Ⅳ 寂しさと幸福の合間

「さっき、どうしてあんなに上機嫌だったの」

 少女が火加減を調節したはずだったのだが少し焦げた、あたたかなスープを食べながら少女はそう問いかけた。少女の二倍ほどの速度で食事を進めていた目の前の少年がきょとんとこちらを向いて、それから数拍置いて考える。少女はその間も匙を動かしていた。

「……朝食を作ってるときか」

「わたしが寝る前、なんだかおまえが上機嫌だったから」

 そう言いながら目を伏せて、少し味の濃いスープを口に運ぶ少女を少し眺めてから、少年は口元に手を持ってきては暫く考え事をした。彼は無口なのか喋り慣れていないのか、会話の空白が多かった。口数も少なく、こちらから話しかけない限りは口を開かない。だから、居心地は悪くなかった。

 怪我の手当てをしたら放り出そうと思っていたのになんだかんだとこの家に住まわせているのも、気配で少女の邪魔をしないからだった。食事をつくってやればよく食べ、退屈したときは話し相手になる。少年は少女の思うままの振る舞いにも気を害した様子を見せず、また極端に敬うこともしなかった。表情を変えることなくそっと少女に信頼を寄せ、村人たちから守ろうとしてくる様は犬というよりも、よく躾られた狼のようだ。或いは、それまで受けてきた扱いがどれほどのものだったかを物語る結果なのかもしれない。

 そんな手前勝手な評価を寄せられているとも気が付かず、少年はしばらくの沈黙ののちに再び口元を緩めた。

「料理、任せてもらえたから」

「……それだけ?」

「ずっとアヤメに任せきりだったから」

 だから任せて貰えてうれしい、とでも言うのだろうか。綻んだ彼の口元を見ながら、不思議な人だと少女は思った。

「恩返しのつもり?」

「……それもあるけど、俺があんたに作りたかったのも、ある」

「わたしが作ったほうが美味しく作れると思うけどね」

「……そうだけど。たまには楽してほしい、というか……」

「おまえの下手な料理の尻ぬぐいをするほうがよっぽど疲れるけどね」

「いや、……うん、でも、それでも今日は任せてくれただろ」

 薄茶の耳が嬉しそうに震えて、尻尾がぱたぱたと揺れている。ほんの少し口角を上げて、ほとんど常と変わらない表情の中でも、犬と言うだけあって尻尾の感情表現はいつも素直だった。

 少女はもとより、それなりに聡明だ。少年の言葉少なな訴えくらい簡単に汲み取れるものだと思っていたけれど、今回ばかりは少女には分からない点が多かった。少年の少年らしい穏やかな心の機微は、ひとりで何年もこの森に閉じこもっていた少女には少々理解しがたいものだったのだ。少女の家には両親が残した本がそれはもう多数、ひと部屋を埋めるほどにあったけれど、そのほとんどが研究所ばかりで物語や詩に触れる機会が少なかったせいもあるかもしれない。

 穏やかな表情の少年を見るたび、少女の胸にはあたたかい心地がゆっくりと広がっていった。誰かが笑うのを見るということは、これほど幸せなことだっただろうか。決して短くはない少女の人生の中、家族の記憶は既に遠く、人間と言えば己を嫌う人々のみしか知らなかった。学ぶことだけが少女の幸せだったのに、彼が笑うだけでこれほど穏やかな気持ちになるものなのだろうか。

 人が人と集い暮らす理由はここにあるのかもしれないな、と思った。

 少女の表情が少し緩む。ほのかに穏やかな空気を纏いスープを食べる少女に、少年は一度瞬きをしたあとに声をかけた。彼の皿はとっくに空になっていた。

「……俺、嬉しかったんだ」

「突然何の話」

「……人に料理を作ってもらったり、なにかをしてもらうこと、初めてだった。だから嬉しかった」

「ああ、だっておまえじゃろくに家のこと出来ないだろう。大人しくしていてくれたほうが手伝いになるよ」

「俺の事、追い出さなかっただろ」

「薬草の育ちが悪くて研究が進まないんだよ。その間の暇つぶしの気まぐれだよ。番犬としても使えるしね、わたしのほうが強いけど」

「それでもいい」

 少年は真っすぐとそう言い切ったあと、まるで迷子の子供のようにすこし背を丸めてから、言いにくそうに続けた。

「……俺は、あんたに拾ってもらって、嬉しかったし幸せだったし、寂しくなくなった。だから、今度は俺が、飯とか作ってやれたら、少しは、アヤメも寂しくなくなるかと思って」

 少女はぴたりと匙を止めた。

 わたしは、彼から見て、寂しそうに見えたのだろうか。少女にとってそれは予想外の言葉だった。ずっとひとりで生きてきて、裏手の家畜くらいしか生きものとは触れ合わず、別段辛いと思ったこともない。寂しいとも思ったことはなかった。なかった、はずだ。

 ただ、ばつが悪そうにそう言った少年に否定の言葉を返すのはどこか憚られて、少女は肩を竦めた。ランタンの光に赤く染まる白髪を耳にかけ、目を伏せて続けた。暖炉で火花が薪を焼き、ぱちぱちと小気味良い音を立てていた。

「──……おまえがそんなに口を開くなんて珍しいね」

「俺になにかを任せてくれる程度にはなったみたいだから。……俺の話も聞いてくれるかと思って」

「別に今までだって言われれば聞いたよ。料理の件は気まぐれ。眠かったんだ」

「……そうか」

 少年はそう言ってから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。それからスープのおかわりを椀に盛ると、机に戻ってきていつもどおりに食事を続ける。いつの間にか綻んでいた口元は元に戻っていて、不愛想で無口な少年がそこに居た。

 気まぐれ、という言葉で悲しませてしまっただろうか、と少女の頭をらしくない思考が通り過ぎていった。少年の態度は別段普段と変わらず、少女の正直な物言いを気に留めることもなく食事を続けているだけのはずだが、少女にはそれがやけに寂しそうに見えてしまった。少女はそれをちらりと見た後少し匙をとめ、幽かに目を泳がせる。

 どうしたら笑ってくれるだろう、なんて柄にもないことを眠る前にも考えたのを、少女は思い出していた。

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