水辺の生き物

@sakamono

第1話

 その朝、僕は夢うつつに水の落ちる音を聞いた。細く小さく尾を引いた音が止むと、大きく水の流れる音がした。扉を開け閉てする音がして薄く目を開けると、細く開いた掃き出し窓のカーテンの隙間から朝日が差し込むのが見えた。畳の上にほこりが舞っている。前の晩から降っていた雨は上がったようだ。寝返りをうって左を向くと、隣に寝ていた草子さんの姿はなかった。

 蛇口をひねって水を出す音がした。ガスコンロに火を点ける音。台所で草子さんが、湯を沸かし始めたらしかった。草子さんの朝は濃いめに淹れた煎茶を飲む。僕はそのことを、この二ヶ月で知った。梅雨入り前のよく晴れた、日曜日の朝だった。

 始まりはおっとりしたものだった。いや、始まりだか何だかよく分からないまま、こうして週末ごとに草子さんの家で目を覚ますことになった。両者の好意を確かめ合うプロセスとか、それに伴う劇的な出来事とか、男女交際が始まるには何かそうしたものが必須のように思っていたけれど、それは三十半ばの年になっても、さして経験のない僕の、勘違いみたいなものなのだろう、と思うことにしている。

「おもしろいこと言うね。祐平は」

 以前にこの考えを述べた時の草子さんの反応だ。

「愛の言葉とか、無理にささやかなくて、いいんだよ」

 吹き出すのをこらえるような顔だった。僕はといえば、その時の笑顔(?)に、まんまとやられてしまったわけなのだった。


 布団から這いだして襖を開けた。隣の座敷の卓袱台には、急須と湯飲み茶碗がひとつ置かれたままになっていた。草子さんの姿はなく、柱に掛けられた振り子時計の音だけがしていた。午前七時。僕が二度寝をしているうちに、朝の散歩に行ったのだろう。古ぼけた水屋箪笥の上に水槽が二つ。片方の水槽にはゲンゴロウが六匹とヌマエビが三匹。二匹のゲンゴロウが真ん中に置かれた石に上って甲羅干しをしていた。

「背中の模様がなんか和風で、かわいいでしょ」草子さんは言っていたけれど、体長が一センチほどなのでよく見ないと分からない。

「ご主人は散歩?」僕は隣の水槽にいるカメのマリエルに話しかけた。

 マリエルは鼻先だけを水から出して、ぼんやり浮いている。

「カメって鳴くらしいよ」草子さんはそんなことも言っていた。時々僕は水槽に顔を近づけて耳をすましてみるけれど、鳴き声を聞いたことは、まだない。草子さんも聞いたことはないそうだ。カメもゲンゴロウも家の裏を流れる野川で捕まえてきた、ということだった。

 僕は顔を洗おうと、自分のかばんからタオルと歯ブラシを取り出して洗面所へ行った。歯磨き粉だけは草子さんのものを借りることにしている。歯ブラシをここへ置いてしまうのは、草子さんの領域を侵食するようで気が引けるのだ。洗面所の出窓を開けると薄暗い家の中と対照的な初夏の日差しがまぶしかった。青空を背景に川向こうに見える雑木林の新緑が、朝の風に揺れていた。「散歩に行こう」と思った。


 玄関の鍵は開いていた。ちょっと近所に出かけるくらいなら草子さんは鍵をかけない。僕もそのまま家を出た。赤いトタン屋根の小さな家。一人暮らしというものだから、単身者向けの賃貸アパートに住んでいるものと勝手に思っていたから、初めて訪ねた時は意表をつかれた。

「その辺に座ってよ」言いながら草子さんは、引き戸を開けて玄関から続く茶の間に上がった。左手に奥へ続く短い廊下があって、申し訳程度の台所が設えられている。突き当たりに洗面所が見えた。草子さんは奥へ続く襖を開けると、狭い庭に面した掃き出し窓も開けて網戸を閉てた。六畳の二間続きの座敷を風がゆるく抜けた。その途端、家に染み着いた他者の生活の匂い、みたいなものを感じて、僕は身の置き所のないような落ち着かない気分になった。その匂いにもこの二ヶ月ですっかり馴染んでしまったけれど。

 家の横の路地を下ると野川に沿った遊歩道に出る。草子さんの散歩はこの道を上流に向かって歩いて、また戻ってくる。三十分の時もあれば一時間の時もあって気まぐれだ。どうであっても、この道を歩いていけばどこかで会えるだろうと思った。

 川沿いの居並ぶ家が途切れたところで、ぽっかりと田んぼが現れる。奥の雑木林から野川に流れ込む水を引いているのだ、と草子さんから聞いた。その水は遊歩道の下に作られた水路を通って野川に流れ込んでいる。草子さんは水辺が好きだと言った。

「さやさやと流れるくらいの水が好き。海とか池は水が多すぎて重たそうで。溶けた鉛みたいで」

 そんなことを言う草子さんは、ここからずっと西の山あいの町で生まれた。家の裏が沢と棚田で水の流れる音が絶えず聞こえる場所で育った。

「沢は細くて急だから、さやさやより、少しだけ流れは激しいかな。雨にも左右されるし。台風一過の朝なんてすごいよ。降った雨がすぐに出てきちゃうのね」

 激しく流れる沢からは、ひんやりとした空気が立ち上って涼しくなるという。その辺りではどの家も沢から水を引いていて、生活用の水はそれですべてまかなわれているそうだ。

「今、水道代を払ってるのが残念で」草子さんは本当に残念そうに言った。

 護岸された川岸は、この辺りで終わり、ここから先は土手が続く。土手には夏草が丈高く伸びていて、濃い緑の葉を茂らせている。昨日の雨で多少増水したらしく、水際の草は流れに沿って倒れていた。こうした夏草の繁茂する勢いは、僕に「獰猛」という言葉を連想させる。春先、道端に咲き始めた野の花に、春の到来を感じて油断していると、瞬く間に侵食される、そんな気分だ。

 草子さんは大体いつもこの辺りで遊んでいる。いい年した大人の女性に「川で遊んでいる」もないものだけど、そうなのだから仕方がない。いい年と言ったものの本当の年齢は知らない。僕より年上ということだけは教えてくれた。それ以来、僕は「さん付け」で呼ぶけれど、草子さんは僕のことを呼び捨てだ。

 川の方を見ながら歩いていると、土手の夏草の向こうに草子さんの後ろ頭が見えた。草の上に体育座りをしている。ジーンズの裾が膝までまくり上げられていて、サンダルを履いていた。

「おはよう」僕が声をかけると、

「ああ、祐平……」と力なく言った。

「休憩してるんだ。疲れちゃって」

 川虫を捕ってたんだ。マリエルのエサに、と草子さんは話し始めた。


 網とバケツを持った小学生が三人やって来たんだ。四年生くらいかな。「何してんの」って言うから、川虫を見せてあげたら「ひょえ~」って言って逃げちゃった。


 捕った川虫を入れてあると思われる、小さなタッパのふたを開けようとするので、僕は「いえ結構です」と断った。


 何か楽しそうだったから混ぜてもらって一緒に魚、捕まえてた。ドジョウとかタナゴとか、ザリガニが目的みたいで、私が捕まえたタガメには興味を示さなかったな。それで帰りがけにね「ありがとう、オバさん」って言ったのよ! 奴らは!


「えらい子供だな、きちんとお礼が言えて」

「そうきたか」草子さんが笑いながら立ち上がった。

「帰って朝ごはんにしようよ。お腹へっちゃった」

 僕はまたすぐに、来た道を戻ることになった。散歩は歩くことが目的だからそれもいいだろう。手をつないで歩いた。草子さんから手をつないでくるのはめずらしい。「えへへ」と言いながらつないできた。左手に、川虫のタッパを入れたカンバス地の小さなバッグを下げている。青いものがのぞいているのが見える。

「それ何?」

「ん? ああ、セリ。土手で摘んだんだ。おひたしにして食べよう」

 朝の風がゆるく顔にあたる。雨上がりの草と土と水の匂いがする。来る時は背中から吹いていたので感じられなかった風だ。やけに体の細い真っ黒な翅のトンボがゆらゆらと川面をただよっている。

「あのね」草子さんが言った。

「何?」

 上目づかいで「ふふふ」と言った。

 何をたくらんでいるのか、芝居がかった顔をする。

「私ね」ここでまた、もったいつけるように間をとった。

「何?」

「今朝、マリエルの鳴き声聞いちゃった!」満面の笑みで言った。

「えーっ、どんな?」

「教えなーい」

 草子さんがつないた手を大きく振った。家に着く頃にはごはんも炊けているという。めざしと玉子焼きとセリのおひたし。玉子焼きは甘くする。味噌汁の具はじゃがいもと豆腐。聞いていると腹がへってくる。

 勢いがついて少し早歩きになりながら帰り道を歩く。

 野川はゆるゆると流れている。

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