琥珀はささやく

衞藤萬里

琥珀はささやく

 アパートのブザーを鳴らして、私は“彼女”の姓を口にした。扉の向こうからかすかに動揺する気配が、そしてそれがそのまま固化したような沈黙が伝わってきた。

 待ちなれた男のように、扉が開かれるのを待つ。確信があった。だから大地が腐るまで待つことができる。それもまた私の仕事だからだ。もっとも――今日の私は、仕事でここへ来たのではない。

 大地が腐る前に、ドアチェーンをかけたまま、おそるおそる扉が開き、不審と怯えがまざりあった“彼女”の左半分の顔がのぞいた。部屋の中からの逆光で深い陰影をきざむその表情を見て、苦い気持ちで最後の確信をした。

 自分の名と彼の名を口にし、私は話があると云った。“彼女”は私の顔をじっと見つめていたが、やがて力なく眼をふせた。扉が一度閉じられ、鎖を外す音が部屋の中から聞こえ、そして今度は必要最小限だけ開かれた。

 “彼女”が私を招き入れた。無表情だったが、暗い、底の知れない沼のような眼をしていた。


 ジャズが流れる店内は紫煙がたちこめ、まるで夜霧の濃い峠を歩いているようだ。霧の中で人影がうごめく。彼ら――現代の被迫害者たるへヴィな煙草呑みたちは、流浪の民のごとくに街をさまよい、苦難のはてに、やがて約束の地へたどりつく。

 私や彼もこの地へ導かれたひとりだが、“彼女”を霧の国のようなこんな店に呼ぼうとした彼の神経には、ちょっと呆れる。背中に認識灯でも点けなければ、“彼女”はこの店で彼を探しあてることすらできないだろう。

 琥珀色の液体がゆれるグラスを前に、カウンタに肘をつき、煙草を指にはさんだままの彼に声をかけた。

「今日は人と待ち合わせているんだ」

「じゃあ、待ち人が来るまでつきあうか」

「ちっとは気ぃきかせろよ」

 煙をはきつつ、彼は顔をしかめる。

「まぁ、いいだろう?」

「大事な用事だから、酔っぱらっちまうわけにはいかないんだよ。お前と呑みだしたらきりがないんだ」

 よく云うものだ。笑いとばして隣に席をしめる。私の前に彼と同じグラスが置かれる。なじみのバーテンダの、手馴れたすばやさだ

 グラスの中で、氷が涼やかな音をたてた。

 話はいつものように、無秩序にどこまでも駆けめぐった。私たちが現在呑めるアブサン酒は、昔と同じものではないとか。風俗で出会った頭のぶっ飛んだ女のこととか。事務所の1階にある花屋で仕事しているゲイのこととか。とにかくそんな類の話だ。そのあげく、お前が一応所長なんだから、もっと給料あげろと私がからんで、彼はもう少し依頼人が増えたらなと、いつもどおりの答えを返した。

 だがくだらない会話に熱中しているふりをしながら、彼が何かに気をとられているのは隠しきれなかった。三分ごとにさりげなく腕時計を気にし、店のドアが開くたびに鳴るカウベルの音に過敏に反応した。たまにスーツのポケットに手を入れて、そのありかを確認しているものの見当はつく。

 そんな彼の様子に気がつかないふりをして、私たちは何度もグラスを空にし、何本もの煙草を煙にした。

 ……日付はとっくに替わってしまい、店内のざわめきと紫煙も、ずいぶんと薄れている。ただ流れるジャズのスタンダード・ナムバだけが変わらない。いつとはなしに、会話が途切れた。

 話が途切れて十分以上……彼はグラスを凝視したまま動かなかった。私は灰皿に灰と吸殻の山を作るのに没頭していたので、彼がどんな表情をしているのかわからなかった。バーテンダが手早く灰皿を取りかえる。

「来ないみたいだ」

 ようやく彼は身じろぎをした。氷が溶けてしまったグラスの中身を一息に空けると、帰るか――と傷ついた男の声で、そうつぶやいた。

「もう一杯つきあえ」

 私はバーテンダに、人の名を冠したその銘柄を注文した。

「おい……!」

 彼が声を荒げたが、私は無視をした。ふたつの琥珀色の液体が、私たちの前に並ぶ。

「お前も呑め」

「知ってるだろう、俺は……」

「お前がこいつを呑めないのは知っている」

「じゃあ、どうして……」

「憶い出すんだろう、あのことを?」

「……おい?」

「“彼女”は来ない」

「……どういうことだ?」

 眉をひそめた彼の視線が、不安げに泳いだ。この夜のほんのわずかな瑕疵を、彼は過敏に嗅ぎとり、表情が過去への旅をはじめた。

 私は何も云わず、グラスに口をつけた。彼は自分でたどり着かないといけない。そうすべきだ。

 彼の旅の行先を私は知っている。十年前、彼が新任の交番勤務の巡査だったころへ。刃物を持った血まみれの麻薬中毒者が、彼の眼の前で商店街の人ごみに駆けこんだ時へ……


 グラスの中で琥珀がささやき、長い、不安定な沈黙の果てに、彼の中で過去が現在に追いついた。

「……やつには子どもがいた……女の子、中学生ぐらいの……」

 かすれた声で、ようやくそう云った。“彼女”と同じように、暗く、底の知れない眼になっている。

「ああ」

「まさか……?」

「お前に名乗った姓は、母方のものだ。あの後、母親が“彼女”を引き取った」

 初めて“彼女”と会った時、私はどこかで見たような感覚にとらわれた。それも、尋常でない場所であったような……

 それは指先にささった、ごくごく細いとげのようなものにすぎず、ある日、何の脈絡もなく、突然ひとつの映像が記憶から引きだされるまで、私は意識することすらなかった。

 ……あれはどこだったか?とにかくメディアの眼をかすめて男の焼骨がおこなわれた、すさんだ印象をあたえる火葬場で、骨壺をかかえるなげやりな眼をしたやつれた中年女性の横に、何かを感じることも考えることも放棄してしまったかのように、ただ立ちつくしていた学生服姿の小柄な少女がいた。

 私たち何人かの下っ端はマスコミ対策のために、喪服を着用して少し距離をとっていた。

 事情が事情だけに他に誰もいない、巨大なコンクリートの墳墓のような火葬場の寒々しさは、うんざりだった。

 そこへ彼が来た。男の家族への近接は禁じられていた。無論、命令違反だ。

 彼女たちに見つからないうちにと、強引に近づこうとする彼を数人であわてて場外へ押しもどした。

 その一連のもみあいは、ほんのわずかな時間で目立たないものだったが、一瞬だけ少女がその現場を眼に止めたのを、私はたしかに目撃した。

 その時の少女と“彼女”が、私の中でひとつに重なり、そして、二週間をかけて、私はあの男の娘であった“彼女”の過去、そして意図にたどり着いた。

 あの男は麻薬の常習犯で、完全にいかれた状態だった。自分の腹部をめった刺しにして、それでもなお血まみれの刃物を振りまわし、獣のように通行人に襲いかかろうとした男を制止する手段など、私たちの方が教えてもらいたいぐらいだ。あの時、誰かが命を断ち切ってまであの男を止めなければ、とんでもない惨事になっていたはずだ。

 発砲はマニュアルどおりで、彼に責はなかった。男の死を誰も哀しまなかったし、彼のことを賞賛こそすれ、責める者は誰もいなかった。不運だったのは、脚に当たった銃弾が大きな血管を傷つけ、男の心臓はその出血に耐えきれなかったことだろう。結果、彼は職を辞すこととなる。

 少したって同様に職を離れた私は(理由は彼ほど立派なものではない。むしろ人には云えない)彼と再会し、ともに仕事をするようになった。他人のトラブルを日給に換算する類の仕事だ。

 そして私は、初めて彼の心の傷の深さを知った。ガンアクションの映画を毛嫌いし、麻薬を心の底から憎んだ。あの男と同姓の政治家がテレビに出ただけで不機嫌に局を変え、依頼人は追いだした。

 そして……ひとつだけ、どうしても呑めないウイスキーの銘柄ができた。

「……あいつ、知ってて近づいたのか?」

 私はうなずいた。彼は何のためにとは訊ねなかった。麻薬中毒者の父を警官に射殺された少女が、その後歩んだ、さほど長くはない人生を推し量ることは、私には荷がかちすぎる。ごめんだ。

「……はは、どこまでもついてまわりやがる」

 吐き捨てるような言葉だった。

「お前、“彼女”にこれが呑めないって話、しただろう?」

「……ああ、たしか一昨日」

「あんな男でも“彼女”にとっては父親だった。だからお前を赦すことはできないそうだ。だが、お前がなぜこいつを呑めないのか“彼女”はすぐに理解した」

「会ったのか?」

「今日の午后にな――やめとけ」扉を開けた時の、底のない沼のような眼を憶い返しつつ、私は立ち上がろうとした彼を制止した。「“彼女”はもう二度と、お前の前に現れることはない。すまなかったと……お前に伝えてくれと云っていた」

 伝えることしか私にはできない。

「もう終わったんだ」

 それは、彼と“彼女”との関係が……という意味ではない。立ち上がりかけた彼は、やがてのろのろと腰をおろした。眼の前のグラスを凝視したまま動かなかった。

 私は煙草に火を点ける。もう旨みは感じない。えぐいだけだ。惰性で吸っている。

 バーテンダはカウンタの中の椅子に座ったまま、舟をこいでいた。

 紫煙だけが時をきざむ。夜は眠りつつある。

 私は何人分かの苦い過去とともに、琥珀色の液体を呑みほした。煙草を消す。グラスの横に適当に金を置くと、立ち上がった。

「もう忘れろ」

 最後にそう云うと、私は店を出た。彼はカウンタに座ったままだ。私も振りかえりもしなかった。だから彼がグラスに口をつけたかどうかは知らない。

 最後の煙草に、歩きながら火を点ける。夜の街のかすかな風に、煙は流れ去っていく。二十四時間営業の店で、煙草を買って帰らないといけないなと、私は考えた。


(了)

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琥珀はささやく 衞藤萬里 @ethoubannri

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