後〈了〉

 御盆を終わらせてしまわなければいけない。目が覚めて、いの一番にそう考えた。御盆は三日で終わるもので、はじめに火を焚いたのと同じように、終わりにも火を焚かなければいけない。これまで終わりの火を焚いたことはなかったが、今年はそれをしなければいけない。

 部屋の窓が細く開いていて、それは私が昨日の夜、開けたままにしておいたものだが、ゆるく流れ込んでくる潮のにおいが鼻の奥をくすぐる。昨日とは違う、いつもと同じ朝だったが、部屋の隅には黒いスーツケースが置かれたままで、昨日の朝、ここに居た人のことを思い出させる。昨日の昼、別れた後に顔を合わせていない人のことを思い出す。突堤で一人になってから、どうやって家に帰ったのか、どうやって時間を過ごしたのか私はよく覚えていなくて、帰ってきた父に何か声を掛けられたような気もするのだが、ただ、夕飯は食べなかった。多分、昼食も食べなかったのだと思う。だというのに、今、私はお腹がすいていなくて、食事をするよりも、早く、動き出してしまいたかった。

 寝間着代わりのワンピースを脱いで、適当に丸めて枕元に置く。ブラジャーを付ける気がしなくて、カップ付きのキャミソール着て、襟ぐりにレースの付いた灰色のタンクトップを重ねる。それから、体の線が分からないような太いジーンズを履いて、くるぶしが見えるくらいまで裾を折り上げる。顔を洗うのも髪を整えるのも、時間が惜しいような気がして、とりあえず手櫛で髪を梳いて、耳の後ろに流しておく。机の上に出してあるマッチを、ジーンズのポケットに放り込む。

 送り火を焚くには火にくべるものが必要だが、準備はない。紙の束とか、木材の切れ端とか、そういうものでいいのだが、毎年迎え火の分だけかき集めて、送り火の分は考えていなかった。とりあえず、昨日の夕刊と今日の朝刊は、持って行けるだろう。父は帰ってくるときに郵便受けを確認するようなまめな人ではないし、母もそんなことができるほどしっかりしては居ない。朝刊は、父がとってしまう前に持って行けば良いから、まだ大丈夫だろう。外は明るいが、時計の短針はまだ五と六の間にある。漁は休みなのだから、父は眠っている時間だ。

 黒いスーツケースを持ち上げて、部屋を出る。母もまだ眠っているのだろう、廊下には私の部屋と同じ潮のにおいが流れている。息を殺して歩かなければいけないような気がして、スーツケースを持ち上げたまま、足音を立てないように玄関に向かう。玄関には、父のサンダルと長靴と、私のローファーとサンダルだけがあって、一昨日の夜漁さんが履いていたハイヒールは、どこにもなかった。そういえば、漁さんの着ていたワンピースはどこへ行ったのだろう、部屋のどこにも掛かっていなかった。今私が持っているスーツケースだけが、形見みたいに残っている。

 サンダルを履いて、なるべく音を殺しながら引き戸を開けて外に出る。もうとっくに日は昇っている。明るい空の下に、潮のにおいがする。鴎なのか海猫なのか、腹を減らしたように鳴いている声がする。朝と夕にだけ吹く風が潮のにおいを揺らして、その度に鼻の奥に強く潮のにおいがかおるのに、不思議と、心臓の音が凪いでいる。このまま、普通に歩いて行けそうな気がする。スーツケースを地面に下ろして、持ち手を引き出して引っ張りながら歩く。門扉の裏の郵便受けには思った通り、新聞が二組入ったままになっていて、それを持って門の外に出る。道には人影は見当たらない。鳥の鳴き声と、スーツケースの車輪が道路の上を転がる音だけが、私の後をついてくる。道路の細かなでこぼこに車輪が引っかかる振動が伝わってくる。

 昨日の夜、夢を見た。海の中に居る夢だった。海の中の、小さな魚の群れの中の一匹になる夢だった。海の浅いところを群れで泳いでいて、水面から射す日光が光のカーテンのように揺れていた。魚の群れは、獲物のにおいを嗅ぎつけて、一体になって泳いでいるのだった。肉の腐り始めたにおいが、水の中にうっすらと広がっていて、前に進むにつれてにおいが濃くなっていく。そして突然、獲物が見えた。ひとだった。私の兄だった。私の兄のからだが、きっととうに事切れている兄のからだが、浮かぼうとしているのか沈もうとしているのか、水中にとどまっていた。それは確かに兄のからだだったが、助けを求めるように水面に向けられた手の関節の無骨さや、明るさを懐かしむように細められたまなざしから私はそうと知ったのだが、兄の姿は兄のようではなかった。兄の髪はあんなに長くなかったし、兄はあんな夜を閉じ込めたような暗い色のワンピースなんか着ていたことはなかったし、ハイヒールを履いていたこともなかった。兄は私の見たことのない姿をしていながら、間違いなく兄であった。魚の群れはあっという間に兄の体を取り囲み、ワンピースの袖や裾からのぞく白い皮膚はもう十分な海水を含んで、ふやけて柔らかくなり、小さな魚の顎でも噛み切れるほどだろうと見えた。だから、魚たちは順番に、少しずつ、兄のからだの肉をついばんだ。小さな口でかじりとった。私も、前の魚に続いて兄のからだを、兄の首筋の柔らかくなった皮膚と肉をかじりとった。兄のがらんどうな黒いまなざしが一瞬私を見たような気がして、そこで目が覚めた。

 御盆を終わらせようと思ったのは、やっぱりあれは兄が帰ってきたのだと、腑に落ちたからだった。兄は帰ってきて、海で欠けたものを取り戻しに来たのだと、納得してしまったからだった。本当はそうではないのかもしれない、でも、一昨日の夜に私の目の前に現れた五つ年上の見知らぬ男の子が、昨日の昼に私に見せたおそろしい姿は、そうであればいいと私に思わせるだけの力を持っていた。そうであれば、海は相変わらず恐ろしいが、もしかしたら私も、失ったものをそこから救い出せるのかもしれないと信じられた。ああ、だから私はいつになく落ち着いて、海縁に立っている。一昨日の夜、迎え火を焚いた場所。昨日の昼、漁さんが魚を握って笑っていた場所。ひっくり返った一斗缶の横に、黒くなった血痕があった。漁が始まればきっとすぐに消えてしまうだろう。だから、兄が帰ってきた証拠は何一つ残らないのだ。

 一斗缶をもう一度ひっくり返す。内側は煤けて真っ黒だった。そこに、持ってきた新聞紙を千切って、丸めて、敷き詰める。一斗缶の底が見えなくなったところで、ここまで転がしてきたスーツケースを開けると、夜の色をしたワンピースが地面の上に広がる。いつの間に、スーツケースに詰め込まれていたのだろう。漁さんが昨日、家を出る前に詰めたのかもしれなかったし、私が昨日、帰ってから詰めてしまったのかもしれないし、それとも漁さんが真夜中、私が寝静まった後に部屋に入ってきて、詰め込んだのかもしれなかった。どうであっても、このワンピースはもう私のものだった。漁さんは、兄は、もう私のところには戻ってこないと私は分かっている。だから、このワンピースは燃やしてしまっても構わない。私は、そのつもりでスーツケースを持ってきたのだろう。

 ワンピースを一斗缶に無理矢理詰め込むと、スーツケースの底には、ハイヒールが残っていた。黒いエナメルのハイヒール。地面に置いてみると、日光を受けて飴細工のように艶めいている。右足のサンダルを脱いで、ハイヒールを履いてみると、ヒールが高くてつま先はきついくせに、かかとはぶかぶかで、子どもが大人の靴を履いているみたいに、不格好だった。おかしくて、左足もサンダルを脱いでハイヒールを履いてみる。細くて高いヒールに私は慣れていなくて、小さな一歩を踏み出すにも脚の付け根が震える。それでも、少しずつ前に進んで、岸壁のぎりぎりのところに立ち止まって、海を見る。いつものように波だって、青黒く、全てを飲み込みそうでいる。潮のにおいは一層強く鼻の奥をくすぐる。今は、そのどちらもが、おそろしくなかった。

 海に向かって、思い切り右足を蹴り上げる。左足の細いヒールではその衝撃をこらえきれずに、後ろによろめくけれど、私の足を離れたハイヒールが放物線を描いて、波間に水しぶきを立てて落ちていくのが見えた。裸足になった右足で地面を踏みしめながら、左足を思い切り蹴り上げる。今度はよろめかずに済んだ。同じように放物線を描いて落ちていくハイヒールは、また水しぶきを上げて波間に飲み込まれて、見えなくなる。スーツケースはそれで空っぽになっていた。持ち上げると、きっと、さっきまでも大して重たくはなかったのに、急に軽くなったような気がする。反動を付けて、スーツケースを海に向かって放り投げる。手を離すと、ハイヒールよりも低く短い放物線を描いて、ハイヒールよりも派手な水しぶきを上げて、スーツケースは波間に落ちて、すぐに海に浮かんだ。不法投棄だ、と考えて、なんだかおかしくて、笑ってしまう。

 新聞紙をちぎって、丸めて、ワンピースが見えなくなるまで敷き詰める。少し残る隙間には、細長くした新聞紙を差し込んでいく。新聞紙は夕刊だけで充分だった、朝刊は、後で父の部屋の前にでも置いておこう。ポケットからマッチ箱を取り出して、マッチ棒を右手に持って、箱の側面にこすりつけて火を付ける。それを一斗缶に落とすと、新聞紙が黒く焦げて、すぐに火がついた。一本だけだとすぐに消えてしまうかもしれないから、用心に、もう一本、火を付けたマッチ棒を落とす。それからもう一本、火を付けたマッチ棒を落とす。新聞紙は、赤い火になめられて、あっという間に黒い灰になる。すべての新聞紙が灰になったように見えたところで、何か、鼻につく焦げたにおいがし始める。きっと、ワンピースが燃え始めたのだろう。漁さんが来て帰ってきた、兄が来て海に沈んでいたのかもしれない、ワンピース。もしかしたら漁さんは、打ち上げられた兄のからだからワンピースとハイヒールを奪い取ってしまったのではないだろうか。それがばれて、勘当されたのではないだろうかと、考える。

 一斗缶からは、黒い煙が立ち上っている。煙は、風になびきながらも、ゆっくりと細く、空へと伸びていく。迎え火が灯台なら、送り火は先導なのだと、ああ、私は今初めて知った。そしてもう忘れることはない。波が寄せて砕ける音が聞こえる。いま、私がそれをおそれることも、ない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

千の魚の見る夢は ふじこ @fjikijf

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ