箱庭のバベル
伊島糸雨
箱庭のバベル
世界は滅んじゃったんだ。だから外には何もないんだよ。
私はそう言って、混乱する彼女を説得した。目を覚ましたら何もわからないなんて、きっと不安だろうと思ったからだ。それに、事実として外には何もない。彼女に益になるものは、何も。
コンクリートに覆われた寒々しい箱の中が、今の彼女のすべてだ。無駄を排したシンプルな世界観は、心地いいに違いない。感情の動きは最小限に。振れ幅は小さく、種類を減らし、灰色に。
「ぜんぶ私に任せて。あなたはここにいてくれれば、それでいいから」
「ごめんなさい……ありがとう」
いいのよ、と私は言って、物資を漁りに外に出る。階段を上って、地上に出て、通りすがる人に挨拶をする。「こんにちは」「こんにちは」
彼女の痛みを彼らは知りもしないだろう。のんきなものだ。本当に滅んでいればよかった。
望んだものを与えようと思う。願った平穏は私が守ろう。安定した寝息を立てる静かな表情を、私はそばで眺めている。歯ぎしりもなく、叫びもしない。これでよかった、というには十分だった。
苦しそうに喘ぐ姿など見ていたくなかった。自分の妄想で傷つく様は憐憫を誘った。私はそれをずっと近くで眺め続けて、だから私は、私の怒りで、私のエゴで、彼女に私の優しさを押し付ける。嘘をついて、彼女を救わない世界から、彼女を奪ってやる。
できないことをできると言う。優しい嘘だと言えればよかった。けれど、そんなものはどこにも存在しない。優しさは優しさとして。嘘は嘘として。それぞれ独立して、人を苛むのだから。
「その本が出版されたのは50年以上前なの」嘘だ。
「核戦争は起きなかったけれど、あちこちで暴動があって」嘘だ。
「ここなら安全だから」嘘だ。
「私が守るから」嘘だ。
嘘には嘘を。恥は上塗りして層を成し、けれどいつかは、崩れ去るのだろう。
時々、想像する。
天まで届く摩天楼が、ある日突然崩れ去る景色を。もうもうと烟る砂礫の中で立ちすくみ、呆然と空を見上げる自分の姿を。
それはバベルの塔だ。私が一つの嘘を礎に、嘘のレンガとアスファルトで作り上げた、真実へと至るための塔。欺きを統べ偽りを集わせて、私の言葉を彼女の世界での真実とするための壮大な計画だ。
じゃあ、と考える。その塔が壊されるとするのなら。
一体、誰が壊す?
「放っておいて! 私はここから出るの!」
いつかその日が訪れる。私の想像は現実となって、積み上げたものを叩き潰す。一切の温情も、悲哀さえない。ただそのようにあるのだ、そういう摂理なのだと言わんばかりに、あまりにも、暴力的に。
「だから、何度も言うように世界は……」
「嘘!」
その一言が、抵抗は無意味だと私に教えてくれた。
「途中からずっと、私をここに止めることに必死だった。何かに怯えて、焦っていたよね。……ねぇ、恐れていたのは、こういうことなんじゃないの?」
扉の前に立つ私を、彼女の瞳が映している。その奥で、彼女は何を思うのだろう。
神なんていない、とあなたは叫んでいた。机の上のものをなぎ倒して、救ってくれ、と呻きながら。
今でも同じことを思うだろうか。その不在を、信じていられる?
私は無理だ。だって、人の傲慢を突き崩すのは、いつだって神でしかありえないのだから。
「記憶のない私によくしてくれたのは感謝してる。でも、やっぱり変だよ。教えて、世界は本当に──」
「放っておくなんて、できないよ」
嘘をついてでも守りたかった。何もできない無力を、うわべだけの優しさで押し潰したかった。
けれど、結局はここに辿り着く。わかっていたことだ。永遠などなく、終わらせなければならない時は必ず来る。
「どうして、そこまで……」
ああ、そうだ。あなたにはわからないだろうね。だって、
「記憶を奪ったのは、私だから」
「……ぇ?」
大好きなあなたが汚されていくのが耐えられなかった。大好きなあなたが自分に刃を這わせるのを見ていることなんてできなかった。同じ部屋で眠りながら、あなたの押し殺した嗚咽を聞くのが辛かった。
優しさなんて嘘。そんなもので、醜さを隠せるわけもない。
苦しまない生き方をあなたは選べない。けれど私はあなたが良かった。傍にいたかった。
だから、終わらせてしまいたかった。
彼女は目を見開いて、その身を震わせている。
怯えるのも焦るのも恐れるのも、私だけのものじゃない。彼女の方が、ずっとずっと強烈に、それを理解している。
背後に手を回して取り出したのは果物ナイフだ。私が林檎とかの皮を剥くのに使って、テーブルの上に置いたのを隠しておいたのだろう。「知らないよ」と言うから、失くしたと思っていたのに。
「あなたは、誰なの」
「……友達だよ」
他の答え方を私は知らない。友達。ただ、あなたと一緒にいたかっただけの、友達だ。
「私は、神にはなれないよ……」
彼女に近づくと、握りしめたナイフを突き出してくる。けれど、私は知っている。あなたはそれでは誰も殺せない。自分自身さえ、ままならなかったのだから。
皮肉なものだと思う。その果物ナイフは、かつてあなたが自分を傷つけていたものなんだよ。それをわざわざ、使っていたんだよ、私は。
「近寄らないで!」
私はその言葉に耳を貸さない。後退る彼女を壁に押し付けて、手を伸ばした。
ナイフを握り締める。
鋭い痛みが緩やかに手のひらを覆った。滲んだ血液が、手首を伝って流れていった。
「もう一度始めよう」
すべてを最初から積み直そう。嘘を優しい真実へとすり替えるために。この、灰色の箱の中で。
彼女の手はもはや柄になく、だらりと垂らされている。私は今度こそ、耳元で囁いてみせる。
「私が、守るから」
ドアノブに触れようとして、包帯を巻きつけていたことに気がついた。反対の手に変えて、背後を振り返る。
「じゃあ、行ってくるね」
「ごめんなさい……ありがとう」
ベッドから上体を起こした彼女が、物憂げな表情でこちらを見ている。頭痛がすると言っていたから、その薬も買ってこないと。
彼女の世界に出口はいらない。
だから、嘘で塗り固めて、閉じ込めて、二度と苦しまなくて済むように。
微笑みを返して、扉を閉めた。
箱庭のバベル 伊島糸雨 @shiu_itoh
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