第5話

 朝になった。

 僕は、やるせない気持ちのまま、ベッドで目覚めた。昨日はあの後、飛び散ったじょうろを血まみれになった手で片付けて、手の傷の処置をすると、そのまま自室で、ただぼうっと天井を眺めていた。そして、それは自分の感情を整理するのにはあまりにも短すぎるもので、こうして朝になっても、僕はまともに起きて朝食を取ろうとは思えなかった。父は、食事を取ったのか質問してきたが、母は、心配の声すらかけてこない。そう、これがこの家だ。

 やがて日が沈み、夜になる。

 さすがに腹が減って、キッチンの戸棚から菓子を取り出して食べていると、家のチャイムが鳴った。

「幸雄くーん?」

 そして、彼女の声もした。

「はーい」

 僕は玄関の扉を開ける。

「こんばんわ。もしかして寝てた?」

 そう笑いながら言う彼女は、今日は一段と華やかな恰好をしていた。

「今日は土曜日、お祭りだよっ」

 華麗な浴衣は大人らしさを纏った落ち着いた色合いをしていて、うなじが見えるように編まれた髪の毛は、いつもの彼女とは違う、美しく煌びやかな印象を僕に与えた。

「……そうだね。今準備してくるよ」

 僕はそう言って、一旦玄関を閉めて自室に戻る。財布をズボンの後ろポケットに入れて、すぐに玄関を出た。そこでは、彼女がうちわを仰ぎながらソワソワして待機していた。

「おまたせ」

「ううん、随分早かったね」

「財布持ってきただけから」

「そっか」

 そんな会話をして、僕は歩き出した彼女の後ろをついて行った。また、彼女の後ろ姿が僕の眼に突き刺さる。

「ほら、あれっ!」

 僕らが毎日登下校で通っていた河川敷に着くと彼女が興奮気味に指を指して言った。指の先には、本来暗闇であったはずの河川敷の姿は見当たらず、様々な屋台が人を賑わして、その場を明るくしていた。ざっと数えて、ニ十個ほどの屋台は並んでいる。この町の住人のほとんどが、今回の夏祭りにかなり気合いを入れて参加しているらしい。

「行こ!行こ!」

 彼女は我慢できずに土手を下って行く。一気に土手を下った彼女は、人混みに紛れて迷子になってしまわないように、遅れて土手を下りた僕の服の袖をしっかりと掴んだ。

「そんなに慌てるなよ」

「そんなこと言っても!」

 彼女の目がキラキラと輝いている。よほど、この祭りが楽しみだったのだろう。

 僕は、呆れたように、けれど楽しそうに笑う彼女の顔を見て、幸せを含んだため息を零したのだった。


 その後、おそらく二時間ほど経った頃だろうか。

 リンゴ飴とベビーカステラを食べて、金魚すくいをして、かき氷を幸せそうに口に運んだ彼女は、すっかり満足したらしく、人混みから抜けて、屋台から少し離れた方へと歩き始めた。

「楽しかった?」

「うん、楽しかったよ」

 僕はリンゴ飴とジュースしか買っていないけれど、それでも彼女のかつて見た事のない笑顔をずっと独り占めにできるのは、とても幸福だった。

「これは、どこに向かってるんだい」

「ふふっ、忘れたの?」

「ん?」

 彼女は、振り返って、後ろ歩きをしながら僕に言った。

 段々と屋台の光が遠のいていく。あれだけ賑やかだった喧騒と、華やかな灯りが、段々と薄れて消えていく。

「あれ」

 ふと立ち止まった彼女は、僕のすぐそばまで来て、川を挟んだ向こう岸を指差した。

「……あ……」

 ふいに、そんな声が漏れてしまう。

 目に飛び込んできたのは、となり町の夜景。川面に反射した白と橙色の電灯やビルの光が、まるで川面に蛍を浮かべているように綺麗だった。一方、遠くの方からは祭りの太鼓の音や人々の楽しそうな喧騒が聴こえる。

 まるで、ここだけ別の世界のようだった。

「……綺麗だな……」

 僕がそう言うと、彼女はふっと笑みを浮かべて、その場にしゃがみ込む。どうやら、ずっと歩いていたから疲れてしまったらしい。

「……そうだね。いい景色でしょ?」

 段々、川の流れる音が耳に届いてきて、尚更祭りの喧騒が遠ざかっていくように感じた。

「……」

 僕らの間に沈黙の壁が出来た。


「この町を引っ越すよ」


 沈黙を破るように、僕はそう言った。

「……え」

 彼女は、目を丸くして僕を見た。僕はそんな彼女に向けて、優しく笑ってみせる。

「ど、どうして」

「もう、これ以上、この町にはいられないって思ったんだ」

「ど、どういうこと」

「周りの大人には散々迷惑かけたし、それに――」

 その先を言おうとして、口を噤んでしまう。暗闇の中だったけれど、目が冴えてきて、彼女が驚いているように見えた。けれど、その表情にはきっと、別の何かも含んでいる。

「お兄ちゃんから、聴いたの?」

「……そうだよ」

「その手は…?」

「これは、お兄さんは関係ないよ」

「……そっか」

 彼女は、少しだけ悲しそうな声で、つ、優しい声で、そう返事をした。そして僕は続ける。

「もう、全部嫌いになったんだ」

「……全部?」

「息子に興味がない母、息子に過保護で周りを傷つけることを厭わない父、そして、その中で平然と生きている自分に嫌気が差したんだ」

「一人暮らしするの?」

「うん。幸いお金はあるからさ。きっと引っ越し先はすぐに見つかるよ。そこからは、…そうだなぁ。小説家でも目指そうかな」

「……幸雄くんはさ」

 僕は、彼女の隣に立ち続けたけれど、彼女の顔色をこれ以上窺うことはできなかった。

「幸雄くんは、可哀想だよ」

「可哀想?」

「うん。何でも見逃してくれる母親と、何でも擁護してくれる父親がいたのに。その二人が嫌いだなんて。勿体ないよ」

 その声は、少しだけ呆れたようにも聞こえた。

「黛さんは……――ユリは、僕の事を嫌いじゃないのかい?」

「――大嫌いだよ」 

 それは、即答だった。思慮の時間なんて一切ないほどの間隔で、そんな返事が返って来た。

「だから、優しくしてみたの」

「……なるほど」

「私ね。その人を構成する要素って、結局は周りの環境が全てだと思ってるの。だから、あなたの事は大嫌いだったし、あなたとおしゃべりする度に、たまに何してるんだろう私って思ってた」

「……」

「あの台風の日。幸雄くんに呼び出されたんだよ。何されるんだろうなぁって怖かったんだよ。靴だって隠されたし、机だってボロボロにされたし、お弁当だって何度もひっくり返された。その日もね――」

「僕が君のお父さんを馬鹿にしたんだろ?」

「そう。知ってたのね」

「何となくわかるよ」

「そっか」

「君は自分の父親を馬鹿にされて、かっとなって僕を突き飛ばした」

 そして、境内にある岩に、僕は頭を打ちつけた。きっと背後には不良たちが隠れて、僕が彼女を罵倒するのを見て楽しんでいたんだろうけれど、きっと僕が血を流しているのを見て、尻尾を巻いて逃げたに違いない。

「全部、その通りだよ」

「僕に優しくしていたのは、僕の人格を作り直すためなのか?」

「そうだよ。言ったでしょ?周りの環境が全てだって。私が優しくしていれば、きっと捻くれた不良だった君だって、心優しい人に成れるのかなって」

 そして結果的に、僕は、前の自分の事が大嫌いになった。自暴自棄になった僕には、きっともう、前の僕の姿はどこにもないのだろう。

「でも、所詮、僕は僕だよ」

「……そうだね」

 彼女は、川面を眺め続けた。前髪が、前に垂れている。

「大人なんてさ」

 彼女が嗚咽を漏らしているのが判った。

「大人なんて、歳を重ねただけのただの子供だよ」

 直接顔を見なくても、彼女が涙を流しているのが感じられた。

 

 大人なんて、時間が経てば誰でも成れる。最低最悪の僕だって。そんな僕を更正させようと自分の傷を隠し続けた彼女だって。あと三年も経てば、等しく大人に成れる。

 僕は、沈黙を貫くように彼女に言う。

「今まで、ありがとう」

「うん」

「今まで、ごめん」

「うん」

「短い間だったけどさ」

「……うん」

「ちょっとだけ、黛さんの事、好きだったよ」

 僕がそう言うと、黛さんは、俯いていた顔を上げる。口角を上げて、いつものように笑っていた。僕には、その笑顔が嘘偽りのない純粋な笑顔なのかどうかは分からなかったけれど。

「……ばいばい」

 彼女は、笑顔で少し悲しそうにそう言った。僕は、そんな彼女の顔を見て、少しだけ寂しく思った。

 そして僕は彼女を置いて、一人で今まで来た道を戻って行くのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕らは夏に咽る。 たなかそら男 @kanata_sorao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ