千の魚の見る夢は

ふじこ

 御盆の準備をしなければならない。菩提寺の月命日のお経あげも、今月ばかりは御盆のそれにとって代わられる。それで、七日の仏間は静かなものだった。ただ、母親だけは、未だに裸のままの骨壺の前へだんまりで正座をして、白木の位牌に手を合わせていたけれど、月命日だからというのでなく母親の日課のようなものだから、私も父もそれを見過ごした。母とは反対に、父は日ごろは決してあの位牌と骨壺に手を合わせようとしない。流石に命日と御盆には、読経するお坊さんの後ろへ母と並んで正座をして神妙な面持ちでいるけれど、それだけだ。他の日には何事もなかったかのように、狭い家の一室を占めている骨壺と位牌のことなぞ知らぬかのように、暮らしている。

 母はそんな父の様子を指して逃げていると責める。父は母に何も言わないが、母が位牌の前へ座り込んでいるときに後ろを通り過ぎるまなざしを見ていれば、母と同じことを考えていると分かる。口に出していないことをそうと分かってしまうのは、曲がりなりにも親子であるからかもしれない。血のつながりを通じて、母と父をを尊く思ったり愛おしく思ったりしたことはないけれど、不意に、後ろから肩を叩かれたときのように、あ、とその事実が思い出されることがある。

 母と父がしているのは、同じことだ。ふたりとも同じように逃げている。あの部屋の骨壺と位牌の中身から、ふたりとも目を背けている。そのことへ気が付かずに互いを責めているふたりの様は滑稽だと、ほくそ笑もうとすれば肩の重みが増す。お前も逃げているのだと、聞こえない声が囁く。その声へ私が反論する術はなかった。母と父のふたりがしていることを、軽蔑の眼差しでもって眺めていながら、私は、私も彼らと同じく軽蔑される側の人間だということを分かっている。自覚があるという点だけでいえば母と父と、私との間へ線引きは出来るのかもしれないけれど、結局、肉の袋の内側に抱えているものが同じなのだから、些末な差異だ。狭い家の北側の一室を占めている真っ白な骨壺とちっぽけな位牌の中身から、私も未だに逃げ続けている。

 そんな日々をもう五年も続けている訳だから、いい加減、時間が解決してくれるという楽観的な言説に頼る気も失せてきて、きっと、あの部屋に私たち家族の時間がつなぎ止められたまま朽ちていくのだろうなんていう静かな夢想に耽ることもあるのだけれども、時折、あの部屋に風が吹き込んでくることがある。北向きの部屋は海に面しているから、カーテンもしていない窓を開け放していると潮のにおいのする風が吹き込んでくる時間がある。

 窓から海を臨めるような場所に家が建っているから、海風というのは、とても直接的にこの家に吹きつけてくる。あんまり潮のにおいがきついときには窓を閉ざしてしまうのだけれど、ガラスを隔ててしまってなお、潮のにおいが部屋に満ちているように感じることがある。それは気のせいではないのかもしれなかった。海がほど近いから、あの独特の湿ったにおいが家の中に満ちているのは当然で、私や、母や父の鼻の方が馬鹿になってしまっていて、普通のときには何も思わないでいるのに、風の連れてくる潮のにおいを嗅いだ後は、澱んで膿んだ家の中の潮のにおいを嗅ぎつけてしまうのではないだろうか。そのにおいを一際強く感じるのが、骨壺と位牌を置いている北側の部屋であるのは、納得がいく話だった。あの部屋が、一番海に近く、最もよく海を見渡せる部屋であるから。

 家から見渡せる海というのは、ひどく限られた狭い海で、いわゆる海峡という場所なのだけれども、向こう側の陸地が見えるものだから、よその国から来た人が川と勘違いするというのを笑い話で聞く。彼らからすれば、流れがあって、向こう岸の見えるような水たまりは、海と呼ぶには狭すぎるのだという。けれども、あの水から立ちのぼってくるのは紛れもない潮のにおいであるし、たゆたう水を飲み干せば喉が渇くし、水をすくった手の平は、乾きはじめれば塩でべたつくのだから、どう考えてもあれは海なのである。どこかで果ての見えない広い海へ通じている。それがどういう風に通じているのかを私は知らない。真っ白な吊り橋で陸と陸とがつながっている、その下をくぐって海を行けば見ることが出来るのかもしれないけれど、私には恐らく無理だと思う。こんなにも海を身近に住んでいながら、いや、住んでいるからこそなのか、私は、物心ついた時から海が恐ろしい。海の上を行くことなど、たとい吊り橋を通るとしても、飲み込まれてしまうのではないかという恐怖が勝ってしまって出来やしない。それをはっきりと言い表せるようになったのは随分と最近のことで、ようやく五年が経つので間違いはないはずだった。それまで私は、自分の心をかき乱し平静で居られなくする感情の名前が「恐ろしさ」であることは分かっていても、その原因を名付けられはしなかった。

 それで、ああ、何だったか。御盆の準備をしなければならない。準備といったってもう今日が迎えの日なのだから、あんまり悠長にもしていられないが、それでも、心構えは必要だ。迎え火を焚くのはこんなにも恐ろしい海の側でないといけない。

 迎え火は灯台代わりだ、と教えてもらった。恐らく、兄が私にそう教えたのだろうと思う。五つ年上の兄は、私が、分からないことにうんうん唸っていると、丁寧にその疑問をとりあげて、私が本当に知りたいことを教えてくれた。

 しかし、御盆の迎え火は灯台代わりだ、と教えられた後も、私の疑問はきちんとは解けていなかったような気がする。夏なのにどうしてこんな風に庭で火を焚くのだろうと、首を傾げていたような気がする。兄は、私の疑問は一気には解決が出来ないと分かっていたのだろうか。それで、言葉通りの疑問にだけ答えを返して、私の次の質問を待っていたのだろうか。だれがとうだいを見るん。確か、そう尋ねたんじゃないだろうか。私は、夏の庭で兄と一緒に焚き火を囲みながら、木のはぜるぱちぱちという音を聞き、立ちのぼる白い煙の向こうの、火花と見紛う夏の星を見上げていた。

 海から帰ってくる人が、目印にするんや。そう答えてもらったような気がする。海。その単語に、幼い私の心はざわめいた。鳥肌が立って、指先がおののいている理由を、少し目を逸らせば口を開けている暗闇によるものであると勘違いしたのだろう、私を怖がらせることを言った兄の方へ一歩寄って、懸命に赤く燃え盛る炎を見つめた。だれがかえってくるん。私がそう尋ねてなお、兄は笑っていたように思う。優しい笑みだと思っていたが、よくよく考えると、怯えている私が愉快であったのかもしれない。兄が続けたのは、死んだ人、という非常に簡単な一言だけだった。瞬きしている内に見失ってしまいそうな短い言葉だったけれども、兄のその言葉は私の心の柔らかいところに埋ずめられ、種子の一つになった。似たような種子が私の心には色々と埋められていったのだろう。そうして、私が「恐ろしい」「恐ろしい」と思う度に、乾いた土壌に水がやられていたのだろう。少しずつ、少しずつ、芽吹きは近付いていた。

 海から死者が帰ってくる、という兄の言葉は、幼い私の、海への漠然とした恐怖を増幅させたのだけれど、あのとき兄は本当に笑っていただろうか。私の記憶違いではないだろうか。そんなことを思うのは、自分の言葉の円環に抱き込まれて、海から帰ってきた死んだ人、に成り果てた兄の形相が、ひととは思えぬほど崩れているのをよくよく覚えているからかもしれない。全身がひどく不均衡に浮腫んで、皮膚だった一枚の皮は土色にくすみ、ぶよぶよと波打った肉はところどころが欠けていた。

 偶然にも引き揚げられ、この港の、日に灼けた灰色のコンクリートへ、注連縄のように広げられたブルーシートの上に、無造作に横たえられた兄の体は、もはやいのちとして機能していないことは明らかだった。兄は海でいのちをなくし、死者となった。兄のなくしたいのちが果たしてどこへ行ったのか、そんなことは実はどうでも良かったそ、考えても分かるはずもない。ただ、兄は海に居る死者になって帰ってきたのだということは分かったし、目の前にある兄のからだは、最早私の頭を優しく撫でてくれはしないのだということも理解した。

 獲物を見つけた歓喜にわくように、けたたましく鳴く海猫の声を聞き、兄のからだに泣き縋る母の背中を見ながら、私はふと、その日の朝食を思い出した。朝、その日に炊いた白米と、甘くない玉子焼と、お隣のおばさんからおすそ分けでいただいた漬け物と、豆腐と若布の味噌汁と、魚。朝の漁に出ていた父が、雑魚だということで持ち帰ってきた、小魚の塩焼き。私はそれを食べた。海は嫌いな癖に魚は好きで、魚を食らうことで海を克服した気でいたように思う。

 あの、欠けた兄のからだの肉を抉っていったのは、海にすまうものであるに違いなかったし、その中でも、魚が実は鋭利な歯をよくよく持っていることを私は知っていた。普段私たちが食べている魚が、丸い目を光らせながら、小さな口をまあるく開き、細かに尖った痛々しく鋭い歯で、兄のからだの柔らかい肉にかじりつき、千切れた肉のかけらを辺りに振りまきながら、肉を咀嚼した、という連想が、私の脳裏には鮮明に浮かんだし、それが本当にあったことだと信じることは容易かった。普段食らわれるばかりの魚達の復讐だと思った。魚は海に居る死者を食らう。私たちは魚を食らう。魚は死んだ兄を食らう、私は魚を食らう。その相似関係が腑に落ちると、猛烈な吐き気が胸の底から襲ってきた、けれども、頬の内側の肉を噛み締めて、せり上がってくるものをこらえた。肉の繊維が千切れる感覚が歯を通して伝わってきて、少し遅れて生臭い鉄の味がした。人垣の輪の中にいるからという理由だけでなく、今、ここで、これを吐き出してしまうわけにはいかないと思った。

 私は死んだ兄のからだを食らった。私たちは海に居る数多の死者のからだを食らってきた。素朴に理解された事実は、胸の底にしずしずと澱を成し、いよいよ私の海への恐怖を象った。あのときに、それまでに撒かれていた種子が一斉に芽吹いたに違いない。横たわった兄のからだから無理矢理に引き剥がされそうになり泣き叫んで抵抗する母の、絹を裂くような声にでなく、自分の内側を満たしていく静かな恐怖に顔をしかめながら、私は、くずおれそうになる脚に力を込めて耐えながら、得心して涙を流していた。

 涙の意味は周囲に誤解され、見当違いな慰めの言葉をかけられたりもしたような気はするけれど、私のちっぽけな頭の中は、兄が最期に身を持って私に教えてくれたいつかやってくる不確定なのに確実な未来、それへの恐怖、それをもたらすだろう海への恐怖に満たされていたから、誰がなんと言っていたかは覚えていない。後から、友人だった同級生が、あんときのあんたはあそこにおらんかった、と的確な分析を聞かせてくれて、それには感心したものだけれど。

 あれから五年と六日が経って、私の年は兄に追いついた。そうすると後はもう兄をぐんぐんと引き離していくだけで、もう二度と、兄の年が私を追い越すことはない。五年も経てば私のからだも大きくなって、胸も膨らんだし、恥毛も生えそろったし、月に一度は膣から血を流す作用も働いているけれども、背丈はきっと兄を追い越せないだろうと思う。

 一八歳の兄の背丈はとうに父を追い抜いていて、村の中でも上から数えた方が早いぐらいの長身だった。それで、よくよく、高齢の夫婦の家へ色々と手伝いに駆り出されていた姿を覚えている。手伝いに出た兄が帰ってくるのはいつも楽しみだった。私たち、私たちというのは兄と私というきょうだいだけではなく、同年代の町の子供たち皆を指していうのだけれど、私たちは大人に大層可愛がられていたし、齢を重ねた老人達ほど、私たちを甘やかしていた。手伝いの報酬として兄が持ち帰ってくるのは、大抵、ひとつひとつビニールの固い袋に包装された安っぽい油のにおいのする焼き菓子や、薄くてしゃりしゃりいう透明なセロハンでくるまれたお饅頭といった類の、三時のおやつに小腹を満たすための甘味であった。兄は私にそれらをこっそり分けてくれた。お母さんには内緒やでと言って、兄は悪戯っ子のように楽しげに笑っていた。

 潮のにおいを孕んだ湿った風が私の方へ吹き抜けてくる。電球の明かりよりも一層眩しい日射しが、情けも容赦もなく照りつけていて、そのもとへ一歩を踏み出すことが一瞬だけ躊躇われるけれども、瞬間的に濃くなった私の周りの潮のにおいから逃れたくて、コンクリートの上へローファーを履いた脚を踏み出す。波の音がする。慣れた道を走って県道の方へ抜ければ、道と海とを区切るようにテトラポッドが敷き詰められ、穏やかな波が、灰色のテトラポッドを濃い色に濡らしている。

 潮のにおいは、波の音を聞いているうちに鼻が慣れてしまって、しているのかしていないのか、分からなくなってしまったけれど、どうせ、私には分からないだけで、今もこの風は潮のにおいを孕んでいるのだろう。海猫が遠吠えしている。そこの県道を制限速度以上のスピードで通り過ぎていく軽トラの荷台に鶏頭の混じった仏花が載っている。ああ、御盆の準備をしなければならない。




 御盆には漁に出てはいけないというのは、この町だけの決め事なのか、それとも、島全体のことなのか、もっと広い範囲の決め事なのか、それは知らない。少なくとも、家から一番近い港には人が詰めていなくて静かだった。普段でも、こんな時間だったら人は居ないだろうけれども、どことなく、漁の後の騒がしい雰囲気が尾を引いて残っているものだ。広げられたままの投網や、物干し竿に引っかけられた長靴みたいに目に見える形を取ることもあれば、魚の肉が腐ったにおいみたいに感じ取れるものもある。そのどちらもない港は、やはり静かだった。

 突堤の先に立っていると、波の寄せて返す音だけが聞こえてくる。月は丸くて明るかった。月の満ち欠けと犯罪率には相関があるという話を聞いたことがあるけれど、あれは本当だろうか。

 足元を蹴り上げると、爪先が当たって、がらと音がする。一斗缶の中の廃材がずれたのだろう。どちらも港に転がっていたものだから、一斗缶は内も外も錆びてしまっているし、廃材も湿っているようだった。こっそりと準備をしようと思ったらこんなものを拾ってくるしかない。私が何をしていたかがご近所さんの口舌にのぼったところで、父や母に知られ、隠れてしていたことを叱られるということはないから、それを心配しているわけではないのだけれど、勘のいい人ならば、私が買い揃えたものが御盆の準備であることに気が付いて、五年前に死んだ兄のことを言うかもしれないと悪い想像をした。それは許せないことだと思った。

 しゃがんで、一斗缶の傍に置いた紙袋の中に手を入れる。昨日の新聞を取り出して地面に広げ、一枚をくしゃくしゃと丸める。丸めた新聞紙を、一斗缶に収まるように組んだ廃材の奥へとねじ込む。毛羽だった廃材の表面が手の甲を撫でた。まだこの廃材は湿っているかもしれない。湿っているとどんなものも火がつくのに時間がかかるのだし、そのために新聞紙を火種にしようと思った。たとえば、死んだ人の体を燃やすときの火は、どうやっておこしているのだろうか。何を燃料にしているのだろうか。湿っていると燃えにくいから、兄の葬式をあげるのにあんなにも時間がかかったのだろうか。

 七日に打ち上げられた兄のからだは、ブルーシートにくるまれて一度はどこかへ運ばれてしまった。私と母はその場に取り残されて、私は、大げさに泣き崩れる母を支えていたから、父がついていったのだろうか。兄のからだはうちへ帰ってこず、その間、私は日に何度も夢を見た。ぶよぶよと浮腫んだ兄のからだが二足歩行をして、うちへ帰ってくる夢。悪夢だったのかもしれない。帰ってくるものは兄のからだではあったけれど兄ではないと夢の中で私は信じていて、兄のからだは私が玄関の戸を開けても敷居を跨がずにそこへただ立っている。日射しはきつくて、蝉の鳴き声がする。ところどころ肉の欠けた兄のからだからは、眼球も失われてしまっていて、瞬きしようとしたのだろうか、瞼が閉じたらそれきり、落ちくぼんだがらんどうの眼窩は二度と開かれず、そこでいつも目が覚めた。

 目が覚めたときの私のからだは、鼓動がどくどくと早鐘を打っていたし、背中は汗でぐっしょりと濡れていた。何より、吐き気がした。すぐにトイレに駆け込んで、胃の内容物を吐き出した。そんなことを日に何度もしていたから、兄のからだがうちへ帰ってくるまでの一週間の間に、私はひどくやつれてしまっていたらしい。葬式の時に誰かにそう言われ、頭を撫でられたように覚えている。あれは、誰の手のひらだったっけ。

 新聞紙の最後の一枚を一斗缶にねじ込むと、肩がうんと軽くなったような気がする。後は、火をつけるだけ。死んだ人のみちしるべになる灯台の火をつけるだけ。胸ポケットから、北向きの部屋のテーブルの上からくすねてきたマッチ箱を取り出す。父がどこかの酒場でもらってきたのだろう、箱はけばけばしい色をしていたような気がする。箱をずらして、マッチ棒を二本取り出す。二本を同時にマッチ箱の側面に擦りつけると、マッチ棒のぽてりとした頭に、橙色の火が点った。火をのぞき込んでも幸せな幻は見えないから、一斗缶へマッチを投げ入れる。すぐに新聞紙に火が燃え移って、橙色の炎が薄く、広がっていく。潮のにおいの中に、紙の焦げるにおいがまじって、妙な気持ちになる。

 兄は、海から帰ってくる死んだ人がこの火を目印にすると言ったけれど、あの、兄のからだが帰ってくるまでに見た夢を思い出す。帰ってきた兄のからだが最早兄ではないのなら、この炎を目印にして戻ってくるのは、果たして何なのだろう。兄のからだではない兄であるもの、死者のからだではない死者であるもの? たましい、という言葉を思い出す。からだではなく、その人をその人たらしめる何かを、たましいと呼ぶ、ようだ。海から帰ってくる死者というのは、死んだ人達のたましいのことなのだろうか。兄のたましいも、海から帰ってくるのだろうか。兄を、兄たらしめるたましいが海から帰ってくるのだったら、それはほとんど兄が生き返ったことと同じではないだろうか、そもそも、兄は死んでなどいないのではないか。

 ぱち、ぱちと小さな音がする。廃材に火が燃え移ってくれたらしい、細い煙が立ち上る。兄のたましいとやらは、私の頭を撫でてくれるだろうか。私の分からないことに答えてくれるだろうか。そこに居て、手を繋いでくれるだろうか。今まで三回とも、そんなことは起こらなかったけれども。たましいはかたちを持たないし、たましいは姿をとらないのかもしれない。私は、兄が帰ってきたとしてもそれを知る術を持っていない。ならば、帰ってくるのが兄でなくたって同じことだし、そもそも、何も帰ってこなくたって同じことだ。私は、死んだ兄が帰ってくるという嘘を心から信じながら、ちっぽけな灯台の火を守っている。

 あちこちの庭で同じように火が焚かれているだろう。兄は、間違えずにここへ帰ってきてくれるだろうか、と、嘘を祈りながらゆらゆらと揺らいでいる炎の輪郭を見つめる。ぱちぱちと廃材のはぜる音がし始める。これで、大丈夫。煙のにおいに咳込みながら、立ち上がる。湿った風を受けながら息をすると、潮のにおいが苦しかった。すぐそこに海が広がっている。

 海に飲み込まれることが恐ろしい、という感情そのものが異常ではないということは、私も知っている。友人達に説明すれば「溺れて死ぬのが怖いってことやん」と理解されるし、周囲の大人に話せば「野本にもそういうことがあるんだなあ」と感心される。私の感じていることそのもの、海への恐怖そのものを真っ向から否定されることはなかったけれども、いつも「度が過ぎる」ということは指摘された。そのために、いかなる手段であれ海を越えることを厭うほどなのは度が過ぎていて、異常であるらしい。むしろ、何故みんなが恐ろしくないのかが、私には分からなかったし、恐ろしいと思っているけれども耐えられるのだとしたら、私はみんなを尊敬する。

 一斗缶から立ちのぼった煙は、潮のにおいのする風に散らされて、すぐに見えなくなってしまう。確かにそこにあったのに、煙というのも、たましいと同じでからだのないものらしい。それでは、からだを持つものには必ずたましいがあるのだろうか。海を泳ぐ魚にはたましいがあるだろうか。

 兄のからだが見つかった日以来、わたしは魚が食べられなくなった。おそろしいものが増えてしまった。兄のからだの肉が欠けていたのは魚が食らったためだということが、私にとっては本当だった。兄だけでなく、これまでに海で死んだ数多の死者のからだを食らって、魚は生きてきたのだと言うことを思ってしまって、私は魚が食べられなくなった。なんだか、それはとてもいけないことであるような気がした。そうすると、私の家の食卓に魚がのぼらないことの方が珍しいから、必然的に私は家での食事の一部を残すことになった。母は困惑していたし、父ははじめ怒って、手をあげられたことすらあったけれど、ひと月も続けば当たり前になって、ふたりとも何も言わなくなった。諦めたとか、呆れたとか、そういうことだったのかもしれない。いくら私の心配をしても、兄が死んでしまったことは覆せないということにふたりとも気が付いたのかもしれない。私の体重が目に見えて減り始めたのと、母が日がなあの北向きの部屋で過ごすようになったのと、父がほとんど家に寄りつかなくなったのが同じ時期だった。

 今、ここから身を投げたら死んでしまうだろうか。

 何故だかそんな考えが浮かんできて、どうしてだろうかと考えようとするのに、妙な音が聞こえてくる。からからと、そう、おばあちゃん達が買い物の供にと連れて行くあの押し車と同じ音、小さな車輪がコンクリートの上を走っている音。夜の港に聞こえてくるには不自然な音が聞こえる。しかもその音はこちらへ向かって近づいてきている。私の目の前には灯台代わりの火が燃えていて、曖昧な火影の輪郭を映し返す黒々とした海原はそこへ広がっているのに、近づいてくるからからという乾いた音と、一緒に聞こえてくる足音は私の後ろから聞こえてくる。おかしい。やっぱり兄の言葉は嘘だったのか。

 近づいてくるのが何者かは分からないけれども、後ろを振り向いて確かめるのは躊躇われる、というのは、月明かりが明るかろうと、火に慣れてしまった目には頼りない明かりだろうし、そんな頼りない明かりのもとで近づいてくる何者かを確かめることは出来る気がしなかったし、手間取っている間に私も死んでしまうような妙な連想をしたからだ。一斗缶の中で火の粉が舞っている。茶色く錆びた缶の内側が赤く照らし出されて、新聞紙の燃えカスが沈んでいる。車輪の回るような音とかたい足音はもうすぐそこに聞こえる。

 車輪の音が、足音が、止まる。波の音と火の粉のはぜる音だけが聞こえる。

「ちーうーお」

 間延びして甘ったるい声が、鳴き声みたいに三つの音を言う。ちうお。私はそう呼ばれていたことがある。懐かしい。あんまり懐かしいから、息を止めたまま後ろを振り向く。

 人が立っている。何度かまばたきをするうちに、人影の輪郭ははっきりしてくるのだけど、歴史の教科書で見る西洋のドレスみたいに、ふわりと広がったボトムに違和感を覚える。よく見れば足元も、月明かりや火の粉の影を反射して艶めく、エナメルで出来た靴らしい。かたい足音は、踵のヒールのためではないか。それらに違和感を覚えながら、視線を上半身へと滑らせる。長袖のトップスを着ているのか、腕の輪郭もふわふわとしていて、からだの横に置かれたスーツケースを支える手だけが、滑らかに見える。そして、髪が長い。違和感が一層増す。私を呼んだ声はいくら甘ったるくても変声の済んだ男性の声だったのに、私をそう呼ぶのは五つ年上の男の子だけだったはずなのに、そこに居る人は、女の格好をしている。暗闇に慣れてきて、赤い唇が細い月の形を作っているのを見つけて、目を奪われる。男の人は口紅なんかしない、そうじゃ、ないだろうか。首を傾げたら、長い髪が揺れて風になびいた。

「ひさしぶり、ちうお」

 そういう声はやっぱり男の人のもので、けれども、スーツケースを置いて私のそばへやってくる足音は、ハイヒールを履いていて、火の側へしゃがみ込んで一斗缶の中を見る顔は化粧をして、唇は赤い。長い髪は風でまばらに揺れているし、ワンピースはふわりと広がって、裾がコンクリートの地面に擦れている。その裾からのぞく黒いレースの重なりと、隙間からもぞりと這いだしてきたフナムシを睨みながら「いさりさん」と呼んでみる。外れるだろうと嘘を考えた。彼はしゃがんだまま私を見上げて「良かった。もう忘れられたかと思った」と顔を綻ばせる。涙が出そうになった。訳が分からない。久しぶりに会う五つ年上の男の子が、島じゃ誰もしないような、洒落たというよりも豪奢な女の服を着て、御盆の迎え火の側で笑っている。

「うちの名前間違えるの、漁さんだけやも」

「間違えちゃないでしょ。だって、ちうおじゃん。千の魚でちうお」

 千の魚、という自分の名前の説明、私だって自分の名前を説明するときにはそういうのだけれども、漁さんが改めてそれを口にするのを聞くと、肌が粟立つ。千の魚、海にはそれぐらいの魚が居るだろうか。それとも、もっとたくさんの、星の数ほどの魚が居て、ぷかりと口を開けているのだろうか。浅い水の底で、深い海流に乗って、死んだ人間のからだをしずしずと待っているのだろうか。

 そんな想像をする、一方で、「ちなです」と自分の名前の正しい読みを訂正する。漁さんは情けなそうに笑って「そうだね」と頷く。島の、あるいは島が属する地方の言葉の癖を一切感じさせない、テレビでニュースを読み上げる人のように、清廉なイントネーションだ。昔からそうだった。この言葉の調子で言われると、それが間違いだと分かっていても、この人の言っていることの方が正しいような気がしてきてしまう。

 それで、私は「ちうお」と呼ばれっぱなしだった。兄が度々止めてくれたけれども、この人は兄にさえもきっぱりと私の名前を読み間違える根拠を説明して、私を「ちうお」と呼び続けた。兄に止められなかった相手を私に止められるはずもなく「ちうおはさ、」と漁さんは変わらず私の名前を読み間違える。けれども、呼ばれていることが分かるから無視をすることも出来なくて、「はい?」と先を促すように相槌を打つ。

「どうして、こんなとこで迎え火焚いてるの」

「うちの勝手です。漁さんには関係あらへん」

「関係あるね。だって、ちうおが火をつけなかったら、俺はここを素通りしてた。そうしたら、ちうおの家に行ってもちうおに会えなかった」

 漁さんが火を見ながら話したことに、私は目を瞬かせる。今の話を素直に聞いていたら、漁さんは私に会いに来たということになる。いよいよ訳が分からない。死んだ友人の妹を御盆に訪ねてくる、それも、五年も経ってから。訳が分からないから考えるのはやめて、私も火の側にしゃがみ込む。汗をかいてべたついたセーラー服の襟が、うなじに擦れて気持ちが悪い。ぱちぱちと火の粉のはぜる音は、波の音に混じって寂しげに聞こえる。

「――何しに来たん」

 それで火をじっと見つめていても、やっぱり、漁さんが今になって島へ戻ってきた理由が気になってしまって、しょうがなくって、簡単な質問がぽんと口をついて出る。漁さんは「うん」と短く言って、その後へは言葉を繋げない。炎に照らし出された面は真白く滑らかで、炎の照り返しなのか、頬紅の色なのか、頬が仄かに赤く染まって見える。軽く閉じられた唇には口紅が塗られて、はっきりと赤く色づき、真ん中がつんと突き出している。形良く上品に高い鼻も、白く、汗や脂を感じさせない色をしていて、すっと通った鼻梁をたどった先の目は、濃い睫毛に縁取られて力強い。長い睫毛が上下に動く。黒いまなざしが、一斗缶の中の炎から、向こう側へ、黒々と広がる海原の方へ、移る。

「俺ね、大学行ってるの」

「知っとう」

「でもさ、俺の通ってる大学からだと、海って見えなくって。別に、好きでもなかったのにね、なんか寂しくなっちゃってさ。それで、海が見たいなと思って、戻ってきたの」

 そこまで言って、漁さんは目を伏せる。黒い睫毛の縁取りがまなざしを遮った、かと思うと、漁さんはこちらへ顔を向ける。ぱちりと開いた目は案の定私を正面からとらえていて、お人形みたい、というほめ言葉なのか何なのか分からない大人の言葉を思い出す。七五三で慣れない服に着飾った私に、その日まで顔も知らなかった親戚のおばさんがそう言ったように思い出すけれど、あれ以来、そのおばさんに会ったことはないから、私の覚え違いかもしれない。

「それだけ」

 お人形みたいに麗しい唇が四文字の音をなぞって、細い月かミカヅキモみたいな形をとる。単語の意味とは裏腹に、漁さんの「それだけ」という言葉には、もっとたくさんの意味が詰め込まれているような気がしたけれども、それを確かめるための言葉が私には分からなくて、そもそも、それを今ここで確かめてしまって良いのかも分からなくて、というのは、そこに海があるから、私には漁さんがそこへ沈む想像も、反対に、私がそこへ溺れる想像も、出来てしまう。そういう厭な絵を私に思い描かせるだけの何かが漁さんの言葉には押し込められていて、私はそれを確かめたいのに身動きがとれなかった。

 ふたりで黙っていると、ぱちぱちと爆ぜる音の向こう側の波の音の方が次第に前景に出て来て、私は、立ち上がって一歩後退さる、のに、お尻に何かがぶつかって、バランスを崩す。このまま尻餅をつく、と思ったのに、自然と前へ投げ出されていた腕の手首を力強くつかまれる。「大丈夫?」と尋ねる漁さんの声と同時に後ろで何かが固いものが倒れる音がした。漁さんの引いてきたカートだろうし、それで淡々と「大丈夫?」とだけ尋ねるのは、いかがなものか、なんて思うけれども「大丈夫」と頷いておく。私がバランスを立て直してちゃんとその場に立つと、漁さんは手を離して、ふわふわとしたスカートの膨らみへ腕を預けた。火は隠れてしまった。私を引っ張る腕は力強かったのに、海を背にして立つ漁さんは、本当の女の人みたいに見えた。

「大丈夫ついでに、お願い」

「何?」

「ちうおの部屋に泊めて。俺、勘当されてんの。知ってるでしょ?」

 そういえば、そんな噂を聞いたような気がしないでもない。はっきりと覚えがないのは、兄が死んだのと同じような時期にそういう話があったからかもしれない。兄が死んでから、葬式の席でも、それ以外の場所でも、漁さんと何か話をしたような覚えはあまりなくて、とすれば、あの後、町の共同体から遊離しかかっていた私の家に、辛うじて入ってきていた村の噂ごととして漁さんの言うような話は入ってきて、ほんの微かに私の記憶の片隅へ残っていたのかもしれない。

 どう答えたものかを決めかねて、じっと黙って漁さんの足下のエナメルのハイヒールのつま先を睨んでみたりするのだけど、波の音がやかましくなる。鼓膜を震わせた音の実体が、血管に入り込んで内側から鳴っているみたいだった。そこに海がある恐ろしさが私を覆い尽くす。「いいですよ」と早口で答えたら、漁さんのつま先がことりと動く。ここから離れられるならなんでもいいです、という本当に言いたかったことは飲み込まれた。漁さんが私の手を握る。柔らかく温かい手だった。生きている人の手だった。そうだ。この人は、とても手の温かい男の子だった。私はそれを知っていた。

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