ、でも車の整備は二人でしようね」


 ダメだ、とはいえなかった。詞が好きなことをできるなら、そうさせてやりたかった。


「‥‥分かった。でも詞は体調が悪いんだし、無理がでたらすぐ中止だよ!」

「勿論、わかっておりますとも」


 その日から、暑い昼は私が、涼しい夕方からは詞も加わりモーリスの整備をしていった。詞は、昼間は母親と出かけているらしく、時折一緒にガレージに来ていた。夕方から日の沈む二時間だけ、あたしは彼女との時間を過ごす。二人で一つのものを作るこの時間は、思ったよりも楽しかった。それに悪戯好きな詞は時々車の中に手紙を仕込むのだ。昼間の作業を任せきりしている申し訳なさもあったのだろう。どこどこにお菓子が隠されているだとか、あたしの秘密の品をソファの下に入れておいたとか。あたしはそれを楽しみに毎日ガレージに向かうのである。


「すこし、体調が悪いので三日ほど休むね」


 モーリスの修理がほぼ終わり、後は詞用にチューニングするだけとなった一週間前、彼女は病室のベッドでそういった。


「もう、無理をして!車の事は安心して、あんたがどんな荒っぽい運転をしてもいいように完成させておくからね」

「ひどいなぁ、私の性格と同じで運転は優しいんだよ!」

「ほう、机の上にあたしの恥ずかしい泣き顔の写真を置くのが優しいと?しかもあれ、詞があたしの涙をふき取っているじゃん、まるで子供をあやすようにさ!」

「ははっ、あれは葵がレースで二位になった時の写真じゃない。いいじゃん、泣き顔。力いっぱい出しきったって感じでさ。羨ましい」

「‥‥なら、町内レースで二位になった詞の泣き顔をあたしが撮ってばらまいてやるからな!」

「きゃー、それは恥ずかしい。せめて優勝の笑顔の写真にしてよ。宝物にするからさ」

「やっぱ恥ずかしいと思ってんじゃん!」


 でも、そのまま詞は帰ってこなかった。


「何でよ、何で、何で、なん、で‥‥」


 土砂降りの中、あたしはガレージのソファに横たわって引きこもる。

 雨は好きだ、世界と遮断してくれるから。晴れは苦手だ、外に出なければいけないから。そう、パスポートを持たないあたしは何処へだっていけやしない。


 ぼろぼろのトタン屋根から雨漏りがして、ピカピカに磨き上げたモーリスにぴちゃんと当たる。その音に惹かれるようにふらふらと運転席に座り、ハンドルを握る。助手席には町内レースのパンフレットとコースの地図が無造作に置いてあった。あの子は入院のギリギリまでレースに出ることを考えていたのだろう。やけに分厚い地図を手に取ると、便箋がはらりと助手席に落ちた。震える手でその便箋を手に取ると、やはり詞からの手紙だった。


 葵へ


 がんばったのだけど、やっぱりここが限界みたい。だから葵に後を任せます!

 いや違うね。ごめん、多分こうなると分かってた。

 やっぱり葵は走らなくちゃ。そう考えて引き受けたの。

 

 私のせいで地元に残ってくれたこと、気づいてたよ。

 実は怒ってたんだぞ。馬鹿葵!

 でもありがとう。うれしかった。


 やっぱり葵は広い世界に出て走り続けて欲しい。

 走って、走り切って、喜んだり、泣いたりしてちょうだい。

 単純で、大げさで、向こう見ずで、ワガママで、

 それでいて優しい葵が大好きです。


 このモーリスを組み上げられて本当によかった。

 私たちで直したこの子が、葵をきっと外に連れ出してくれるはず。

 このガレージから世界へ!

 私はいっしょに行けないけれど、かわりにこの子に外を見せてあげてね。


 最高の友人と最高の車の活躍を祈って。かしこ


 手紙を胸に、ハンドルにもたれかかって嗚咽する。

 雨音が優しく包むようにあたしの泣き声を掻き消してくれた。




「では参加者の皆さん、安全に気を付けて、スピードを落として頑張ってくださいね!」


 レースの当日、小雨が降るなか、町長の誰も聞いていない長いスピーチが終わり、いよいよレースが始まろうとしている。あたしはモーリスから顔を出し、町長に笑顔で挨拶をする。


「おぉ、葵ちゃん。今日はよろしく頼むよ、必ず、必ず優勝してくれよ」

「もちろんです。でも、賞金は受け取ったらダメなんですよねぇ」

「‥‥はい」

「だから優勝すればこの車、もらってもいいですか?」

「え、でもこの車も高いよ。私の親戚から無理をして持ち出したんだ」

「ほこりを被って数十年。ないものと思ってもいいのでは?あぁ、何か優勝を町外の方に譲りたくなっちゃうなぁ」

「えーい、構わん!そのモーリスは君のものだ。その代わり優勝だぞ?絶対だぞ?」

「任せてください!あ、あと優勝した時のシャンペン、用意しておいてくださいよ。新聞にかっこよく載りたいので!」


 表示器代わりの町人たちのカウントダウンが始まった。正規のレースに比べれば目を覆いたくなるようなレベルだ。だが、いまのあたしには心地いい。

 スタートの合図とともにあたしたちのモーリスが先頭に躍り出る。歓声を受けてゴールの岬に向けて疾走する。

 農道のでこぼこにハンドルを取られ、多くの車が田んぼに突っ込んだ。この町内レースを甘く見ず、デリケートなチューンをしていた車から脱落していく凄惨さ。意図的に外部参加者に接触をしているのは町民のオート三輪だ。多くの怨嗟の声を背景に、モーリスは順調に走り続ける。やがてゴールの岬が見えてくるが、ここからは急坂な林道だ。古いエンジンが悲鳴を上げ、果たして坂の頂上で異音と共にエンジンがストップした。でも後は下りるだけだ。最後は人力で押そうと車を降りた時、ここにいるのはあたしだけだと知った。

 坂の下では多くの車が煙を上げ、リタイアした町民と外部の参加者たちが肩を組み、泥だらけであたしを応援してくれていた。おかしくておかしくて、モーリスにもたれかかったまま雨のなか笑い出す。

 思いつめれば何も見えない。たぶん、すこしだけいい加減に構えれば人生はうまくいくのだろう。なんだ、ここもずいぶんいい場所じゃないか。



「さぁ、一緒にゴールしよう」


 相棒を軽く叩いて、ゆっくりと推し始め、下り坂で勢いがつく前に飛び乗った。雨は小雨にかわり、やがてそれも太陽に取って代わった。強い日差しが雨あがりの一本道を眩しく照らす。その先には海と空が世界を半分に分けていて、モーリスはそこを目指してのろのろ進むのだ。このまま空へ飛んでいくのだろうか?それはどこまででもつづく、まるで新しい世界へ続く道に感じられた。

 

 ゴールでは大漁旗を持った助役が飛び上がって旗を振り、あたしは車を出て岬の先端に立った。


「詞、いってくる。でもやっぱりここが好きだから、いつかは帰ってくるよ」


 モーリスに寄りかかり、空を見上げてそう叫ぶ。涙が零れ、空が揺れる。その時に何故か雨が降ったのだ。雲もなく、美しい空から降る雨は優しくあたしの涙をぬぐってくれた。


「葵ちゃん、優勝おめでとう!新聞社が取材したいって!写真とるよー」


 笑みを隠そうともしない町長がシャンペンではなく、日本酒片手に記者を連れて走ってくる。あたしは大きくため息をついた後、笑顔で大きく手を振ったのだ。


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空に走る 夏頼 @natsuyori_kiyohara

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