おわりに

夏はまだ続く

 葉月を迎えた鎌倉の草陰では、早くも秋虫が鳴き始めていた。

 リンリンと、秋の気配を感じさせる鳴き声が高らかに鳴る。そうかと思えば、生暖かい風が首筋を撫ぜてとおり過ぎていった。じっとしていても汗が噴き出してきそうな熱帯夜だ。


「あっつーい!」


 しずくちゃんが、耐えかねたように叫ぶ。驚いたのか、虫の音はぴたりと止まった。


 日が傾いてすでに数時間、庭はじっとりとした蒸し暑さに包み込まれている。


 西の空は未だ燃えるように赤く、東の空には一番星が輝いている時刻のことだ。刻一刻と色合いを変える天は、もう間もなく紺碧の空に瞬く星に埋め尽くされるだろう。


「お待たせしました、スイカ切れましたよ」


 私はお盆にスイカを乗せて、縁側に顔を出した。


「いよっ! スイカを持ってる寿葉ちゃんも可愛いよっ!」


 いの一番に大きな歓声で答えてくれたのは、幸村さんだ。

 いつもどおりの元気な様子に、つられて微笑がこぼれる。

 彼のそばの縁側には、しずくちゃんと時雨さんが庭に足を放り出して座っている。


(このメンバーがここに集まってるのって、初めてかも)


 なんとも不思議な光景だ。こうして集まったのにはわけがある。

 先日の夏祭りでは、いろいろとトラブルが重なり、せっかくの花火を堪能できなかった私。


 それを大層哀れに思ったのか、時雨さんがしずくちゃんと相談して『第一回、西御門邸プチ花火大会』を開催してくれることになったのだ。


 仕事上がりの幸村さんを招待し、コンビニの花火セットを準備して意気揚々と迎えた本日七時。


 冷房の効いたダイニングで四人一緒に豆板醤入りピリ辛肉うどんを食べ終えて、いよいよ本日のメインの時間がやってきた。


「今日の浴衣姿も可愛いよ! すっごく似合ってる!」

「当たり前でしょ。今日だって、あたしが寿葉さんに似合う柄を三時間かけて選んだんだから」


 鼻高々な様子で答えたしずくちゃんが、スイカを手に取る。


 庭で花火の準備をしていた幸村さんも縁側に戻ってきて、スイカを選びはじめた。


 そんな彼らの隣で、私はしずくちゃんが選んでくれた浴衣を見おろしてみる。


「浴衣、ありがとうございました。すごくかわいいですね」


 今日、しずくちゃんが選んでくれたのは、麻の葉模様の浴衣だ。淡い色合いの緋色と紺のグラデーションの生地に白の模様が大人っぽくてお気に入り。


 素敵な浴衣に表情が緩む私に、しずくちゃんは誇らしげに胸をそらした。


「麻の葉には虫が寄りつかないからね。虫除けよ、虫除け。ねえ、お兄ちゃん?」

「ねえ待って、ちょっと待って。虫って、もしかして俺のことだったりする?」

「へえ、わかったんだ。幸村さんにしては上出来じゃない」

「しずくちゃん、辛辣ぅ!」


 くねくねしながら嘆く幸村さんを片手でしっしっと払いながら、しずくちゃんがきれいな顔に満面の笑みを乗せる。


「はあ、スイカもおいしかったぁ! ごちそうさま。それじゃ、花火しようよ。あたし、色が派手なヤツがいい! 後で友達に写真送るから、映えるやつ撮って」


 しずくちゃんがはしゃぎながら花火を鷲掴みして庭に飛び出すと、追いかけていった幸村さんがライターでろうそくに火をつけてあげる。吹き上がる虹色の火が、池の水面をきらめかせた。


 時雨さんはそんなふたりを縁側からのんびりと眺める。


「時雨さんは花火、やらないんですか?」

「……ええ、まあ」


 時雨さんは深々と頷いた。


「もしかして花火、お嫌いでした? 無理させちゃったんじゃ」

「いえ、綺麗だとは思いますよ」


 ずいぶんと含みのある返事だ。なにやら思うところがあるらしい。


「もしかして、怖かったりします? 小さい頃、花火で火傷したとか」

「こ、怖くなんてありませんよっ。たしかに昔、足元でねずみ花火が着火したことがありますが、その程度なんということもありませんからね」


 時雨さんはものすごく早口になって、一息に言い切った。トラウマになっているらしい。またひとつ、彼の弱点を見つけてしまった。


「貴女はどうぞ遊んで来てください」


 時雨さんはそういうなり、私に残っていた線香花火を一本持たせてくれた。


 受け取ると同時に、暗がりからしずくちゃんの悲鳴と幸村さんの雄たけびが響き渡ってくる。


 そちらを見ると、なぜか猛烈な花火の火の手が挙がっている。どう見ても一本で出せる火力ではない。


「見て見て、寿葉ちゃああん! 花火十本盛り!」


 両手に握る花火に一斉着火したらしい幸村さんが、激しく噴出する火花を振り回している。隣の時雨さんは、無言のうちに縁側から奥のリビングへ後ずさった。


 どうやらハートを描いているらしいと気づいた時には、すでにしずくちゃんが幸村さんにしがみついていた。


「ちょっと、信じられない! どうしてひとりで全部使っちゃうのっ? もう残ってないじゃない!」

「ああ、ごめんよ、しずくちゃん。俺のほとばしる熱い想いがすべてを焼き尽くしてしまって……」

「なに寝惚けたこと言ってるの? 新しいの買いに行くから、早くついてきなさいよっ」


 どうやら今の必殺技によって、全ての花火が尽きたらしい。ぷりぷりと怒り心頭のしずくちゃんに、時雨さんが袂から財布を取り出して縁側に置いた。


「しずく、僕の財布を持っていきなさい。客人に払わせるな」

「はあぁ、気前いいなあ、西御門さん!」

「あんたはいつも調子がいいわよっ」


 くねくねと身体をくねらせておべっかを使った幸村さんに、しずくちゃんが研ぎ澄まされたとげのある台詞を繰り出した。


 そのまま一緒にコンビニに向かったふたりを見送って、私は時雨さんを振り返った。


「時雨さん、大丈夫ですか? 花火、まだ続きそうですけど……」

「いいです、貴女が楽しそうなので」

「そ、そうですか」


 さらりと言われた言葉に、どういうわけか鼓動が波打った。


 時雨さんは相変わらずクールなものだったけれど、私はなんとも落ち着かない気分になる。これまでもふたりになることは多かったはずなのに、最近は妙にどきどきしてしまうのはどうしてだろう。


「……待っている間、線香花火でもしたらどうですか」


 彼は、まるで変わった様子はないけれど。


「少しなら残っているようです。時間つぶしにはなると思いますが」

「じゃあ……」


 時雨さんに勧められて、私はろうそくの火で花火の穂先を炙った。


 すぐに暗闇のなかでぱちぱちと弾けだした小さな火を、しばらく静かに見おろす。


 先に口を開いたのは、時雨さんだった。線香花火程度の火力なら問題ないのか、いつの間にか縁側に戻ってきている。


「線香花火の火には、それぞれ名前がつけられているのを知っていますか?」

「名前、ですか?」

「はい。最初の玉のような炎を牡丹、火花を散らす松葉、勢いの落ちた状態を柳、最後の細い火を菊に見立てて呼ぶんです」

「へえ、風流ですね……」


 ちょうど見下ろす先で火花が激しくなった。たしかに尖った松の葉に見立てられたのもわかる。


 じっと見おろして、柳になるのを待っていると、ふと頬に視線を感じた。ふと顔を上げてみれば、時雨さんの夜空のように静かな瞳と目があう。


「……時雨さん? どうしました?」

「いえ。……ただ、きれいだと思って」


 また鼓動が早まる。


 だけど、すぐに花火のことだと思いなおした。目の前では、いつの間にか勢いの落ちた火の粒がさらさらと地面に向けて流れているから。


 それでも、じっとしていられずに私は目を泳がせた。


 庭の隅では、木槿むくげの花びらが夢見鳥のように、はらはらと音もなく舞い散っている。


「そ、そうですね……。私もきれいだと思います、花火」

「違いますよ。僕は花火ではなく、貴女がきれいだと言ったんだ」


 ぽとり。


 線香花火の火が落ちた。

 動揺して手が震えたせいか。哀れ、落ちた火の玉は地面の上で力なく消えてしまう。


「急に、どうしたんですか」

「どうもしてません。ただ、……貴女がここにいる。帰ってきてくれてよかったと、今、改めて思っただけの話です」


 時雨さんが燃え尽きた花火を見おろして呟いた一言。それはつまり、どういう意味か。


 消えた小さな火花の代わりに、胸の奥がちりちりと火のついたように熱くなる。


 次第に熱を帯びた頬を隠すように私はうつむいた。


 その言葉に隠された想いを探るべきか、否か。

 残念ながら、すっかりのぼせあがった頭では、もう正答など導きだせそうになかった。


 ああ、それにしたって熱い。暑い。


 長い真夏の夜はまだまだ、続くらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鎌倉小町ろまんてぃゐく 梅本梅 @umemotoume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ