4
夕刻に仕事を終えて、日没後に広場で再びハリーと落ち合った。
トムの言う通り、今年の猫は少ないらしい。吊るし台は例年より小規模だ。
街の楽団の演奏を囲みワインを飲み交わす者たち、花冠を頭に踊る者たちで賑わう中、広場に面した教会の前では聖火が燃えていた。
そのうち猫が吊し台にかかり、あの火によって清められる。
「灰を持ち帰られたら、ぼくもっと仕事ができるようになるかな」
喧騒に馴染めずぼんやりと佇んだまま、ハリーがぽつりと零した。
「別に、なんでも願いを叶えてくれるって訳じゃないぞ」
「でも幸せを運んでくれるんでしょ。ぼくがちゃんと稼げるようになれば、父さんは出稼ぎから帰ってこられるよ。そしたら母さんはずっと嬉しいだろうし、ぼくはそれが幸せだよ」
同じような願いを持っている事は兄貴分としての矜恃が許さず言わなかったが、気持ちはよく分かった。埋まり切らない寂しさを抱えて、ただ命ある事だけを感謝するには、糧が足りなすぎるんだ、この世は。
やがて男たちが猫を連れて吊し台に上がった。肢体を捩り抗う2匹の悪魔の化身に、真っ黒な毛並みは認められない。
(まだ探せば間に合うのかな……)
踊りはいつの間にか終わり、楽団だけが相変わらず音を奏でている。これから始まる猫焼きの儀式を前に、大衆の高揚が心を疼かせた。春の魔猫がどこかで見ていやしないかと、ヘンドリクは目を配らせる。広場から伸びる細い路地、大衆の後ろ。大男たちに囲まれてよく見えない。
「リック?」ハリーは不思議そうに、しかしつられて一緒に辺りを見回している。
ふと、ざわめきの中で耳が異音を拾った。
振り返ると、吊し台へ集まっていた人々の輪が何かに押されるように外から割れてゆくのが見える。
少しずつ周囲の人間たちの密度が増すとともに、近づいてくる人壁の割れ目。その先端に、時折飛び出す三角耳の獣の影を見た。
「猫だ!」「悪魔の行進だ!!」
悲鳴と怒声があっという間に近くまで迫り、逃げようとする流れと捕らえようとする勢いに揉まれて足が浮く。
「わぁ!」ハリーが潮流に負け反対側へと引き離された。自身の身体を支えるので精一杯な中なんとか差し伸ばしたヘンドリクの手を、踏み台に猫が飛び跳ねていった。
それは何十匹にものぼる猫の群れ。北の方角から群衆を割いて駆け抜けてゆく。
そのうちの数匹が吊し台の男たちに飛びかかり、いざ縄に掛けられんとしていた猫を解放するのが見えた。男が取り返そうとするも、他の猫がその腕に噛みつき阻害する。
行き惑う足々の隙間を、猫を追うように掻き分けて人混みの外郭へと這い出した。
仲間を救い出し猫の大群が去りゆく。その尾に縋り付こうとする人々の行く手を、
「ぎゃ」
倒れ込んだコントラバスが塞ぐ。楽団員の顔に黒猫が張り付いていた。爪を立て、捕まる前にひらりと身を翻して仲間たちの後ろを追いかけてゆく黒猫の、その瞳はつるばみ色。
春の魔猫だ、と気づいた時にはもう猫たちは道の向こうへ小さくなっている。
そのまま南門を出るつもりだろう。真っ直ぐ追いかけるのは無謀に思えたが、掃除夫の仕事で見つけた抜け道がある。ヘンドリクは急いで脇の路地に飛び込み南を目指した。
南の市門に続く大通りに回り込むと、今まさに街を出ようとする真っ黒な猫の姿があった。
「待て!」
声に反応したのか、黒猫が足を止め振り返る。
(間違いない、あいつだ)
あの猫を広場に連れ帰り、夏至祭を仕切り直そう。予定通り猫焼きをして、灰を拾うんだ。自分のと、母親の分も。きっと父親を呼び戻してくれる。
目を離さずにじり寄るが魔猫は逃げる様子もなく、真っ直ぐとこちらを見返している。どこか懐かしむような、けれど打ちひしがれるような表情で。
――少し、後ろめたくなった。これは生物だ。猫に感情があるのかはよく知らないけれど、何かしらの意志を持って、呼吸して、そこにいる生き物。
この街で暮らしていたんだろうか。物好きな誰かに飼われていたんだろうか。ただ人間を恨んでいるのだろうか。
「……父さんに会いたいんだ」言い訳するように、口から漏れた。
「悲しい目でしか笑わない母さんを、おれ一人で支えていくのは無理だ。寂しくて仕方ないんだ」
かっこわるい、と思っても目が霞んで、自分が泣いていると知る。
静かに佇んだまま、黒猫は暫くヘンドリクの顔を見上げていたが、不意にゆっくりと片前足を上げ、その肘あたりの毛を自ら噛みちぎった。
血の滲む皮膚が露わになる。つい先程まで焼いてやろうと思っていたのに、痛々しい傷が胸を突いた。
黒猫はその毛束を足元に下ろし、今度は戸惑うヘンドリクの顔を見る事もなく門を離れてゆく。
追いかける事はできなかった。
春の魔猫が去ってから、つまみ上げるにも心許ないその黒毛を拾い上げる。
(おれは、この毛を燃やすんだろうか)
あの猫の姿が、何故か頭から離れない。
だがきっと、帰って母の顔を見れば、この躊躇いは消えるのだろう。
街道へ目をやれば、街の離れてゆく小さな影の集合と、少し遅れて後をゆく黒い後ろ姿をかろうじてまだ捉えられた。
この日から、街には猫がいなくなった。
クロスホールにはネズミが溢れ、街の経済を支える織物業だけに皆慌てふためいたが、おかげで暫くはネズミ退治の仕事にもありつけた。
掃除夫にネズミ退治にと街中を駆け回る中、一度だけ、あの魔猫の姿を見た気がした。北門近くの人家の屋根から街を見渡していたその黒猫の瞳が、つるばみ色かどうか確かめる間もなく去っていった。
(さっさと遠くへ逃げればいいのに)
この街を見張っているのか、ただ街が恋しいのか。
あの夏至祭の日、街を駆け抜けて行った猫の群行が何だったのかは誰にもわからない。
ただあの日以降、猫達は沈黙している。まるで人間に忘れられるのを待っているかのように。教会は人々の祈りが悪魔の化身を討ち払ったのだと言うが、相変わらず生活は貧しくて起伏に乏しかった。
ヘンドリクは春の魔猫の毛をささやかな灰に変え、大切に懐に持っている。
未だ父の消息すら知れないが、あのつるばみの瞳の黒猫が一緒に帰りを願ってくれている気がした。
夢みる灰は 雨森 無花 @amemi06
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