淫夢清浄

衞藤萬里

淫夢清浄

 たとえどんなに回数を重ねても、初めてのお客の部屋を訪れる時の緊張感は、どうしても慣れることはできない。

 ドアをノックし、部屋の中の彼が姿を現すまでのわずかな時間を、あたしはいつも祈りに近い気持ちですごす。閉ざされた部屋の中で、およそ一時間をふたりっきりですごすのだから、顔も見たことがない、電話で話をしたことすらないオトコがまともであるかどうかは、切実な問題だからだ。

 妙に陰影が濃い廊下には、必要以上に大きな音量で甘ったるい女性グループの曲が流れている。制服をガーリーに仕立てなおしたようなステージ衣装で踊って歌う十代の彼女たちは、男たちが身の程知らずにも要求する清純さの、表向きの象徴のようなもので、有線放送なのかもしれないがこのような場所で流れるにはずいぶんと場違いだった。

 曲のタイトルはど忘れした。少し考えれば、多分憶い出せるかもしれないが、もうめんどくさかった。

 そういえば、初めてホテルの部屋の前に立ったあの時も、そのころの流行の曲が流れていた。これからしなければいけないことを考えて、余裕なんてなかったはずなのに、その曲のことはすごくはっきりと記憶している。

 あの夜、脚もとに泥がまとわりついているような屈辱感や、抵抗する気力をすべて奪い去っていた深いあきらめよりも、最初の相手となるオトコが最低限の理性と常識を持ちあわせていて、この世界に脚を踏みいれざるをえなかったことを、せめて後悔しないようにあつかってもらえる人物であってほしいと、あたしは心底願っていた。

 あたしにはもうこの方法しかなかったからだ。

 最初の相手のこと、絶対に忘れないだろうと思っていたのに、結局緊張のあまりそのときの相手の年齢も交わした会話も行為の内容も、これっぽっちものこっていない。ただ、その日相手をしたのが三人だったという数字だけは、妙にくっきりと記憶にのこっている。

 つづけていくうちに、手順は慣れた。手際もよくなった。流れる曲も次々に代わっていく。だが、ドアの前に立ったときに沸きおこる、表現のしようがない感覚は、いつまでものこった。

 部屋のドアが、警戒するかのように開く。相手を品定めするのはあたしだけでなく、向こうも同様だ。

 だけどあたしには自信がある。25歳の割には落ち着いて見えるとよく云われる、細くてやや目尻が上がった眼で大人びた印象を演出しつつ、大き目の唇をわざと強調したアンバランスさは意外に好評だ。肩よりいくぶん長めでそろえた髪は、カラーリングは最小限にとどめているので、派手なカンジの嬢が苦手という、割合年長のお客にも受けがよい。身長はないが、スタイルの方はなかなかのものだと自負している。あたしとしては、できるならもう少しお尻が大きくて、締まっていればよかったのだけど、全体として充分満足のいくものだ。

 多分、平均点以上。男十人に質問したら、七人か八人からは確実に合格点をもらえるぐらいのレベルには、自分はあると思う。週に五回程度とはいえ、三年この仕事をやってきて交代させられたことがほとんどないことが、ひそかな自慢なのだ。 デリヘル嬢“みさこ”であるあたし――美紗緒は、まるでそれが何てことないことであって、これからの行為をまるで匂わせない屈託のなさと、煽情をわずかに織り交ぜた自慢の笑顔を作り上げた。

「『ロイヤル』から参りました。“みさこ”です」


 部屋の主であるその彼は、まだずいぶんと若かった。探るようにあたしの顔を凝視している。品定めしているにしてはずいぶん真剣な表情に、一瞬知ってる人だろうかと不安に思ったけど、あたしの記憶にはない。

 ひょっとしたらチェンジかと、軽い失望を感じた。手取りが減ってしまうし、せっかく来たのに気に入らないって云われたのでは、やはりプライドが傷つく。 「部屋、入ってもいいですか?」

「あ、あ!?はい、いえ、とんでもない、入ってください」

 彼は初めて気がついたように、ドアを大きく開けて中に招きいれた。

 真正面の短い廊下の奥には、ダブルベッドが空間のほとんどを占める、大人びた青色で全体がまとめあげられた部屋があった。部屋自体は別に大きくはないので、ダブルベッドの存在感はやはり大きい。おまけのように簡単なソファセット、これもやたら巨大なテレビ、そして例によってあの手の商品をあつかう自販機と冷蔵庫がそこにあると、もうあたしたちふたりでいっぱいといった感じだ。

 トイレとお風呂の位置を手早くチェックする。このホテルは初めてではない。造りはおおむねどの部屋も同じのようだ。ならまずは……などと簡単なプレイのシュミレーションをする。

「座っていいですか?」

 訊ねたあたしに「あ、ごめんなさい、どうぞ」と慌ててうながし、自分は落ち着かな気にベッドに座った。

 床にひざまずき三つ指をそろえると、せいぜい品がよさそうに一礼する。

「本日は『ロイヤル』をご利用いただき、ありがとうございます。ご指名をいただきました“みさこ”です」

 あたしが所属している『ロイヤル』は一応エレガントが売りのお店だから、最初は友だち感覚じゃなくって、こういったややお固めの挨拶になる。

「ではシステムの説明をします。お客様は60分のレギュラコース。オプションはなし――とのご希望ですが、それでよろしいでしょうか?」

 彼はぎこちなくうなずく。後は“本番”はナシ、乱暴な行為はナシ……とひと通り注意事項を説明する。何度もこなしてきた手順だ。

 「料金が一万六千円、それに指名料が千円、交通費が千円、入会金は只今サービス期間のため無料になっていますので、総額一万八千円になります」

 彼が慌ててポケットから財布を出し、二万円をおそるおそるさしだした。あたしは実はこの瞬間が一番好きだ。店からその日の売り上げをもらう時よりも、自分の行為の価値が眼に見えるこの時が。

 にこやかにお礼を云い、財布からおつりを出そうとしつつ、さとられないような上目づかいでさりげなくお客を観察した。

 彼は依然、硬い表情のままベッドの上。改めて見ると、まだはたち前後だろう。結構かわいらしくって、わざわざデリを呼ばなくたって、そういった相手には不自由をするようには思えない

 最初の印象どおり若いが、あたしはもう少し年上がいい。いくらお金をはらってくれるからって、自分よりずっと若い子を相手にするのは、抵抗がある。

 一度などはあきらかに高校生にしか見えない子に、ラブホに呼ばれたことがあるけれど、あれってお金の出所はどこなんだろう。小遣い?って考えると、何かおもしろくなかった。自分で稼いでもないくせに、親のすねをかじってるくせに、風俗なんてもっての外だ。自分で稼ぐようになってから、遊べばよいと思う。ま、それでも労働の対価として、いただくモノはいただいたけどさ。

 思いつめたようにあたしの顔をじっと見ている。緊張してるんだろうか?デリヘル呼んだ経験、どうやらあんまりないようだ。慣れていない感じが可愛らしい。わぉ、ひょっとしたら初めてかもしれない。こりゃ自分のペースでお仕事できて楽かもしれないなぁと、心の中でにんまりする。

 さ、お仕事、お仕事。お風呂にお湯を張って、溜まるまでのスキンシップ。その後お風呂できれいにしたら、ちゃっちゃとヌイてさしあげましょうかね。

 そう能天気に考えながらおつりを出しかけたとき、彼が不意につぶやいた。

「……美紗緒――さん?」

 驚愕した。はっと彼を見上げ、そしてしまったと思った。その一言はまったくの不意打ちで、無防備なあたしは素のままに反応してしまった。動揺は、彼の問いかけをみとめたようなものだ。

「やっぱり、美紗緒さんだ?」

「え……何で?」

 ――あたしを知っている……誰?

 声が引きつっているのがわかる。“みさこ”の仮面が剥がれていくような気がした。とりつくろいようもないのに、それでもまだ“みさこ”であろうとする自分がいた。

 まさか自分にこんな日がくるとは、思ってもみなかった。部屋のドアを開けたら、勤めてる会社の同僚だったって嬢もいたけど、そんな偶然はものすごい確率だし、お店のサイトでのあたしの写真は手で顔の上半分を隠しているから、よほど親しい人でも気がつくのは難しい。絶対とは云えないけど、知り合いに会う可能性なんて、ほとんどゼロだと思っていた。

 でも…… 事実あたしは、本名を呼ばれた。

 ――どうすればいい?

 あたしは混乱した頭で懸命に考えた。

 大体、眼の前の彼は、一体誰なんだろう?彼はどうみたって、せいぜいはたちぐらいだ。それぐらいの年齢で、あたしを知っている男なんて、会社の後輩ぐらいしか思い浮かばない。

 身体を離し、警戒して距離をとって彼の顔を凝視するが、いくら考えても憶い出せない。

 彼の顔が曇り、うつむく。まずいことになったと思った。部屋に入るときから、ずいぶん真剣にあたしの顔を見ているなぁと思ったらこれだ。

 どうしようと対処に困っていると、彼がようやく顔を上げた。

「オレ、五十嵐です……五十嵐 薫です」

「いがらし……?かおる……?」

 ――いがらし、いがらし?

 あたしはなおさら混乱した。五十嵐なんて名前、まるで記憶にない。

「……どこかで、逢った?」

「あの――」

 五十嵐 薫と名乗った彼が、ある町の名を口にした。記憶の底に眠っていた、鼻の奥でつんと鉄さびの匂いを連想させる町の名が、あたしの中学生の時間を甦らせた。

 ――いがらし……かおる……かおる?

 突然、記憶の奥底から、払いのけがたい紗幕にかげらされたその少年のシルエットが浮びあがった。

「……かおる……くん?」


* * *


 小学校から中学生にかけての数年間、あたしはその町に住んでいた。こんな都会に住んでる人は、誰も知らないような小さくて何もない町だった。そして何より遠い。

 父親と母親と、そしてあたし。活気を失った町営住宅の一室が、あたしたち家族の家だった。同じ棟に五十嵐さん――薫君の家族は住んでいた。両親同士仲がよかったみたいで、お姉ちゃんお姉ちゃんとよくなついてくれてたのを憶えている。薫君は確かあたしより、5つぐらい年下のはずだった。それぐらいの記憶はあるが、どんな顔立ちだったかとか、背丈だとかはもうほとんど憶えていない。全体にぼんやりとした印象があるが、なつかれてうっとうしい気分にさせられるような子ではなかったように思う。それぐらいだ。

 でも仕方ない。あたしにとってあの町はただちょっと過ごしただけの、印象の薄い仮の住まいにすぎなかったんだ。あたしたちが町を去ったのは、中二の中途半端な時期だった。父親――今ではもう関係は修復しえないが、そのころは、世界で彼氏の次ぐらいには頼りになると思っていた――が新規に事業をはじめるためだ。

 いや、ひとつ憶い出した。引越しの準備であわただしかったころ、薫君は「お姉ちゃん、引っ越すの?」ってさびしそうな顔をしていた。

 でもあたしは、初めてできた彼氏と別れることのほうがすごく切実なことで、そんな薫君の気持ちなんて心の片隅にも引っかけなかったんだ……

 当然だけど、薫君なんか近所の子どもでしかなかった。だから今の今まであたしは薫君のことなんて、これっぽっちも記憶にのこっていなかった。

 だけど――

 十年経って、十年後の彼が、十年後のあたしの“お客”として眼の前にいる。


* * *


「憶い出した?やっぱり美紗緒さんだ」

 薫君が嬉しそうな、でも戸惑うような複雑な笑顔をあたしに向ける。こんな顔立ちだったろうか?たしかにぼんやりとだが、面影があるような気がする。あのころの小学生が十年たって現れたら、こんな雰囲気だろうか。

「……どうして?」

 あたしの心臓は、いつもの倍の速度で激しく動いている。

「店のホームページ見たんだよ。美紗緒さん、目許隠してたけど、口の横のほくろでひょっとしたらって思ったんだ。すごい偶然。ほんとに美紗緒さんだったなんて……」

 思わず口元に手がやってしまった。

「唇とか顎の感じもそっくりだし、名前も“みさこ”ってなってたから……でも年齢が違うから、まさかとは思ったんだ」

 こんなことになるなら、顔出し完全NGにしときゃよかったと思った。でも店舗型と違って、多少はサイトに顔を出していないと、デリで指名を取るのはむずかしい。『ロイヤル』で指名数はベスト3には入るあたしだって、たとえ一部でも顔を出していなかったら、それだけの指名をとれていたかどうかはわからない。いくらこんな仕事をしたって、お客が少なかったらまったく意味がない。あれぐらいの露出は、絶対必要だと思う。“みさこ”の歳も二十一ってフェイクがはいっているし、まさか気がつく人がいるとは思ってもいなかった。

「ちょっと……あの……何でここに?」

 体勢を立て直そうと口を開いたが、何も考えつかない。

「オレ、四月からここの大学に通ってんだよ。今独り暮らしでさ。オレ美紗緒さんが引越してから、どうしてるかなってずっと思ってたんだ、でも……やっぱり、やっぱり美紗緒さんだ……」

 目が眩むかと思った。とんでもない偶然だ。悪魔が手引きをしたとしか思えない。

 興奮して浮かれたようにしゃべっていた薫君だったが、そこで急にうろたえたように言葉を濁らせた。

「でも美紗緒さん……何でこんな仕事を?」

 頬が引きつるのを感じた。自分でも信じられないぐらいだ。「こんな仕事」って云われたことは、今まで何度もあったけど、彼の口から聞かされて、こんなにいやな気持ちになるとは思わなかった。

「……こんな仕事って、どういう意味?」

 もちろん意味がわからないわけない。自分の顔が引きつっているのが感じられた。

「デリヘルだろ、これ?何で美紗緒さんがこんな仕事してるんだよ。理由があるの?」

 薫君の顔はちょっと怒った感じだ。

 あたしはそんな彼をしばらく見ていたが「煙草、もらうわよ」とテーブルに手を伸ばした。

「煙草吸うの?」

 彼の問いかけを無視してあたしは無言で一本抜き取ると、薫君のジッポで火をつけた。嫌がるお客もいるので、仕事中は吸わないようにしているその苦味が、頭と心臓の狂った働きを落ち着かせてくれた。かすかに震えていた指先にも、温もりのある血がかよった気分だった。

「……自分だって吸うんじゃないの。もう、はたちになったの?」

 薫君に向かってわざと煙を吐きかける。自分の言葉が冷ややかなのは自覚できた。

「……十九だよ」

「あたしと思って、指名したの?」

 しばしためらった後、小さくうなずいた。あたしは思わず、小さく舌打ちをしてしまった。

「何それ……」煙草を持っていない方の掌で、顔をおおった。「信じられない……何てことしてくれんのよ」

「でも……」

「何でそんなばかなことをしたの!」

「オレは、美紗緒さんかどうか知りたかっただけで、もし本当に美紗緒さんだったら、どうしてデリなんかやってるのかって……だって信じられないよ。あの美紗緒さんが……」

 不意に煙草の苦味が増した。

 短いスカートからパンツが見えそうだから、あたしは横座りしなおす。普段の仕事時間なら見られてもかまわないが、今はまったくその気はおきなかった。

「オレ、ずっと憶えてたんだよ。子どものころから美紗緒さん、すごくきれいで勉強できて、小六のとき、生徒会もやってたじゃないかよ、そうだったろ?てっきりいい大学行って、いい仕事就いてって思ってたのに……風俗やるなんて、信じられない。」薫君は顔をしかめながら、あたしに向かって一生懸命だ。「何でこんなことしてんだよ?」

「お金のためよ」

 言葉が途切れた隙をねらって、投げやりにそう云ってやった。薫君の顔が硬直する。

 吸い終わった煙草を、灰皿でねじって乱暴に消す。

「身体売るんだから、他に理由なんてないでしょ。借金があるのよ。おととし、父親が事業で失敗してね。それで昼の仕事と掛け持ちではじめたってわけ」

 昼の会社員としての仕事と併せて、夜に週五日ほどこの仕事で得た数十万というお金を、月末には親の口座に振り込む必要がある。両親とも働いているが、それでも返済にはぎりぎりだ。

 両親とは今は別居している。本当なら一緒に暮らす方が、無駄がないのはわかっているが、もし同居していたら、あたしは自分に借金を背負わせたふたりにどんな憎しみを持つかわからない。

 ふたりは見て見ぬ振りをしているが、普通に仕事をしてそれだけのお金を毎月用意するなんて、常識で考えてできっこないのは知っているはずだ。あたしがどんなことをして、そのお金を稼いでいるか、薄々気がついていると思う。

 あの父親の借金のために、あたしはこれからの数年をその返済に追われる日々を過ごすことになると思ったら、時には奈落に吸いこまれていくような絶望を感じる。

 こんな仕事をしながら、しかも借金を抱えて、しばらくは恋愛も結婚も無理だろう。

 でもあたしは今の仕事だけはやめたくない。少なくとも借金がなくなった時、昼の社会に復帰できる場所だけはほしい。それが今のあたしの切実な願いだ。

 しかし現実は厳しい。今はまだ何とかこなしているが、そのうち昼の仕事との両立はむずかしくなるだろう。

 最近デリじゃなくって、もっと単価の高い場所に移ろうかとも考えている自分がいることに気がつき、青ざめることもある。女性向けの就職情報誌で、気がついたら「日給〇万円保証!」なんてあおり文句に視線がいっていたりする。そうなったら、もう引き返せないってわかっているはずなのに。

「どうして親の借金を、美紗緒さんが返さなきゃならないんだよ?」

 あたしは苦笑するしかなかった。それはまさしくあたしが云いたいことだけど、仕方がないじゃないか。父親は父親だし、借金してるのはまぎれもない事実だ。蒸発もせずに、地道に返済しようとしてるだけましな方だよ。

 とにかくこれをどうにかしないと、あたしも含めて家族には未来はないんだ。

「破産宣告とかすればいいじゃないか。借金とか、帳消しになるんだろ?弁護士に相談してみた?」

「世の中、そんなに簡単にはいかないのよ」

 ネットやテレビで得た知識かもしれないけど、借金をするってそんな甘ちょろいもんじゃない。踏み倒せない性質のお金がこの世にはあるって、きっとまだ薫君には理解できないんだろうな。あたしだって、できるなら知りたくもなかった。

「借金なんて、そんな理由で……大体、何で風俗なんだよ。風俗で儲けたお金なんかで借金返したって、幸せになんかなれるわけないだろ。デリへルなんてやめて、もっとまっとうな仕事しろよ」

「なるわよ、幸せにぐらい。この借金返したらね。大体、普通に仕事して返せると思ってるの?」

 幸せねぇ……?自分が借金してるわけでも、男のアレをしゃぶるわけでもないくせに、一体何の権利があってこの子はそんな白々しいことを云うんだろうか…… あの可愛らしかった子が、こんなばかなこと云う子になっちゃったんだなぁと、うんざりした。

「あのさ薫君。自分のやっていることの意味ぐらい、君から云われなくたって、ちゃんとわかってるって」

「だって心配なんだよ。こんな仕事してたら、トラブルに巻きこまれちゃうかもしれないじゃないかよ」

 薫君は興奮してまくし立てる。今がトラブルだっての。

「君には関係ないでしょう」

「そんなこと云うなよ、心配して云ってんだよ。昔の美紗緒さん、そんなことする人じゃなかっただろう?おれ、美紗緒さんのこと……」

「好きだったとでも云いたいの?」

 冗談で云ったつもりだったが、薫君は真剣に、でも傷ついたように小さくうなずいた。あたしは呆れた。

「何よそれ、ばっかじゃないの。迷惑よ。自分の好きなお姉さんだから、清純でセックスなんてしないって思ってんの?借金なんてしないって思ってんの?」

「違う……」

 こんな仕事?

 間違ってる?

 やめろ?

 何、偉そうなこと、云ってんの。

 あたしがやっていることを、バカにしてるの?

 世間知らずのガキのくせに、何を云ってやがる。

 あたしが何のためにどんな気持ちで、こんな仕事してると思ってるんだ。

 何様のつもり?

 怒りのような不快感のような、表現のしようのない気色の悪い感情がこみ上げてきた。

「自分がお願いしたら、やめるとでも思った?そんなマンガやドラマみたいなこと、本当にあると思ってんの?」

「違う!」

「友達に自慢でもしたかったの?オレの知ってるやつにデリやってる女いるんだぜ、とか」

「そんなんじゃないよっ!」

 薫君の顔は真っ赤になっている。怒りのためだろうか、嘲られたためだろうか?

「ひょっとしたら、ただで本番までやれるんじゃないかとか、思ったんじゃないの?」

「違う!」

 必死で否定しながら、薫君は悔しそうに眼に涙を浮かべていた。泣きながら同じ言葉を繰り返していた。

「……違うよ。どうしてこんな仕事……美紗緒さんが」

「あたしが風俗やってることが信じられないの?バカね、あの町に住んでたころから、あたしとっくに経験あったんだよ。君がまだセックスの意味も知らなくって、アニメとか観てた時間、あたしは自分の部屋でオトコとせっせとセックスしてたんだよ。ヤリまくってたんだよ。あたしはね、君が勝手に想ってるような、お姉さんなんかじゃ――な、い、の」

「うそだっ!」

「あはは、ごめんね。君の幻想、壊しちゃった?」あたしは嘲笑う。「あたしは何だってするわよぉ。オトコのお尻の穴だって舐めるし、お金はらってくれるんなら、本番だってする」

「やめろっ!」

 薫君が傷つくのが、たまらなく心地よかった。もっとなぶってやりたいと、おそろしく残忍な気持ちになっていた。

「オレはただ……美紗緒さんがこんな仕事してるなんて……絶対間違ってるよ。やめてくれよこんな仕事……」

 あんまりバカなことを何度も繰り返すものだから、思わず笑ってしまった。そんなにショックだったの?いつまであたしの幻想を抱いてるんだ。いいかげん気がつきなさいよ。

「それじゃ、あたしがこの仕事を辞めたら薫君……君、あたしの借金を代わりにはらってくれるの?」

 薫君がはっと顔を上げた。信じられないものを見るような眼だ。あたしはそんな薫君をひどく冷たい気分で見ていた。そんなことできるわけないよね。立派なこと、云うだけならただだもんね。

 薫君の涙がにじんだ眼から、力が抜けていくのがはっきりとわかった。終わりだった。バカね。責任とれないなら、踏みこんでくるなって。


 立ち上がり、彼の太腿の上にまたがった。そのまま押したおした。不意のことだったので、彼はなすがままあたしの重みを受け止めるしかなかった。めくれたスカートから、ストッキングに包まれた下着が、わずかにのぞいている。

「つまんない話は、もうおしまい――どうする?」耳たぶに息を吹きかけつつ囁くと、彼が呻く。「もう時間ないわよ。イキたいんだったら、ちゃんとヌイてあげるよ?あたし、巧いんだから」

  そう云いながら彼の耳たぶを甘噛みする。 頬がほてっているのがわかる。

「……やめて」薫君の声が、おびえたように震えてる。「こんなの……こんなの美紗緒さんじゃないよ」

 もちろんあたしはやめなかった。耳の穴にねっとりと舌をねじこむ。あははは、

犯している気分。

 首筋にちろちろと舌を這わせると、汗の塩っ辛い味がした。彼は身体をねじって抵抗をするが、形だけだ。

 ほら、よぉく見てごらん。君の好きだった美紗緒さんは、オトコの精液を搾りとるお仕事をしてるんですよぉ。君はそんなオンナに舐められて、なぶられて、感じてるじゃん? このままお姉さんとしちゃう?

 蠢く首筋に吸いつくと、薫君の淫らな呻き声があがる。唇を離すと、たちまち鮮やかな赤紫色のアザとなる。薫君を汚した印だ。自分でも驚くぐらい、たまらない征服感を感じた。あぁ……何て楽しいんだ。

「やだよ。オレ、こんなつもりじゃ……」

 薫君が弱々しく喘ぐ。

「ウソばっかり。本当はしたかったんでしょ、あたしと?」

 あたしは嘲笑う。

 股間を薫君にこすりつけて、ゆっくりといやらしく腰を動かすと、あたしのお尻の下で薫君の、かつてはあの可愛らしい小学生だった薫君の欲望が、可哀想なほどに脈打っているのがわかる。あたしで欲情してやがる。ざまぁみろだ。

「さぁ、どうするの薫君?君のここ、ヤリたくてヤリたくて我慢できないって云ってるよ。今ならプラス一万で本番までしてあげるよ?」

 薫君が小さくしゃくり上げている。かまわずにあたしは、身体をからめ、唾液だらけの彼の耳元で、ねちっこく囁きつづけた。

「あたしのことは気にしないで。これは“お仕事”なんだからさ。やるの?やらないの?決めるのは“お客様”の薫君よ、君はあたしを買ったんだからね……」

 そう云いながらあたしは、ゆっくりと彼のズボンのベルトを外していった。


 ……ものすごく長く、たまらないほど淫猥で愉快な時間が流れて……そして10分前のアラームが鳴った。薫君がびくりと身体を震わせた。

 時間切れ、ざぁんねん。

 わざとらしく丁寧に、ベルトをはめなおした。何か別のものも、そこに閉じこめた感じだ。

 いつもの行為の後のように、空気が急速に冷めていくのが感じられた。その冷ややかさが入りこんでこないように胸元のボタンをとめて、あたしは薫君から離れた。

 薫君はふてくされたように気だるげに身体を起こすと、ベッドの縁に腰を下ろしたまま、顔を上げようとしなかった。うつむいた顔には、これまでの彼にはなかった汚らしいものが張りついていた。

 ベッドの上には、あたしが知っている薫君はもういない。そこには冒された少年しかいない。

 不思議な満足感と失望感が、あたしの胸を満たしていた。

「まさかとは思うけど、あたしのことしゃべったりしないよね」

 うろたえたように顔をあげる。

「あたしのこと知ってるの薫君だけだから、噂でも流れたらすぐわかるからね。電話番号も名前も全部わかってるし、あたしは君の実家まで知ってるのよ。こういう仕事、バックにどんな人たちがいるか……想像できないぐらいバカじゃないよね」  薫君に狼狽が走った。これぐらい脅かしておけば大丈夫だろう。

 床にそのまま放りだされていた財布を拾いあげた。

「忘れてた、一万八千だから、お釣り……」

 一瞬このままもらっとこうかと思った。それぐらいしても構わないような気がしたが、二千円をテーブルの上に置く。魂が抜けてしまったような顔で、薫君はベッドに腰かけて暗い眼であたしを見つめたまま、そのお金を見ようともしなかった。 テーブルに置かれたままの二枚の千円札は、ぴんときれいだった。まるで薫君みたいだ。そしてそれは、すごく冒涜的な取り引きの残骸のようにみえた。

 あたしはいつも“お客”にするように、とびっきりの笑顔を作った。

「どうもありがとうございました。またご指名お願いしますね」


 部屋から出て、いつもするようにブレスケア代わりのガムを口にする。うがいだけでは消えることのない口の中の苦味を忘れるための、そしてオトコには絶対わからないこの気持ちを切り替えるための、あたしだけの儀式でもある――と、ちょっとかっこつけて勝手に考えているのだ。

 ひょっとしたら追いかけてくるかなとも思ったが、さすがにそこまではばかじゃなかった。また指名してね、なんて云ったが二度とごめんだ。彼はNGにしてもらうよう、店長にお願いしておこう。

 煽情的な照明と内装の廊下を歩く。並んだ部屋のドアの向こう側では、人はみっともなく声をあげて、はいつくばったりのけぞったり夢中で腰を振ったりしているはずなのに、かえって人の気配はない。ひとりでエスカレーターを使い、エントランスに出た。ずっと流行の曲が追いかけてくる。

 口の中の苦味は、今日に限っていつまでも消えない。薫君をなぶっていた時の昂揚は、もうどこかへか去っていた

 ――くだらないことをした。

 今は本当にそう思っている。本当にくだらないことをした。

 どうして自分があんなに残酷になれたのかわからない。適度に――彼の夢想をそこそこ壊す程度で、やめておくことだってできたかもしれないのに。

 それでも、どうしても止まらなかった。

 まだ自分がこんな仕事をするはめになるなんて、想像もしていなかったころのあたしを知る薫君。

 その彼のちょっとした好奇心、そして、もしかしたら、ちょっとはキレイだったのかもしれない想い出。

 そんなあたしを知っている、そんなあたしがいたってことを憶い出させる、彼の存在がたまらく憎かった。

 罰を与えてやりたかった。

 どうしようもないぐらい、彼をめちゃくちゃに冒してやりたかったんだ。

 あたしと同じぐらい、ぐちゃぐちゃに汚くなってしまえばいいと思ったんだ。

 呪われてしまえと思ったんだ。

 最後の、裏切られたような薫君の眼を憶いだすと、胸がすっとする。

 いい気味だ。

 ばいばい薫君。君の好きだったお姉さんはもういないんだよ。あたしを買ったそのときから、とっくにね。そしてそのお姉さんに憬れていた薫君も。

 だって君は、そんなあたしに欲情したじゃない?君は自分であたしを汚したんだよ。自分を汚したんだよ。バカだね。そして何より……

 エントランスの中央で脚を止めた。水音。壁際の一角が滝になっていた。明度を落としたエントランスの中で、さまざまな色彩の照明があたり、空気までが輝き揺らめいているようだった。池に流れ落ちた水は、きっとまた上に循環していき、永遠に流れつづけるんだろう。

 そのきらきらした水の永久運動を見つめたまま、体が動かなかった。顎だけが機械的に動く。薫君にぶつけた怒りや憎しみがどこからきているのか、あたしはうすうす気がついていた。

 ――君に一体何がわかる?

 たかだか一日数万円のお金のために、オトコの身体を舐め回さなきゃならない、あたしの気持ちなんて。

 そのお金だって月末に親にまとめて送ると、昼の仕事の分と併せたって、自分の手元にはいくらものこらない。一体あと何年、こんな生活をつづけなけりゃならないか、計算しただけで血の気が引く。

 その虚しさが君にわかる?

 いくらオトコのモノをしゃぶったって、こっそり割増料金をもらって本番したって、身体を売って手に入れるお金が割に合うって思ったことなんか、一度だってない。

 本当は人生で一番充実しているはずの二十代の時間を、あたしはその屈辱を抱えながら生きていかなきゃならないんだ。

 その気持ちが薫、君にわかる?

 なのに君は、好奇心でデリなんか呼ぶ。大学生?親のスネをかじってるばかりの世間知らずの分際で。

 サイトの写真を見てあたしかもしれないって、だから何なんだよ。君にそんなことする権利あんの?

 どうしてよりによって、あたしの店のサイトなんかのぞいたんだ、エロガキが。昔好きだったお姉ちゃんに似た人がいる……そう思って、思うだけにして、別の嬢を指名すればよかったのに。何で放っておいてくれなかったんだ?

 怒りとも、屈辱とも云い表わせない感情が、身体の内側を焼き焦がしていた。

 何度も何度も繰り返した言葉が、また心の中に渦巻いていた。

 こんなのはイヤだ、こんなのはイヤだ、こんなのはイヤだ……

 あたしはお金のためだけに、この仕事をしてるんだ。

 借金がなくなったら、さっさと脚を洗う。そしてもう忘れる。 振りかえりたくもない。

 こんな仕事の果てに、惨めな気持ちと虚しさしかのこらない人生なんて、絶対にイヤだ!

 大きな声で悲鳴をあげたかった。泣き叫びたかった。

 ここは夢の中だ。淫らで汚い夢の世界だ。ここはあたしのいる場所じゃない。あたしはこちら側の住人じゃない。あたしはいつか昼の世界に帰るんだ!

 そう信じるんだ。でなきゃ、好きでもないオトコの精液の苦味なんか……我慢できない……

 スマホが振動した。遅いので、送迎が催促しているんだろう。ホテルの外には迎えのワゴンがもう到着しているはずだ。あたしたちはその車で、まるで配達物のようにあちこちに届けられる。

 もういい、考えるな。

 オトコたちは人間なんかじゃない。彼らはあたしが自由を買うための、手立ての一部にすぎないんだ。どいつもこいつも、片っぱしからやってやる。情けない声をあげて腰をぬかした後は、さっさと金をはらってくれ!

 とっくに味のしなくなったガムをつまみ出して、乱暴にエントランスの壁になすりつけた。

 どくりと、壁が意志をもって脈うったように感じた。違和感のあったホテルの空間が、不意に自分にしっくりなじんだものとなった。

 イルミネーションが鮮やかにいろどる夜の街に降り立ち、ワゴンの灯りに向かって歩いていく。 今日はもう一人指名が入っている。もしかしたら薫君の相手をしている間にも、指名が入っているかもしれない。

 だからきっと、今夜もまた何人かのオトコの部屋を、“みさこ”であるあたしは、訪れることになるのだ。


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

淫夢清浄 衞藤萬里 @ethoubannri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説