Ⅱ あやめの花を憶えているか

 魔女が少年を拾ったのは偶然だった。どこの村から迷い込んだのか、或いは旅の途中で行き倒れたのか、少女の家の前にある日ぱたりと倒れていたのだ。あちこち怪我をしていた彼は、放っておいたら死んでしまいそうな予感がした。目の前で他人に死なれて寝覚めが悪いなどという考えは少女にはなかったものの、最近寒さのせいで薬草の育ちが悪く、つまり少女は珍しいことに暇を持て余していた。その日も薬草の手入れと育ちを確認しようと思って外に出たところで、彼を見つけたのだった。

 常に怒号を撒き知らし少女の集中を切らす村人たちは幾度も見たことがあれど、少女は未だ獣人とやらと話したことがなかった。人間と対話が望めそうにないのは薄々分かっていたが、はたして獣人はどうだろうか。ぱっと見たところ犬の耳と尾を持っているらしい彼とは対話が望めるだろうか。それとも獣人というのは、人間よりも獣臭く話の通じない性格をしているだろうか。もしそうなら、まる焼きにして畑の肥やしにでもしてやればいい。

 そんなことを思いながら少女は彼を家に運び込み、培った薬学の知識を以て彼の手当てをしてみせた。彼は目覚めてからしばらくの間は無口を貫いていたけれど、森の向こうから来たらしいことやあまりいい扱いは受けていなかったこと、町から逃げ出してきたことなどをぽつぽつと語ってくれたりもした。本当のところ、少女は少しだけ興味を惹かれていたのかもしれない。人間としては異端の力をもつ魔女と、人間としてはおかしな部位を持つ獣人との間に、なにかしら共通点があるかもしれない、と思ったのだ。しかし平たく言えば、それははじめただの好奇心だったのだ。怪我が治るまで家に居れば、と申し出た少女も、そのことはしっかりと自覚していた。


「あやめ色の魔女って呼ばれてるのか、あんた」

 少女の小さな手で包帯を巻かれながら、少年はぶっきらぼうな声でそう言った。巻いた傍から包帯にはじわりと血が滲み、鉄の匂いがあたりに広がっていた。襲撃に来る村人たちにひとりで対抗して怪我をしてくる少年と言う構図、少女はいい加減それに慣れていた。少年を拾ってからふた月ほど経つけれど、月に二度も三度も怪我をしてくればいちいち驚くほうが難しいものだ。月に二、三度の頻度で襲撃に来る村人たちも暇しているなと思うばかりだが。

 そもそも魔女は、人を未だ殺めたことがないというだけで、別段血を恐れたりはしない。鉄錆の匂いも気にせず、少女は丁寧に処置を続けた。

「へえ、そうなの。知らなかった」

 慣れた手つきで塗り薬を塗布しながらそう答えた少女に、少年は軽く眉間に皴を寄せた。細められた吊り目がちの瞳は、見る人が見たら彼の狼のような風貌も相俟って険しく怖い表情に見えるだろうが、少女は一切臆すことなく処置を続けている。机に並べられた薬の小瓶が、ランタンの光を反射していた。

「……村人たちがそう叫んでた」

「興味がないから聞いていなかったよ。わたしの名前を知らない奴らが勝手に呼ばわってるだけだと思うけどね」

「……俺もそう呼んでいいか」

「蔑称だと思うけど。まあわたしは気にしないから好きにしたら」

「……あんたが名前を教えてくれないからだろ」

「魔女がそうそう簡単に名前を教えるはずもないだろうに、おまえはやっぱり馬鹿だね」

 そうして魔女が少年を鼻で笑えば、少年は小さくため息を吐いてみせた。

 彼は少女が思ったよりも人間らしく、そして獣らしかった。犬や狼が主に従順だというのは聞いたことがあったけれど、彼はどうやら彼を拾った少女を主として定めたようで、いつからかなにかを命じれば言う通りにする従順な存在になっていた。しかし少女からしてみれば彼はただ好奇心で拾い救っただけのことであり、別段愛想よく対応するつもりなどない。少女にとって彼に食事や手当てを施すのも、雑に会話らしきものを交わすのも暇潰しだった。

 少年は決して教養や礼儀があるほうではなく、それを皮肉な言葉で揶揄する少女に腹が立たないわけではないらしい。無口に加え、言葉面はぶっきらぼうな態度を取っていた少年だったが、そもそも嫌われたり襲われたりしたところでどうでもよかった少女にとって会話が成り立つだけで面白い玩具のような存在だ。不遜な態度も気にせず同じ態度を貫く少女に何を思ったのか、少年はいつの間にか不器用な言葉ながらに少女に忠誠を見せていた。

 腹の手当てが終れば、少女は次は腕だと少年の袖を捲った。少女の手は土仕事をするわりに白く傷一つなく、少年の少し日焼けしたような肌とはよく対比された。少年は少女の迷いのない手つきを少し眺めた後、恨めしそうな視線を寄越しながら問いかける。

「どうしたら名前を教えてくれるんだ」

「さあ。わたしの気が乗ったら教えてあげるよ」

「……じゃあ、それまでアヤメって呼ぶから」

「好きにしたらって言ったはずだけど」

「……嫌じゃないのか?」

「別になんとも思わない。そう呼ばれて答えるかは保証しないけどね」

 また気まぐれってやつか、と語気を小さくした少年に少女は片側の口角だけをきりとあげて見せる。少女はずっと、少女を魔女だの脅威だのと定め殺しにかかってくる人ばかり見ていたせいか彼の豪胆さが面白かった。少女にとって人間とは、豪快な声をあげるわりに少女が少し魔術を見せれば慄いて走り去るような軟弱な生きものなのだ。あやめ色の魔女、というかわいらしい呼称だって、本気で蔑みの名前を付けたときに自分たちがどうなるか分からないということを恐れている名付けだとしか思えない。

 少女の瞳の色は、たしかに綺麗なあやめ色だ。彼もそれを分かっているのか、少女の瞳を見つめながらもう一度「アヤメ」と呼んだ。気まぐれに適当な返事をしてやれば、少年は何かを赦されたようにほっとした顔をする。少女はそれにくすくすと笑いながら少年に視線を返した。

「魔女に名前をつけてみせるなんて怖いもの知らずだね」

「……あんたは村で言われてる恐ろしい魔女とは違う」

「さあ。気まぐれに殺すかもしれないよ」

「…………しない」

「なにを根拠に言ってるんだか。犬ってやつは主人のことを無条件に信じるの? はい、処置は終わり」 

 そう言って包帯を巻いたばかりの手の甲を軽くはたけば、少年は痛みにかその行動にか驚いたようで犬耳と尾をぴんと立ててみせた。それにくすくすと笑いを零す魔女のことをじとりと見つめながら、少し低い声で彼は言う。

「……信じた相手しか、主と思わない」

「ああそう。じゃあおまえは見る目がないんだね、魔女を主にするなんて」

「……アヤメは、俺の名前を覚えてるのか」

「魔女の記憶力を舐めないでくれる。気が向いたら呼んであげるから、気ままに待ってることだね。犬っころ」

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