第2話

 いくらこの家でも、レトルトカレーぐらいは置いてあるはずだ。そんな事は、すぐに考えればわかる。けれど、胸の中に残る奇妙なしこりのようなものが、僕が思考を広げれば広げるほど、より執拗に絡んでくる。このしこりのような違和感が絡みついているのは、はたして僕の思考回路なのか、それとも――失くしたはずの記憶なのか。

 この場合、きっと後者なのだろう。

 穴の空いたグラスに水を注いでいるようなもので、この行動にはきっと意味がない。そして、終わりが見えない。

 僕は、頭をぼりぼりと掻いて、シャワーに入るために服を脱いだ。

 風呂は、家の土地面積に比例するように広い。ふつうに大人三人くらいなら簡単に入れそうなくらいの広さだった。けれどきっと、この家の住人は、もうこの風呂を広いとは思わないのだろう。

 吉岡幸雄の母は、幸雄と同じく、生まれながらに裕福な人間だった。だからこそ、現在の幸雄の父と結婚することになり、そして幸雄は、当時の母より裕福な生活を送っている。

 一瞬、裕福の連鎖のようにも感じるこの状況は、おそらく僕で終結する。

 この吉岡幸雄という人間は、おそらくもとからそれほど頭はよくなかった。いや、どちらかといえば、とても悪い。何せ、勉強机を見ても、まともに勉強をしてきた痕跡など一切なかったのだから。教科書も、恐ろしく綺麗なままで、きっともとから学校の授業なんてまともに受けてきていなかったのだろう。僕が復帰という形で補習に行った時も、補習担当の先生はとても驚いていて目を丸くしていた。ノート開くことすらほとんどしてこなかった生徒が、夏休みなのに授業を真面目に聞いて、分からない箇所があれば手を上げて質問するなんてことは、まるであり得なかったらしい。

 俗にいう「不良」というものだろう。

 「良くない」というよりは「悪い」ほうが近いから、この場合は「悪童」だと名乗るほうが正しいかもしれない。

 それが、どうして一体、こうなってしまったのか。

 今の僕にとっては、毎日学校に行くことなんてふつうだと思っているし、真面目に授業を受けることに何の疑問も抱かない。けれど、前の僕はそうではなく、学校に行かない日も多く、同じく不良の友達と朝までほっつき歩いていることも少なくなかったという。大豪雨の日に神社で倒れていたのも、きっとその不良たちとふざけて遊んでいたのが大方の原因だろうと思う。 

 しかし、だからといって、僕はその不良たちにもう一度会おうとは思わない。探し出そうとも思わないし、何なら僕は記憶を失って正解だったと思っている。

「…あっちぃな…」

 風呂から上がり、室内着を着て、リビングに向かう。無駄に長い廊下と、無数の扉。きっと、使っていない部屋なんて沢山あるのだろう。

「クーラー、クーラーっと…」

 相変わらず広いリビングの隅っこに立てかけてあったリモコンを操作して、エアコンに電源を入れる。一気に涼しい風が、この蒸し暑い部屋に流れ込んできた。

「快適だぁ…」

 病室よりも、ずっと快適な空間がここにある。今、自分が置かれている状況が幸せだと感じるたびに、自分と“前の自分”の違いを思い知って、何だか情けなくなってくる。

 おそらく、前の自分はきっとこんな事は思っていなかった。どういうわけか、記憶を失えば人格が変わってしまうらしい。人間の性格を創り出す要素の大半が記憶だとして、結果としてはこれは正しいのだろうけれど、この結果はあまりにも極端すぎた。僕と吉岡幸雄の性格は対極の位置にある。これは、果たして頭を強く打った反動で説明していいものなのか。

「……」

 あれこれ考えているうちに、僕の身体に残っていた熱は、クーラーの冷房によって掻き消されていた。

「さて、…探すか…」

 僕にはまだ、レトルトカレーを探すという目標が残っている。いい加減、空腹を我慢するのにも限界が来た。


 リビングのキッチン周りの戸棚を一通り漁って、ようやくレトルトカレーを見つけた。消費期限を調べてみたが、どうやら何とか間に合ったらしい。

 先日までは、母親が何かを作っておいてくれたから、それをレンジで温めておけばよかったのだが、いきなり仕事が入ったと言って今朝早くに家を出て行ってしまったため、こんな事をする羽目になった。

「あぁ…」

 なんとなく、心に苛つきのようなものが芽生えた気がした。 

 慌てて頭を振って、それを振り払う。

 このままでは、前の僕と変わらないじゃないか。

 逆に考えよう。今日は、奇跡的に消費期限が切れる前のレトルトカレーを食べることが出来て良かった。母がいつものように昼食を作ってくれていたなら、こんな奇跡は起こらなかっただろう。

 僕はそう自分に言い聞かせると、レトルトカレーをレンジで温めて、炊飯器からご飯をよそる。

 そして、少しずつ心を落ち着かせるようにしてカレーを食べ始めた。

 そう、これでいいんだ。

 どうやら、空腹や疲労などのストレスを感じると、前の吉岡幸雄の性質が戻って来ることがあるらしい。これは、何とかして防がなければいけない。僕は、前の僕のことが嫌いなんだと思う。

 その日は、その後も何の進展も出来事もなく、ただ淡々と終わった。

 これが、普通の男子高校生の一日なんだと思う。ガラの悪い友人と夜遊びをしたりしないし、何日も家を空けることもない。夜は自分の部屋で冷房をつけてぐっすりと眠る。夜更けまでテレビゲームをするというのも、最近の高校生ではよくあることらしいけれど、記憶をリセットしてしまった僕には、最近のゲームの事情なんてまるで分からない。バトルロワイアルのどこが面白いのか分からないし、オープンワールドのサンドボックスゲームのどこが楽しいのかも全く分からない。だから、こうやって健康的な時間に寝ることしか思いつかなかった。


 そうして、朝が来た。

 母は起こしに来ない。きっと、まだ寝ている。

 昨日、母は、僕が寝た後に帰って来たらしい。ここが都会から離れているということもあってか、会社から帰宅するのにも随分時間がかかるらしい。そして、僕はわざわざ真夜中に起きてまで、母の疲れ切った顔を拝もうとは思わなかった。父は、何日も家を空けることがある。きっと仕事が大変なせいで帰って来れないのだろうけれど、そう考えると、前の僕が不良と遊んだり、家に帰ってこない日があったりしたのは、父や母の影響もあるのかもしれない。子供、(とくにこの家庭の場合でいうなら、)息子を叱るのは親の役目だ。けれど、おそらくこの吉岡家では、息子を厳しく叱るということをあまりしてこなかったのだろう。子供幸雄に対して愛情がなかったわけではないと思う。ただ、そういう“教育”は、学校の教師に任せればいいと本気で思っていたのだ。だって、自分もそうだったのだから。

 親から躾を受けてこなかった親が、自分の子どもに厳しい教育ができるとは思えない。

 そう。これが、この家の現状なのだ。


「幸雄くーん!?」


 制服に着替えて、朝食を取り終わり、歯を磨いていたら、ふいに外からそんな声がした。僕は急いで口を濯いで、カバンを背負って玄関まで走る。外に出ると、鍵を閉めておいた。

 母はまだ寝ている。きっと、昼まで起きないだろう。

「ごめんごめん、遅くなった」

「ううん、初日よりはだいぶ早かったよ」

「そう?ならよかった」

「お世辞だよ」

「くっ…」

 案の定、家の外で僕の名前を呼んだのは黛さんだった。いつものように丁寧に結んであるポニーテールが今日も綺麗だった。


「今日も暑いね」

 僕は歩きながら、彼女にそう言った。

「暑いねー、早く図書室のクーラーにあたりたいなあ」

「そうだね。二年生の教室はあんまりクーラーの効きがよくないからさ。正直、僕もそっちで勉強したいよ」

「ははっ、たしかに!」

 高校二年生である僕は、学校の二階にある二年生の教室で補習を受けている。一方彼女は一階にある図書室で読書をして、僕を待ってくれている。冷房は、一階の職員室、保健室、三年生の教室などが最もよく効いていて上の階に上がれば上がるほど冷房の効きが悪くなる。ちなみに、一年生は別校舎で授業を受けているため、三階の教室を利用している学級はない。ようするに、この学校では二年生が最も暑い思いをしている。僕は、こんな夏休みにわざわざ暑い教室で汗をかきながら補習を受けなくてはいけないというわけだ。とはいえ、わざわざ僕の補習についてきてくれている黛さんに比べたら、僕の苦労なんて幼稚なものだろう。

 その後、十分ほど歩いて、僕らはバス停で立ち止まった。

 ここからは、バスに乗って学校へ向かう。

「あれ」

 彼女が、何かを見つけたらしく、僕の肩をとんとんと叩いてくる。

「夏祭りのポスター?」

「そうそう、うちの高校の美術部が、描いたやつだよ」

「うちの高校にビジュツブなんてあったんだ」

「あったよ!というか私が部長だよっ!」

「あ、ごめん。前に言ってたな」

 病室で、僕に話を聞かせてくれた時に、一度言っていたことだった。彼女は、根っから絵を描くことが好きらしく、将来は美術系の大学に進みたいと思っているらしい。そういう明確な目標を持っているという点からしても、僕とは大違いだった。

「あの絵は、まゆず……ゆりみさんが描いた絵?」

「ううん、あれは違う。新しく入った一年生の子が描いたの。私よりもずっと絵が上手くてね。私も一応描いたんだけど、他の部員の子がこっちの方が良いって……」

 彼女は、少しだけ悔しいような悲しいような声で言う。きっと、その通りなんだろう。彼女はおそらく、自分の言葉で自分を欺けるほど、器用な人間ではない。

「そっか、残念だね」

「うん……そうだね」

 彼女と僕は、少しだけ涼しい朝の風にバス停の日陰で涼みながら、バスを待ち続けた。

「じゃあ、一緒に行こうか?」

 僕は、彼女にそう言う。

「――いいのっ!?」

 彼女は、表情をぱぁっと明るくして、そう言った。この子は、本当にいい子だ。僕は、同い年の女の子である黛さんについそんな感情を抱いてしまう。まるで小さな子供のように、分かりやすく表情をコロコロと変える彼女は、本当に、嘘偽りなく「可愛らしい」と僕は思う。

「じゃあ、絶対行こうねっ」

 彼女は、今にも飛び跳ねそうな勢いで僕に言う。僕は、うん、うん、と頷く。

「日程は……明後日か」

 ポスターにはそう記入されていた。

「そうだね!大豪雨の復興祝いも兼ねてるんだってさ」

「ちょっとは、落ち着きなよ」

 僕は、笑いながらそう言った。彼女は、ふと我に戻って恥ずかしそうに背を向ける。僕は、そんな彼女の姿を見て、また笑ってしまった。

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