猶予は迫る、これは欺瞞。


 本当はなんとなく、気づいている。ずっと何度だって感じてきた。でも私たちは『そういうこと』にわざわざ触れ合ったり、傷跡を誰かに触れさせようなんて思わないでいるべきなんだ。何度も、何度も思い直して、そのたびに複雑な気持ちになる。


 深呼吸をしたって私はミチに触れられない。ミチの望まないことを私はすべきじゃない。

 オラトリウムはいつも電気がついていない。私はスイッチがどこにあるのかも知らないから、ただなんとなく外の光の入る場所に腰を下ろして本を開いた。


 図書室に足を運ぶ回数が減って、自分で買う本が増えた。お金なんてないのに、ほぼ毎日のように本屋に寄って、二、三冊買ってしまう。借りている本を早く返さなきゃとは思うけれど、昼休みに図書館に行こうとは思えなくて、今日も教室に置いてある。


 オラトリウムには宗教部の先生が時々やって来て、そのたびにカーテンに隠れてやり過ごしている。多分私はおとなが好きじゃないのだと思う。他人事みたいになってしまうのは、自分でもわかっていないことばかりだからだ。校則で禁止されている電子機器にイヤホンジャックを挿す。入っているアルバムにどの曲も私の好きな曲じゃない。

 好きじゃなくなった曲ばかりだ。曲に罪はないのに、腹いせみたいに好きじゃなくなった。ただ私を知っているのはこの曲たちだと思って、聞いているのだ。知っているわけがないのに。


 蠍になりたいなんていったカムパネルラ、ぼくはジョバンニだから、嫌だよ。犠牲になんてなりたくない。

 ずっと読みながらそう声をかけていた。自己犠牲なんて、もっと苦しいだけ。自己犠牲が報われる世界は、ここにはもうないんだよ。それを心から受け止めてくれる人はもうみんな、銀河鉄道に乗ってしまった。


 抱き締めて話しかけたら、私があなたの秘密を知ることができるんだろうか。でもきっと、そのとき私は、私の話をしなくちゃいけない。

 本当のことは残酷で、私たちは分かり合えない人間なんじゃないかなんて、一瞬でも思いたくないなんていう私のちっぽけな望みは、きっと一生叶いっこないのだ。日が差して、紺ソックスが温められていくのを感じながら、目を閉じた。少し冷えた床が、なんとなく心地良かった。


 曲と曲の繋ぎ目で、誰かに呼ばれた気がして、瞼を開けた。イヤホンを外しながら扉の方を見れば、一番会いたくて、会いたくなかった、和田満知が、そこにいた。

「元気?ひさしぶりだね」

 うん、そうだね、あなたが私を無視するんだから。

 そう言いかけて「うん、」の続きはやめた。ミチは並べられていた椅子に腰かけて、私の方を見る。いつもと変わらない、上辺っぽい、見えすいた嘘ばかりにつつまれているみたいで、目が合わないようにそっと逸らした。

「どうしてここにいるの?」

 沈黙が気まずくて、とにかく何かを言おうとかき集めたのに、結局出てきたのはつまらない言葉だった。

「信仰心のないカレンのいそうにないところに行こうとしたんだけど、カレンはここを知ってたんだね」

 刺々しさが初々しい。ミチにこんな風に言われたこと、なかったな。

「そんなに私に会いたくなかった?」

 言葉にすれば更に痛みが増す。刺された。さっきついに、致命傷になるくらいの大きな傷ができた。刺々しい言葉に傷つく方がよっぽどよかったのに、そうじゃないのが余計惨めだ。

「ミチはさ、何がしたいの?」

 陽の光が消えて、薄暗くなった足元や視界は、私の味方みたいだ。


「私さ、ばかだからわかんないよ。ばかじゃなかったとしてもわかんないよ

 ミチのことどこかで傷つけてた?でも、思い当たる節がないから謝れないし、そもそもどうして突然こんな風になっちゃったのか、私なんにもわかってないよ」

「うん」

 時計の音が聞こえて、その中にミチの声が跳ねる。静かに、水音を立てない魚のように。

「教えてもくれないの?」


「教える必要、ある?」

 睨まれているわけではないのに、身体がすくんだ。冷たい。冷ややかで、誰も寄せ付けないような、誰にも付け込まれないように生きているみたいな。

 そんな声色をミチが知っていて、ミチがそれを私に向けて放ったことが、きっと私にそうさせたんだろう。

「教えてくれたらいいのにって思うよ」

「そうすれば友達になれるって思ってる?」


 図星だ、と動揺したりはしなかった。そうすれば友達になれる?そんなことは思わない。

「友達じゃなくてもいいから、ミチと一緒にいたいし、ミチのことが知りたいだけだよ」

 私の言葉を鼻で笑って、ミチはマリア像に近づいた。

「カレンはさ、私の唯一の理解者みたいなものになりたいの?」

 窓からチロチロと差す光が、床に反射する。光がミチの目にかかって、あの鳶色の目が、私の心臓を掴む。

「違うっ・・・いや、そうかも」

 とっさに否定したはずなのに、すぐに認めてしまった。それでも体の中はぐちゃぐちゃで、口に任せて言葉を乗せた。

「いつも私が話してばっかりで、ミチの話は全然聞けてない。

 私よりずっと何かがあるはずなのに、一度だってそれを教えようとはしてくれないでしょ。

 待ってたよ、なんて今更言うのも何だけど、もう待てないよ」


「待たなくていいよ」

「何で?」


「私の苦しみは私が抱えるから。」

 そうミチが言ったとき、ミチはもう私と水族館には行かないんだな、なんて思った。

 あの赤ちゃんクラゲも、クッションも、手を繋いだことも、忘れられさえもせずに。刻んだまま、私たちは終わってしまったんだと。


 そしてそれは、私の言葉のせいだ。

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モラトリアムオラトリウム 補綴 @WhaleinAugust

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