魔女の名前

深瀬空乃

Ⅰ 漱ぐ緋色

「ねえ」

 霧がかった暗い森の中に、少し低い少女の声が響いた。

 齢十三程に見えるその少女は、呆れたようにため息を吐いてからあやめ色の瞳を細めた。その声に、傷だらけの少年がゆっくりと振り向いて、軽く眉をひそめる。辺りは神秘的な真白の霧で包まれていて、鉄錆のような匂いが漂っていた。

「おまえ、また無茶したの? 犬っころなんだからその辺で昼寝でもしてればいいのに」

「犬っころって言い方ないだろ。獣人だ」

「おまえなんかただの迷い犬と同じだよ。それから、傷は舐めないで洗ってこいって何度言ったらわかるの? いくら獣人と言ったって、耳と尾以外は人間なんだから舐めても治らない」

 少女がそう言いながら差し出した布巾を、目の前の少年は乱暴な手つきで奪い取っていった。

 剣で切り裂かれたのか少年の服は破れ腹には血が滲み、耳を掴まれたのか犬耳の先の毛が抜けている。ふわふわと柔らかい薄茶の短髪も汚れ、所々が千切れていた。少女にとって、正義感に則って黒い瞳を反抗的に吊り上げる目の前の彼はなんとも可愛げのない犬──もとい、犬の耳と尾を持って生まれた獣人だった。

 手の甲の擦り傷を舐めていた少年は、布巾を受け取った後に渋々と井戸のほうへと向かって歩いていった。腕を組んでそれを見守る少女を一度振り返った少年は、仕方なしと言ったように井戸の釣瓶を揚げる。

 ここは、少女の家だった。家の横には畑があり、少しの野菜と不気味な薬草ばかりが規則正しく植えられている。家の裏には山羊と牛が二匹ずつ飼われていて、今は夜なのか大人しく小屋の中で眠っていた。少女の家の周りは霧が立ち込めることが多く、背の高い樹ばかりの暗い森という立地も相俟って、昼夜の区別がつきづらかった。魔女の家の周りばかりランタンでほの明るく、太陽や月を見分けるには明るさがあまり変わって見えないというのも原因かもしれない。

 ふかふかの尻尾を垂らし、獣人の少年は井戸から引き上げた水で顔を洗う。彼は頬にも傷を負っていた。

「ところで、アレの相手はしなくていいって何度も言い聞かせたはずだけど。 おまえのその立派な耳は飾りなの?」

「……あいつらがあんたの家を焼こうとするから」

「松明ひとつの火で魔女を殺せると思ってる奴らなんて恐るるに足らないね。わたしの家があの程度で燃えるはずもない。いいからおまえは傷が治るまで家の中で大人しくしていてよ、それとも散歩が必要?」

「いらない」

「そう。なら家の中で大人しくしていて。話し相手くらいにはなってあげる」

 軽く鼻で笑った少女は、美しい巻き毛の白髪をさらりと耳にかけると、片手をひらりと振ってみせる。

 少女は、森の外の人間たちに魔女と呼ばれていた。使い魔を使って偵察しては炎を操り村を焼く存在と怖れられ、人の心を持たず殺すことも生かすことも遊びでしかない化け物だと囁かれている。それゆえか、時折少し遠くの村人たちが徒党を組んで、少女の家を焼こうとしたり少女自身を殺そうとして襲撃してくることがあった。

 たしかに人々の間で化け物と呼ばれるだけあり、少しおどかして彼らを追い返すのは少女にとって造作もないことだ。炎で狼を作り、風で辺りの霧を晴らして見せれば、人間たちは尻尾を巻いて逃げ出した。家だって松明たいまつの炎を灯したところで焼けない程度には強く保護の魔法をかけているおかげで、松明を投げ込んだのに焼けないと慌てふためく人間を見ることも少なくない。

 しかし、別に魔女と名高い少女は別段、人を殺したことがなかった。確かに火も氷も魔術として自在に操るし、動物を使役することだってできるけれど、村を焼いたことも人間を食べたこともない。大釜に蛙と薬草を入れて混ぜたりしないし、おどろおどろしい実験も行っていない。そもそも、人間にあまり興味がなかった。そういった意味では非道徳な感性を持っているのかもしれないが、自分に害意を持つ外界の人間たちには一向に興味が湧かないのだ。この森に生まれ落ち、親が死んでからずっと魔術と薬学に溺れているわけだから、同じことしか喚かない人間にかまけている時間など勿体ないと考えていた。この少女の魔女らしい点と言えば、長い年月を生きている割に身体がまだ幼い少女であることくらいだろうか。

 少女の目の前にいる少年は、犬の耳と尻尾をもつ獣人だった。この世界には、時折一部の部位が動物のものとなって生まれてくる獣人が存在しており、彼もまたそのひとりだ。他人に興味を示さない少女にしては珍しいことに、しばらく前から彼はこの家に住まわされていた。

 彼は何度か顔を洗うと、慣れたように布巾を湿らせて服を捲り、怪我をしている部分をゆっくりと拭った。深手ではないようだが、軽く顔を顰めているのを見て、少女はくるりと踵を返す。痛がって吠えられてもやかましいことこの上ないために、塗り薬を作ってやらなければならない。傷を洗い始めたのを見届けそう思った少女のことを、少年が俯いたままに呼び止めた。それから、やけに真剣な声音で続ける。

「……なあ」

「ん?」

「この家とあんたは、俺がちゃんと守るから」

 少年は本気のようだった。彼は少女が村人たちなど脅威にも成り得ないのだと何度言っても、襲撃に来るたびにああして外に飛び出して戦って怪我をする。少女がわざわざ家から出て追い返す必要さえないと判断した相手だというのに、少年は魔女のことをいたいけな幼子か何かだと思っているのか、守ろうとするのだ。

 少女は扉に手をかけたまま、肩を竦めて目を伏せた。それから、呆れた様子で片手を振ってから続ける。

「馬鹿だね。魔女を侮ってる? アレと害虫だったらまだ害虫のほうが恐ろしい。それに薬なら調合してやるけど、魔女だって死は癒せないの。勝手にアレと戦って怪我するくらいなら、家の中で傷が治るまで安静になさい」

 そうして少女が家に入ったしばらく後に、態度とは裏腹に律義に傷を洗い流した少年が家へと戻ってくるのだった。可愛げはないけれど、仮の主人相手でも言うことはよく聞く犬だった。村人たちの襲撃を止めに行くな、という命令以外は。

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