文字の墓場

雨宮祥子

文字の墓場

 人はいつ死ぬのか。死んだことになるのか。

 ある人は「体が死んだとき」と言った。

 ある人は「脳が死んだとき」と言った。

 ある人は「心が死んだとき」と言った。

 そして彼女は──



「もし、体が死んでいようがいまいが──忘れ去られたときじゃありませんか?」

 そう言ってまた、開いていた本の頁を捲った。彼女が読んでいたのは、私の書いた作品であった。

 夕暮れ時、適当に純喫茶で時間を潰していた時の話である。彼女が、私と会っているときでさえ本を手放さないのは、私達の間で半ば習慣となっていて、今更そこに何が感情が起こる訳ではない。普通であれば、不機嫌になる者もあるだろうが。しかし彼女は、不思議なことに、頁を捲る手を止めず、そして私の話も聞き漏らすことが無いのである。

「言うでしょう。『心の中で生き続ける』だとか」

 彼女が珈琲のカップを手に取る。それを口元に近付けて、中身が既にないことに気が付くと、表情は動かさないまま、目を瞬かせた。そしてカップをソーサーに戻して、本を閉じる。

「……例え話ですが。ここの喫茶店には、毎日同じ席で珈琲を飲んでいる客がいますが、知っていますか」

「……いや」

 普段と比べると珍しく、彼女が私の目を見つめながら言葉を放った。いつも彼女の関心を集めている本は、今ばかりはその効力を発揮しないようだった。

 ……毎日珈琲を飲んでいる、そのような者がいるとは知らなかった。今まで、この喫茶店には何度も来たことがあるというのに。本ばかり見ている彼女の方が、私より多くのものを見ている。

「貴方の記憶に彼がいなければ、彼は貴方にとって、いないものと同じですね?」

「……確かに」

「ええ、確かに存在しているはずなのに。しかし、人の認識とはそういうものです」

「はぁ……」

「同じですよ、貴方のこれと」

 そう言って手の本を指し示す。私が疑問の意をもって彼女の瞳を見つめると、「そろそろ長居しすぎましたね」と彼女が立ち上がったので、慌ててそれに倣った。とっくの昔に飲み干された、二つのカップがテーブルに残った。



 例えば文学は、書き上げたときに第一の死を迎える。文学を、作者が生かしているものであると定義すれば、完成して作者の手から離れた瞬間に、内容はどうあれそれは死ぬのだ。

 そして彼らは、一度死んだとしても、もう一度生を手にすることが出来る。つまりは誰かに読まれるときだ。その文章を認識し、情景を思い浮かべたときに、第二の生がそこで始まる。

 しかし、その文学の記憶が読者から消えたとき──そのときに、文学はやっと、本当の意味での死を迎える。なぜなら、誰にも認識されない物語は、何処にも存在しない物と同じなのだから。


 つまり、あの時彼女が言っていたのは、そういうことだったのだ。人はいつ死ぬのか、その答えが示されていた。ただ、私はあの時、彼女の言葉の意味をあまり理解出来てはいなかったが。

 この会話が交わされたのは、彼女が病気になるずっと前。敬語が抜けず、私たちが大分ぎこちない頃の話だった。それなのに、これに気付いたのは、"彼女の体"が死んでから何年も過ぎてからだった。



 彼女が、不治の病に罹っているということを聞いたのは、私達が交際を始めて二年が経った頃だった。それはあまりにも突然であった。医者がどれだけ手を尽くそうが、どれだけ大金をはたいて薬を買おうが、神に縋って祈りを捧げようが、彼女の余命を延ばすことはそもそも可能な話ではなかった。

「……それは、一体、何時診断を……」

「一ヶ月前に」

「……何故」

 精神が現実から離れるような浮遊感の中、ようやく絞り出せた言葉がそれだった。私はその言葉を「何故もっと早くに言ってくれなかったのか」という意味で口に出したが、言った瞬間、大きな後悔が私を襲った。

 ──その一ヶ月間、彼女が何を感じ、何を思い、何をしていたのかを思えば。

 そして自分を恨めしく思った。一ヶ月もの間、彼女を一人で悩ませてしまったのだから。何故、気付かなかった。いくら彼女が気丈に振舞ったとはいえ、何も異変がないはずがないのに。私が一番やらなければいけなかったことは、彼女に寄り添って──傍にいることだったのに。

「体調があまり良くなくて、病院に行ったら……。ごめんなさい、直ぐに言おうと思ったの。でも、中々……伝えるのが遅くなって、ごめんなさい」

 彼女は困ったように眉を下げ、苦笑を浮かべて、私から目を逸らしていた。そして、左手は服の端を握りしめ、右手は髪をくるくると弄っていた。──彼女は、今日は本を持っていなかった。

 ただただ、衝撃だった。まさか、彼女が病気になるとは思ってもいなかったからだ。病名はあまり聞くようなものではなく、具体的なイメージは湧かなかったが──それでも、彼女の様子から、難病であるということは見て取れた。

 余命は僅か一年ほど。未確定であるからこそ、未来の時間は無限にあるように思えていたのに、それが理不尽な区切られ方をされたことに対して、行き場の無い怒りが残った。


 それから程なくして、彼女の入院が決まった。



 彼女の病室はいつも、窓が開けっ放しにされていた。暑い日であろうが寒い日であろうが、いつでもそうなっていた。

 彼女の入院生活が始まった頃の秋の日、見舞いに行くと、冷たい風が遠慮無しに病室をかき回していた。「こうも開け放していたら体が冷えるよ」とは言ってみたものの、「部屋の中だけで暮らしていると、息が詰まるんだもの」と返され、それ以上は何も言えなかった。時たま看護師に怒られているようだが、彼女はそれすら意に介さず、気ままに外の風を楽しんでいるのだった。


 入院してからも、彼女は相も変わらず本ばかりを読んでいた。元より病床ではその程度しか楽しみが無いのかもしれないが──最近、同じ本ばかりを繰り返し読むようになっているのに気が付いた。私の著作ばかりを読むのである。

「そうも面白いものでもないと思うけど……」

 見舞いに行く度に私の本を読んでいることに対する気恥ずかしさやら何やらで、思わずそう言ってしまったことがあった。しかしその後、私はさらに気恥ずかしい思いをすることになった。

「そんな訳。ただ……──この『秋風の宵』の香代子って、私でしょう? 楽しくって」

 彼女が読んでいたのは確かに私が、四季を元にして書いた小説の三巻目、『秋風の宵』だった。そしてその主人公が恋する女性の名が、香代子なのだ。

 実際、香代子の人物像を作る時に、彼女を参考にしたのは事実だった。というより、ほぼ彼女なのである。もしこの小説が彼女に読まれれば、それが見抜かれてしまうのは避けようがなかった。

 しかし私は、やはり気恥ずかしさに負けて、それを誤魔化すことを試みた。

「いや、あー……まぁ、少しは……」

 我ながら、下手な芝居だったと思う。まず目線を合わせられなかったし、声は文末になる程小さくなった。そして言葉は怪しいとしか言い様がない。幾ら文章を書く身分であっても、説明に不足のない文章を書くのと、咄嗟に言葉を出す能力は別なのだ。つまるところ、私はあまり口達者な方ではなかった。

「嘘。どこからどう考えても私よ。幾ら誤魔化したって駄目、本人が言ってるんだもの」

 想像はついていたが、やはり誤魔化しきれなかったようで、彼女はすぐにこう返した。反論の余地はなかった。正直、かなり気まずいなと思った。私は彼女に無断で、彼女の姿形、性格まで借りて登場人物を創ったのだから。それに主人公は、小説内で彼女に対する思いを赤裸々に語ってしまうのである。

「はい……すみません……」

 最後は消え入りそうな声になった。すると、俯いていた私を見て、彼女はあら、と驚いたように声を上げた。

「ねえ、私怒ったりしている訳じゃないわ。むしろ嬉しいのよ、こうやって、貴方の記憶に私が確かに息づいているのが分かるんだから」

 そう言って、また私を見て笑う。その表情から、彼女の言葉に嘘がないことが分かった。

 気恥ずかしさが安堵と混ざりあって、そして彼女の笑顔にも釣られて私は少し笑う。彼女も、更に笑う。病室は暖かな雰囲気に包まれ、少しの間、死の現実から私たちを切り離してくれた。


「でもね、貴方は不器用だから、私は──」



 残された一年は瞬く間に過ぎ、季節は冬、春、夏、そして二度目の秋を超えて冬へ巡ってきた。

 風は冷たく乾いていて、衣服の隙間を刺すように吹き荒れる。空は灰色、分厚い雲が、太陽と地面を常に隔てていた。

 彼女の葬式は既に終わっており、私だけが時間に取り残されてしまったようにずっと寒さを感じている。しかし彼女がいないという私にとっての非日常は、その頃には「新たな日常」として落ち着き始めていた。

 実を言うと、私にはこの期間の記憶があまりない。辛い記憶から心を守ろうとする脳の働き故か、そこにはただ漠然とした哀しさしかないのである。


 その哀しさを埋めるように、というより彼女のいない空白を埋めるように、私は「彼女の物語」を書き始めていた。私の目が捉えた姿、交わした言葉、その、彼女の全てを確かなものとする為に。

 そして忘れぬように。

 彼女のいない現実で、ただ自分の心の中にだけでも彼女が息を続けるように。

 それが、私なりの別れの言葉だった。離れていく彼女の手を必死で繋ぎ止めているくせして、私はそれを別れの為の物だと思っていた。


 原稿用紙に、万年筆を使って文章を綴り、それを積み重ねていく。昔つけていた日記を引っ張り出してきて、確かな彼女の姿を思い浮かべながら。

 電子機器が発達している現代において、何故わざわざそんな面倒なことをしていたのか。特に出版しようという文章ではなかったから、という理由かもしれない。いや──ただ、少しでも長く、その文章を書いていたかっただけだ。キーボードで、さらりと打ってしまうのが嫌だった。自分の手で、一文字一文字確実に、ゆっくりと、刻み込むように書いていたかったのだ。乾きの遅いインクのせいで手が黒く汚れる。原稿の文字が黒く滲む。その度新しい原稿用紙に書き直す。長時間万年筆を握っていた為に指がぷくりと腫れたが、その痛みは全くもって気にならなかった。

 私の中で、彼女は未だに生きている。私の脳の片隅で、静かに頁を捲っている、そんな気がしているのだ。私が彼女を忘れなければ、彼女はずっと私の中に生き続けてくれるのだから。

そして書き進める毎に、その姿はよりはっきりと、そして確かなものに変わっているように思えた。

 原稿に穴を開けて紐を通す。一つ一つ丁寧に。そうやって、私は彼女の物語を纏めていた。その手間暇の分だけ、何か彼女に届くのではないだろうか、そんな空虚な妄想を抱きながら。



 しばらくして、両親が家に訪ねてきた。彼女を亡くした私を気遣ってのことだった。

「惜しいな。良いだったのに」

「ええ本当に。気立てが良くて明るくて、器量も良くって、ねえ」

「……そうだね」

 彼らは、訪問こそ私を思ってのことだったのだろうが、それから先のことは特に考えていなかったらしい。好きなことを話すだけ話して、それから少々食べ物等を差し入れてすぐに帰っていった。

 ああ、本当に好き勝手に話していった。口を開けば、彼女の人となりや、どれだけ素晴らしい人であったかばかり話す。

聞いていて、どうにも良い心地はしなかった。彼女を褒められたら、普通嬉しくなるものではないだろうか。なのに違和感が、耳から脳へ、脳から首を伝って喉を通り越し、胸の中に降りてくる。言葉で表しようのない、輪郭すらあやふやな違和感が。彼女の話──そんなことは、私の方がよく知っているというのに。両親よりも。誰よりも、ずっと。

 しかしその時感じた違和感は、ただ「彼女をそれ程よく知らない彼らが、彼女についてまるで何もかも知っているように語っている」ことに対して、のみではなかった。だがその時、私はそれ以外の違和感の原因には気付いていなかった。



 その違和感は、あの後、私から離れることなく付き纏うようになった。

 例えば知り合いに会う度、私の、具合の悪そうなところ──心労等で顔色が悪かったようだ──を見て、色々尋ねられる。そしてそれに答えていると、毎回必ずと言っていいほど彼女の話が話題に上るのだ。流れを考えると、当たり前だが。

 彼らが口を揃えて言うことには、「彼女は良い人だったね」と。馬鹿言え、彼女の何を知っている、とは言わないが、やはり言いようもない違和感が私の胸を支配する。

それがどうしても気持ち悪くて、私は何度か吐いた。何故。どうして。

 依然、理由は分からないままだった。



 ぼんやりと、彼女がいた頃のことを思い出していた。そんな夕暮れが何日も続いた。そんな空白感が何年も続いた。そのうち誰も彼女のことを話さなくなって、私もあまり泣かなくなって、月日は無情にも流れていった。

 そして、その流れる時の中で、私は彼女について未練がましく綴り続けていた「彼女の物語」を完成させた。それは、どんな写真よりも彼女を鮮明に写し取っている。思い出も、何もかも、変化することのない言葉で記し尽くしたのだから。

 ただ、全ての記憶と記録を紙に移したとしても、彼女は変わらず居座り続ける。私の頭の片隅に、小さく、そして確実に。少しその気になれば、彼女が文字を追う横顔を容易く脳内に結ぶことが出来た。

 たとえ数年が経っても。


 しかし、自分の想像の中に彼女を留め続け、日記や物語を読んでは行間に彼女の影を求めるような日々を、そう何年も続けて良いものであろうか。

 続けて、それが健康的な生活だと言えるだろうか。


 恐らく、答えは否なのであろう。

 私は、小説が書けなくなった。


 ものを書くことで生計を立てていた私であるから、それはかなり困った事態だった。金遣いの荒い方ではなかったので、しばらく生活を続けるだけの財産は残っていたが、だからといってそれもいつまでも続けられるものではない。

 どうにも、書くことが出来ない。パソコンに向かうが、手が動かない。原稿用紙を引っ張り出すが、何も浮かばない。昔の思い付きを纏めた手帳を見ても、雑に並んだ文字からは何も紡ぎ出すことが出来ない。


 困り果てた私は、よく散歩に出るようになった。家の周りを適当に回り、時たま近くの川まで歩き、また別の日は公園をのんびりぶらつく。何か、文章を書き始めるための糸口を探して。そして、執筆に詰まってしまった現状を忘れる為に。



 その日も、私は散歩に出ていた。そろそろ色付いた木の葉も水分を失って落ちる季節、散歩道に選んだ川べりはかなり肌寒い。

 誰も隣に連れることなく、ただ一人で歩いていると、色々な考えが頭の中を巡る。それは、今抱えている悩みに対する言葉であったり、昔誰かに言われた言葉であったり、無関係のとりとめもない一言であったりした。

 自分の担当編集が、次の原稿を急かす言葉。

 どうして書けないんだ、と自分を責める私の言葉。

 こういう話はどうか、という、まとまらない思い付きの言葉。

 何より一番堪えたのは、“彼女”が言葉を発しているように感じることだった。

 急かされた時の言葉を思い出せば、「もうお休みの連絡は入れたのだから、急かされることもないでしょう」と彼女が言う。自分を責める言葉を思い出せば、「人間は誰でも、調子が悪くなるときが必ずあるから大丈夫よ」と言う。何か思い付くと、「素敵ね。今度は上手くいくと良いわね」と言う。

 私の頭の中の彼女は、いつも私が欲しい言葉をかけてくれる。欲しい言葉を、望めば望むだけかけてくれる。

 しかしそれは、空虚だ。

 声を聞いた直後は良い。その言葉を、ただ癒しとして受け取ることが出来る。

 だが、時間が経つといつも、気持ち悪くて仕方がなくなる。それは本当に彼女の言葉か? 彼女は私の中に生きているのか? あの言葉は、私が欲しがった都合のいい言葉じゃないか。都合のいい言葉を彼女に被せて、彼女自身の人格を歪めて、都合のいい彼女を作り出しているだけだ!

 そう思うと、寒気がした。頭から喉、喉から胸に降りてきた嫌悪感の塊が、胃液を引き出して戻ってくる。違う。彼女は「人が死ぬのは、忘れられた時」と言った。だから彼女はまだ生きて、いや、そんなこと、そんなことはあるのか?

 あるはずがない。今、頭の中にいる彼女は彼女じゃない!

 ──いつも、そこまで考えたら思考を強制停止させる。これ以上考えると、何かおかしくなってしまいそうだ、という予感があったからだ。

 しかし今日はその限りではなかった。

「でもね、貴方は不器用だから──」

 吐きそうになって思わず蹲り、抱えた頭で彼女の声が響く。

それは記憶の中の声だった。妄想ではなく本当に、彼女が発した言葉だ。

「だから、私の事なんて、はやく忘れてくださいね」

 平穏を保っていた心の箍が外れる。

 彼女は確かに、病室で私にそう言った。はやく忘れろと、そう言った。それがもし、彼女の記憶を大切に抱え続けた私が“こう”なってしまうことを予想した上での言葉だったのならば──

 喉のすぐ手前までせり上がってきた胃液をどうにか飲み込んで、私は未だ道端に蹲ったままだった。

 最悪だ。最低だ。呼吸が荒い。体の奥底から浮き上がってくるような寒気が、外気のせいなのか吐き気のせいなのかも分からない。もう駄目だ、と思った。もう立ち上がれないような気がした。

 私は、彼女をずっと覚えていることで、私の中で彼女をずっと生き続けさせようとしていた。声をかけてくれているような気になっていた。

 しかし、それらは全て、私の妄想で成り立つものだった。

 つまるところ、彼女の死から目を背けていただけなのだ。そして、彼女の言葉を思い出して、それでようやく現実に目を向けただけだ。

 どうしようもない。気持ちが悪い。自分が都合よく作り上げた、そして知人らが「彼女は良い人だった」と評した、誰かに歪められた彼女がどこかに存在するというだけで気持ちが悪い。私の頭の中にいることが許せない。

 私が、彼女の変容に耐えられない。


 その日、どうにか立ち上がって家に戻った私は、半ば衝動的に「彼女の物語」を綴った原稿用紙の束を掴んだ。

 そして破り捨てようと、紐を解こうとして──手が止まった。

 破り捨ててしまうことなど、出来なかった。駄目だった。

 私に出来たことといえば、束を掴んだまま、よろよろと家の床に座り込んで、そのまま無駄に上がった体温が冷めるのを待つことだけだった。



 次の日の朝、天気予報士が曇りのち雨を伝える声を聞きながら、私は目の前に置いた日記と原稿用紙の束を見つめていた。それは、私が彼女について綴った言葉の全てだった。

 起こった出来事、交わした言葉、そこには真実しか記されていない。どうしようもなく大切で、手放し難くて、それでいて存在が許し難いもの。

 庭に出た私は、「彼女の物語」を、石畳の上に置いた。そして、昔どこかのレストランで貰ったマッチ箱を持ってきて、静かに一本取り出す。

 どこか冷静だった。一日眠って頭が冷えたのか、それとも何もかもどうでも良くなってしまったのか。私には分からなかった。

 勢いを付けて箱の側面に擦れば、マッチ棒はしゅぽりと小気味良い音を立てて、赤い心臓に飴細工のような炎を宿した。


 文学は、書き上げたときに第一の死を迎える。

そして彼らは、一度死んだとしても、もう一度生を手にすることが出来る。

 文学を生かし続けるのは、“読む”という行為だ。作者によって生まれた文章は、読者の脳を経て、それぞれに変容していく。

 生まれたその変容を受け入れて、それぞれの解釈を全て正しいと認めること。

 それが生きているということ。

 しかし彼女という人間は死んだ。彼女はもう、彼女自ら変化することはない。

 変化をやめてしまった人間は、外部からの認識によってしか変わることが出来ない。文学と違って、それは生きているとは言わない。

 私には、それら全ての現実を確実に振り払って、罪悪感を完全に断って、これ以上逃げ切るだけの強さが無かった。


 放ったマッチ棒が原稿用紙の束の上に落ちる。

 火は赤く揺らめいて、紙の上を滑るように進んでいく。紙がじわじわと、炭化して黒く、そして灰色に変わっていく。

 焦げ臭い匂いが庭に漂って、ぱちぱちと、小さく炎が爆ぜる音が響いた。

 「彼女の物語」が、焼けて所々読めなくなって、独立したただの文章に変わっていく。そして段々、纏まりのない単語の羅列になっていく。燃え尽きた炭に阻まれて、意味を持たないただの文字になっていく。

 マッチ棒を手放した後、私はそれをただ黙って見ていた。炎の近くにいたせいか、外気にさらしていた部分の肌が痛い。炎の勢いが落ちてきた頃、紙に顔を近づけてみると、物が焼け焦げた匂いで肺がいっぱいになった。

 長期間、狂ったように書き記していた文章は今や見る影もなく、所々焼け残っているのは、精々三文字程度の文字の塊だけである。

 一瞬だった。積み重ねた記録が消えるのにかかる時間は、かけた時間の数百分の一程の一瞬だった。あれだけ沢山のことを書いたのに、色々なことを書いたのに、燃えてしまえば全て同じような灰に変わってしまう。

 頭の中の彼女を殺した。私は彼女を手放した。ただの妄想は捨て去って、残るのは確かな記憶だけでいい。


 しばらくして、火が消えたのを確認した後、私はそれらに背を向けた。空が暗い。天気予報通り、じきに雨が降る。

 焼け残った文字も、あのままにしていれば、すぐに雨に滲んで読めなくなるだろう。


 ──文学は、その記憶が読者から消えたときに、ようやく死を迎える。何故なら、誰にも認識されない物語は、何処にも存在しない物と同じなのだから。

 誰にも読まれなくなった物語は、もう二度と生きることはない。そして、誰にも読まれることの出来ない物語からは、何かが生まれることもないだろう。


 家と庭を隔てる窓を開けて、私は家に戻る。嵐になるのだと言っていたから、ついでに雨戸も閉めてしまった。途端に薄暗くなった室内を見やるが、明かりも灯さずにソファに体を沈ませる。

 目が向く先は、今はもう灰となった日記と原稿用紙の束を詰め込んでいた本棚である。それらがあった部分には何も並べられておらず、ただ空白が私を見つめ返していた。


 喪失感は、恐らくしばらくの間は私を捕らえて離さないだろう。


 しかしそれ以上の、達成感にも似た安堵が、静かに私を包んでいた。


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