僕らは夏に咽る。

たなかそら男

第1話

 蝉が五月蠅い。

 耳を劈くようなけたたましい蝉の鳴き声が、僕と彼女の周りを掴んで離さなかった。雨上がりの地面からは、水溜りが蒸発していく匂いが悶々と漂っていて、肌を焦がすような日差しは目を細めてしまうほど眩しく、むせ返るような暑さは僕らの肌を汗で滲ませた。

「…幸雄ゆきおくん…」

 一歩を足を踏み出すたびに、身体に圧し掛かる疲労感は、僕の意識を朦朧とさせる。

 あの冷房が効いた病室と違って、今では頬を伝う汗が鬱陶しくて、つい服の袖で拭ってしまう。制服が自分の汗で濡れているのが分かった。

「…幸雄くんってば」

「――んあっ」

 ふいに、声をかけられていたらしく、素っ頓狂な声を出して立ち止まってしまった。

「幸雄くん。やっぱり顔色悪いね」

 彼女は、頬に伝う汗ですら涼しそうな顔をして持参のタオルで拭っていた。

「まぁ、やっぱり仕方ないか…」

「…ごめん、やっぱり、まだ自分の名前があんまり慣れてなくて…」

「いいよ、謝らなくて」

 そして、僕らはまた歩き出す。


 僕は、この吉岡よしおか幸雄ゆきおという人間らしい。


 十七年前、夜は街灯の灯りよりも月や星の光の方が断然に明るいこの町に、僕は産まれてきた。それからというもの、吉岡幸雄がこの町から出たことは家族旅行を除いて、ほとんどといっていいほどなかった。この町で産まれ、この町で育ち、そして、今もこの町で生きている。

 とはいえ、そんな記憶は、今となってはもう意味がないのだけれど。

 今から一か月ほど前の話になる。

 この地域を記録的な大豪雨が襲った。

 地方の台風ほどではないが、道は浸水し、山では土砂崩れが起きて、田畑は荒れ果ててしまった。幸いにも、この町で死亡者が出ることはなかったが、それに目を瞑っても、大豪雨の被害は甚大なものだった。

 特に僕の場合でいうならば、「頭部への打撃」とでも捉えるべきだろうか。

 最も雨が強く、風も吹き荒れていたその日、僕はどういうわけか、神社の境内で倒れているのを発見された。後頭部から血を流し、意識を失っている状態で発見され、すぐさま病院へ搬送されたらしいのだが、その後、僕がすぐに目覚めることはなかった。そして、一週間の昏睡状態を迎えることになる。

 僕が眠っている間に梅雨が明け、もうすっかり夏が訪れていた。しかし、僕が目覚めた時、吉岡幸雄の人生には大きな欠落が起きていた。

 ――何も、憶えていない。

 この町の事も、大雨の事も、友人関係や、家族関係、自分の名前すら。僕の脳内から完全に抹消されていた。

 どうやら、あの大豪雨の日、吉岡幸雄という僕は、死んでしまったらしい。


「この町には慣れた?」

「うん、そうだね。少しは慣れたかな…」

 僕は汗をやっぱり自分の袖で拭いながら、彼女にそう答える。

「そう、よかった」

 彼女は、嬉しそうに歯を見せて笑った。

「まったく、まゆずみさんには頭が上がらないよ」

「あはは、謙遜し過ぎだよ」

 疲労感ゆえか、それとも彼女の眩しい笑顔を直視できなかったのか、もしくはその両方か、すっかり猫背になりながら、僕はそう言った。それでも、彼女は笑ってくれる。

「それに、ゆ、り、み、だよ」

「…あー…それはちょっと…」

 身体をくるっと反転させて後ろ歩きをしながら、彼女は僕にそう言う。

 まゆずみゆりみ。それが彼女の名前だった。下の名前がひらがななのは、彼女の父親の下の名前がかなり長かったらしく、娘には少しでも名前を書くのに苦労をしてほしくないという想いでつけられたからだという。

 それが、僕が最初に彼女の口から聴いた、彼女の情報だった。他にも、母親は短い名前だった事や、父方の家系は全員名前が長い事や、その彼女が大好きな父が、数年前に持病で亡くなった事など。すべて、僕が病室で僕が療養していた時に彼女が話してくれたことだった。

 あの大豪雨で気を失っている僕を見つけてくれたのは彼女で、救急車を呼んでくれたのも彼女だった。そして、家族以外で僕のお見舞いに来てくれた唯一のクラスメイトも彼女、黛さんだった。

 だから、僕は彼女に感謝しても感謝しきれないくらいの恩がある。

 今日だってそうだ。

 僕は昏睡状態の一週間と目覚めてからの三日間の入院期間分の勉強を取り戻すべく、学校の補習に駆り出されていた。とはいえ記憶を失ってしまった僕に、学校の場所など分かるはずもなく、田畑と山しかない学校近辺に迷子になってしまうことなど、記憶をほとんど失ってしまった僕にだってすぐに分かった。

 だから、彼女にこうして恥ずかしながら送り迎えをしてもらっている。どうやら、彼女は図書室に用があるらしく、午前中の二時間だけの補習と丁度時間を合わせることができた。いや、彼女が合わしてくれたというのが正しいだろうけれど。

「前の僕はそう呼んでいたの?」

「…うーん、前の幸雄くんも、そうは呼んでくれなかったかな」

「じゃあ、なおさら難しいんじゃ…」

 僕は、相変わらず止まらない汗を拭いながら、そう言う。

「あはは、それもそうだねっ」

 彼女はよく笑う。

 彼女が笑うたびに、その白くて透けるような肌に出来るえくぼが、僕はほんの少し好きだ。目元をくしゃくしゃにして、それでも口元に手を持っていくその彼女の仕草は、さすがの女子力の高さが伺える。髪は黒くてストレート。頭の後ろで丁寧に結ばれたポニーテールは、彼女の首筋を露わにさせる。日焼けするのが嫌だと言っていたから、きっとうなじにも手や腕と同様に日焼け止めのクリームが塗ってあるのだろうけれど、不思議とそんなクリームの匂いも、嫌にはなれなかった。

「この道はね、夜になると結構綺麗なんだよ」

 彼女は、話を切り替えて、ついでに後ろ歩きも止めて、僕に言った。

「へぇ、そうなんだ」

「あ、興味なさそうだね。ホントに綺麗なんだから~」

「どんなふうに?」

 彼女の後ろ姿しか見えないから、今彼女がどんな顔をしているか分からないけれど、きっと頬っぺたを膨らましていることだろう。

「川の向こうに街があるでしょ?」

「うん」

「その夜景がね、夜は川面に反射するの」

「うん」

「…それだけ…」

「それだけ…?…なんか、こう。蛍が飛んでるとか、流れ星がよく見えるとか、夏の大三角が一望できるとか…」

「もう、うるさいなっ!とりあえず綺麗なのっ!」

 僕と彼女が歩いているのは、河川敷の土手の上。そこからは、相変わらず田畑が広がっているだけの僕たちの町と、川を挟んで、少しだけ僕らの町よりも発展している隣町が見えていた。ここよりも少しだけ人口が多く、観光地としてもそこそこ人気な隣町は、それだけこの町よりも栄えている。だから、夜は、とても明るい。その様子は、僕だって病室の窓から何度か見た事はある。確かに、その様子は、夜景として価値があるものだった気がする。

「じゃあ、いつか一緒に――」

 なぜか口を噤んでしまい、最後まで言うことができなかった。

「ん?なにか言った?」

 蝉の鳴き声に掻き消されて、僕の言葉が彼女の耳に届くことはなかったが、だからといって、僕の中に生まれた確かな違和感は、拭えなかった。

「ううん、なにも」

 僕は、また歩き続ける。 

 

 そうしてしばらく歩き続けると、僕らは一軒の家の前で立ち止まった。

「はい、着いたよ」

「うん、ありがとう」

 そこは、僕の家らしく、かなり大きめの庭つき一戸建てであるこの家は町では割と珍しい方らしい。白色の屋根が特徴的で、いかにも最近建てられたようなモダン建築が、隣に広がる田畑に異様な威圧感を見せつけている。

「送ってくれて、ありがと」

「いえいえ、それじゃあ、また明日ね」

 彼女はそう言うと、ひらひらと手を振って、また歩き出した。

 僕は、その姿を見送ると、庭の柵を開ける。一体こんな庭を何に使うのか。そう思いながら、玄関までの道を歩いていく。玄関の若干重苦しいオートロックの扉を開けると、玄関先にカバンを置いて、家に上がる。

 家の中も、やっぱり広い。

 吉岡幸雄は、この町でも随分裕福な家庭に生まれたらしい。きっと、今までお小遣いに困ったことはおろか、欲しいと思った電化製品はいつの間にか家にあるような家庭で育ってきたのだろう。

 二階へ上がり、自分の部屋の扉を開ける。

 高そうなパソコン。いかにも一級品を思わせるクローゼット。その中には、学生が買うような服はほとんどなく、少しお金を持ち出した大人が奮発して買うような、高そうな衣服がずらりと並んでいる。小物置き場には、やはり高そうな時計が三台も並んでいて、僕が腕に付けて学校に行くには少し抵抗を感じてしまった。

 吉岡幸雄は、やっぱり裕福だった。

「…こんなの、持ってても似合わないだろう」

 今の僕はそう思ってしまうが、きっと前までの僕はそんな事を思ったことは一度もないんだろう。だから、こうしてブランド品で身を固めている。

 いや、それも正確には違うかもしれない。

 自分がクラスメイトよりも多くのお金を持っているという事を知っていたからこそ、それを誇示したくてブランド品を買い漁っているのだ。

 今の僕からしたら、信じられない価値観だった。

「お母さんは、まだ仕事か」

 この家は、親が共働きらしく、僕が補習から帰って来るころにはいつも誰もいない。

「シャワー浴びて、レトルトカレーでも食おう」

 僕は、自分の部屋のクローゼットから室内着を出して、階段を降りていく。

 そもそも、レトルトカレーなんて。

 この家に、あっただろうか。

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