非日常

 蛍の行動力には驚かされるばかりだ。

 私の答えを聞いた蛍は最寄りの駅で降りた後、家に帰らず、一直線にその河川敷へと歩き出した。全く彼女らしい。

 どれほど歩いたのだろうか。不意に蛍が立ち止まり、視線を右へと動かした。

「ほんと久しぶりだね、ここ来るの」

 夕焼け色に染まる川を見つめて蛍が言う。

 その場所は、駅から歩いて、およそ10分ほどのところにあった。静かな川の流れに、河川時に咲く蓮の花。この場所は、ホタルと蓮の花が同時に見れる珍しい場所でもある。その光景はなんとも神秘的だ。

「……うん、久しぶりだね」

 少し遅れて私が答える。

 そうだ、あの時もこんな風に……。

 蘇ってきた過去の記憶に浸りかけていると、不意に蛍が声を掛けてきた。

「ねえ、れん?」

「……あ、どした?」

 そんな風に抜けた返事をする私に、蛍はにっこりと微笑んだ。

「一緒に歌わない? せっかくここに来たんだし」

 歌う。私が、蛍と。

 予想外のその言葉に、私はハッとした。

 そして同時に、その言葉に頷きたくなる自分がいることに気が付く。

 そうか、私はまだ、歌う事が好きなのか。

 なのに、私はその誘いを受け入れることが出来ない。脳裏に染み付いた‘’あの悲鳴”が、私の想いに蓋をする。

 ……私には、歌えない。歌うなんて、許されない。

 そう思った、まさにその時だった。

「すぅぅぅ」

 蛍が大きく息を吸った。歌う前のブレス。

 一体彼女の小さな体のどこに入るのだろう、と言うくらいに思い切り彼女は息を吸った。

 気が付くと、つられて私もブレスをしていた。

「……っ」

 ああ、この曲は……


   ***


 あれは、私が中学二年生の秋のこと。

 蛍と共に中学校の合唱部に入部した私は、日々部活に明け暮れていた。元々歌う事が好きだった私にとって、それは大した苦ではなかった。それどころか、寧ろ楽しいとすら思っていた。人間関係に関しても、愛想のない私なりに周りの部員と友好的なものを築いていた。

 そんな中、‘’あの事件”が起こってしまう。

 その日、私は間近に迫った合唱コンクールに向けて、蛍と共に、校舎の四階にある教室で練習していた。ソプラノの蛍とアルトだった私は、そうやって二人で合わせて練習していることが多かった。

 その日もいつも通り二人で合わせたあと、蛍がふと、こんなことを言ってきた。

「ねえ。自由曲のソロ、歌ってみたくない?」

「え?まあ……」

 いたずらっ子のように微笑む彼女につられ、私はそう答えた。

 彼女が言う自由曲のソロというのは、ソプラノパートとアルトパート一人ずつの、計二人だけで歌う掛け合いのソロのことで、勿論、本番では三年生の先輩が担当する。

「じゃあさ、今歌ってみようよ! れん、覚えてるでしょ?」

「お、覚えてるけど……」

 いや、そんなにいきなり言われても困る。

 さすがの私もこれには呆れた。全く、蛍って奴は。

「いくよ? いち、に!」

 そんな風に思うのに、彼女のペースに乗せられて、私も蛍のメロディに重ね、歌っていた。

 全体で合わせる時に幾度となく耳にしたメロディではあったが、こうして歌うと、また新たな感情が沸き起こる。

 二人の声が重なる、響き合う。互いの声が互いを満たし、ひとつになっていく。

 一通り歌い終わったあと、私はなんとも言えない充足感に満たされていた。

「……ふあー、楽しかった!」

 それは蛍も同じだったようで、彼女は伸びをしながらそう言った。

「そろそろ帰ろっか」

 時計を見ると、もうかなりいい時間だった。今更ながら、空が暗くなってきているのに気付く。

「そうだねー……。私、窓の戸締り見てくるね」

 蛍はそう言って、教室を出て言った。

 蛍が戸締りをしている間、私は二人分の荷物を片付ける。それはいつもの事で、私も蛍が教室を出てからすぐ、帰り支度を始めた。

 と、そんな時だった。

「きゃああ!!」

 耳を劈くような、そんな悲鳴が聞こえた。

「……っ!」

 私は声のした方へ駆け出した。

 その最中、廊下で部活の先輩とすれ違ったような気がしたが、そんなことに構っている余裕はその時の私にはなかった。

 そこは下の階へと続く階段で、階段の下には足を抱え、小さくうずまっている人影があった。

「蛍!」

 私は階段を駆け下りて、彼女に声をかけた。

「どうしたの?! 大丈夫?」

「う、うん……」

 痛みに顔をしかめながら、蛍はそう言う。

「一体何があったの?」

 私のそんな問いに、彼女はぽつりと呟いた。

「……先輩が……」


  ***


 私はどのくらい過去を回想していたのだろうか。

 気が付くと歌は二番に入り、掛け合いのソロの所の直前であった。

 あの時私達が歌っていたソロは、先輩達の元へも届いていたのだという。なんのプレッシャーも無く歌い上げた私達の声が先輩には酷く腹立たしく聞こえたようだ。そして、トイレに行こうとした所、ちょうど階段の上で蛍を見かけ、先輩は蛍の背中を押した。

 その一件で私は、歌う事で誰かが傷つくのだと知り、歌う事が怖くなった。

 歌ってはいけないのだと、そう思ってきた。なのに。

「すぅぅぅ」

 ソロの為に、私は思い切り息を吸う。あの時と、同じように。

 ああ、楽しい。やっぱり歌って、楽しいんだ。

 懐かしいこの感覚に、私は身を任せる。隣をちらりと見ると、蛍も笑っていた。胸のつかえがようやく取れた気がした。もういいのだと、そう、心から思えた。

 そして、私達は最後のフレーズを歌い上げる。あの時のように、思い切り、楽しんで。

 そんな私達を祝福する様に、すっかり暗くなった辺りを、ホタルの輝きが満たしだす。河川敷に咲く蓮の花も、どこか楽しげだ。

 

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蓮と蛍が出会う場所 蒼綾 凪月 @aoya1412

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