指の下

オカワダアキナ

指の下

 かさぶたをはがしたところに早くも毛が生えてきた。がんばれがんばれと思った。スケボーでこけて膝を打った。階段ステアでオーリーをきめようとして着地をしくじった。団地の入り口、植え込みのあいだの低いステップだが、スケボーをやっているとちょっとした段差やスロープにワクワクする。見慣れた凸凹がスケボーのためのものに見えてくる。膝はがっつりすりむいたが治りつつあった。まだほかのところより柔らかい、ピンク色の皮膚だ。

 長い長い並木道だ。十七キロメートル続く並木道で、日本一長いらしいが、長すぎる。道幅も広いから締まりがない。十七キロを一体としてとらえるのは難しい。国道四六三号線、浦所うらとこバイパスのほとんどをおおきなけやきが覆っているが、車がびゅんびゅん行き交い、木漏れ日を楽しむような道ではない。車のための道だろう。

 車のほとんどは屋根も扉も締め切った個室だ。たまに窓を開けてみるくらいだ。無数の個室がけやきの影の中を流れたり詰まったり、前にバイトしていた物流センターのベルトコンベヤを思い出す。道に沿って箱が移動する。そしてそれぞれの箱の中では音楽でもタバコでも自由にしてよい。ベンチシートで手をつなぐ。マリファナの形の芳香剤がルームミラーでぶらぶら踊る。後部座席の縫い目にお菓子のかけら。だからけやきのことは忘れがちだ。いつかけやきは蜂起する。大きく伸び広がる枝は手だ。地面の下に巨人が埋まっていて、関東ローム層をかきむしり、いつか国道をひっぺがす。ひっぺがしてくれ。がんばれ。

 だなんて思うのはおれが車の免許をとれずにいるからで、つまりやつあたりだった。教習所に通うのがもういやだ。みきわめに四回落ちてしまった。車なんて誰でも乗れると思っていた。スケボーの方がよほど難しいだろうと母は言う。おれもそう思う。でもできない。そこらへんのおじさん、おばさん、アホみたいに車高を低くしている輩、車を運転できる人全員におれは劣る。ずっとむかし、四月生まれのぐんぺいはいちはやく免許をとった。受験しないしヒマだからと言って、高三の夏にはもう親の車を乗り回し、おれはあいつより賢い気でいたがぜんぜんそんなことはなかった。

 ぐんぺいは同じ団地の同じ棟で、おたがい小さいころからよく知っていた。団地はけやき並木沿いにあり、国道のけやきとは別の隊列だが、けやきは市の木だとかなんとか、このあたりはけやきばかりだ。団地の五階建てより背が高く、なんて立派な手指だろう。指の下でおれもぐんぺいも育った。団地のとなりはフェンスに囲まれたがらんどうの空き地で、これは米軍の通信基地だ。

 基地といっても滑走路も宿舎もない、米兵のすがたも見えない。ひろびろ横たわるくさはらにぽつんぽつんアンテナがあるだけで、アンテナにはさまざまな形がありとても大きいが、それらがどういう仕事をしているのかおれは知らない。おれが生まれる前からずっとあった。外周約五キロ、中学のマラソンでしばしば基地の周りを走った。フェンス沿い、国境のきわきわ。ぜったいに入れないけどからっぽの土地。おれはぐんぺいより速かった。長い目でみれば基地は縮小しつつあるようだった。このあたりの公園とか学校とか、うちの団地も、みなかつて米軍から返還された土地で、そこへけやきだ。徹頭徹尾、人工の緑と原っぱだ。かさぶたをはがした土地だろうか。


 親のけんかに割って入る子どもだった。仲裁をしたいわけではなかった。狭い家だから父と母がなにか怒鳴り合えば筒抜けで、つい首をつっこんだ。おれのでしゃばりはむしろことを悪化させたが、いま状況を俯瞰できていて、もっとも正しい意見をもっているのは自分であると自信満々に演説し、自分のことを子どもだとは思っていなかった。いや子どもではあるけれど、おれはとくべつ賢く冴え渡っていて大人と変わりないと思っていた。

 神童は、団地の砂場をどこまで掘れるかがんばった。ぐんぺいが大きなスコップを持ってきた。日が暮れるまでずっと掘った。砂は案外すぐに底をつき赤土になった。この赤土は火山灰なのだと学校で習った。湿って固い土を少しずつほじくり返し、やがてスコップがガチンと鳴った。古びた時計が埋まっていた。大きく立派な壁掛け時計で、ガラスにはひびが入り、もちろん針は止まっていた。おれもぐんぺいも興奮した。いつかずっとむかし、砂場をつくる前に誰かが隠した。誰が? 米兵? まさか。でもおれたちは見つけた。それはたしかに経験したできごとだが夢の中みたいだ。

 

 雲の底が光っていた。低く厚く、ところどころ千切れ、黄色っぽい空がのぞけた。ふとんに寝たままベランダの手すり越しに見上げた。檻みたいだ。教習をさぼってしまった。おれはほんとうにもうだめだ。ふとんに泣きついた。自分の汗と体臭がしみこみ、体温になじんだふとんだけがおれに優しい。やがて激しい雨が降り、すぐ止んだ。

 かつておれが演説をぶつたび大人の話に口を挟むなと父は怒鳴ったが、口を挟むって、奇妙な言い方だな。おれは今さら思いつき可笑しくなっている。ふとんの中でうふっと笑う。パンにハムを挟む。本にしおりを挟む。口を挟む。とすると父と母の話はまるでペアになっているパン、連続するページ、当然に同じ種類で、同じような形にちゃんと整えられたもので、おれだけ異物扱いだ。あのとき慣用句にケチをつけたら父はほめてくれたろうか。ところでおれは親のけんかにほうだったが、妹は徹底的に無視を決め込んだ。自分の部屋から決して出てこず、頑丈な箱だった。妹の方がずっと賢かったのだといまでは思う。

 家も車も箱だ。団地は箱の集合だ。床が天井になり天井が床になり壁の向こうに人がいてそのまた向こうにも人がいる。ぐんぺいのうちは一階で、うちから地面に向かって桂馬の位置だ。地面に埋まった巨人と将棋をさす。むかし、うちのベランダからぐんぺいのうちのベランダへ、スリッパを投げて遊んだことがあった。親に見つかり叱られた。

 オーリーはスケボーと一緒にジャンプする技で、板が足にはりついているみたいに飛ぶ。スケボーのケツを思い切り踏み込み、てこの原理と慣性の法則だ。プロスケーターのオーリーは軽々ベンチを飛び越え、縁石を滑り、体とスケボーが一体になっている。youtubeを眺めながらかっこいいなあすげえなあとおれは声に出す。車とちがって箱ではない。屋根も壁もない四輪はすがすがしい。動画を見ていたらうずうずしてきた。ちょっとやりに行くか。都合よく頭痛は去った。

 日が落ちる。牛蛙の胴間声が響いている。雨上がりの空気はじっとり重く、草のにおいも濃い。このあいだぐんぺいを見かけた。すごく久しぶりだった。奥さんと子どもを連れて遊びに来ていた。きっと夏休みなのだろう。あいつが親だなんて、まったく、ふざけんなよと思った。いやふざけてないから親なのか。ずいぶん太っていた。おれと目が合うとあいつはとくに迷いなく片手を上げ、「よう」なんて言いやがって、ほんとに、おれだけがだめだ。砂場の時計のガラスが割れていたのは、おれかぐんぺいがスコップでつついてしまったからで、掘り起こさなければきれいなまま埋まっていたのかもしれない。おれたちが壊した。今さら思い至った。道路の真ん中、黄色の中央線に濡れたビニル袋がはりついていた。たぶん何度も車に轢かれて追いやられた。

 けやきの下、基地のフェンスに沿って滑る。プッシュ。プッシュはスケボーを漕いで前進することをいい、まあ、滑ってるだけ。右足を板にのせ、左足で地面を蹴る。押し出す。ほんとは冬のけやきのほうが好きだ。葉をすべて落とし、枝だけになったけやきは骨みたいで、あれはほんとに手だと思う。空っ風を抱いているのか、抱かれているのか、白く乾いた手だ。ゆっくり滑り、路面のでこぼこがあしうらに響く。スケボー越しに伝わる。平らな道のようでもあちこち波打ち、車に乗っていたらわからない。スケボーだからわかった。おれは地面をなでさすっている。……ほんとはオーリーなんてできない。こわくてジャンプできない。膝をすりむいたのはたんにずっこけただけで、あんまり情けなくて自分で自分に嘘をついてみた。よろよろ進むのがやっとだ。地面にへばりつき、おれなりの愛撫だろうか。

 最後に他人のヴァギナに指をつっこんだのはいつだったろう。あたたかくぬめった肉がおれの指にぴくぴくかみついたこと。中指のを気に入ってくれたこと。おれは平たい体をなめていく。

 このあたりは武蔵野台地のまんなかのまったいらで、そのため飛行場がつくられた。火山灰が降り積もった赤土。灰といっても、噴火で一気に積もったわけではなく、風に舞い上がり少しずつ積み重なった火山の土だ。こまかい粒だ。台地は川の流れでつくられた。水が周囲を削り取り、高く残ったところ。余計に灰を積み上げたわけではなく。運転免許の学科試験がこういううんちくならおれはがんばれるのになと思う。


 夜。おれはベランダにスケボーを出しておく。ぐんぺいが桂馬の動きでやってきたら、貸してやれるように。そんなことあるわけないけど、まったくもって妄想だけど、でもいつもいつもそうしていたら、夜な夜な団地でスケボーの音がするようになった! 誰かがごおおーーっと滑っている。まだジャンプはできないみたいで、ひたすらアスファルトをなでている。耳をすます。誰だろう。空耳かもしれない。あるいは夢遊病か幽体離脱したおれかもしれない。想像の中で一緒にオーリーを飛ぶ。飛べたらいい。土に埋まった巨人が手を伸ばし、風にざわめき、きっと拍手だ。すりむいた膝に生えた毛も、やがて風になびくだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

指の下 オカワダアキナ @Okwdznr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ