アヴェ・マリアの祈り

ジョバンニ

 ふと呼吸をして、もう一度目を開けばもう十月の暮れに差し掛かっていた。今までの期間の記憶が曖昧になっている。

 何をしたんだっけ。今日も朝ごはんは食べなかったし、定期は忘れずにリュックについている。中間テストは先月の終わりだったか、それとも今月の頭だったか。テストを受けた記憶はある。でもそれがいつだったのかがわからない。

 気がつけば冬服に身を包んで、私とミチは何も変わらない時間を作っていた。何が変わったんだろう。角が取れたねとサヤに言われたけれど、私はずっと子供のままでいる気がしている。記憶にかすりもしないような、こんな日々が憎いです。せめて私たちの毎日をただの景色にしないように鮮烈に脳に刻み付けてください神様。


 そう願ってはいたものの、私が望むような記憶にはなりそうにないことばかりが起きる。善い人に苦しみが集うように、願いとは異なることが起きるのが世の常なのだろうか。信号機が赤色に光る。目の前を忙しなく車が行き来するのを眺めた。毎朝聞いているプレイリストからながれてくる軽快なポップスが憂鬱さを助長させる。

 ミチが図書室に来なくなった。学校には来ているらしい。笑い声が時々聞こえるからわかっているけれど、でもミチは図書館に来ない。

 それから、同じ教室にいたクラスメイトが一人、突然転校していった。クラスの中でも目立っていた真田さんだった。話したことはもちろんあるし、サヤの親友らしい人だった。私のことは、ちょっと好きじゃなさそうだった。内部進学組の真田さんたちのグループとは、2学期になってようやく普通に話せるようになったばかりで、それまでは挨拶はするクラスメイト程度。

 私は悪口も言われていたらしいけれど、そんなものは誰だってやることで、そこに関して何かを言うつもりはなかった。

 私がどれだけマシになったって、彼女たちにとって私が加害者であることも、不愉快な存在だったことも、何も変わらない。仲がいいことに越したことはないなんていう言い訳を手にして、私は私のしたことをなかったことにしようとしている。

 信号が青に変わって、耳からイヤホンを外した。生徒指導部の先生に文句を言われるのはごめんで、そういう面倒なことにエネルギーを使いたくなかった。

 そうやって過ごしてきた、なあなあな日常の中で、真田さんは仲の良かった子たちと揉めて、転校した。同じ制服姿の人たちが増えていく。いつも真田さんと一緒にいたクラスメイトたちが集まって歩いているのが見えた。体操服が入っているのだろうデパコスの紙袋が歩く速度に合わせて揺れる。彼女たちは変わらない日常を生きているんだろうか。


 ミチのクラスの前を通るとき、曇りガラスの向こうからミチの声が聞こえて泣きそうになる。日常が日常じゃなくなってしまった。ミチはどうして来なくなったのだろうなんて思うのに、それを直接聞きに行こうとはしなかった。一昨日、ミチがすれ違って視線を交わしても、全く知らない人みたいな顔をすることを身をもって知った。

「カレン、おはよ」

「あーおはよう」

 サヤは変わらない、変わっていっているのに、何も変わっていないかのように振る舞う。それが楽そうで、私は最初、サヤに声をかけたんだった。

「今日もお昼は図書館?」

 机の上に出していた『銀河鉄道の夜』をちらりとみて、サヤは隣の誰もいない席に座って、買ってきたのだろうジャスミン茶と有名ブランドの財布を雑に置いた。そこは、前までは真田さんの席だった。

「その予定~」

 笑って言ってしまえば、サヤは「そっか~」と間延びした、私の返事に似せた言い方をした。なにその言い方、カレンの真似だよ、ああそっか。私はこの生温い日常が、いやに普通じみていて好きだったんだ。楽だから。

「お昼一緒に食べる?」

「うん」

 笑いながらガタガタした本の上部をなぞった。指先が凹凸に合わせてへこむ。サヤはあのあと彼氏と別れて、そしてつい最近、新しい彼氏ができた。だからサヤはこれからきっと昨日会った彼氏の話をする。

 惚気話の方がずっといい。頷いて、共感していることを示せば相手は満足するから。サヤとの会話は変に気疲れしなくていい。ちょっとくらいの本音なら少し毒づいても笑い飛ばしてくれる。

 どこかで誰かと比べながら、サヤの幸せそうな顔を見てまた口角を上げた。

 隣の教室から笑い声がまた聞こえる。あの、少し特徴的な大きな笑い声。あの鳶色の目を思い出した。チャイムが鳴ればサヤは自分の席に戻っていく。隣の席がまた空っぽになった。


 なあなあにしている日常が、前までは普通だったこととずれていることに、どうしても目を向けたくなかった。図書室に向かうなんて、本当は嘘だ。いつも図書館に行くふりをして、オラトリウムまで走っていた。ミチの来ない図書室で、私に笑いかけてくれないミチを、ひとりで待つことがどうしても怖かった。

 もう一度深呼吸をすれば、ミチとまた本の話をできるんじゃないかなんて思って、嫌になる。私がつらいように、ミチも辛ければいいのに。

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