Ⅲ 穏やかな朝と夜の間のこと
少年の擦り傷が塞がってきたころのことだった。
少女にとって、眠くなったその時が夜で起きたときが朝だった。霧ばかりの暗い森の中をランタンの灯りで生活している少女にとって昼夜はあまり関係なく、また縛られるものでもない。しかし少年が来てからというもの、少女は毎日星に定められた朝にきっちりと目を覚ますことになった。
がさごそと荷物を漁るような音と足音がしている。その物音に敏感に目を覚ました少女は、眠たそうに瞼を開けたのちに眉根をひそめ、ゆっくりと体を起こした。窓に布を引きランタンを消した少女の部屋は真っ暗で、少女にとっての夜がまだ明けていないことを示している。ずっと一人だったゆえか体質か、少女は生き物の気配にひどく敏感だった。
そうはいっても、この家に入れる人間など限られている。少女の夜を邪魔するのは、決まって獣人の少年であった。
「……何してるの」
「料理」
「しなくていいって言ったのに。パンも干し肉もあるでしょ、適当に食べてよ」
「……アヤメの朝食を」
「自分で作るからいらないって昨日もあれほど──ああもう、危なっかしい。これだからおまえに火は任せられないんだ」
「あ」
スープを作ろうとしたのか、暖炉では鍋が火にかけられていた。ぐつぐつと煮込まれはじめている鍋の前から少年を押しのけてから、少女はため息をひとつ吐いた。眠い目を擦らずとも分かるほど、あからさまに火が強かった。このままでは鍋ごと墨になってしまうと思いながら少女が指を振ると、ゆっくりと火の勢いが収まっていく。それを見て、押しのけられた先の少年がぽりぽりと頬を掻いていた。耳をぺたんと倒した彼は彼なりに、上手く調理できていない自覚はあったらしい。
獣らしい彼は、どうやら昼夜の別がしっかりしているらしかった。太陽が見えずともきちんと朝に目を覚まし、こうして毎日料理に勤しむ。が、彼は今まで暮らしていた場所で料理をしてこなかったのか、兎にも角にも台所を任せられるような人材ではなかった。少女は料理をすることが嫌いではないため、日々の料理は学術の合間の息抜き代わりにと作っていたが、なぜか彼は少女が眠っている時に限って調理を行いたがる節があるのだ。
「昼まで待てもできないの、それにおまえの好物は干し肉じゃなかった?」
「そうだけど」
「なんでわざわざスープを……ああもう、こんなにごろごろと野菜を入れて。ちゃんと一口大に切らないと食べづらいだろう」
煮込むより先に蒸発させてしまいそうな火の強さだった暖炉に呆れながら、少女は指をもうひと振りしてみせた。陶器のような白い肌が、炎の揺らめきで赤く染まる。少しすれば、鍋のなかにごろごろと入れられていた芋や人参、根菜が姿を現した。野菜は幽かにあやめ色の光を纏っており、水滴を滴らせながら宙に浮いていた。
起きてすぐに魔法を使うのは少々疲れるけれど、一度煮込み始めた野菜を取り出して切るほうが余程疲れるというものだ。少女は一度深呼吸をしてから、紋を書くように指を空中に滑らせた。光が宙を舞ったあとに一瞬、風が空を切る音が響き、少女の睫毛と髪が少しだけ揺れた。数拍置いて、野菜は纏っていた光を失いばらばらと細切れに鍋に落ちていく。
少女は一度息をついてから、少年を振り返った。吊り目がちの瞳でじっくりと少女の手元を見ている彼の尾が上向きになり、ぱたぱたと揺れていた。少女の魔法など、ランタンを灯したりなどで火を扱う際も畑仕事をしている時にも幾度となく見ているはずだが、少年には未だもの珍しいようだ。
いつもならこの先の行程もすべて少女が行うのだが、今日は生憎と眠気が勝っていた。流石にスープを混ぜるだけなら少年にもできるだろうと、少女は一度あくびをしてから暖炉の前を退き、目を輝かせている彼に
「あとは混ぜるだけ。おまえに任せるけど、あまり混ぜすぎないようにね」
「……ありがとう」
「わざわざ料理しなくても肉ならそのへんにあるのにね」
暫く時間が経ったあとに火が弱まるように魔法をかけなおしてから、少女はゆっくりと立ち上がった。こうも毎日眠りを妨げられてはたまったものではないが、流石にひと月も経てば少年の調子に合わせて寝起きする癖もつくというものだ。あと二時間も眠ればすっきりするだろう頭を抱えて、少女はひとつのびをした。
ふわと再度あくびをした少女がそのまま寝室に戻ろうとすれば、少年は鍋をひと混ぜしてから振り返って、少女の後頭部を優しく撫でた。その行動に驚いて顔だけで振り返った少女に、少年はその優しい夜のような瞳を細めて笑う。あくびを抑えるために口もとに持ってきていた手が行き場を失い、まぬけに口を開いたままだった少女に、少年は優しく言葉を紡ぐ。もうふた月ほど少年と時間を共にしているが、撫でられるのははじめてだった。
「……寝癖。珍しいな」
「…………魔女に気軽に触れるなんて」
「いやだったか」
眉尻を下げた少年に、まるまると見開いていたあやめ色の瞳をいつも通り不遜な目つきに戻して返事をした。
「……別に。そういうわけじゃない。でも巷では異性に気軽に触れるのは辞めたほうが良いらしいね、おまえも気を付けたら?」
それから平静を装って部屋に戻ろうと歩みを進めれば、少年は「わかった」とどこか嬉しそうな声音で答えた。なにがそんなに嬉しかったのか分からないが、野菜を切り刻んで見せた魔法はそれほど面白かっただろうか。少女にとっては生きる上での他の仕事と変わりないが、人間や獣人の間では珍しいと聞くし、それだけであれほど上機嫌になるものだろうか。
そんなことを考えながら速足で寝室に戻った少女は、自分の脈が少しだけ乱れているのを感じて軽く首を傾げた。寝起きに魔法を扱うのは疲労が激しいが、ここまでだっただろうか。不思議に思いながら寝台に潜り込んだ少女は、どくどくと目立つ心音に居心地の悪さを感じながらゆっくりと目を閉じた。
暗がりの中で思い出したのは、少年の笑顔だった。魔法を見せただけであれほど喜んだのなら、他に何をすればああやって笑うのだろうか。思い返せばずっと仏頂面だった少年のくしゃりとした笑顔が瞼の裏に張り付いていた。
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