Ⅴ 魔女の名前
少女がそうして思考を巡らせているうちに、森の木々のざわめきがゆっくりと大きくなっていた。自然の音ではない誰かの声が遠くから響き、少女よりも先に少年が立ち上がる。人間よりも少しは耳が良いようだった。その様子にふと家の窓を見つめた少女が、肩を竦める。
「また来たのか。今日は別の村の人かな、随分暇を持て余してるようだね」
「……俺、行ってくる。アヤメはここに」
「行かなくていいよ。どうせわたしには手出しできない」
「それでも」
前に村人の襲撃に遭った時の傷が塞がっていないくせに、遠くから響く村人の怒号を聞いた少年は外に出ようとしていた。止め立てしても彼が外に出ていくことは少女も承知していたので、一度大きくため息をついてから指を振る。獣人である彼はどうやら少しは人間よりも丈夫なようで、村人たちも魔女の眷属の獣人となればそれなりに慄いてくれるものだ。そうしていつも彼は追い払ってくれていたが、怪我をした状態でさらに怪我を重ねられてはたまったものではない。誰かを何かから守る魔法というのを即座にかけるのは難しいけれど、簡単な術式なら少女にもすぐに描くことができた。それをゆっくりと少年にかけて、それから机に肘をついた。
「はい。これで数発なら殴られても痛くないはずだよ」
「……ありがとう」
「行くなって言ってるのに、主人の命令を聞けないんだね」
「守りたい」
「……仕方ないな」
少女はそうして少年を見送りながら、ふと思い出した。数日前に少女の名前についての話をしたときに、彼は自分の名前を憶えているかと問うてきたのだ。呼んでほしそうな顔をしていたなと思い至り、少女は口角を片方だけ挙げて不敵に笑った。
こう言えば、彼は笑ってくれるだろうか。
「怪我をしないで帰ってきたら、おまえの名前を呼んでやってもいいよ」
「……本当か?」
「怪我しなかったらね。手当の手間が増えるんだから」
「……分かった」
嬉しそうに、少年はしっぽを一度だけ振った。
少年が出ていって暫くして、村人たちの気配が遠ざかっていくのを感じた。少年が戻って来るまでなんとなく食べる手を止めていたスープが冷めきる少し前のことで、少女が出るまでもなく少年は村人たちを追い払えたようだった。怪我はしていないだろうか、怪我をしていたらまた薬草を調合してやらねばならない。彼に傷を舐めるなときつく言ったから、今日はちゃんと洗ってから戻って来てくれるだろうか。
仕方ないから、怪我をしていてもしていなくても戻ってきたら名前を呼んでやろう、なんて少女は思っていた。少女は浮かれていた。少年は「名前」を大事にしている節があったし、名前を呼んだらどれほど幸せそうな顔を見せてくれるだろうなんて呑気に考えていた。
胸騒ぎが少女を襲ったのは、村人たちがすっかり居なくなって暫く経ったあとのことだった。
スープがすっかり冷めきっても未だ少年は戻ってこない。嫌な胸騒ぎが少女を襲い、がたんと音を立てて椅子から立ち上がった少女は、ばたばたと忙しなく足音を立てながら扉に向かって走った。鳥の声ひとつ聞こえない森が、嫌に不気味に思えた。
ばたん、と大きな音をたてて、少女は扉を押し開けて叫ぶ。
「フェンリル!」
少年の名を呼ぶ少女の声が、霧に呑まれて消えていく。
胸騒ぎの扉の向こうには静寂だけが広がっていて、獣人の少年は居なかった。少女を亡き者にしようとしていた村人の怒号も聞こえず、背の高い木々の葉が風に揺れ、決して手の届かない空を覆い隠すようにさざめく音だけが、魔女の家を包んでいる。
「──……どこだ、フェンリル!」
森の沈黙を破るのは、あやめ色の魔女の声だけだった。いつもの、少年を小馬鹿にしたような声音は鳴りを潜め、焦ったような声音が森に強く響く。何度か強く名前を呼んでも、少年の返事はなかった。魔女がここまめ大声を出したのは初めてだった。
「ねえ、わたしをからかってる? スープがすっかり冷めてしまったじゃないか、早く戻ってくるんだね!」
少女はあたりを見回しながら震えた声でそう叫び続ける。少年の気配はどこにもなく、彼のまとっていた薬草の香りが微かに残っているだけだった。昼か夜かも曖昧な暗い森のなかで、何かを引き摺りながら消えていく足跡が浮いていた。
少女はそれを、初めて恐ろしいと思った。再起不能になった仲間を引きずって帰ったのか? そうであってくれと願いながらゆっくりと、扉から前へ歩み畑の横を通り抜け進んだ。少年の声はしなかった。薄暗い森に映える薄茶の耳も尻尾も、まるまるとした黒い瞳もそこにはなかった。
少女の家の前の小道には一本の剣と血痕が残っていた。その剣はひどく刃こぼれを起こしているもので、少女の家にこれほどおんぼろの剣は存在していない。少女を襲撃に来た村人のものだということは一目瞭然だった。その剣にはまだ生暖かい血が付いていて、少女が剣を持ち上げれば、その血はゆっくりと地面に垂れる。人一人分の影を落とすような血痕に落ちた血が土に沁みて、またじわりと跡を広げた。血を恐れない魔女であるはずなのに、少女は鉄錆の匂いに噎せ返るような心地がした。
少しだけ、少年の香りがしたような気がした。
少女の肩が、少しだけ揺れた。彼はここにはもういない。きっともう、この世界のどこにもいない。
そうだ、彼はもともと迷い犬だったのだ。気まぐれに助けて家に置いていただけの、主人の言うことを聞かない犬の獣人。少しだけ気が利いて、不器用で、少女を大事にしてくれたはじめての人間。「大切」の仕方が分からなかった少女にも、不器用に優しくしてくれた少年。彼は、どこかに連れていかれてしまっただろうか。
視界が歪むのはなぜだろうか。
少女は、剣をゆっくりと地面に置いた。
「あれだけ主と慕っておいて、家が恋しかったのかな。簡単に帰っちゃってさ」
魔女は美しいあやめ色の瞳を細め、土に沁みた犬の血痕を撫でる。美しい手が土に汚れ、それから魔女の涙に濡れた。ひとりで何でもやってきた、魔法使いの器用で不器用な手だった。
「ただまあ、もう怪我をすることはなさそうだね、大馬鹿もの……ねえ、フェンリル……」
それから魔女は、気まぐれにふらりと立ち上がると、ゆっくりと村のほうへと森を歩き出した。
生まれて初めて村を訪れた魔女は、今まで魔女に剣を向けていた者たちを残らず焼き払った。あやめ色の魔女はそれが初めての凶行だったというのに、噂通りの非情な化け物と恐れられ罵られあちらこちらで命乞いをされる。それを聞き入れる理由など、魔女は持ち合わせていなかった。希望を捨てるわけにはいかないとあたりを探し回り、その傍らで襲い来る人間を焼き尽くしたけれど、とうとう最後まで『恐ろしい魔女』を否定したたったひとりの彼は見つからなかった。
結局、魔女の怒りの炎を消したのは、村を焼き尽くした後に振った雨だった。汗も涙も流すように、天の恵みは怒りを消火していった。そのころにはもう陽はおちていて、魔女は暗闇にひとり立ち尽くしていた。
暫くのちに、魔女はなんでもない顔で森に帰り、なんでもない顔で寝台に潜り込み眠った。冷めたスープも、彼がつくった最後の朝餉も置いたまま、魔女は昏々といつになく長く眠り続けた。きっと目を覚ました後、魔女は変わらず薬学と魔術に溺れ、だれも居ない森の中で一人寂しくも楽しくもない生活を送っていくのだろう。己がそういう存在であると、魔女はそう信じていた。拾った迷い犬は家に帰っただけなのだと。魔女はこうして生きていくものなのだと。彼が来る前の生活にゆっくりと、ゆっくりと魔女は戻っていくだろうと、予感があった。
ただひとつ変わったことがあるとするならば、その日から、魔女の名前はアヤメになった。
魔女の名前 深瀬空乃 @W-Sorano
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