2400文字で書く怪談 「弦楽器」

弦楽器


 暑い暑い、八月の昼間のことだった。


 仕事も休みで暇を持て余していた私は、おもむろに風呂掃除を始めた。

 洗剤をつけたブラシで浴槽を磨いていると、数分と経たずに汗が噴き出してくる。床を掃除し始めた時には、すでに汗だくになっていた。額や鼻の頭から出た汗が顔を伝い、首筋まで流れていく感覚がある。

 手っ取り早く掃除を済ませ、私はそのままシャワーを浴びることにした。

 一旦、隣接された脱衣場へ出て、着ていたものを脱ぎ洗濯カゴへ放り込む。風呂場の戸を閉め、窓際に置いてある防水ラジオのスイッチを入れる。ラジオからは女性の歌声とバイオリンか何かの弦楽器の音色が聞こえてきた。クラシックのようだ。


 シャワーの方へ向き直ろうとした時、ふと、おかしなものを視界の端に捉えた。

 窓の下に設置されている浴槽。水が抜かれているその底に、シミのような汚れがある。


 赤黒い色。


 血だった。


 さっき掃除した時は、こんなものなどなかったはずなのに、一体いつ付いたのだろう。

 よくよく見てみると、そのシミは何かの形を成していた。

 丸く、細長い、人の指先のような形だ。足の指か手の指かは、判別がつかない。


 私は自分の手足を確認した。が、何処にもけがなどしていないし、血が出たような形跡などなかった。

 不思議に思いながらも身体を洗い始める。きっと、妹が生理の時に風呂に入って、その時にでも付着した血なのだろう。掃除の際、それを私が見落としたのだ。暑さで頭がぼーっとしていたから、あり得る。

 後でもう一度、浴槽を洗わなければいけないと思うと、とにかく面倒だった。


 シャンプーを洗い流すついでに例のシミへ湯をかけてみると、赤黒いそれは溶けるように流れて消えていった。


 いつの間にか、ラジオが止まっている。


 全身を泡まみれにしたまま立ち上がり操作してみるが、スイッチを押してもうんともすんともいわない。電池切れか、はたまた故障したか。長く使っていたものだったから、そろそろ買い替えようと思っていた。


 手早く身体を洗い終え、私は物言わぬラジオを手に風呂場を出た。


 「あ、お兄ちゃん。居ないと思ったら、お風呂入ってたんだ」

 服を着てリビングへ行くと、妹がソファに寝そべってアイスキャンディーを食べていた。今日は大学の授業に出席すると言っていたのだが。


 「帰ってたのか、お前。なに、大学サボったの?」

 「サボる訳、ないじゃん。授業は午前で終わりって、言ってなかったっけ」

 「聞いてないよ」


 妹と他愛のない会話を交わしながら、私は手に持っていたラジオをテーブルに置く。


 「ラジオ、どうしたの?電池切れ?」

 「さあ。壊れたかもな。それだったら新しいのに出来るから、いっそ壊れてて欲しい」

 「今時、そんな古いラジオ使ってる人、居ないもんね。前からダサいなって思ってたから、新しいのになるなら嬉しい」

 「ほとんど使わないくせに、よく言う」

 「たまには、使うもん。――あたしもシャワー浴びてこようっと」

 アイスの棒をゴミ箱に放り投げ、妹はリビングから出て行った。二階の部屋へ着替えを取りに行く軽やかな足音が遠ざかっていく。


 私は冷えたスポーツドリンクを一杯飲み干してから、ラジオを手に取った。電池を交換しようとふたを開ける。


 中は空だった。入っているはずの電池が、一本も見当たらない。


 「なんで……」

 呟いた自分の声は愕然としていた。

 だって、さっきまでこのラジオはちゃんと動いていたのだ。電池が入っていないなど、あり得ない。だが、よく目を凝らして確認しても、電池はない。

 風呂場からここへ来る途中に落としたのだろうか。

 いや、それならふたも一緒に何処かへ落ちていなければおかしい。現に、たった今私が開けたその時までふたは完全になされていたのだ。

 

 私がスイッチを入れる以前から、このラジオには電池が入っていなかったということになる。


 「じゃあ、さっきのあのクラシックは――」


 一体、何処から聞こえていたのだろう。形容しがたい、なんとも嫌な予感が全身を伝った。


 その時だった。


 「きゃああっ!」


 耳をつんざくような悲鳴が家中に響き渡った。

 妹の声だ。

 風呂場の方から聞こえた。


 何が起こったのかと混乱する頭のまま、私は風呂場へと走った。


 「どうした?!」

 「お兄ちゃん! 何、アレ。なんかしたの? 浴槽が――」


 妹の指差した方向へ目を向ける。


 言葉を失った。


 浴槽内と、その壁一面に、おびただしい数の赤いシミが付いていた。

 それはさっき私が目にしたものと同じ。人の手指のような形をしていた。


 だが少しだけ形状が、違う。今度のものはさっき見たものよりもさらに細長い。


 まるで、血まみれの指でそこらじゅうを引っかいたような――。


 「ねえ。ねえ、お兄ちゃん。あのシミ、何……」


 「…………」


 そんなこと、考えたくもなかった。

 今はとにかく、一刻も早く浴槽と壁を綺麗にしたかった。こんな不気味な光景をいつまでも見ていたくはなかったのだ。


 まだ濡れている風呂場の床へ足を踏み出し、私はシャワーを手に取る。


 湯を例のシミへかけると、やはりすぐに洗い流すことが出来た。

 だが、それは決して喜ばしいことではなかった。


 がこれを付けて間もないと、分かってしまうからだ。


 「……シャワーは、明日にしろ」


 シミを全て洗い流した後、妹に言い残し私はリビングへと引き返す。

 ラジオの件は、妹には言わないことにした。それを伝えてしまえば、今後ますます風呂場へ近寄りたくなくなるからだ。




 後に、ラジオの電池を抜いたのは父親であることが分かった。


 古いラジオを捨てようと思い、その前に綺麗に洗おうと脱衣場に置いておいたのだが、それを知らない母親が電池の入っていないラジオを元の位置に戻してしまったらしい。数日後、ラジオは父親の手で綺麗に磨かれてから捨てられた。


 あの不気味な赤いシミは、なんだったのか。

 付けたものだったのか。今でも分からないままだ。


 私の頭には、あの時風呂場で耳にしたかん高い女性の歌声と何か弦楽器を弾くようなキイキイとした高音が、未だにこびりついている。

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