鎌倉小町ろまんてぃゐく
梅雨が明けると、夏は押し寄せるように訪れる。あっという間に景色は青々と塗り替えられ、鎌倉はすっかり夏日和に染まり切っていた。
あちこちの境内に生い茂る緑の生い茂る木々からは、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、アブラゼミ――多様な蝉の大合唱が途切れることなく響いている。
その鳴き声を聞きながら、私は小町通り入り口にあるイワタコーヒー店にやってきた。ここは分厚い二段重ねのホットケーキが有名なお店だ。
店内はレトロな雰囲気が漂い、時間によっては長蛇の列ができあがる(休日は常に満席だ)。
だけど、今日は平日。お昼のピークを過ぎた夕暮れのため、スムーズに店内に入ることができた。コーヒーのいい香りが鼻孔をくすぐる。
私は対応に出てきてくれた、これまたレトロな制服の店員さんに声をかけた。
「あの、約束をしていた近江ですが」
「近江様ですね、お連れ様がお待ちです」
案内に従って店内奥に進むと、ソファに腰かけてコーヒーを啜っていた老人が私に気づいて片手を挙げた。私はすぐ彼に頭を下げる。
「ご無沙汰しています、板前長。腰の調子はいかがですか」
「上々だ。それはそうと、そうかしこまるな、板前っつったって、元がつくんだぞ。いや、今は元元板前長か?」
すっかりしわだらけになった顔で笑う老爺は、私が以前師事していた橘さんだ。
今日は、鎌倉にちょうど用事があるという彼に呼び出され、ここで待ち合わせをしたのだった。
「今日は急に呼び出してすまなかったな」
「いえ、私こそ以前ご連絡をいただいていたのに、折り返しもせず……」
「いや、あんなことがあって連絡する気をなくすのもわかる。俺こそ何度も連絡して悪かった……。おまえの気持ちの整理がつくのを待とうと思っていたから、先日、西御門さんのご子息から連絡を貰った時には驚いた」
やはり、時雨さんが連絡をしてくれていたらしい。出がけにちらちらとこちらを見てきていたのは、そういうわけか。
「小松のことは、なんといったらいいか……。とにかく、俺の管理不行き届きだったなあ。女将もなにやってんだか、寿葉、おまえには本当に悪いことをしちまった」
「ちょっと、橘さん」
目の前で頭を下げられて、私は狼狽した。
「やめてください、橘さんはなにも悪くないじゃないですか」
「いいや。女というだけで侮る者がまだまだ多い業界だ。それを知っていて、店の格を落とすような男を後任にした俺の責任だ。おまえは覚悟のできた、いい料理人だった。もちろん、まだ芽が出たばかりだったが」
自然と笑みが浮かんだ。少し前なら、意固地になって受け取れなかった言葉も、今はすとんと胸の底に落ちてくる。
「はい。私も力が及びませんでした。橘さんにはあんなによくしていただいたのに」
きっと、私はほんの少しだけ変われたのだと思う。あの夏祭りの夜、時雨さんにもらった言葉のおかげで。
橘さんは私の変化に驚いたように見えた。寸刻、丸くなった目がすぐに真剣みを帯びる。
「寿葉。真面目な話をしよう。もう一度……、今度こそ一花咲かせようとは思わないか。俺の友人がやっている店が料理人を探している。こいつは信用できるやつだぞ」
「そう、ですね……」
おまえはどうしたいと、厳しいながらも優しい目が語り掛けてくれる。
私の答えはもう、決まっていた。
ガサガサとビニール袋が音を立てる。
閑静な住宅街が橙色に染まりゆく時間。じりじりと照りつける夏の夕の日差しには、ヒグラシの鳴き声が溶け込んでいた。
蒸した風が、もう間もなく咲き終わる山梔子の甘い香りをまとっている。
「寿葉ちゃあああああん!」
「あ、幸村さん。こんばんは」
夕食の買い出し帰り、私に大きな声をかけてきてくれたのは幸村さんだった。
突然の呼びかけにも、最近はもうすっかり慣れっこだ。
「はい、こんばんは! これからお帰りですかっ? お送りします!」
人力車を引きながら、目をきらきらと輝かせて駆け寄ってくる姿は、まるで大型犬だ。
「いえ、すぐそこですから。でもちょうどよかったです。お話したいことがあったので」
「荷物持ちの拝命ですかっ?」
「違います。今度、この間いただいた手ぬぐいのお礼をしようと思っていたんです。もしお弁当とか作ったら、食べてもらえますか?」
「ぎゃあああ! それは、もしかして愛妻弁当というやつですかっ?」
「なぁに意味わからないこと言って、寿葉さんに絡んでるのよっ!」
ぐいっと背後から私の腕に抱き着いて、ぴしゃりと言いつけたのはしずくちゃんだった。すっかり仲良くなれた気はするけれど、彼女はやっぱり警戒心丸出しの血統書付きの猫のようだ(背中の毛が逆毛だっているのが見える。もちろん幻覚だ)。
「しずくちゃん、偶然だね。今帰り?」
「そーよ」
彼女は幸村さんに向けた手をシッシッと振って追い払おうとする。
けれどもやられたほうは大喜びだ。
「しずくちゃん! 今日も可愛いね!」
「当たり前でしょ、あたしよ!」
「でもごめん、今の僕は寿葉ちゃん一筋!」
「聞いてないから! 行こっ、寿葉さん。構うだけ時間の無駄!」
……と、しずくちゃんは私の手からスーパーの袋を片方奪って、スタスタと歩き出す。
「それじゃ幸村さん、また」
「うん、またね~!」
ぶんぶんと手を振ってくれる幸村さんに一礼して、私はしずくちゃんを追いかけた。
振り返ると、幸村さんはまだ手を振ってくれている。
私は手を振り返して、それから「信じられない」とばかりにじっとこちらを見つめるしずくちゃんと目が合った。
「振り返さなくていいのに。手の無駄遣いだよ」
これまた手厳しい一言に、つい笑ってしまう。
「なに? どうして笑ったの?」
「ううん、なんとなく、好きだなあって思って」
「えっ! 幸村さんを? ないないない! だめだよ、あんな万年ナンパ男!」
「ううん。この街が好きだなあって思ったの。まだ鎌倉に来て半年も経ってないけど……」
しずくちゃんは怪訝そうな顔で、ぴたりと動きを止めた。
「……そう? スーパーは少ないし、デパートもないし、駅は遠いし、休日は観光客だらけでバスも道路も大混雑なのに?」
「うん。空気が好きなの。ここに来てよかったなって思うよ」
時雨さんやしずくちゃん、幸村さん。この街で出会った人たちのまっすぐなところ、ひたむきなところ。それらを思い返しながら答える。
彼女は、やっぱり不可思議そうな顔をして首を傾げていた。
「……ふうん……、そうなんだ」
夏の夕は長い。長い影を踏みながら、私たちは帰路を進む。
「ねえ、寿葉さん。今日の夕飯はなぁに?」
「今日はね、厚切りベーコン入りの冷やし中華とワンタンスープ。あと餃子も焼こうかな」
「やった。あたし、ワンタン増し増し。……って、あれ。お兄ちゃん?」
夕飯の話をしながら歩いていると、たどり着いた西御門邸の門前に立つ着物姿の青年が視界に入る。
近づいてみたら、その人はたしかに彼女の言うとおり、時雨さんだった。
彼が、こんな風にひとりで外にたたずんでいるのは珍しい。
門に肩をもたれて夕焼け空を見上げる彼の端正な横顔には、宵の影が差し始めていた。
「お兄ちゃん、なにしてるの?」
ビニール袋をガサガサ揺らしながらしずくちゃんが駆け寄ると、時雨さんははっと
して私たちを見る。少し驚いた時の顔だ。
「しずく……、と、寿葉さん」
「どうしたんですか、こんなところで」
この数か月、毎日のようにそばにいたので些細な変化でだんだんと彼の感情も読み解けるようになってきた。
私を見つめる今の時雨さんの瞳には、驚きだけではない、焦燥や疑問が入り混じっている。
「……貴女が、もしかしたらもう戻らないかと思ったら心配で、つい」
「え?」
「橘さんが、料亭を紹介してくれたでしょう。転職ができるように、と」
「……」
読み解けるようになった感情だけじゃない。
クールに見えて、意外と人間らしいところ。怖いものが苦手で、動揺しやすいところ。いつでも気遣ってくれる優しいところ。着物の知識がたくさんあって、仕事は真摯にこなすところ……。
もっと、知りたくなった。
「荷物、全部置きっぱなしでいったじゃないですか。帰らないなんて、ないですよ」
「ああ、それもそうですね……」
橘さんのことも、きっとこの人が手を回してくれたのに、どうして心配そうな顔をするのだろう。
だから、期待したくなってしまうのだ。
まだ、ここにいてもいいのだろうかと。
「……なに? ねえ、なんの話?」
「寿葉さんにうちを辞めて、料亭で料理人の修行に戻れるように伝手のある板前長にかけあったんです」
「はっ? なんで? なんでそんなことお兄ちゃんが勝手に決めるの?」
まっさきに反応したのは、しずくちゃんだった。
さっと青ざめた顔で私を振り返った彼女が、縋るように袖を引いた。
「そうなの、寿葉さん? やだやだ、辞めないでずっとうちにいてよ!」
「それは彼女が決めることでしょう。そもそもおまえ、さんざん寿葉さんに嫌味を言ったじゃないですか。あれは誰でも気が滅入ると思いますよ。今更我儘を言うのはよしなさい」
「わああっっ、それは謝るからぁ! ごめんなさい! もう言わないから、ずっといてよぉ!」
ここぞとばかりにしずくちゃんにちくりと言った時雨さんに、彼女はとうとう私の腕に抱き着いた。まるで逃がすまいとするかのように。
ここに来た日は、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
私がいなくなってもこの人たちの生活はなにも変わらないだろうと、疑いもしなかった。今は、少し違う。少なくとも、私には未練があった。
「……私、ここにいてもいいんですか? おふたりに聞いてほしいことも、食べてほしいものも、まだたくさんあるんです」
本当は、どう切り出そうか悩んでいた。
橘さんのお誘いを断ってしまったこと。
まだ、ここに家政婦としておいてほしいと願っていること。
拒絶されたとしても、私はここでやっていきたかった。
もう気づいてしまったから。思い出してしまったから。どうして、料理人になりたかったのかを。
「いてください、ずっと。貴女がここにいたいと思う限り」
時雨さんの柔らかな声に、自然と笑みが零れる。
「それなら、こちらこそお願いします」
着物もお茶もお料理も、たくさんの想いと一緒に長い時をかけて私たちに届いたものだ。
きっと、私が死んだ後にも続いていくはずのもの。私が残せるもの、繋げられるものは微々たるものかもしれない。
それでも、今度こそ自分の決めた場所から新しい道を歩いていきたい。いつか後悔をしないように、大切なものを残していきたい。
自分のなかに生まれた小さな夢は、すとんと胸の奥に落ち着いた。
そんな私の前で、時雨さんが門を開けてくれる。
「おかえりなさい、寿葉さん」
「はい、ただいま戻りました」
ここは悉皆屋『鎌倉小町ろまんてぃゐく』。
私の帰る場所。そして、新しい出発点だ。
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