しゃっと、カーテンを勢いよく開けた音が、私の意識をついにはっきりさせる。悪い夢を見ていた、ように思うけれども、今日はその内容までは思い出せずに、背中を濡らす汗と速い鼓動に胸を押さえながら、目を開ける。部屋はもう明るかったし、布団の隣には、寝入るときに窮屈そうにしていた体温はない。仰向けに寝返りを打ってから、さっきまで向いていたのと逆の方へ、また寝返りを打つ。押入の前に、胡座をかいて座り込んでいる人が居る。白い半袖のカットソーと、どう見てもくたびれたジーンズを履いたその人を見上げる。昨日思ったよりはその顔は白くなく、むしろうっすらと日焼けすらしていて、血色の良い唇に黒い髪ゴムを咥えている。両手は、長い髪を頭の後ろに持ち上げているようだった。

 その人の様子を見上げていると、ふと、目が合った。姿勢を保ったままで顔を綻ばせると、その人は、咥えた髪ゴムを右手に移して「おはよう、ちうお」と言いながら、手早く髪を結わえる。両手を離すと、結わえた髪の束がしなやかに揺れた。黒い髪は朝日にしっとりと艶めいている。海の水に濡れているみたいだった。

「おはようございます、漁さん」

「まだ起きない? 朝飯食べに行こうかと思うんだけど」

「どこに?」

 まさか、家の台所になんて馬鹿なことは言わないだろうけれども、そうだとしたらどこへ行くつもりなのか。朝から食事をとれる店なんて町の中には限られているし、限られた店も御盆の間は休みになっている。車でも持っていれば話は別だけれど、昨日、漁さんはからからとスーツケースを引きながら歩いてうちまで来たのだから、車や原付には乗ってきていないだろう。そういう事情は漁さんも分かっているはずで、それなのに漁さんが目当てをつけているのだとしたら、思い当たるところは一カ所だけあった。「喫茶砂漠」と、私と漁さんの声が重なる。漁さんは目を丸くして、軽く首を傾げて。

「ちうお、どうして分かったの」

「バイト先」

 最低限だけを短く答えると、漁さんは「へえ」と感心した風に頷く。興味深そうな、というよりは、些かいやらしい笑みを浮かべ、首の傾きを正して私を見下ろす。

「ちうおもそういうこと、すんだね。新しいもん嫌いだと思ってた」

「なんで」

「だって、ちうお、島出るのすっごく嫌がってたじゃん。それぐらい、島が好きなのかって」

 ひどい誤解をつらつらと述べるこの人は、果たして本当に兄の友人だった人だろうか。そんな疑念が浮かぶのを、きつく目を閉じて追いやろうとするけれども、迎え火で帰ってきたこの人は兄の友人の形をした別の何かなのじゃないかという根拠のない思い込みが、私の中へあっという間に首をもたげる。疑いを持った目を開けて、兄の友人を名乗る人を見上げてみると、そもそも比較すべき兄の友人の姿が思い出せずに、この人はこういう人なのだろうと納得する風に考えが動く。私が海を怖がっていることは、町の同世代の中ではいっとう有名で、知らない人を探す方が難しいぐらいなのだけど、そう思っていたのだけど、きっとこの人は、そういった人の噂に無頓着な質だったに違いない。そう信じることにする。「そういうわけやなくて」と寝転がったまま弁明すれば、「うん」と興味なさげな声が相槌を打った。

「とりあえず、店は今日は休みですよ」

「え、なんで」

「なんでも。休みなもんは、休みですもん、お盆やし」

「分かったよ。分かったけど、俺はどこで朝飯を食えばいいの」

 心底、どうでもいい。突き放す言葉が脳裏をよぎったのには知らんふりをしておいて、朝の台所の様子を考える。今、何時だろう。分からないけれど、廊下に出ればすぐ、台所が空かどうかは分かるだろう。「待っとってください」と言いながら、布団に手をついて体を起こす。寝間着代わりにしているオーバーサイズのワンピースの襟はだらしなく緩みきっていて、もしかすると漁さんからは下着をつけていない胸がのぞき見えているかもしれないけれど、それに何の抵抗も覚えないことが不思議だった。もっとすごいことをしてしまったからかもしれない。五つ年上の男の子と、布団を分け合って眠った。

 体を起こしきってから、頭の上に両手を伸ばして、背筋を軽く反らす。首を左右に曲げると、凝った筋肉が急な運動に悲鳴をあげて、心地よかった。

「とってきます」と言いながら立ち上がって、漁さんを見ると、今度は漁さんの方が私を見上げている。なんだかむず痒いけれど「ありがと、ちうお」という軽薄な感謝の言葉に、苛立ちが代わって心の端を引っ掻く。「部屋から出んとってくださいよ。出んかったら見つからんはずやから」

 私が念を押した言葉にも、漁さんは軽い声で「分かった」と頷くだけだった。胡座をかいて座った漁さんの後ろ、押し入れの引き戸に、ハンガーに掛けられたワンピースがぶら下がっている。日の光の下で見ると、紺色の光沢のある生地をたっぷりと使っていて、胸元やウエストには、黒いリボンが結ばれていて、袖口やドレスのスカートの部分には、生地と同じ色の繊細なレースが、何重にもあしらわれている。スカートを膨らませていただろう黒いレースの内穿きや、足元を飾っていたハイヒールは、その下のスーツケースに詰め込まれているのだろうか。それ以上を考えるのがおそろしいような気がして、押し入れの方に背を向け、畳の縁を踏まないように気を付けながら部屋を出る。廊下には、引きかけの潮のにおいより、嗅ぎ慣れた線香のにおいの方が強く、くゆっている。

 廊下を、なるべく音を立てないように歩き、白いのれんの揺れている台所の入り口へと進んでいく。線香のにおいがするということは、少なくとも母は北向きの部屋にこもっているはずで、後は、父がどこで何をしているかだ。漁が休みの日、父は大抵どこへ行くわけでもなく、家の中をだらだらと過ごしている。

 もうすぐそこの白いのれんが揺れた、かと思ったら、父の、日焼けした浅黒い腕が、のれんをよけたらしかった。日焼けして色褪せたTシャツに短パンを履き、背中を丸めて廊下に出てくる父の様子は、どこか熊を思わせる。

「お父さん」と呼べば、父はこちらを向くのだけど、まだ眠たげな眼をしていて、私がここに居るのを分かっているのかどうかすら怪しい。地上にいるときの漁師はそんなもんだ、と酒宴で口の軽くなった父の同僚が言っていた。父は酒に強いのか、その逆なのか、そういう席で酩酊しているところを私は見たことがない。

「どっか、出掛けるん?」

 立ち止まって尋ねると、しばらく間を置いて、父は首を横へ振る。短パンのポケットに手を入れ、すぐに出すと、右手の中には煙草の箱が収まっている。「吸ってくる」と、主語も目的語もなく言うと、父は私に背を向ける。背筋を丸くして、脚を引きずるようにして歩いていく姿は、手負いの熊に似ているのかもしれない。煙草を吸いに行くのだったら、父は家の外へ出て行く。母は昔から父の煙草を嫌っていたし、北向きの部屋の位牌と骨壺に線香をあげるようになってからは、一層、そうだった。母が金切り声で父に怒っているのを見たこともある。父はそのときも何にも言わず、背中を丸めて外へ出て行ったように覚えている。

 父が外に出て、母は北向きのあの部屋に居るのだろうから、少しぐらいは勝手を働いても気付かれない。のれんをよけて台所に入ると、流しの前の生活道路に面した窓が開いていて、網戸越しに外が見える。流しの中も机の上も、余計なものは出ていなくて、食器乾燥機の稼働する音だけがしている。父がしたのではないだろう。父は、少し時代遅れとも思われるぐらいに、家の中のことをやらない。いや、しかし、時代遅れ、というのは、テレビやインターネットで聞こえてくる世の中、と比較すればということであって、この町の中なら、父のような男性は珍しくはない。一般的、多数派であるとさえ言えた。

 冷蔵庫の一番下段の冷凍庫を開けると、店売りの袋のまま、食パンが入っている。同じのがふた袋あった。残り少ない方を取り出して、冷凍庫を閉める。丁度二枚入っていた。冷蔵庫の上の電子レンジの、そのまた上のオーブントースターの扉を、背伸びして開ける。留め具を外した袋から、食パンを一枚ずつ取り出して、トースターの網に並べる。扉を閉めてから、タイマーを目一杯回して、五分の表示のところまで戻す。タイマーのバネがじじじ、と戻っていく音がし始めた。

 主食はこれで構わないとして、後をどうするか。水分はとらなければいけないから、飲み物は必要だとして、残りのおかず。このままだと、タンパク質が足らない。野菜と果物もあればなお良いけれど、普段から、そこにはあまりこだわりがない。冷蔵庫の一番上の扉を開ける。ドアポケットの牛乳瓶を机に置いてから、庫内をざっと見渡す。魚の、生臭いにおいが、鼻先をつんとくすぐる。三段に仕切られた庫内の左半分は、ほぼほぼ魚介で埋まっている。父が漁でとってきたあまりの雑魚、ご近所さんからのお裾分け、母の作った常備菜、そういったものが詰め込まれているのだ。ちりめんじゃこの佃煮、イカナゴの釘煮、昨晩の連子鯛の煮付けの残りに、太刀魚を白味噌の衣に漬け込んだもの。蛸の塩茹で、塩蔵若布、その他、そこの海でとれるものなら何でも。今そこにある魚介がどこからどういう風にやってきたのか、考えてしまって、気分が悪くなった。

 冷蔵庫の扉を閉めてもまだ、魚のにおいがまとわりついてくる気がする。母は漁師の家に嫁いだ女性らしく、魚介を使った料理が得意だ。母だけではない。近隣の家の女性がみんなそうだ。魚を三枚におろせないのなんて私ぐらいだろう。いや、昔は、小学生の頃は出来ていた。母が使うのと同じ刃の長い包丁で、兄の釣ってきた青魚を捌くことはよくあった。雑魚の手開きだって難なくやってのけていた。私はそれを出来なくなったのは、兄が海で死んでからのことだ。

 ふたつのコップに牛乳を注ぎ終えて、冷蔵庫の扉をほとんど開けずに、牛乳瓶を元の位置へ戻す。死んだ魚の目がそろってこちらを向いてるのじゃないか、という連想が過ぎる。兄の目はなくなってしまっていたけれど、水揚げされる魚の頭には、ぎょろりと丸い目がついている。魚にこころはあるのだろうか、無理矢理陸に打ち上げられて、人を恨みがましく見つめるようなこころが。あの日、海から陸に死んで戻ってきた兄のからだには、こころは宿っていただろうか。私は毎年、あんな海辺で火を焚いて何を待っていたのだろうか。今年帰ってきたのは海で死んだひとではなく、私の兄ではなく、兄の友人であった人、紺色のワンピースを着た五つ年上の男の子だ。私は、まだ得体の知れないその男の子と、自分のために、朝ご飯を用意している。

 チン、と目覚めの良い音がする。オーブントースターのタイマーが最後まで巻き戻ったのだ。トースターの中の赤色が少しずつ大人しくなっていく。取っ手をつまんで、のぞき窓のある扉を開けると、パンの焼ける香ばしいにおいがした。食器棚の上段に収まっている平皿をとって、そこにパンを二枚重ねる。平皿を片手に、もう片手で牛乳の入ったコップを二つとも持つ。牛乳の白い液面は傾いているが、コップ自体は安定した。バイト先での成果だろう。

 頭から突っ込むようにしてのれんをくぐり、廊下に出る。線香と、潮のにおいが混じった、嗅ぎ慣れているけれども厭なにおいがした。母は北向きの部屋の窓を開け放して、正座をしながら線香の火を見守っているのだろう。ああしていると、母の方が死んでしまったみたいに見える。元からあまり外に出る方でなかった母は、兄が死んでからはますます家の中に引きこもっている。ジマンノムスコがシンダのだからと、はじめのうちは周囲の人も母に同情していた。それが一年続き、三年続き、五年になれば、もう、母に向けられるのは憐憫でははないものを宿したまなざしだ。母は、それに気が付かないだろうけれど。

 きちんと閉まったままであるふすまを足で開けると、部屋の中から「わあ」と言う声がする。漁さんは変わらず押入れの前に胡座をかいて座っているのに、部屋の真ん中に敷いてあったはずの布団は、畳まれて部屋の隅に追いやられている。誰がしてくれたのかは分かるけれど、お礼を言うような気分にはなれない。いつもなら私ひとりで寝ころんでいる布団にこの人とふたりで眠って、しかも、布団を片づけてくれたのはこの人だ、なんて、やっぱり変な感じがする。おかしな話だと思う。

「朝のにおいだ」

「何ですか、その言い方」

「幾人が言ってたの。パン屋さんの前通るとき、うちの朝のにおいや、って」

 床に食器を置く手が、震える。動きが止まりそうになるのを、意識してちゃんとからだを起こして、開いたままのふすまを閉めるのに近付く。漁さんの今の言い方、は、本当に兄みたいだった。漁さんの姿形は兄ではないし、声だって、兄とは似ても似つかない、全然質の違うものなのに、それを分かっていながら兄が言っているように聞こえた。ふすまから手を離して振り向くと、床に置いた皿の上、朝のにおいのする食パンに手を伸ばす人の背格好は、どう見たって兄ではあり得ない。「いただきます」と言う声は、ちゃんと、兄ではないように聞こえた。

 漁さんの正面に正座する。片方のコップを漁さんの方へ押しやって、もう片方のコップを自分の手元へ引き寄せる。皿の上に残った食パンに手を伸ばしてかじりつく。さく、と焼けた層が口の中にくずれて、小麦のにおいがする。パンを食みながら、漁さんの方を見る。漁さんは、口を大きく開けて、パンを食べ進めている。食パンの端からぽろぽろとパンくずがこぼれて、畳の上に落ちていく。漁さんはそのことへ頓着していないみたいで、食べかけのパンを皿の端に置いて、自分に近い方のコップを持って、中の牛乳を飲んでいる。首の真ん中の喉仏が上下する、そういう特徴を見るなら、この人は紛れもなく、男の人だ。

 昨日、火の始末もしないで、漁さんとふたりで歩いて帰ってきた。私の後ろから、ハイヒールの踵がコンクリートを踏むかたい足音と、からからと車輪の回る音が着いてきていた。握った手は本当に温かかった。ただ、私も漁さんもそうして生きていたのに、歩き出してからは一言も喋らなかった。私は何を話して良いのか分からなくて黙っていた。漁さんはどうだったろう。分からない。私の後ろを着いてくる漁さんが何を見ていたのかも分からない。家の前で立ち止まって振り向いたとき、漁さんはこちらを向いていたのに私を見ていなかった。

 小さくなったパンの最後の一片を口に入れて、咀嚼する。漁さんは、パンと牛乳を交互に口に運んでいて、食パンはまだ三分の一ほど残っている。パンくずが散らばるのは変わらない。不器用なのかもしれなかった。唇の端にもパンくずがついたままになっている。目を逸らしてもまだ、頭の隅にその絵が残っているような気がする。柔らかくなったパンを飲み込んで、牛乳を飲む。空になったコップを畳に置いて、息を吐くと、口の中に何か薄い膜が出来たような気がした。

「ごちそうさまでした」と言う声の後に、手を合わせる、乾いた音がする。コップは空になっていて、トレイの上の皿にはパンくずだけが散らばっている。朝食というにはあまりに簡単すぎたような気もするけれど、漁さんは満足そうに、口元を指で拭った。空のコップをトレイの上へ戻して、自分の周囲に視線を落とす。畳の上へ指先を滑らせて、皿の上で手を払う。落ちたパンくずを集めているのかもしれない。さっきは全然気にしていなかったくせに、今は細かく細かく、畳の目をなぞっている。漁さんが畳へ伸ばしている指は、骨ばっていて長く、そういう細かいことを気にするには似合いに見えた。

「……漁さん、いつまでここに居るん」

「ん? うん。お盆の間だけかな。それで帰ってきたんだし」

「海を見に、帰ってきたんと違いましたっけ」

「それは、理由っていうか原因っていうか……」

 漁さんは口ごもって、それから、唇を薄く開いたまま黙り込む。拭いきれなかったらしいパンくずがついている唇は、昨日の夜は紅で真っ赤に彩られいたはずだった。真っ赤な口紅を塗るのも、歩く度に高い音のするハイヒールを履くのも、大人の女性のすることだと思う。そのどちらをも漁さんは昨晩、身に付けていて、しかもそれらは漁さんに合っていた。こうしているのは、兄の友人だった人、五つ年上の男の子なのに、漁さんにはあの姿がよく似合っていた。

「先に目的が決まって、後から考えてようやく理由が思いつくって、あると思わない? ほら、人間の思考ってファジィだし、飛躍するじゃない。結果として矛盾が出てくるのもよくあることだと思うんだけど」

「ファジー?」

「ああ、曖昧ってことだよ。俺たちはゼロとイチだけじゃ生きていけないってこと」

「目的が先に決まってた?」

「うん、そう……そういうこと。俺はね、幾人いくひとに会いに行こうと思ったの」




 幾人、というのは兄の名前だ。五つ年上の兄、五年前に海で死んだ兄。私は兄のことを「兄さん」とか「いくひと兄さん」とかいう風に呼んでいた。兄は、同世代の友人達からも「幾人」と名前を呼ばれていた。子供同士が苗字で呼ばわることはほとんどなかったような気がする。町に子供の数は少なかったから、私たちは皆、互いに互いを兄弟のように思っていたのかもしれなかった。いつか、この中の誰かと子供を設けるのだろうと漠然と分かっていながらも。

 兄はとても賢かったし、背も高かったし、容姿も悪くはなかったので、町の女の子からも人気があったように覚えている。私と兄は五つも年が離れていたけれど、いくつか年上の女の子に、兄の様子を探るように頼まれることはよくあった。年上の女の子達に逆らうことは私にはあまり考えられなかったけれど、彼女たちに頼まれたことを実行に移すのも嫌だった。それには大体、兄の物を盗み見るとか、取ってくるとか、本当ならしてはいけないと分かることが含まれていたから。

 年上の子達から兄についての何かを頼まれた日、私は本当は家に帰りたくなかった。かといって、上級生の方が遅く学校を出るのだから、校庭に残って日が暮れるまで遊んでいることも出来ず、仕方なく家へ帰った。帰り道をひとりでとぼとぼと歩きながら、女の子達に言いつけられた、例えば、兄の枕から髪の毛一本を抜き取るとかいうくだらないことをやれなかったのをどう誤魔化そうかを考えていた。家の前まで来てもまだ考えはまとまっていなかったので、私は門をくぐっても、ガラスの引き戸を開けて家へ入ることは出来なかった。けれどもそのまま踵を返し、また門の外へ出ることも考えられなくて、家の東側の、物干し竿が置いてあるきりの、庭とも呼べない狭い空間へ、縮こまることにした。私が学校から帰る頃にはもう洗濯物はとりこまれていて、裸になった物干し竿はどこか寂しげだった。私は物干し竿の支柱の側へ座って、脚を三角形にして、赤いランドセルを抱えていた。

 庭にいても、海の音や海のにおいはそこにあった。家の北の窓から海を臨めるようなところに私の家はあるのだから、それはごく自然なことだった。私は生まれてからずっと、心底恐ろしいと思う海の側に暮らしていた。潮のにおいが家へ膿んでいることも、波の音が子守唄の代わりになることも当たり前だった。赤いランドセルを腹と太腿で支えながら、私は背中を丸めてきつく目を閉じ、耳を塞いでいた。そうすれば、ふとしたときに浮かびそうになるあの海原を見ずに済んだし、私の心臓の動く音にかき消されて波の音は聞こえなくなった。鼻は塞げなかったから潮のにおいはつんとしていたけれども、私の鼻はにおいにはすぐに慣れてくれて、分からなくなった。見えなくなり、聞こえなくなり、におわなくなってしまえば、海はそこにないのと同じになってしまって、私はさっきまでよりも安心してそこに座っていることが出来た。じっとしながら、上級生の女の子から言いつけられたことに明日どう言い訳をするかを考えることだけに、専心していた。そうして過ごしていたいたのはどれくらいだったのか、耳を塞ぐ手のひらを越えて聞こえてくる足音が、私のすぐ前に立ち止まって、大きくて温かな手のひらが私の頭を撫でた。目を開けて見上げればそこに兄がいて、どうしたの、ちな、と聞いてくれた。兄はその場にしゃがみ込んで、私と目線の高さを合わせてからもまだ、私の頭を撫でてくれていた。兄の手は、自分のよりも随分と大きかったように思う。五つの年の差のせいだったのか、それとも、私がそう感じていただけなのかは、分からない。

 同じように五つ年上のこの人の手も、大きかったし温かかった、と思う。柔らかくて、いきている手のひら。昨日、私を引っ張っていた漁さんの手は、空っぽで開いたまま、歩調にあわせてぶらぶらと宙を揺れている。今日は手をつないでくれないのはどうしてだろう、あの、ドレスみたいな服を着ていないからだろうか。昨日の夜、私が火を焚いているところにやってきた人と、今、私の前を歩いている人と、見た目はまったく違っているけれど、振り向いて「ちうお」と呼ぶ声は同じだった。漁さんは折れた道の角に立ち止まって、右手の方へ伸びた道の奥を指差す。

「こっちに行けばいいの?」

「港に行きたいんやったら」

「そう。じゃあ、行こう。お盆だから誰もいないでしょ」

「よく覚えてますね、そないこまかいこと」

「だって、うちも漁師の家だぜ。嫌でも覚えるって、普段居ない親父とじーさんが家にいる日なんて」

 私が追いつくと、漁さんは腕を下ろして、指さしていた方へと歩き出す。後ろで束ねられた黒い髪がふわりと宙を舞って、白い項に落ち着く。私より高い背、私より広い肩幅、私より低い声。間違った読みで私の名前を呼ぶ五つ年上の男の子が、どうして港へ行こうと言いだしたのか、私には分からない。ただ、この人とふたりで連れ立って港へ行くということには、何か違和感を覚える。そもそも、この人とどういう風に遊んでいたのかをよく思い出せないのに、違和感も何もあったもんじゃないとも思う。

 この人にはじめて会ったのがいつか、どうしてだったかも、私はうまく思い出せないでいる。というのは、恐らく、私がそれを特別なことと思えないぐらい、この人は私の生活に身近だったのだろう。いや、私ではなく兄の生活に、だろうか。私は、母や父ではなく、兄について回ることが一番多かった。さすがに学校までついて行くことは出来なかったけれど、それ以外の遊びの時間とか、家の中で過ごす時間は、大抵兄と一緒に過ごしていた。狭い家で、私と兄は部屋も共有していた。兄が死んではじめて、私も兄も、自分の部屋というのを手に入れた。ひとりの部屋というのは、今まで使っていた場所と同じなのに、想像していたよりもずっとがらんとしていて、寂しかった。はじめは耐えられるだろうかと不安に思ったものだけれども、やってみれば、意外と慣れてくることもある。昨晩、この人がそこへいることは、不思議となじんでいた。兄としていたみたいに同じ布団に寝転がって眠ることも平気だった。

 人気のない倉庫の陰を通り過ぎて、開けた場所に出る。漁船は全て岸に係留されていて、漁に出た形跡は全くない。海猫が静かなのは、狙う獲物がないからだろうか。乾いた灰色のコンクリートを蹴って、漁さんは岸の端、ぎりぎりの所を歩いていく。吹く風は湿っていて、つんと潮のにおいがかおって、めくれあがりそうになるスカートの裾を押さえながら歩く。心臓の音がどきどきと速くなっている。太陽は眩しくて、日射しは痛いくらいに熱いのに、からだの真ん中は冷えていくような気がした。

「あった」

 と、呟いて漁さんが立ち止まる。私も立ち止まる。漁さんは一隻の漁船を向いていて、少しからだを屈めたかと思うと、甲板に飛び移る。船体がゆっくりと揺れて、屋根から吊したカンテラが、もっと大きく揺れた。船ですら、海面ではこんなにも簡単に不安定になる。だったら、人が飲み込まれることはもっと簡単だろう。そして死んでしまう、兄のように。

 漁さんは甲板の上のビニールシートの端を持ち上げて、その下を覗き込む。かがみ込んで、ビニールシートを持つのと逆の手を、シートの下へ入れる。その手を戻しながら、シートを下ろして立ち上がった漁さんは、釣り竿らしき長物を握っていた。甲板から岸に飛び移ると、釣り針をつけっぱなしにしているのだろうか、鈍い光が漁さんの顔の横に揺れる。細い、竹だろうか、節の目立つ竿に糸とリールを取り付けただけの、とても簡単な釣り竿だった。

「これ、うちの船。じーさんの趣味で、竿が積んであるの」

「趣味?」

「魚釣りがね、趣味。漁師なのに変だよね」

 釣り竿を持って笑いながら、漁さんはまた歩き出す。私は、置いてけぼりにならないように、後をついて行く。海には近付かないようにしながら、漁さんの頭の横に揺れる鈍い光を目で追う。漁さんの歩調に合わせてゆらゆら揺れる釣り針が、彼の顔の皮を引っ剥がしてしまうのじゃないか、という考えが浮かぶ。ずるりと剥けた皮の下には、もしかすると、兄の顔があるのかもしれない。ぶよぶよに浮腫んだのでなく、端正に整って微笑む、兄の顔。たとえ本当にそうだったとしても驚きはしないだろうと思った。この人は、私の焚いた火を目印に戻ってきたものだから。

 まっすぐ歩いていた漁さんが、進む方向を変える。右に折れて、またまっすぐに歩いていく。突堤だ。私が昨日火を焚いていた場所、漁さんが帰ってきた場所へ、漁さんは歩いていく。それを見ながら、私の足は止まった。突堤を進むということは、海の中へ分け入っていくということだ。いよいよ心臓の音がうるさい。海を割るように伸びる灰色のコンクリートの道が、どこまでも伸びているのにそこで終わっているような気がする。漁さんはその真ん中を躊躇なく進んでいって、ゆらゆら揺れる鈍い光は遠ざかっていく。このまま距離が離れれば、漁さんを見失って置いて行かれてしまう。そういう考えは浮かぶのに、脚がうまく動かない。焦る呼吸が浅くなる。餌を撒かれて水面に群がる魚の群を思い出した。

「ちうお」

 突堤の真ん中から、漁さんが私を呼ぶ。立ち止まってこちらを見ている、睨んでいる。視線を逸らしたいと思うのに、どこを向くことも出来なかった。ここは、海に囲まれてしまっている。

「ちうお、早くおいでよ」

 促しに首を横へ振ると、漁さんはますます怪訝な表情になった。釣り針の揺れるのと逆へ首を傾げて「どうして」と尋ねてくる。聞かんでも知ってるやろう、と言い返したく思った。私が海を恐がっていることは、子供たちには有名な話だったじゃ、ないか。小学生の頃だ。あの、向こう側の岸へと架かった吊り橋についての校外学習へ行くというので、私たちはバスに乗って、橋を渡ることになった。私はその日の朝まで、橋を渡る、海を越えることを知らなくて、校門の前に横付けされたバスに乗り込む際になって、今から起こることを知った。たとえ橋を渡るのだって、私には海の上を行くことが怖くて、怖くて、バスに乗るのを泣いて抵抗したように覚えている。私が小学校の一年生のとき、兄は六年生だった。門にしがみついてその場から動こうとしない私のところへ、バスを降りた兄がやってきて、どうしたん、ちな、と声をかけてくれた。兄の優しい声に、私は、こわいんやもん、と涙混じりの声で叫び返したように覚えている。いつもと違うリュックサックも、お弁当も、お菓子の小袋もうれしかったけれど、海は恐ろしかった。ずっとずっと、怖いものだった。

 漁さんは、たとえばあのときに、私の様子を見ていなかったのだろうか。その場に居合わせることはなかったのだろうか。兄と同じ歳なのだからその場に居たのが普通だし、あれだけ騒いでいたことを気付かないのはおかしいだろうと思われた。それとも、まったく興味がなかったならば、気付かないでいられるものだろうか。他のことに気を取られていたなら。浅い呼吸を少しずつ落ち着かせながら、漁さんの方を向く。私の方へ近付いてくる。釣り針の鈍い光がゆらゆら揺れていて、あ、引っ掛けられる、と思った。はっとして、目をつむる。ざあ、ざあと波の音がうるさくなる。平たくやわい足音が近づいてきて、すぐそこで止まった、かと思ったら、腕を急に引っ張られる。体が前のめりになって、考えとも感情とも関係なしに、足が勝手に踏み出す。逆らおうにも私の腕を引く力は強くて、歩き出した脚を踏ん張れない。漁さんの足音に引きずられて、海の方へ近付いていく。目を閉じているから、潮のにおいはいっそうきつく感じられたし、頬を打つ風の湿り気は、ひどくまとわりつくようだった。耳のそばを何かかたいものが過ぎる気配がする。きっと、あの釣り針だろう。

 ざん、と波が岸壁に打ち付ける音がして、前を歩く人が立ち止まる。腕を引っ張る力もなくなるけれど、私のからだは急には止まれなくて、前につんのめりながら、つま先に力を込めて耐えて、踵を下ろす。ゆっくりと瞼を上げていけば、夏の日射しの痛々しいまでの光が次第に目の前を明るくする。腕が離されて、生ぬるい風を指先が切る。私の腕を引いていた人の背中がそこに見えて、その向こう側へ波がきらめいている。潮のにおいの中に、煤けた空気がひゅるりと混じり込む。ここは、昨夜私が火を焚いていた突堤の先だ。漁さんの足元に、焼け焦げた一斗缶がむなしく転がっている。昨日火の始末をして帰らなかったことは気がかりだったけれど、一斗缶の中に火が未だ燃えている気配はない。

 漁さんがしゃがみこんで、一斗缶の上へ手をかざす。「まだ、ぬくいなあ」と言い、笑って、一斗缶を持ち上げると、立ち上がって、一歩前へ進む。突堤のコンクリートの縁の、ぎりぎりのところに立って、一斗缶をひっくり返す。黒い燃え残りが、垂直に下へ落ちていったり、潮風で宙に舞ったりする。魚が海面に跳ねるような音がしたかと思うと、漁さんは「よし」と頷いて、ひっくり返したままの一斗缶を地面へ置く。何がよいのかと瞬きしていれば、一斗缶の上へ座った。膝を開いて、背筋を伸ばしている。その後ろ姿は、昨夜この場所でワンピースの裾を翻していた背中と、似ても似つかない。確かに同じ人であるはずなのに、「ちうお」と振り返って私を呼ぶ声の響きは同じに聞こえるのに、知らない背中がある。

「隣にさ、座っててよ。後ろにいると釣り針引っかけるかもしんない」

「それは、ようないですね」

「うん。だから、こっち来て座ってて。嫌かもしれないけど」

 自虐めいたことを言ってから、漁さんは前を向く。釣り針は、漁さんの頭の横にゆらゆら揺れている。私が隣へ落ち着くのを待っているのだろう。敷物に出来るようなものはないし、昨日は一斗缶の横に置いてあったはずの紙袋も見当たらない。漁さんの横の地面に座り込んだら、スカートが汚れてしまうだろう。ただでさえテカリが目立ってきているのに、土ぼこりまでついてしまったら、いよいよクリーニングに出すことを考えないといけない。それも盆が明けてからになるから、それまで私は、汚れた制服のスカートを履かなければならないだろう。

 そんな些末よりも、そこにある海だった。漁さんの肩の向こう側に、日を受けた海面の波打つのが見える。ちらちらと、反射した光の名残が目蓋の端に映る。足は竦んでいる。ここまで進んできたのだって、私を導いてくれる手があったからだった。海は恐ろしい、その波間に呑まれるのこそが恐ろしい。近付くことは厭われるけれども、私を呼ぶ人がそこにいる。間違った読み方で私の名前を呼んで、こちらへ背中を向けたまま、釣り針を宙に遊ばせている。鈍く光を集める釣り針にも、呼ばれているような気がする。恐る恐る踏み出せば、右足の踵がつくのはかたいコンクリートで、靴底は細かな砂利をずりずりと滑らす。そこはまだ海ではない。確かめながら一歩一歩前へ行く。

 漁さんの隣に立つと、海はもうすぐそこだった。後もう一歩か二歩踏み出せば、足の下の支えを失って海へと落ちていくだろう。手を伸ばせば、岸壁に跳ねた塩水が指先を濡らすだろう。昨晩、私はこんな場所に立って、死んだ人が帰ってくるための迎え火を焚いていた。よく耐えていたものだと、自分のことながら感心する。ため息をつきつつ、コンクリートの上へ腰を下ろす。コンクリートが日光で温まっているのがスカート越しにも肌に伝わってくる。膝を抱えて背中を丸め、視線だけは遠くへ投げる。ひゅん、と何かが風を切る音がして、ちゃぷんとしぶきが跳ねて、鈍い光が波間に飲み込まれていった。

「釣れるかな」

 すすんで港に来たのは漁さんであるのに、わざわざ漁船から釣り竿を引っ張り出しても来たのに、そう言う漁さんの声は落ち着いている。釣果を期待をしていないように聞こえた。波間に投げ込まれた釣り針には餌が刺さっていなかった。兄は休みの日の朝、釣りに行くと言って出掛けていくこともあったが、大抵、餌にするのだと言って、前日の残りの雑魚や、小さな海老や、中途半端に残った蒲鉾をタッパーに詰めて持って出ていた。私は当然海に近寄るのが嫌で兄に着いていくことはなかったが、餌だと言って持って行くのが全部、釣ろうとしている魚に近いものであることを、据わりの悪さと共に不思議に思っていた。餌のない釣り針で漁さんは何を釣るつもりなのかと考えて「魚やとええですね、釣れるんが」と皮肉めいた声が自分の口から滑り出る。私には見えないだけで漁さんは何かを釣り針に餌として携えたのかも知れないと考えた。目には見えない何か、漁さんの顔の下に隠れているかも知れない何か。漁さんは兄に会いに来たと言ったから、それを餌にするのは当然なのかも知れない。

「どういうこと?」

「お盆に漁に出たらいかんのって、そういうことなんとちゃいますか」

 漁さんは私が言ってもまだ白々しく首を傾げていて、私はそれを腹立たしく思う。どうしてこの人は平気で居られるんだろうか。それは、兄が死んだ後に母や、父や、周りの人たちすべてに思ったのと同じ感情だった。兄は海で死んだのに、兄の体を魚の群れがついばんだだろうに、完全な形では兄はもうここへ戻ってこないというのに、どうして暢気に釣りなぞできるのだろう。たとい魚が釣れたとて、それはまだ海にあるだろう兄の残骸をついばんだに違いないというのに、そんなものを釣ってどうするというのだろう。結局、海から戻ってくるのは元の形を留めていないだけの何者かではないか。憤りなのか、後悔なのか分からないが、胸をかきむしりたくなるような感情が瞬間に体中を駆け抜けて、鼓動が速くなり、汗が顔に滲んで、息苦しさを覚えたかと思えば、急に力が抜ける。波の音がした。海はやっぱり恐ろしかったけれど、兄がそこに居るなら飛び込みたいとも思った。そんなことを考えるのは初めてだった。海への焦がれとおそれを同時に覚えるのは、脳の左右でまったく違うことを同時に考えるようなめまぐるしさがあった。

「ちうおも、幾人は海に居ると思ってるんだね」

 漁さんは不意に私を見て、微笑みながらそう言うと、すぐに視線を波間へ戻した。投げ込んだ釣り針の動向を見ているのかも知れない。濁った海水が波打っている合間に釣り糸が日光を反射してきらきら光るのは、あまりに細く頼りなく、すぐに見失ってしまいそうである。カンダタに垂らされた蜘蛛の糸みたいだ。漁さんは慣れているのか、晴れ空の雲行きを眺めるような暢気さで波間を見遣り、微笑んだままである。「だからこんなとこで迎え火焚いてたんだ」

 兄が死んでから、毎年だった。私は一人で迎え火を焚いていた。母も父も御盆の準備をしないからというのが一番の理由だったが、私は確かに兄が帰ってくるのを待っていた。不完全なままで戻ってきて焼かれてしまったからだでなく、兄を兄たらしめる何か、たましい、二十一グラムの可能性を私は一斗缶に焚きしめた炎が呼び戻してくれることを期待していた。しかし、それがどうだ。迎え火を見て帰ってきたのは兄に会いに来たという兄の友人で、五つ年上の髪が長い男の子で、五年前もそうだったのかどうか思い出せない得体の知れないひとで、釣り糸の先を微笑みながら眺めている。もしかしてこの人の中に兄が居るのかも知れないという連想が過ぎった。迎え火を目印にして帰ってきた兄が、この人の中に入り込んで、こうして動いてしゃべって釣りをしているのではないかと考えた。私は、兄が帰ってきたことをはじめて知ることができたのではないか。そうであるなら、布団で一緒に抱き合って眠れたことも、されるがままにこんなところに座り込んで海を眺めていることも、納得ができるような気がした。

「俺もそう思ってる……あ、引いてるな」

 けど、勝手にうなずいて、暢気に言う声は記憶にこびりついた兄の声より少し高かったし、釣り竿を握っる手の指先の爪は真っ赤に塗られていて、兄は決してそんなことはしなかったと思う。「見てて、ちうお」と呼ぶ私の名前はやっぱり間違ったままで、この人が兄であるはずはやはりない。兄はいっとう優しい声で、ちな、と私を呼ばわるのが常だった。千の魚と書いてちなと読む名前を付けたのは父だったという。漁師である父のことだから、大漁祈願の意味でも込めたのだろうが、人の名前を使って勝手なことをするものだ。千もの魚が海の中を群れて泳いでいる様を想像する。流線型の背中を海中に射す日光にきらめかせ、体をくねらせながら、胸びれと背びれとで水を切り、尾びれで進む方向を決めて泳いでいく。群れが進む先には餌がある。海水を吸ってぶよぶよと浮腫んだ骸。兄だったもの。群れはそれを餌にしようとしている。

 漁さんが釣り竿を勢いよく引き上げる。リールもない単純な作りの釣り竿だから、そうして釣果を引き上げるしかないのだ。釣り竿の先がしなりながら持ち上げられていくと、ちゃぷんと小さい水音を立てながら、釣り糸の先に、小さな魚が引っかかっている。私の想像の中で泳いでいたのとそっくりの小さな魚。青みがかった銀色の体に、目がぎょろりとして、流線型の体にせびれと胸びれと尾びれとが付いている。まだ生きているのか、漁さんが触れようとすると、尾びれをじたばたとさせ、体を跳ねさせる。思わず後ずさりしてしまうが、漁さんは動じることはなく「活きが良いなあ」なぞと暢気に笑って、跳ねる魚のえらのあたりをつかむ。魚はまだもがこうとしているが、漁さんは、釣り竿を一度置いて、魚の口の中に手を突っ込む。すぐに、釣り針をつまんだ手を口から出して、漁さんは、海水で濡れててらりと光っている魚の頭を指先で撫でる。魚がもがく力は弱くなっている。死にかかっているのかもしれない。でも、漁さんはとてもやさしいまなざしで、自分が握った魚を見つめている。うっとりとしているようにも見えた。宝物を目の前にして興奮しているようにも見えた。少なくとも、恐怖しているようには見えない。どうしてそんな目で魚を見ているのか。背中をぞわりと悪寒が走り、私は思わず立ち上がってしまう。逃げなければという警告が体を緊張させている。漁さんの方はやはり暢気なもので、陶然と緩みきった笑顔を私に向けてくる。その笑顔にまた背中を悪寒が走り、鳥肌が立つ。自分がどうしてこんな反応をするのかが分からない。これは恐怖だ。海に向けるのと同じ恐怖。

「ちうお」と漁さんが私を呼ぶ声すら、甘ったるい。そんな相手が居たことは私にはないが、恋人を呼ばわるような、そんな声であるように思う。「ねえ、ちうお。やっぱりここには、幾人が居る」

 甘い声色に惑わされて、漁さんの話した言葉の意味が分かるのに、時間が掛かる。漁さんの手の中にはさっき釣った魚が居て、漁さんは直前まで魚を見ていて、ここには私と漁さんと魚しか居なくて、漁さんは、ここに、と言った。この人は何を言っているのか。浅くなる呼吸を、なんとか深いところでしようと試みるものの、膨らむのは肺の浅いところばかりで、鼓動は速いばかりで、落ち着かない。漁さんの押さえている魚のえらからは、赤い血が筋を描いて流れ落ちている。漁さんの指を濡らして、あるいは、流線型の体を滴って、尾びれの先に溜まっていく。馬鹿なこと言わんでください、と言おうとしたのに、開いた口からは呼吸の音がするばかりだ。

「言ったでしょう。俺は幾人に会いに来たって」と言う漁さんに、頷いてみせる。漁さんは笑顔のまま、魚を顔の高さまで持ち上げて、早くも濁り始めたように見える魚の目をまっすぐにのぞき込むと、不意に目を閉じて、尽きだした唇を魚の口先に触れさせる。

 咄嗟に左足が後ろに出た。そのまま振り返ってしまいそうになるのを何とか踏みとどまる。握り込んだ拳の内側には冷たい汗が滲んで湿っている。そういえば、御盆の真ん中だというのに、漁さんは汗一つ掻いていない。昨日の夜、迎え火を焚きながら出会ったときから、今日の今の今まで、流れる汗も、それを拭う仕草も見ていない。私が知らないだけで、そういう人も居るのかも知れない。でも、漁さんの言動の一つ一つが、私の頭に一つの仮説を形作る。

 やはり、この人は、海から帰ってきた死者ではあるまいか。

 漁さんは目を開けて、魚を顔から離す。魚の尾びれに溜まった血がとがった先端に玉を作って、いよいよしたたり落ちる。音も立てずに落ちた血は、白いコンクリートに赤黒い染みを作る。一度落ちれば、続けて血のしずくが地面に落ちて、染みが一つずつ増えて、絵でも描いているようだった。

「さすがに、丸かじりは無理だな」と残念そうな漁さんの声が聞こえるが、表情は声色と噛み合っていない。宝物を手にしたような笑顔をそのままに漁さんは話している。「かといって持って帰ってさばいたんじゃもう刺身は無理だろうし」と首を傾げる間にも、ぽた、ぽた、と血痕が地面に増えていく。漁さんがそれを気にしないのは、彼にはもはや血液が通っておらず、魚から流れる液体が何なのか分かっていないからではないかと、些か荒唐無稽なことを連想する。漁さんは、あの、偶然にも打ち上げられた、ぶよぶよと浮腫んだ体の兄とは似ても似つかない、すっかり別のいきものに生まれ変わってしまったからではないかと考える。「氷を持ってくれば良かったな」と本当にがっかりしたような声で言うのに笑っている奇妙さも、それなら説明が付く。でも、昨日の夜握った漁さんの手は温かかったし、今朝一緒に朝ごはんだって食べた。確かに漁さんは生きていた。

「ねえ、ちうお」

 漁さんが笑いながらこちらを向く。名前を呼ばれて、握り込んだ拳にひときわ力が入る。手のひらに爪が食い込むし、体は強ばっているが、何かを答えなければいけないと思う。当たり前のようにそこにある波の音。風にたゆんで不意に強くなる磯のにおい。青というよりも黒くうねる海。今、私はどれよりも、目の前の男の子が怖い。何を答えてもきっと分かってもらえないだろうという気がしている。それでも、答えないよりはましだと言うことも分かっている。何よりましというのか。

「うちは、魚を食べません」

 自分の喉から出たのは死にかけた海猫のような声だったし、喋ると喉の奥に胃酸の酸っぱいにおいがした。漁さんは、丸くした目を瞬かせて首を傾げる。私だってあなたの言っていることが分からない、と思った。

「兄さんのからだが帰ってきてから、うちは魚は食べません、食べれません。だって魚は兄さんを食べたから」

「だから、幾人はここに居るんじゃないか」と漁さんは私を諭そうとするが、漁さんの言っている意味は全く分からなかった。それは私の知っている事実とは違うことだ。魚は兄の体を食べただけ、兄の体を不完全なものにしただけだ。魚は兄の敵だ。兄の体を、尊厳を、食い散らかして、海に帰っていった。魚が食べた兄の肉は消化されて、残り滓が排泄されたのだろう、排泄物は海流に運ばれながら、少しずつ少しずつ沈んでいったのだろう。そうして、海の底に降り積もるのかもしれない。海の底にはそうして食いちぎられた死者のからだの残り滓が降り積んで雪のようになっているのかも知れないと連想する。

「兄さんはどこにも居ません」海の底にも、墓の下にも、家の仏壇の白木の位牌にも、漁さんが握っている魚にも、兄は居ない。それが事実のはずだし、私はそう信じている。眉尻を下げて、眉間に皺を寄せながら、悼ましげに私を見つめる漁さんは違うのだろう。血を滴らせる魚を手に握ったまま、何か言いたげに唇を開くのに、すぐに閉じて、でも視線は私から逸らさない。漁さんの視線から逃げずに真っ直ぐに前を向く。漁さんが握っている魚はもう死んでいるのだろう。漁さんの言うとおりであれば、兄がその魚に居るのだとすれば、漁さんは兄をもう一度殺したことになる。それどころか、漁さんはその魚を、兄が居るという魚を食べようとしていたのだ。理由も目的も皆目見当が付かない。分かりたくないという気さえする。けれど、頭の片隅で私は連想してしまう、医食同源という言葉、八尾比丘尼の御伽噺、魚を食べることに重なる意味があり得ることを連想してしまう。漁さんに尋ねることは憚られた。私はここから動かない方が良いという気がした。

「うちは、魚は食べません」と繰り返せば、漁さんは軽く息を吸った後、ゆっくり息を吐きながら表情を緩める。何故だか漁さんが泣き出すように思ったが、口元に笑みさえ浮かべた漁さんが「そっか」と言う声は、震えても掠れてもいなかった。視線を下に向け、しゃがんで釣り竿をつかむと、竿の先をしならせ、日光を反射する釣り針を危なげなく避けながら、釣り糸を釣り竿へと巻き付ける。慣れた手捌きだった。下ろした手に握られたままの魚は相変わらず血を流していて、地面には血痕が増えている。

「じゃあ、一人で食べてくる」

 漁さんはそう言って、来た道の方を向くと、歩き出す。何か声を掛けた方が良いような気がするが、何も思いつかず、口を開けない。そうしているうちに、漁さんの背中が視界の端から外へ消えていく。どこへ行くつもりなのか分からないが、漁さんの背中を見るのが怖くて、前を向いていた視線を軽くうつむかせる。白いコンクリートに血痕だけが、さっきまで漁さんが居た証拠のように残っている。赤黒く乾いてきた血を見て、紙ナプキンに染みこんだ経血を思い出す。小学校の最終学年の頃だったろうか、バスケットボールで動き回っている最中に、紙ナプキンがずれてショーツの隙間から経血が漏れてしまったことがあった。短パンの裾にも余裕があったから、経血が内腿を伝って流れ落ちるのを、クラスメイトに見られてしまって、私はひどく恥ずかしい思いをした。恥ずかしい、という一頃では済まない。傷ついた。大げさではなく、人間の尊厳を傷つけられたような思いがした。そんな他愛ない思い出を連想する。ここに血のにおいはしない。ただ、風に揺らぐ潮のにおいがする。

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