エピローグ
仁栄はひとりセントラルパークのベンチに座って、曇り空をぼんやりと眺めていた。時折、涼しい風が仁栄の伸びた前髪を揺らした。久しぶりの外の世界は、彼にとってなんだかまだ夢の中にいるような気がして、不思議な気分がしていた。
視線を空から外すと、若い女性が仁栄の方へ歩いてくるのが見えた。
「トーマ! おいで! こっちよ!」
女性の後ろから大きな白い犬が姿を現し、仁栄の座っているベンチの方へ駆けてきた。
「え?」
犬はベンチの前で急停止すると、「ワンッ」と、野太い声で一回だけ大きく吠えた。それから座ったままの姿勢で、嬉しそうに仁栄の方をジッと見つめはじめた。
それは、彼に何処か懐かしさを感じさせるような眼差しだった。
「こんにちは、突然ごめんなさい。私、遠山由希子と申します。深水さんが入院している間、何度かお見舞いに伺わせて頂きました」
女性は白い犬の首輪をリードで繋ぎながら、仁栄に頭を下げた。
「え……」
「うちのトーマを助けてくださって、本当に、本当にありがとうございます……」
女性はそう言って再び頭を深々と下げた。長い黒髪が風でゆっくりと揺れる。
「え、あ、いや……」
トーマと呼ばれた白い犬は、まだ嬉しそうに仁栄の方を見つめている。まるで彼の心の中に話しかけているかのように、一時も瞳を逸らさないでいた。首輪に付けているペガサスの形のキーホルダーが、時折揺れてカチャカチャと金属音を立てる。
由希子という女性の話を聞いて、このトーマと呼ばれた犬は、仁栄が四年生の時に行った秋の遠足で、少年たちに大きな石を落とされ殺されそうになったところを彼が庇って助けた、あのときの子犬であることが分かった。
傷を負わされた子犬は、その日からずっと長い間、昏睡状態で眠り続けていたという。しかし、数週間前に奇跡的に目を覚まし、それからは急激に成長し始めて、見事に今の大きさの成犬となったそうだ。
彼女の話は聞いていると、仁栄は、まるで冷たい液体を一気に空っぽの喉という器に流し込まれたような、くすぐったい様な、息苦しいような感覚を覚えた。そして彼の頭は、必死に「混乱」と「停止」と「吸収」を繰り返した。
そんな自分の状況に、彼は
「この白い犬、『トーマ』って名前なんですか?」
「ええ、私の主人の名前が、『冬』に『馬』で、『
由希子は悪戯っぽく微笑んだ。
「え?」
「主人は、病気だったんです……妹さんも同じ病気で亡くなっていて、遺伝、なんですかね……ごめんなさい、会ったばっかりでいきなりこんなに話してしまって……でも何故かしら。深水くんとは、何処かで会ったことがあるみたいで、なんだか懐かしくて……」
由希子は再び悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして、そっと目を細めた。
いつの間にか「深水さん」から「深水くん」へと呼び方が変わっていった。その響きに仁栄も、彼女から何処か懐かしさのようなものを感じていた。
「いえ、そんな……」
何と答えて良いのか分からず、仁栄が返す言葉を探していると、目の前の白い犬が再び吠えた。
「ワンッ!」
白い犬は、仁栄の方を先程からずっと見つめていたようだ。犬の瞳は、仁栄に何かを語りかけているようだった。
「トーマは、きっと深水くんのことを覚えているのね」
そのとき、仁栄の混乱している頭の中で、何かが弾けたような気がした。
彼はそっと白い犬に手を伸ばすと、額を優しく撫でる。白い犬は反射的に一瞬目を閉じたが、すぐに目を開けると嬉しそうに仁栄の腕に鼻の辺りを摺り寄せた。仁栄は徐に白い犬をグッと抱き寄せた。
「トーマ……ありがとう」
そのとき、パークの入り口辺りから子供の声が聞こえてきた。
「おーい、ジンエー!!」
数人の子供たちが仁栄たちの方に向かって手を振っている。
仁栄は懐かしい顔ぶれを見つけると、思わず笑顔になった。そしてすぐに彼らの方へ、大きく手を振り返す。
「おーい!!」
雲に隠れていた太陽が顔を出して、仁栄たちのベンチの辺りを少しずつ照らし始めた。瞬時に強い風が吹いて、二人の前髪を揺らした。優しくて暖かい空気が流れる。
仁栄は、この風を知っている、そう感じた。
-了-
パラレルワールドー小学生白書 第Ⅲ部ー Benedetto @Benedetto
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