第3話
その日は僕の補習が終わり、黛さんと一緒に下校してきた頃には、母はもう寝室から出てきており、キッチンで昼食を作ってくれていた。
「あら、おかえり」
「うん、ただいま」
基本的には、その二言で、僕らの一日の会話は終わりを迎える。僕はその後、無言でシャワーを浴びて、服を着替えた。そして、リビングに行くとテーブルの上には昼食が並べられており、母は少し離れた椅子でテレビを見ていた。
これが、この家のふつうである。
「あのさ、幸雄」
「……ぅん?」
しかし、今日は違った。
「さっき、窓の外からあなたが女の子と一緒に帰って来てるのを見たんだけど」
母は、僕に向かってそう言う。
僕は、そんな母の言葉には耳を傾けずに食事を始めた。今日の昼食は、いつもと同じメニューで、三つのおにぎりとキャベツと卵焼き。何の変哲もないふつうの昼食だった。
「あの子、――黛さんよね?」
「え?」
思わず身体が硬直した。
「だから、あの女の子、黛さんのところの娘さんよね」
「……どうして、お母さんがそれを?」
これは、困惑による硬直だった。
「あ、そうね。これも憶えてないんだったわね」
母は、僕が記憶喪失に陥っていたということを今更思い出したらしく、面倒くさそうな顔をして、テレビの電源を消した。
「あの子、あんたがよく話してた子よ」
「……僕が……?」
ふいに、彼女が初めて僕の病室にお見舞いに来た日のことを思い出した。一週間の昏睡から目覚めた、その日のことである。
その日は、今ほどの暑さではなかったけれど、それでも看護師さんにエアコンの冷房を強くしてもらうように頼もうかと思うほどの暑さだった。そんな中、彼女は淡々と僕の病室に入って来た。準個室と呼ばれる四床室である僕の病室に、私服姿で現れた彼女に、僕は思わず目を奪われた。
彼女もまた、僕を見て、少しだけ沈黙が流れていたような気がする。
「初めまして。黛ゆりみって言います」
「……は、…初めまして…」
僕はベッドのすぐ横にある机に張り付けられた付箋を剥がして、自分の名前を確認した。
「……えっ、えっと……ヨシオカ、ユキオって言います……。ど、どなたですか……」
「私は、幸雄くんのクラスメイトです」
まだ自分の名前を完璧に憶えていなかった僕に、彼女は平然と挨拶を済ました。その立ち振る舞いは、どこか気高い獅子のようにも見えたし、そこはかとなく緊張しているようにも、僕には見えた。
「もう、身体は大丈夫なの?」
「あ、……もう傷は塞がったみたいです……」
僕の頭には数日前までは包帯が巻かれていたらしいが、それは傷が塞がった時点で取られたらしい。今は、ただ後頭部を護るクッションがベッドに枕代わりに置かれているだけだった。
「何針縫ったの?」
「……えっと…五針だと聞いてます……」
「そっか」
「はい」
そして、沈黙が流れる。おそらく一分にも満たないほどだっただろうけれど、僕には、それがとても長く感じてしまった。
「…えっと…マユズミさん…?」
「うん。あ、敬語止めていいよ」
「え、あ、うん」
突然の要求に、僕は焦りを隠しきれなかった。もとから、困惑や動揺さえも、隠しきれてなんかいなかったけれど。
「マユズミさんは、今日、どうしてここに?」
「どうしてって、君のお見舞いに来たんだよ?」
「……お見舞い…?」
「そう。ずっと、心配だったんだから」
彼女は、本当に心配そうな声でそう言う。きっと彼女のことだから、その感情に嘘なんてついていない。彼女は、本気で事故にあった僕のことを心配してくれたのだ。病室に入った瞬間からずっと緊張していたのは、きっと僕の安否がずっと気になっていたからなのだろう。自己紹介のあとに、すぐに、僕の頭の傷を訊いてきてくれたのは、きっと傷の状態が気になったからなのだろう。
「じゃあ、僕とは友達だったのか…?」
僕は、少し緊張しながらも、続けて彼女にそう質問した。
「いいえ。ほとんど、話したことはないわ」
彼女は、そう答えた。
僕は、その時の彼女の顔をよく覚えている。まるで、そのまま地面に沈んでしまうんじゃないかと思ってしまうほど薄暗い顔をしていて、けれども声は先程と同じ、しっかり芯の入った声でそう言っていた。きっと、そこには只ならない何かがある。そう直感できた。
病室で記憶を失って目覚めた吉岡幸雄には言えない何かを、彼女は声を殺して護っている。ただ、彼女は、表情までは殺しきれなかったため、俯いていたのだ。
彼女がそんな表情をしなければならない理由は一体なんなのか。
僕は、それがずっと判らないまま、今に至る。
「……あの子、すっかり傷も治ったみたいね?」
「……傷?」
母は、心を落ち着かせて昼食を取り始めた僕に、そう言った。
「えぇ、ほら。左腕と…右頬だったかしら。絆創膏みたいなの、ずっと貼ってたじゃない」
そう母に言われて、僕は、はっと、あの日の彼女の服装を思い出した。
初夏にぴったりな、白のカーディガンからは薄っすらと彼女の腕が透けていて、僕はそんな彼女の服装にも魅力を感じたのだ。けれど、透けていたのは、彼女の腕だけではなく、その左腕に貼られていた絆創膏も僕には確かに見えていた。右頬には、確かに薄い打撲痕のようなものが見えていて、僕にはそれが、まるで誰かに殴られた痕のようにも見えた。だから、少しだけ気味が悪かったようにも感じたのを覚えている。
「……そうだね。もう取ってたね」
けれど、僕が退院する時にはもう腕の絆創膏は剥がされていて、そこにはただ彼女の白い肌だけが残っていた。頬の打撲痕も、もう跡形もなく消えていた(化粧で見えないようにしているだけだったかもしれないけど)。
「心配だわぁ」
「なにが」
母は身体をこちらに向けて、その真っすぐな眼で僕を見た。
「ほら、あそこの家。父親が亡くなってるじゃない?だから、あの子って、もしかしたら――」
母がその先を言おうとしたところで、僕は勢いよく席を立った。
「……ごちそうさま」
僕はそう言って、食器を流し台に置いて、水に浸けておくと、すぐさま二階の自室に駆け込んだ。母は、何も言わなかった。
そして、自分のベッドに勢いよく飛び込んで、顔を枕に埋める。
僕は何に動揺しているんだろうか。今の母親との会話のどこに、こんなに動揺する要素があったのか。
「……黛さん……」
仰向けになって、彼女の名前を口に出してみる。いや、ちがう。これじゃない。
「……ゆりみ……」
これでもない。なんとなく、これではない気がする。
「……ユリ…?」
ふいに、頭の中で、失くしていたパズルを見つけたような衝撃が走る。心の中で、これだ!と叫んで、身体を起こしてしまうほどだった。
しばらくすると、無駄に高揚していたことに気づいて我に帰った。また仰向けになって、今度は自分の両腕で視界を覆い隠す。また明日、彼女に会ったら。
「……傷……」
彼女の笑顔を思い浮かべたと同時に、右頬の打撲痕のことも思い出した。
僕が異様なほど母親の発言に動揺してしまった理由は、おそらくこれなのだろう。
あの傷は、誰によって出来たものなのか。僕が訊いても、きっと彼女の事だから「階段から落ちたんだ」とか言うんだろうけれど、階段から転げ落ちたって、あれほど生々しい傷はできないだろう。
そう考えてしまうと、より一層、母親の発言に嫌気が差してくる。もっというと、母親と同じ結論に至ってしまう自分に一番嫌気が差していた。
あの傷は。
彼女の母親による暴行の痕かもしれない。
結局、その日は、浅く薄っすらと眠ることができなかった。ずっと彼女のことを考えていたといえば聞こえはいいが、実際何もできていない自分がどうしようもなく情けない。そして、それの真偽を確かめることすらできない自分が悔しくてたまらなかった。
ようやく朝になって、僕は彼女の迎えが来るよりも早く、家の外に出ていた。
相変わらず外は暑い。まともに立っているだけで眩暈がしてきそうなくらいの熱量と、つい目を細めてしまうほどの眩しい日差しが僕を襲う。やはり、家の中で待っていればよかったと思ったけれど、毎日そんな事をしていては彼女に申し訳ないような気がして、たまには外で待っていようと思った。わざわざ、用事なんてないはずなのに、彼女は僕の家まで来てくれて、学校の登下校にも付き合ってくれるのだ。
本当に、彼女には頭が上がらない。
そんなことを考えていると、彼女が奇妙な目で僕を見ながら、僕を迎えに来た。
「あれ?幸雄くん?今日は、やけに早起きだね?」
「この時間に起きるのが、ふつうなんだよ」
「あはは、そういえばそうだね」
彼女は、またいつものように華麗に笑う。
「それじゃあ、行こうか」
彼女はそうやって、歩き出した。
僕もそれに遅れないように、彼女の後ろを歩く。いつもと同じ、変わらない光景だった。
しばらく歩いたところで、僕はふいに昨日考えていたあだ名を思い出す。
「なぁ、――ユリ?」
「――」
僕が冗談半分でそう言うと、彼女はぴたりとその場で立ち止まった。まるで、呼吸をしなくなったかのように、彼女は僕に背を向けたまま、その小さな身体を完全に停止させた。
「……?……あの、黛さん……?」
「……あ、なに?」
彼女は、ふと我に帰ったらしく、またいつもの笑顔で振り返る。
「……いや、……」
なにかとんでもない事をしてしまった気がした。踏み込んではいけない領域に、足を踏み入れてしまったような、そんな感覚で脳が満たされていった。決して口にしてはいけない禁句を、僕は軽はずみで発言してしまったのかもしれない。
「ねぇ、幸雄くん?」
「……な、何……」
彼女は笑顔のまま、前に視線を移し、再び歩き始めながら僕にそう訊いた。
「その“ユリ”って名前、どうしたの?」
「ど、どうしたのって……昨日、たまたま思いついたんだけど」
「……そっか」
「うん」
彼女の声は、笑っている。けれど、どこか寂しさや危うさを孕んでいるようにも聞こえた。
「でも私、そのあだ名、あんまり好きじゃないかな」
「――そ、そうだよな!ごめんごめん!急にあだ名で呼んじゃってさ!次からは、ちゃんと“ゆりみ”って呼ぶようにするよ」
「うん。そうしてくれると、ありがたいかな」
彼女は背を向けて、僕にそう言う。
僕は、こんな時でも彼女の後ろ姿を見るのが精一杯だった。
そうして今日も、僕は彼女がどんな顔をして僕の前を歩いているのか、分からないままだった。
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