第4話
その後も彼女に“あだ名”に関して何かを言う事はできず、ただ平凡と補習が終わった。彼女は、何事もなかったかのような顔をして、僕を校門で待ってくれていて、結局今日も、僕らは一緒に下校した。
僕の家の前まで着くと、彼女は何かを思い出したように言った。
「そういえば、明日だね」
「明日?」
「そう、明日。お祭りだよ」
「あぁ、そういえば」
「もしかして忘れてたの?明日!絶対迎えに来るからね~」
彼女はそれだけ言い残して、笑顔で手を振りながら自分の家に帰って行った。そういえば、僕は自分の家から彼女の家までの距離も道のりも知らない。今になって考えて見ると、よくもそんな分際でいきなり彼女を“あだ名”で呼ぼうなどと考えたものだ。
「……」
何か疑問が残る。
その頭の違和感の原因に気づいたのは、僕が夕方に母の頼みで、家の前で打ち水をしていた時だった。
「……ユリなんて名前、どこにでもあるじゃないか」
そもそも“ユリ”なんて、あだ名に該当しないほど、どこにでもあるありふれた名前だった。ただ、本来の下の名前から一文字抜いただけの、簡素なもので、特に何かを捻っているわけでも誹謗中傷を込めているわけでもない。何なら、世の中に「ユリ」という名前の人なんていくらでもいるはずだ。
それなのに、彼女のあの反応は、あまりにも的外れだった。
だったら、“ユリ”という名前に、何か別の思い入れがあるとしか思えない。
「……たとえば……」
陳腐な頭で必死に思考を巡らせる。
たとえば、過去に彼女が何者かに酷い嫌がらせを受けていたとして、その人間が彼女のことを「ユリ」と呼んでいれば、自分のユリという名前に極度の嫌悪感を抱くのにも納得がいくかもしれない。なぜなら、ユリという名前を聴くたびに、その人に受けた嫌がらせがフラッシュバックしてしまうからだ。
仮にそうだとすれば。
その人物とは――。
「おい、おまえ吉岡か……?」
「……ん?」
ふいに、何者かに自分の苗字を呼ばれて反応してしまう。
「どなたですか?」
僕は丁寧に、その人に訊き返した。
身長は一八〇cmほどあり、しっかりとした身体つきが印象的だった。そして、その人は僕と黛さんの通っている学校の指定用カバンを背負っていた。きっと、僕らと同じ学校の男子生徒なのだろう。服装は、おそらくテニス部の服装であり、確かに今日は、補習中も外で男子テニス部の掛け声が聞こえていた。ようやく一日練を終えて、帰っている最中だったのだろう。よく見ると、肩からラケットケースをぶら下げている。
「……なんの冗談だ」
「……ん?」
「おまえ、いい加減にしろよ」
彼は、どういうわけか憤りによって顔の色を変えていて、声を震わしながら僕に言う。
「待ってくれ、本当に何を言っているか分からないよ」
「なんだよ、その弱弱しい口調。ふざけんなよ」
彼は、そう言うと、いよいよ感情を抑えきれなくなって、僕に詰め寄よって、胸ぐらを勢いよく掴んだ。
その目は、怒りに満ちている。そんな事は僕にだって判った。
「痛いよ」
「おまえがやってきたことに比べたら屁でもないだろ」
僕の胸ぐらを掴む彼の手は、わなわなと震えていた。その震えが何なのか、不思議なくらい冷静に、僕は考えていた。きっと、前の吉岡幸雄にはよくある状況だったのだろう。僕は、顔色と声色を一切変えずに、彼にこう言った。
「それは多分、前の僕の話だろう?」
「なんだよ、前の僕って」
「僕、こないだの大豪雨で記憶喪失になっちゃってさ」
「……おまえっ、――いい加減にしろよっ!」 彼は怒声を発して、その硬く握られた右こぶしを僕に食らわした。僕は、なすすべもなく、勢いよく後方へ吹っ飛んでしまった。そこで勢いよく尻もちをついてしまう。
痛い。
どういうわけか、僕はこの青年に殴られてしまったらしい。尻もちをついたせいで、尾てい骨も痛めてしまったが、何よりも左頬の内側の口内が切れてしまったようで、口の中が血の味でいっぱいになった。
「なにするんだよ…」
僕は血の味と痛みを堪えて、彼に訊く。
「……?」
しかし、彼は僕を殴ったのにも関わらず、馬乗りをして追い打ちをかけるわけでも、罵声を浴びせるわけでもなかった。ただ、不思議そうな顔で僕を見ていた。
僕は、気づけば左拳を強く握っていた。けれど、あと少しのところで何とか思い留まる。このままだと、前の吉岡幸雄と同じになってしまうと思ったからだ。
「……なんで殴り返さないんだ」
「殴り返すって……そんな事したら、状況が悪化するだろう」
一言、一言発するたびに、口内がずきずきと痛む。今思えば、記憶喪失に陥って、初めて感じる痛みがこれだった。
「……おまえ、まさか本当に……」
「あぁ、そうだって言ってるだろう。……ところで、君は誰なんだ」
僕は、また彼に訊いた。彼は、僕に対して、申し訳ないと思うのが悔しいようで、やはり心に残った「怒り」の残留を拾い上げると、僕に言った。
「俺は黛たかお。ゆりみの兄だ」
「あ、兄?」
黛さんにお兄さんなんかいたのか。ということは、僕は今、黛さんのお兄さんに殴打されたということになるのか。
「……あぁ、そうだ」
「そんなお兄さんが僕に何のようですか」
いきなり殴られたのだから、それなりの理由がなければ、さすがに生まれ変わった僕でも虫の居所が悪い。
母は、夕食の食材を買いに、車を走らせて出て行ってしまった。おそらく、しばらくは帰って来ないだろう。だから、しばらくはこのお兄さんと話ができるはずだ。
「何の用って……」
たかおさんは、僕の質問に苦虫を噛み潰したような表情で、その先を言うべきか悩んでいるようだった。
「……いきなり、殴ってすまなかった」
「え、はい」
急な謝罪につい驚いてしまう。まぁ、謝罪するのがふつうなのだろうけれど。
「おまえが記憶喪失なのはゆりみから聴いていた。でもな、さすがに、それでもお前のことを許すことはできなかった」
「ゆ、許す…?」
「あぁ、そうだ。前のお前を殴ることはできなかったからな。だから、今なら殴れると思ったんだ。でも、まさか本当に記憶喪失だとはな」
「ちょ、ちょっと。許すって一体なんの話ですか」
おそらく、この人は前の僕と何らかの関係があって、ずっと怒っていたのだろう。それも、相手が弱っていると知ったら、つい殴ってしまうほど、爆発限界だった怒りを。
「……おまえ、まさか周りから聴いてないのか?」
「き、聴いていないって……?」
「……はぁ」
たかおさんは、そこで深いため息をついた。吐き出されたのは、おそらく呆れからくる疲れだったのだろう。
しばらくすると、呼吸を整えて、たかおさんは僕に言った。
「――お前がゆりみをいじめてたんだよ」
――え?
僕の思考は、そこでぴたりと歩みを止めてしまった。まるで、頭の中が真っ白になってしまったみたいだった。これ以上、先の事を考えられない。
「そ、そんな……いじめって……あのイジメだろ?」
「あぁ、そうだよ。見るに堪えないほど、陰湿なイジメだ。ゆりみは、何度も泣きながら帰って来たことがある。全部、お前のせいだ」
――そんな事、あるわけ。
ようやく動き出した脳は、未だに状況を整理しきれずに困惑したままで、まともに機能すらしていなかった。
「だって、ほとんど話したことないって言ってたし――」
そう言い切る前に、あの日の病室での彼女の表情を思い出した。薄暗くて、淀んだ表情。まるで暗い井戸のように、心細くて、光が薄れていくようだった。
「毎日、今日だって!あんなに笑顔だったのに!」
「……あぁ、そうだろうな。ゆりみは、ずっとお前に付きっきりだったよ。俺には、自分をイジメてたやつの介護をする
「そ、……そんな事、あるわけ……」
僕は、気が付いたら跪いてしまった。膝が崩れて、手足には力が入らない。混乱した頭が、身体の機能すら停止させてしまった。
「前まで、お前の親父の圧力が怖かったんだよ。だから、俺らの家族はお前にどんな事をされても、何も仕返しができなかった」
「…圧力って…」
「うちの死んだ親父はな。お前の親父のところの部下だったんだよ」
「……」
「お前が悪さしまくってんのは、この町に住んでるやつ全員知ってんだよ。でもな、お前に突っかかったら、うちの親父まで被害被るんだよ。分かんだろ」
「……そんな……」
「じゃあな。俺はすっきりしたよ。それでもお前を許したわけじゃねぇけどよ」
たかおさんは、そう言い放つと、黛さんの家と同じ方角へ歩き始めてしまった。それもそのはずだ。だって兄妹なのだから。
僕は、その間、ただ硬直することしかできなかった。
あの頬の傷は。
あの腕の傷は。
僕がしたことだった。
たかおさんが僕を殴るのに、充分すぎるほどの理由だった。何なら、馬乗りになって、僕の顔が変形するぐらい殴り続けてしまっても、彼を責めることなんて出来ないくらいの理由だった。
今朝、彼女が「ユリ」と呼ばれて、あんなに動揺していたのは、前の僕が彼女のことをそう呼んでいたから。「ゆりみ」と呼ぶようにあんなに強制していたのは「ユリ」と呼ばれるのをずっと恐れていたから。なぜなら、彼女に暴行をしていたのは、他でもなく、この僕自身なのだから。
「……最低だ…」
口内の血が、唇にまで到達する。それでも、きっとこんな傷は、僕が今まで彼女に与え続けた暴行に比べたら、本当に屁でもない。
思い出せ。
僕は、一体彼女に何をしてきた。
「―――」
身体の中から、一気に感情が込み上げてきて、思い切り地面を殴った。拳に鈍い痛みが走った。それでも、きっと、まだ彼女に足りない。おそらく、この感情は、たかおさんとは違う種類の「怒り」なのだろう。
僕は、立ち上がると打ち水に使ったじょうろを勢いよく地面に叩きつけた。プラスチック製だったじょうろは、バラバラになって辺りに飛び散った。
この感情は、たかおさんとは違う。たかおさんは、自分の妹のことを、心底愛していた。そして、亡くなった自分の父の事も同じくらい愛していたはずなのだ。あの「怒り」は正義の怒りだ。けれど、僕が今抱いている「怒り」はなんだ。
こんなものは、自己満足の感情の突発的な起伏でしかない。
「くっそ、くそくそくそっ!」
大声を上げて、思い切り飛び散ったじょうろを踏みつける。こんな事をしても、この「怒り」が収まるわけじゃない。そう考えると、段々虚しくなって、また膝をついてその場で丸まってしまう。拳の側面で、何度も地面を殴り続けた。血が滲んでいくのが、自分でも判った。
「………」
苛立ちが一向に収まらない。
彼女の父が死んだのはなぜか。彼女からは、病死だと聞かされていたが、きっと本当は違うのだろう。僕が悪さをする度に、僕が彼女のことをイジメる度に、彼女の父は娘を護ることができなくて、だんだんと心が病んでいったはずだ。何せ、自分の娘をイジメている男の親は、自分の上司なのだから。もともと、彼女の家がさほど裕福ではないと知っていた僕の父は、きっとそこで彼女の父を奴隷のように扱っていたのだろう。そこには、度重なるパワハラもあっただろうし、もしかしたら、罪のない黛ゆりみという人間を批判するような事を言っていたかもしれない。
だって、可愛い可愛い自分の息子を護るためだから。
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